2024-09-15

"福翁百話" 福澤諭吉 著

自伝もいいが、随筆はさらにいい。達人が書けば尚更。自由奔放に筆を振るうだけに、自分自身に言い聞かせている所もあろう。自省心がなければ、為せない技か。自伝は生きた時間の流れに乗り、随筆は気分の流れに乗る。独立自尊を謳歌するように...
尚、服部禮次郎編集版(慶應義塾大学出版会)を手に取る。

「自由は不自由の間に在りと云う。凡そ人生には自主自由の権あり、上は王公貴人、富豪大家より下は匹夫匹婦の貧賤に至るまで、智愚強弱、幸不幸の別はあれども、名誉生命私有の権利は正(まさ)しく同一様にして、富貴巨万の財産も乞食の囊中にある一文の銭も、共にその人に属する私有にして之を犯すべからず。生命も斯くの如し、名誉も斯くの如し。」

「学問のすゝめ」(前々記事)に至った動機を伺いつつ、「福翁自伝」(前記事)を経て、「福翁百話」+「福翁百余話」に至る。
自伝では、ユーモアと愚痴を交えた改革精神に魅せられた。
百話では、宇宙を語り、万物を語り、無始無終の変化を語り、自然の無常を語り、道徳を語り、政治を語り、その先に自得自省、独立自尊の道を説いて魅せる。そして、思想の中庸を唱え、智徳の独立を説き、無学の不幸を知るべし!と励ましてくれる。

「人間世界の有形無形、一切万般を物理学中に包羅して、光明遍照、一目瞭然、恰も今世の暗黒を変じて白昼に逢うのを観あるや疑うべからず。故に今日の物理学の不完全なるもその研究は正(まさ)しく人間絶対の美に進むの順路なれば、学者一日の勉強一物の発明も我輩は絶対に賛成して他念なき者なり。」

独立精神を育むのは、結局は自分次第なのであろう。誹謗中傷の嵐が荒れ狂う社会にあって、他人を貶めて自己を安泰ならしめるなら、独立自尊なんぞ程遠い。不徳というより無知というべきか。
しかしながら、無知でいることが、いかに幸せであるか。集団社会では尚更。であるなら、自分の無知を承知して、無知者らしく無知を謳歌したいものである...

「人生は至極些細なるものにして蛆虫に等しと云うは、他人の沙汰に非ず、斯く云う我身も諸共に蛆虫にして、他の蛆虫と雑居し以て社会を成すことなれば、蛆虫なりとて決して自から軽んずべからず。」

2024-09-08

"福翁自伝" 福澤諭吉 著

自叙伝ってやつは、その人の生き様を容赦なく炙り出す。笑いを誘うような愚痴のオンパレードに、その人の人となりが露わとなり、革命家魂を垣間見る思い。「学問のすゝめ」に至った動機も十分に味わえる。
尚、土橋俊一校訂・校注版(講談社学術文庫)を手に取る。

動乱期を生きた人物の叙述にしては、どこか余裕を感じる。これが人間の度量というものか。例えば、維新前夜は辻斬りが横行し、武士だけでなく、町人や百姓までも怯えた様子が克明と伝わる。こうした世情では隙を見せられず、堂々と歩いているふりをして、すれ違い様にとんずらするのが良策だとさ。そして、当時の様子を、こう笑い飛ばす...

「こっちも怖かったが、あっちもさぞさぞ怖かったろうと思う。今その人はどこにいるやら、三十何年前若い男だから、まだ生きておられる年だが、生きているなら逢うてみたい。その時の怖さ加減を互いに話したら面白い事でしょう。」

また、渡米時の感想では、こうもらす。
大統領が四年交代ということは知っていたが、ワシントンの子孫となると大層な扱いだろうと思っていたら、市民は知らないどころか、興味すら持っていないことに拍子抜け。日本でいえば、源頼朝や徳川家康の子孫となると、それだけで大層な権威を持つものだが、これが民主主義ってやつか...

ただ、「学問のすゝめ」では、ちと違和感のある二つの極端論があった(前記事)。
それは、「赤穂不義士論」と「楠公権助論」で、日本古来、義人として認められるのは、佐倉宗五郎ただ一人としている。赤穂浪士と楠木正成公の否定論は、やや勇み足の感は否めない。庶民感覚としての権威主義への反発から、二つの物語を讃美しすぎると考えるのも分からなくはない...
本書では、封建社会における価値観には、ほどほど呆れた様子。過去のすべてを否定するかのような勢い。そして、伝統に対する世俗のあまりの盲目ぶりに物申す。
矛先は、当時の論調を代表する「門閥圧政鎖国主義」と「勤王佐幕」の二派。前者は、封建制度が後ろ盾になった旧来の価値観。後者は、勤王は尊王に類似した用語で、佐幕は倒幕の対抗馬。封建門閥精度には親の仇のごとく捲し立て、そればかりか改革派も開国論者ですら攘夷論の張本と切り捨てる。こんな勢いで二つの極端論を口走ってしまったか、と思わせるほどのブチ切れよう。人間は社会の虫なり!とまで言い放つ...

