2024-07-07

"数学の学び方・教え方" 遠山啓 著

暗算って、どうやってるんだろう。おいらは、自分の頭の中がとんと分からん。
例えば、2 + 3 って、どうやって計算してるんだろう。暗記か。経験則か。
方程式の解が一通りでも、解き方はたくさんある。ならば、答えよりも、答えに至る過程の方が重要やもしれん。その方が人間味があっていいし、ほかの解き方を模索するだけで視野も広がる。
数学は、論理的思考の源泉。それは問題解決能力を養う上でも鍵となり、今日の情報社会でデータの収集や分析に欠かせない。
数学をやるのは楽しい。落ちこぼれでも楽しい。自由に学べるってことが、なにより愉快。押しつけがましい学習指導要領なんぞ、クソ喰らえ!

遠山啓先生は、数学の土台に、量と数、集合と論理、空間と図形、変数と関数を位置づけ、従来の急所を避ける数学教育の在り方に苦言を呈す。教育ってやつは、なにかと保守的なもの。数学の教え方となると、明治時代に確立されたやり方が根強く残っているという。
数学を物語るならば、最初に「数」を論じそうなものだが、ここでは「量」を論じることに始まる。それは、人間の進化に根ざした感覚的なもの。大きい、小さい、多い、少ない、熱い、冷たい、長い、短い、重い、軽い、高い、安い... こうした量は、日常生活と密接に結びついてきた。いわば、生命を維持するための本能的な感覚として。これらの量を客観的な視点で数値化しようとするのが数学という学問。数はそれを記述するための道具に過ぎないというわけか。

そして、集合論に論理的思考の根源を見る。集合は、英語では "set"。この用語は、セットメニューや食器セットなどでお馴染み。憲法は条文の集まり、古今和歌集は和歌の集まり、これらすべてセット。
集合という概念は身近でありながら、その定義となるとよそよそしい。結局は、記述の問題か。集合の要素を種別、分離することで図式化したのがド・モルガンの法則で、真と偽、論理和と論理積でブール代数を成す。この論理形式は、真理値表とすこぶる相性がよく、0 と 1 で記述するデジタルへの道筋を示している。
そして、ブール関数の簡略化で有効なカルノー図やクワイン・マクラスキー法がふと頭をよぎり、なにやら懐かしい風を感じる。本書には登場しないけど...

空間問題では、定規とコンパスが主役。つまり、直線と円で特徴づけられる図形が問われる。ただ、直線は幅のないまっすぐな線であって、現実的ではない。図形は、測度よりも、その特徴に目を奪われがち。三角形の性質を説いても、スケールの実感がわかない。そこで、方眼紙を用いた作図を、教育に取り入れることを提案してくれる。すると、図形をマス目で数え、測量する感覚が自然に身につくのだとか。図形を量として捉えるのがいいのかは分からんが、方眼紙を用いて思考する習慣は良さそう。
図形の舞台は、ユークリッド幾何学。その代表格は三角形だ。図形の性質を論じるのに、三角関数は欠かせない。それは図形にとどまらず、あらゆる連続的な物理現象の解析に用いられる。フーリエ変換がそれだ。こいつには、学生時代に魅せられたものだ。本書には登場しないけど...

ユークリッド原論は、公準、公理、定義を通して、整然たる論理の組み立て手順を示した。まさに、論証法のお手本!それで、演繹的な思考が王道とされ、帰納的な思考が邪道とされるのでは、ちと視点が狂っちまう。現実社会は、すっきりと演繹的に説明できる現象はそうはない。むしろ、帰納的なアプローチの方が役立つことが多い。例えば、互助法は帰納法の美しさを示しているし、そこからアルゴリズムという思考法が見えてくる。

さらに、変数と関数が登場すると、代数という抽象数学を体感できる。ツルカメ算は、最初に出くわす連立方程式。その原型を古代中国の算術書「孫子算経」に見る。
方程式は、入力に対する出力という関係から、量的な因果法則として成り立つ。これを、ある種のブラックボックスと見立てれば、符号化処理や暗号処理、あるいは、あらゆるデータ変換への道筋が見えてくる。
さらにさらに、関数を座標系に投影すれば、グラフとの関係が見て取れ、認識空間が精神空間と結びつく。やはりデカルトの発明は偉大だ!

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