2024-08-25

"興奮" Dick Francis 著

ディック・フランシスには、あまりサスペンスぽくないサスペンスにしてやられた(前記事「証拠」)。ここでは、これぞサスペンスというサスペンスにしてやられる。推理モノは危険だ!ハマると、つい一気読み。翌日はまず仕事にならない。まるで薬物!まさに興奮剤!
本書は、興奮に薬を結びつけるドタバタ劇、まさに劇薬だ!と思ったら、薬とはまったく関係ない仕掛けが待ち受けていた...
尚、菊池光訳版(ハヤカワ・ミステリ文庫)を手に取る。

物語は、イギリスの障害レースで思いがけない大穴が続くことに始まる。大番狂わせを演じた馬は異常なほど興奮していたが、いくら検査をしても薬物は検出されない。騎手、厩務員、調教師、馬主といった関係者にも、怪しいところが見当たらない。しかし、不正が行われているのは間違いない。
主人公は、オーストラリアの種馬牧場の経営者。裏事情に詳しい彼は、競馬協会理事に真相究明の依頼を受ける。そして、厩務員に化け潜入捜査をしていくうちに、イギリス最悪の牧場にたどり着く。厩務員たちは、奴隷のごとく酷使されている様子。人間は薬物で調教、トランキライザー!馬はパブロフの犬のごとく調教!この対照的な構図がなかなかの皮肉ぶり。サスペンスは、こうでなくっちゃ!

ついでに明かすと、馬に使う道具は犬笛。仕掛けはこうだ..
まず調教で、犬笛を吹くと、火焔放射器で恐怖心を誘発させる。犬笛の音は人間の耳にはかすかにしか聞こえない高音程で、馬にはやよく聞こえる。レースでは障害物を飛び越えるタイミングで犬笛を吹く。すると、馬は狂ったように怯え、全力で逃げ出そうとする。
実に単純な仕掛けだ!薬剤も装置を使わす、馬主、調教師、厩務員などの協力者も必要としない。実に完璧な計画だ!

2024-08-18

"証拠" Dick Francis 著

同じミステリー作家では、スタンリイ・エリンが、人の心に潜む悪意やいたずらを非情なまでの皮肉ぶりで暴いて魅せた。まさに、人間の存在そのものがミステリーであることを...
ディック・フランシスは、人が背負ってきたしがらみや生き様を、サスペンスに重ねて魅せる。ちと強引だけど... この強引さが、M にはたまらん!
それにしても、こいつは本当にミステリーか?
おまけに、酒が題材とくれば、やらずにはいられない。そして、一つの疑問が湧く。今、チビチビやってる虎の子のフィーヌ・ド・ブルゴーニュは本物だろうか?と。サスペンスってやつは、人を疑り深くさせる...
尚、菊池光訳版(ハヤカワ・ミステリ文庫)を手に取る。

親に失望され、見放されて生きてきた酒屋の御主人。戦争での父の勇敢さに劣等感を覚え。そんな彼を救ったのは妻。妻といる時だけが生きる喜び。そんな妻が急病で世を去ると、半ば死んだように生きている有り様。
次に、生きる気力を取り戻してくれるのは、やはり酒か。酒といっても、溺れるように飲むという意味ではない。自分の得意分野である酒の知識が生かされる場を求めて...

物語は、ワイン輸送車が急襲されたことに始まる。レストランでラベルと中身の違うボトルが見つかる。真の目的は高級銘柄のラベルか。偽物はどこに出回る?
偽物と気づかれない場所ならどこでも... 偽酒が大量に出回っている節があり、警察が動き出す。利き酒の能力と知識を買われ、捜査に協力しているうちに、陰謀の渦に巻き込まれていく。妻の急病に気づけなかった罪悪感の渦にも巻き込まれつつ... なんだ、この不釣り合い感は!
陰謀サスペンスの中で、自虐的な罪悪感や孤独な人生観を両立させているところが、この書き手の凄みであろうか。そういえば、題目は「証拠」であった。犯人は誰か?まぁ、それはおいといて...

