2022-08-28

"日本の酒" 坂口謹一郎 著

この書を前に、純米酒やらずして無礼であろう。今宵は酒の精にあやかり、老子の言葉を引く、上善!水の如し...

酒の発祥は知らない。「猿酒」と言うぐらいだから、人類の発明ではあるまい。まさか猿でもあるまい。果実などの養分が地面に落ちて腐り、それが雨水などと混ざって樹木の窪みなどに溜まり、偶然できちまったものを通りかかった人が口にした... などと想像する。
とはいえ、麹菌を発見したのは、やはり人間であろう。これを繁殖させる技術を編み出したのも、やはり人間であろう。自然界の化学反応に看取られた酒造りの世界は、伝統によって近代科学を凌駕した酒の化け学とでもしておこうか。
本書は、醗酵学者の目で日本酒造りの世界を熱く語ってくれる。酒造家魂には、なにやら技術屋魂に通ずるものがある...

「日本の酒は、日本人が古い大昔から育てあげてきた一大芸術的創作であり、またこれを作る技術の方から見れば、古い社会における最大の化学工業の一つであるといえる。」

日本酒造りは、「一麹、二酛、三造り」と言われる。良い麹なくしては始まらぬ。
麹とは、蒸した米に麹菌というカビを生やしたもの。カビってヤツは、腐った物や毒物といったものを連想させる。人や組織が古臭く、時代にまったくついていけないような状況でも形容され、カビの生えた野郎!といった表現があるぐらい、巷ではケチョンケチョンな言われよう。そんなカビの胞子を混ぜて造る飲み物とは、いったいどんな飲み物か...
一方で、清酒と呼ばれるヤツがある。腐ったものを混ぜて清いとは、これいかに。御神酒ってヤツもある。半ば腐った物を神様にお供えするとは、これいかに...

カビといっても、善玉と悪玉がある。麹カビは日本酒や焼酎だけでなく醤油や味噌を造る時にも使われ、青カビはチーズを造る時に使われる。
ちなみに、青カビの周りにバクテリアが生えない性質から、ペニシリンが発見された。ペニシリンという名はアオカビの属名に因んだものらしい。対して、食パンやお餅に生えるカビなどは有害とされ、小学校の理科の実験で繁殖させた記憶がかすかに蘇る。

そもそも「腐る」とは、どういう現象を言うのであろう。物質は一定時間を置くと化学反応を起こす。だから、「化け学」と言う。腐るとは、それが人間にとって有害となる場合に、そう言うだけのことか。つまりは、人間のご都合主義か。口にすれば健康を害し、近寄れば悪臭たちこめ不快にさせる。そんな腐り物が、動植物にとっては養分になる。
とはいえ、清酒だって、やりすぎれば身体に悪い。
酒造りとは、腐らせずに名酒にする技術を言うのか。あるいは、腐らせ方の奥義を言うのか。程よく腐らせれば、「熟成」と呼ばれる。人間然り、ちょいと腐らせた方が、人格もまろやかになると見える...

古くから、「名酒はよい水から生まれる」と言われる。理屈の上では、麹の力を引き出すのによい性質の水もあれば、酵母の醗酵に好都合なミネラルを含む水もある。
例えば、宮水は、昔から日本酒に適しているとして知られる。西宮神社の南東側から湧き出る「西宮の水」のことで、三方からの影響を受けいてるという。一つは、夙川の伏流水。二つは、六甲山から流れ出る炭酸塩を含んだ水。三つは、海からの塩分を含んだ水。これらが合流して燐酸や加里を多く含んだ水となり、酵母の養分に具合がいいらしい。自然界が創り出した偶然の賜物というわけか...