この時代にひときわ目立つように西洋文明を吹き込み、開国論を主張すれば、あらゆる論者を敵に回すは必定。幕末には、非国民、売国奴、西洋がぶれなどとレッテルを貼られ、維新の流れに転じれば、開国論者の第一人者として一目置かれる。政治のご都合主義にはほどほど呆れた様子。
「一身の独立なくして一国の独立なし!」とは、彼の名言の一つだが、明治政府からの誘いを拒み、身をもって独立自尊に徹した啓蒙家であったとさ...

「私の生涯のうちに出来(でか)してみたいと思うところは、全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名に愧ずかしくないようにする事と、仏法にても耶蘇教にてもいずれにてもよろしい、これを引き立てて多数の民心を和らげるようにする事と、大いに金を投じて有形無形、高尚なる学理を研究させるようにする事と、およそこの三か条です。」

2024-09-01

"学問のすゝめ" 福澤諭吉 著

時は幕末... 西洋列強国にことごとく不平等条約を結ばされ、自国で裁判する権利すら持ちえない。このままだと大陸同様、アジア全土が呑み込まれてしまう... そんな危機感から日本を真の独立国たらしめ、国民の精神改革を行おうと、その基礎に置いたのが天賦人権思想であったとさ。
尚、伊藤正雄校注版(講談社学術文庫)を手に取る。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず... といへり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心の働きをもつて、天地の間にあるよろづの物を資(と)り、もつて衣食住の用を達し、自由自在、互ひに人の妨げをなさずして、おのおの安楽にこの世を渡らしめたまふの趣意なり。」

西洋思想を学ぶべきだ!と主張すれば、非国民・売国奴のレッテルを貼られ、アメリカ独立宣言を思わせるフレーズを掲げれば、西洋の猿真似と酷評され、独立自尊主義を掲げれば、単なる理想主義と蔑まれる。そんな風潮も、維新の流れに転じれば、開国論者の第一人者として英雄視される。世論のご都合主義にも呆れた様子。
そして、学者連と一線を画し、位階も、勲等も、爵位も、学位も一切身に付けず、明治政府からの登用も拒み、身をもって独立自尊に徹した。ひたすら啓蒙家として生き抜いた一匹狼魂は、誹謗中傷の嵐が吹き荒れ、空気を読む忖度文化に縛られた今の時代だからこそ、輝きを増すのやもしれん...

「独立の気力なき者は、必ず人に依頼す。人に依頼する者は、必ず人を恐る。人を恐るる者は、必ず人に諛うものなり。常に人を恐れ人に諛ふ者は、次第にこれに慣れ、その面の皮鉄のごとくなりて、恥づべきを恥ぢず、論ずべきを論ぜす、人をさへ見れば、ただ腰を屈するのみ。」

それにしても、諭吉のリズムカルな文体は、名言にも格言にもできそうなフレーズに溢れている。ちょいと気に入ったところを拾ってみると...

「学問の要は活用にあるのみ。活用なき学問は無学に等し。」

「国法の貴きを知らざる者は、ただ政府の役人を恐れ、役人の前を程よくして、表向きに犯罪の名あらざれば、内実の罪を犯すも、これを恥とせず。」

「されば一国の暴政は、必ずしも暴君暴吏の所為のみにあらず。その実は人民の無智をもつて、自ら招く禍なり。」

「信の世界に偽詐多く、疑ひの世界に真理多し。」

校注者も乗せられて、こう綴る。

「適切な言葉があって、はじめて真理は人々の心に生かされる。」
... 伊藤正雄

現代にも通ずるフレーズに、崇高な普遍性を感じずにはいられない。
しかしながら、反論したくなる点もある。「赤穂不義士論」と「楠公権助論」が、それである。言うなれば、日本人の帰属意識までも否定していそうな。何事もアイデンティティと結びつくと、讃美しすぎる傾向があるのは確かだけど...
前者は、赤穂浪士は法を犯した罪人で、真の義士ではないという主張は世間を騒がせたであろう。だが、より大騒ぎになったのは後者の方だそうな。楠公とは楠木正成、彼の死ですら権助(下男)の死と同一視し、さすがに諭吉も弁明文を発表したらしい。
そして、日本古来、諭吉が義人として認めたのは、佐倉宗五郎ただ一人としている。あくまでも国法が最高権力というわけである。とはいえ、封建時代の法は幕府が押し付けたものであり、自然法には程遠い。西洋思想にだって欠点はあるし、そこまで持ち上げなくても。ジョン・ロックに触れれば、そこまでの極端論にはならないような気もするが...