人生には皮肉なことが多い。この方面でマーフィーの法則はことのほか冷徹だ。スコッチの熟成に劣らぬ文章の熟成ぶり... 作家が凄いのか、翻訳家が凄いのか。最後の独白にイチコロよ!

「エマ... エマ... エマ... と叫びながら家の中を通って行った。声が壁にぶつかって反響している。彼女を求めて叫んでいるのではなく、彼女に告げたくて叫んでいた... 彼女に聞いてもらいたかった... 自分が初めてなすべき事をした。いつまでも臆病者でいたわけではない事、私に関する彼女の記憶を裏切らなかった事... あるいは自分自身を裏切らなかった事... 自分のあるべき姿を具現した事... 彼女に慰められ、充実感を味わい、あくまで彼女と一体なのだと感じている事、かりに今後彼女のために泣く事があっても、それは彼女が人生の楽しみを最後まで味わえなかった事... 生まれなかった子供... に対する歎きであって... 自分が大切な物を失ったため、寂しいため... 罪の意識のために泣いているのではない事を知らせたかった。」

2024-08-11

"単位と比 - わけのわかる算数のはなし" 芹沢正三 著

これは、児童向けの書である。童心に返るのは難しい。ましてや脂ぎった大人には難しすぎる。唯一の頼みは、気まぐれってやつ。気まぐれは偉大だ。何一つ馬鹿にすることなく、まったく抵抗感なく、手に取ることができるのだから...

なにゆえ人間は、モノを測ったり、数えたりするのか。それは性癖か、退屈病がそうさせるのか。この単純行為は、なにやら心を落ち着かせてくれる。精神病患者や知的障害者は、数を数えることによって気持ちを整える。ある種の儀式のように。サヴァン症候群のような突飛な能力の持ち主ともなると、数字が風景に見えるらしい。おいらも、デスクトップ上のスキャンカウンタをなんとなく見入ってしまう。

日常、人は何かを測定したり、計算したりする時、「単位」ってやつを使う。
3 + 5 という単なる足し算も、3 万円 + 5 万円となった途端に目の色が変わる。
3 メートルと 5 グラムを比べても意味はないが、3 メートルと 5 メートルを比べれば、長さの違いが見えてくる。太閤検地なんぞで田畑の面積を画一的に測量された日にゃ、土地の隅々まで年貢の対象とされ、根こそぎよ。持ってけ泥棒!
単位は、それが比較の対象で同じであれば、数字を同じ土俵に立たせることができる。となると、単位はある種の性質や属性を表していることに。科学界が SI 単位系などと称して国際標準化に奔走するのも無理はない。

物理量には、二つの量がある...
数字で数えられる離散量と、数字で数えられない連続量とが。リンゴは、1個、2個と数えられるが、水はどうやって数えるの?コップで、1杯、2杯としたところで、コップの容量が違えば...

重さを測れば、奇妙なことに...
万有引力の法則によると、地球の重力はすべての物体に対して平等に働くことになっている。だが、地球は完全な球形ではない。おまけに地形も様々で、場所によって重力に誤差が生じる。すべての物体の重さが地球の重力で決まるとすれば、地球の重さは?すでに自己矛盾に陥っている。
そこで、質量という概念が編み出された。物体の重さが地球という外部要因で決まるなら、質量はその物体自体に具わった量ということに。その方が、得たいの知れない潜在的なポテンシャルエネルギーってやつも受け入れやすい。
ちなみに、キログラムは、白金イリジウム合金でできた国際キログラム原器が基準であったが、現在ではプランク定数で定義される。やはり、単位は人工物の関与を避けたい。人間ってやつは傲慢だから。命の重さは地球よりも重いって本当?体重計の上では軽さを演じておきながら、存在の重さとなると目くじらを立てる。

単位によっては、足し算ができたり、できなかったり...
長さや重さは足し算ができるのに、温度は足し算ができない。だが、熱量なら足せる。やはり熱エネルギーは手ごわい。エントロピーに看取られているだけに。しかも、この宇宙空間には、絶対零度ってやつが存在すると聞く。それを人類が知っているというのも疑わしいが...

