2024-06-30

"世界でもっとも正確な長さと重さの物語" Robert P. Crease 著

長さを測る。重さを量る。それは何を意味するのか。あらゆるものを計測する。それは単なる慣習か。あらゆるものの基準をつくる。それは人間の本性か...

度量衡体系にも社会的な意味がある。相互理解をもたらす尺度として、価値や文化の共有、国際協調といった意識を高める上でも。それは、身体尺に始まったとさ...

尚、吉田三知世訳版(日経BP社)を手に取る。


身体に結びつく尺度では... インチは親指の長さ。フィートは足の長さ。ヤードについては諸説ある。アングロサクソン人のウェスト回りのサイズや、イングランド王ヘンリー 1 世が自分の鼻先から親指までの長さとしたなど、はたまた、古代ギリシアの長さの単位キュビットの倍だとか。

生活習慣と結びつく尺度では... エイカーは、一日に一人で耕せる面積。ポンドは、一日に消費するパンの製粉量... こうして人類は、まず自分自身の感覚を尺度の基準としてきた。客観的な知識は、主観の中でもがいた結果得られる。それは、絶対的な認識能力なんぞ持ち合わせていない知的生命体の宿命である。


本物語は、あのダ・ヴィンチが理想とした身体像「ウィトルウィウス的人体図」の考察に始まり、腕の長さ、足の長さ、ヘソの位置、頭の大きさ、肉づきに宇宙のメカニズムを見る。人体の対称性こそが宇宙の秩序を表し、霊的な次元を映し出し、調和と完全性を体現する。

そして、すべての測定単位が自然界の物理現象によって定められた時、単位系の意義が浮かび上がる。計測基準が人工物の呪縛から解かれるということは、真の知識が解放されるってことか。それは、パンドラの箱を開けちまうようなものか...


物理量は、すべて計測の対象になり得るだろうか。計測するという行為が人間の本能に根ざしたものかは知らんが、抽象的な物理量には抽象的な単位が必要だ。計測の問題では、科学者たちは絶対の真実に到達できないと考えているのか。だから、誤差に問いかけるのか...


「われわれは神の計り知れぬ目的など知らないし、神の計画を理解することもできない。われわれにわかるのは、神は自らの下僕(しもべ)に誤解させておくのがふさわしいと思うかもしれないということだけだ。」

... プラグマティズムの創始者チャールズ・S・パース


国際単位系(SI)において、人工物が基準となっていた最後のものは、キログラムであったという。それも、2019 年のことで、本書が刊行された 2014 年よりも新しい。それまでは、白金イリジウム合金でできた国際キログラム原器が基準となっていた。

現在の SI の基本単位は七つ... 秒はセシウムの超微細遷移周波数、メートルは真空中の光の速さ、キログラムはプランク定数、アンペアは電気素量、ケルビンはボルツマン定数、モルはアボガドロ定数、カンデラは視感効果度が、それぞれ定義定数とされる。


確かに、単位系は客観的な数値で決定し、人工物の入り込む余地は残さない方がいい。

しかし、単位ってやつは習慣と深く結びつくもので、今更、アメリカンフットボールをメートル法にするわけにもいくまい。

通信業者が公表するデータ転送速度はどうか。何々 Gbps 契約という名目で、60% も確保できれば御の字!

自動車会社が公表する燃費は、実際の道路事情に適合しているか。それで、ユーザが飼い慣らされてりゃ、世話ない。

法律にも似たところがある。慣習法ってやつが、それだ。条文が慣習として馴染まなければ、形骸化しちまうばかりか、犯罪の温床に...

そして、キログラムの定義に対するジョークが飛び出す...

「量子力学が不得手な肉屋や八百屋にはとんだ災難だ!」


慣習に看取られた人工物の呪縛では、「正午の号砲」というエピソードがなかなか...

何百年もの間、誰もが正午の号砲によって時間をあわせる慣わしとなっていたとさ。おかげで村人たちの生活は安定し、仕事から密会に至るまで、あらゆることを計画できる。

そこで、一人の少年が疑問を抱いた。いったいどうやって大砲を鳴らす時間を知るのか?砲兵の隊長が、正確な時を刻む時計を誇らしげに見せる。その時計はどうやって時間を合わせるのか?時計屋の大時計で合わせてもらうのさ。時計屋の大時計は、どうやって時間を合わせるのか?そりゃ、正午の号砲で合わせるのさ!


習慣ってやつは、恐ろしい。無条件に信頼を勝ち取るのだから。科学で裏付けられた知識よりも。それで無限循環論に囚われてりゃ、世話ない...

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