2023-05-07

"気まぐれ数学のすすめ" 森毅 著

穏やかな春風に誘われ、いつもの古本屋を散歩していると、ある言葉に足止めを喰らう。気まぐれ... おいらはこの言葉に弱い!

こいつぁ、数学の書か。いや、数学者が世を問うた書と言うべきか。題名で期待を外しておきながら、内容で期待に応える。これぞ、論理学の極意というものか。いや、屁理屈の極意というものか...
随筆はいい!達人の書く随筆はいい!書きっぷりは、まさに気まぐれ!
戦時中を回顧しながら、軍事教練をのらりくらりとかわした非行少年期を振り返り、逍遙学派のごとく、散歩でもするかのように様々な論議に首をつっこむ。文化論に、進化論に、反戦論に、教育論に、受験のあり方に...

数学教師の目線で、高校が中学化し、大学が高校化していく現代社会に苦言を呈し、その天の邪鬼ぶりも見逃せない。
受験戦争には、ホドホド派とカリカリ派がいるという。社会風潮が、受験は歯を食いしばって、カリカリせねばならぬ!と煽り、みんなで苦しみを共有して不安から逃れ、教師も親も生徒をカリカリさせることで安心できる。まさに、戦時教練と同じ構図か。
数学の授業では、分かる派と楽しい派に分類できるという。ただ、楽しいといっても、人それぞれ。命令されるのが楽しい、管理されるのが楽しい、ド M ともなれば、イジメられるのが楽しいってのもある。いずれにせよ、楽しいだけでは長続きしない。著者は「易しさよりも優しさ」を強調する...

「数学の力というのは、その数学が自分の心のなかの景色として、どれだけひろがっているかだと思う。まちがったときは、その景色にそぐわない。迷ったって、だいたいの見当がつく。しかし、この力は、迷ったり誤ったりするなかでつく。地図の正しい道だけでは、正しい道から迷ったり、つまずいたりしたときには、回復できない。『正しい道』は通れるが、『正しい道』しか通れない。数学の得意な学生を見ていると、迷ったりまちがったりするのがうまい。それは、だいたいの景色の見当がついているからでもある。その見当がつくようになったのは、迷ったりまちがったりしたからだろう。この点で、自分の世界が貧しいと、こわくて地図以外の道が通れなくなる。『正しい道』だけにしがみついて、景色がますます見えなくなる。」

人間の文化で最高のものの一つに「数」があり、人間の思考原理の一つに「数える」という行為がある。それは、存在意識と深く結びついてきた考えであり、物事が複数で存在しなければ、数なんて必要ない。
おまけに、一つ、二つ... と数え上げる序数(順序数)と、1, 2... と量を測る基数(集合数)とでは、ちと性格が違う。人類は、数えるという行為によって自然数、整数、実数などと数の体系を拡張してきた。だが、数への思い入れは人それぞれ。

自然数の捉え方だけでも、ゼロを含めるか含めないかで流儀が分かれる。人類は数直線を編み出し、連続体という概念を生み出した。数直線上にゼロが配置されなければ、なんとも締まらない。連続体とは、無限への道であり、この道においてアキレスはいつまでも亀に追いつけずにいる。
お経の文句にも、「ガンジス河の砂の数だけのガンジス河があったとして、その砂の数ほどの...」ってのがあるそうな。無数の砂粒に無限のアトムを見、不定形の平方ガンジスを想起するとは、お釈迦様も洒落てやがる...

「発生的認識論では、序数は系列性に起源をとり、基数は類別に起源をとる。系列の順序での位置をしるすのが序数であり、類のなかでの個の多さをしめすのが基数である。... 歴史的にも、十九世紀は序数主義の色彩が強いし、二十世紀は基数主義の色彩が強い。... ポアンカレは序数主義に傾斜し、ラッセルは基数主義に傾斜していた。」

思考法の進化過程を辿れば、魔術的な想像力が、論理的な創造力を覚醒させてきた。占星術と天文学の明確な線引きは難しい。錬金術と化学の境界は未だぼやけたまま。かのニュートン卿が錬金術に執着したのも無理はない。ライプニッツも最初、古代の叡智として魔術を駆使した秘密結社「薔薇十字団」に所属していたそうな。
医師だって魔術師のようなもの。かつて名医たちは、瀉血を信仰し、血を抜き、知を抜いた。水銀を与えては下痢をさせ、嘔吐させたうえに皮膚に熱いカップを押しつけて血を含んだ水膨れをつくり... そして、ジョージ・ワシントンは死んだ。
では、三千年紀を迎えた現在はどうであろう。インチキなオカルトが、インチキな科学を利用する構図は変わらない。
いや、インチキとは言い切れないところもある。科学にはまだまだ未知数が多く、宇宙の 90% 以上は暗黒物質に覆われたままだ。現実主義者のデカルトも、神秘主義者のパスカルも、未だ輝きを失わずにいる。
そもそも、ホモ・サピエンスが魔術的な存在なのやもしれん。いや、悪魔的な存在か。だから、神を夢想し、自らこしらえた虚構に恋い焦がれるのか。現代人が仮想空間に身を投じるのも無理はない...

著者は、非国民の反戦論をぶちまける。国家ってやつが、たわいもないものだということを、あの戦争で誰もが知ったと。戦争ってやつは、愛国心と正義がセットでやって来る。ならば、まず国民ではなく、市民であること。市民に国境はない。ネット社会ともなれば尚更。わざわざ海外へ行かなくても、世界を知ることはできる。正義は、強いモラルによって高揚する。むしろ弱い心を認める方が、当てになりそうである...

「戦争というのは人殺しだから、人間の生死に関する感覚は鈍くなるものだ。焼跡で人間の死体を蹴っ飛ばしても、鼠の死体と変わらんような感覚になる。それを戦後になって、『戦争の悲惨』と言うのは、なにかピッタリこない。空襲警報が出て空襲がないと、台風警報で台風が来なかったような気分である。それでいて、ぼくなど勇壮と縁どおい臆病者で、そのうえに国家政策に背を向け、意味もなく殺されるアホラシサに、だれにも遠慮せずにガタガタふるえて卑怯に逃げまわっていたのだけれど。」

また、「パラノ対スキゾ」という見方が、いろいろと便利だと教示してくれる。パラノとは、パラノイア、つまり偏執症のこと。スキゾとは、スキゾイド、つまり分裂症のこと。
例えば、本を読むにしても、論理の展開に多少なりと怪しげなところがあると、目くじらを立てるのがパラノ人間で、そんなことを気にせずに読むのがスキゾ読書法というものらしい...

「現在の学校化社会がパラノ社会であることは確実だろう。ぼく自身はスキゾ人間らしいが、パラノ人間にとってもスキゾ人間にとっても、この二つの型について考察しておくとよい。だだしスキゾ人間はパラノ人間を理解できるが、パラノ人間はスキゾ人間を認めたがらないのが、パラノイアたるゆえんであって、これが困ったところでもあるのだが。でも、学校がパラノ社会であるからには、なんとかしてスキゾ過程を導入しないと困る。それに、教師とは本来スキゾ人間が向いているはずなのに、とかくパラノ人間が幅をきかすのも困ったものだ。」

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