足し算の限界値では、循環論に陥ることも...
角度では、360度までなら足し算ができるのに、それを超えた途端に循環論に陥る。この循環性から位相という概念が編み出された。自然界には、振動という現象が多い。実に多い。いや、量子の世界まで突き詰めれば、すべての物理現象は振動で説明できそうな。
そして、モジュロ演算の抽象度に感服せずにはいられない。モジュロ演算では割り算とその余りが主役となり、比の解釈を拡大させてくれる。

古来、人類は時間と暦の計算に悩まされてきた...
太陽を基準に、ユリウス暦に、グレゴリオ暦に、改良に改良を重ね、閏年で調整しても足らぬ。二千年問題ではコンピュータ業界を震撼させたが、それは千年紀の問題であろうか...
時間ともなると、12 進数と 60 進数が混在しやがる。おまけに、時刻と時間で使い分けられ、時計は時刻を知らせ、ストップウォッチは時間を刻む。正確さを求めれば、地球の運動だけでは足りず、セシウム原子に縋る。

古典力学では、時間と組み合わせた単位が幅を利かす...
速度 m/s に、加速度 m/s2 に、角速度 rad/s に... 物理現象を時間の変化として捉えれば、そうなる。さらに、時間以外の単位を組み合わせて、線密度、面密度、濃度、人口密度なんて量を次々と編み出し、正比例や反比例としただけで、その現象が理解できた気になれる。
相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体にとって、「比」ってやつは、すこぼる重要な概念だ。

ところで、時間は絶対であろうか。相対性理論は告げる。光速に近い速度で運動すれば、時間はゆっくりと進むと。オチオチ静止している場合ではなさそうだ...

2024-08-04

"アジャイルサムライ - 達人開発者への道" Jonathan Rasmusson 著

アジャイルサムライとは、なんとも日本風のタイトル...
執筆当初は、"The Way of the Agile Warrior." であったとか。ジョナサン・ラスマセンは、技術屋魂に武士道精神を見たのか...
尚、西村直人・角谷信太郎監訳、近藤修平・角掛拓未訳版(オーム社)を手に取る。

「アジャイルサムライ... それはソフトウェアを顧客に届ける猛々しいプロフェッショナルだ。たとえプロジェクトがきわめて過酷な状況にあろうと、かつてなく手ごわい期日であろうと、成果をあげる力量を備え、しかも品格と平静さを失うことがないのだ。」

アジャイルチームには、三つの特徴があるという。
まず、役割分担がない。人はみな自分の得意分野にこだわる傾向があるので、定義する必要もないと。
次に、分析、設計、実践、テストといった工程はいずれも、途切れることなく続く連続的な取り組みで、日々連携であると。
そして、チーム一丸となって成果責任を果たし、自分の担当に固着しないと。
こうしたチームには、哲学的な共通意識やメンバーが互いに高め合おうとする風土を感じる。アジャイルは、ソフトウェアの開発手法として知られるが、なにも分野にこだわることもあるまい。時にはフレームワークであったり、時には職場環境であったり、あるいは、エンジニアリングであったり、マネジメントであったり、はたまた、心構えであったり、哲学であったり、はたまた、人生そのものであったりと様々な捉え方ができよう... 