また、麹菌の純粋性を保つために「灰」を使うという。蒸米に灰をかけて麹を造ると、麹菌はよく生えるが、アルカリに弱い他の雑菌は生えることができないそうな。灰には害菌を防ぐ作用があるばかりか、灰に含まれる燐酸や加里が麹菌を育てる養分になるとか。しかも、灰の中の微量な銅や亜鉛などや、その他のミネラルが胞子を多くつけ、色もよくさせるそうな。灰の力、恐るべし!そりゃ、ピート香に誘われるのも無理はない...

さらに、日本酒造りで特徴的な方法に、「火入り」というものがあるという。50 度から 60 度くらの低温で殺菌する方法で、フランスでは「低温殺菌法」がパスツールによって発表されたが、それよりもずっと前からの伝統手法として日本酒造りに用いられているらしい。
そういえば、現在でもパスチャライゼーションという殺菌法を耳にする。低温殺菌牛乳といった商品も目にする。
科学的根拠とは別に、職人の勘と技で磨いてきた方法論は、まさに技術国の片鱗を見る思い。火入りの主な目的は殺菌だが、それとともに熟成の効果も狙っているようである。

こうして酒造りの工程を見渡すと、偶然というか、自然というか、うまいこと化学反応が寄与していることが見て取れる。
古くから、人類には火を崇めてきた歴史がある。屍体を焼くのは素朴な土に戻すためとも言われ、着ていた物や使用していた布団も焼いたりする。
しかしながら、バクテリアの中には、そんな風習を物ともせず、焼かれて灰になってもなお生き残る連中がいる。これが純粋性というヤツかは知らんが、このしぶとい奴らのお陰で、腐ったものにも価値を与えてくれる。
例えば、100 度ぐらいの沸騰水の中でも短時間なら平気なバクテリアがいる。こんな奴らを殺すには、缶詰のように高圧蒸気で 100 度以上に加熱する必要がある。

ところが、だ!
幸いなことに、酒のような酸性の強いものの中では繁殖できない性質を持っていて、それ故、カビや酵母を殺すことのできる 50 度から 60 度ぐらいの低温でも、5 分から 10 分ぐらいで殺菌効果が得られるという。
さらに、「火落菌」という酒好きの菌があるらしい。他のバクテリアは、牛乳、肉汁、野菜スープなどの中で喜んで生えてくるのに、こいつだけは一向に生えてこない。
ところが、だ!
わずかの清酒を入れると、盛んに生えてくるという。おまけに、こいつが清酒ではなく、葡萄酒やビールを入れたのでは決して生えてこないというから、摩訶不思議!
こうした醸造技術は、論文になることもなく、研究発表されることもなく、むしろ極秘とされてきた。ひたすら味の極意を会得しようとしてきた化学技術の結晶を見る思い。
本書の冒頭には、日本酒づくりの光景を思い浮かべる歌が紹介される。喜びは、味と香りの出来栄え、それと喉越しに尽きるというわけか...

「夜のうちに湧きつきにけりフラスコの液のおもてに泡ぞみなぎる
 つつしみて護りし種ゆまさしくもたふときいのち生(あ)れいでにけり
 うたかたの消えては浮ぶフラスコはほのぬくもりて命こもれり
 見入りたる接眼鏡(オクラル)のはての薄明にこの世のほかのいのちひしめく
 たまゆらに視野を横切るものありて待ちはてにつる心ときめく

 かぐはしき香り流るる酒庫(くら)のうち静かに湧けりこれのもろみは
 留うちて後は静かやあけくれにうつろふ泡のゆくへをぞ守(も)る
 冷え冷えと寒さ身にしむ庫のうち泡の消えゆく音かすかなり
 湧きやみて桶にあふれし高泡もはだれの雪と消え落ちにけり
 泡蓋を掻けばさやけきうま酒の澄みとほりてぞ現はれにける
 泡分けてすくひとりたる猪口(ちょく)のうちふくめばあまし若きもろみは
 待ちえたる奇しき香りのたちそめて吟醸の酒いま成らむとす

 うまさけはうましともなく飲むうちに酔ひての後も口のさやけき」
... 「歌集 醗酵」より

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