「君が質の高いソフトウェアを届けることは誰にも止められない。君が職場に立って、お客さんに向けてプロジェクトの状況と、プロジェクトに必要なことを誠実に伝えるのも誰にも止められないんだ。でも勘違いしないでほしい。これは簡単なことじゃない。私たちの業界には何十年もの歴史がある。時の流れと共に積み重なってきた数々の問題が、私たちの行く手を邪魔することだってあるだろう。とはいえ、結局のところ君の働き方や仕事の質を選んでいるのは他の誰でもない、君自身なんだ。そのことだけはしっかりと受け止めてもらいたい。それから、誰かにアジャイル開発を押しつけるのはだめだ!」

優れたプロジェクトマネージャは、チームに何をすべきかなんて指示しないという。そんなことは必要もないと。プロマネが手助けすることはただ一つ、環境を整えること。そのためにも自己組織化を要請している。
スタートを切る前から駄目になってしまうプロジェクトは多い。その主な理由を二つ挙げている。一つは、答えるべき問いに答えられない。二つは、手ごわい質問をする勇気が持てない。まさに忖度体質か!
そこで、マネジメントツールとしてインセプションデッキを提示している。インセプションデッキとは、プロジェクトの目的や問題点などを全体像として把握し、チームの進むべき道を示したある種のドキュメント。それは、10 の手ごわい質問と課題で構成される。我々はなぜここにいるのか?との問いに始まり、エレベーターピッチの作成を求めたり、顧客を積極的にメンバーに引き入れたり、解決案を図式化したり、期間の見極めや何を諦めるかを明確にしたり...
要するに、哲学的な意識や価値観をメンバーで共有し、個人とチームの強みをしっかりと自覚すること。
尚、やるべきことは、どうも加算されていく傾向にあるので、諦めることを明確にする方が合理的なようである。それでも、プロジェクトをやるのか?と自問すれば、プロジェクトの核心に迫り、インセプションデッキの背後にある意思が見えてくる。適切な質問こそが、自己を導き、チームを導くであろうことを。そして何よりも、仕事ってやつは楽しまなくっちゃ!

但し、言葉に翻弄されては本末転倒。オブジェクト指向にしても、ドメイン駆動設計(DDD)にしても、テスト駆動開発(TDD)にしても、真新しい方法論が登場してはセミナーが乱立し、そこに人は群がる。おそらく、アジャイルを実践している人は、それがアジャイルかなんて意識はないだろう。ごく自然に受け入れているのでは...
本書で紹介されるアジャイルの原則にしても、すでに実践しているものが多い。特定の方法論に固執しないのも、一つの方法論としておこうか...
とはいえ、あまりに情報を共有するがために、すべてがメンバー全員に筒抜けでは弊害もある。リリースの遅れにしても隠しようがない。上を誤魔化し、結果で帳尻を合わしてきたプロマネにとっては...

「マーフィの法則は、事前によく練られた計画を台無しにしてしまうことについては、とりわけ情けも容赦もない。変化と向き合うための戦略がなければ、君の暮らしは荒れ狂うプロジェクトに翻弄されるがままになってしまうだろう。」

ちなみに、身近な介護チームにも、アジャイルを見かける。福祉サービスや通所介護に病院が加わり、ケアマネージャさんをはじめ、介護士さん、福祉用具屋さん、看護師さん、栄養士さん、理学療法士さん、お医者さん、ついでに食堂や売店のおばさんたちの連携が素晴らしい。医療現場といえば、たいてい医師が主導する立場にあろうが、担当の垣根を超えて介護士さんや看護師さんたちが率先し、お医者さんは後ろから支えているような位置づけ。臨機応変に対応せざるを得ない現場だけに、まさにジェネラリストの集まり。実に、自由主義的で、民主主義的なチームだ。
本書にも、アジャイルチームは担当役割が曖昧とあるが、曖昧というより自由と表現する方がいい。役割分担を明確に与えなければ、仕事が進まない大企業体質とは明らかに違う。命令を待たなければ何もできない官僚体質とも根本的に違う。なによりも仕事をしている人たちが楽しそうで、顧客の方も乗せられちまう。介護地獄が楽しいわけがないのだけど...
本書も、アジャイルメンバーに顧客を引き込み、積極的に要求を引き出すことを奨励している。実は、顧客というのは、自分の要求が分かっていないことが多い。なので、実用的な成果を短いスパンで定期的に公開し、顧客自身の意志を明確にさせることが重要となろう...