2024-09-01

"学問のすゝめ" 福澤諭吉 著

時は幕末... 西洋列強国にことごとく不平等条約を結ばされ、自国で裁判する権利すら持ちえない。このままだと大陸同様、アジア全土が呑み込まれてしまう... そんな危機感から日本を真の独立国たらしめ、国民の精神改革を行おうと、その基礎に置いたのが天賦人権思想であったとさ。
尚、伊藤正雄校注版(講談社学術文庫)を手に取る。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず... といへり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心の働きをもつて、天地の間にあるよろづの物を資(と)り、もつて衣食住の用を達し、自由自在、互ひに人の妨げをなさずして、おのおの安楽にこの世を渡らしめたまふの趣意なり。」

西洋思想を学ぶべきだ!と主張すれば、非国民・売国奴のレッテルを貼られ、アメリカ独立宣言を思わせるフレーズを掲げれば、西洋の猿真似と酷評され、独立自尊主義を掲げれば、単なる理想主義と蔑まれる。そんな風潮も、維新の流れに転じれば、開国論者の第一人者として英雄視される。世論のご都合主義にも呆れた様子。
そして、学者連と一線を画し、位階も、勲等も、爵位も、学位も一切身に付けず、明治政府からの登用も拒み、身をもって独立自尊に徹した。ひたすら啓蒙家として生き抜いた一匹狼魂は、誹謗中傷の嵐が吹き荒れ、空気を読む忖度文化に縛られた今の時代だからこそ、輝きを増すのやもしれん...

「独立の気力なき者は、必ず人に依頼す。人に依頼する者は、必ず人を恐る。人を恐るる者は、必ず人に諛うものなり。常に人を恐れ人に諛ふ者は、次第にこれに慣れ、その面の皮鉄のごとくなりて、恥づべきを恥ぢず、論ずべきを論ぜす、人をさへ見れば、ただ腰を屈するのみ。」

それにしても、諭吉のリズムカルな文体は、名言にも格言にもできそうなフレーズに溢れている。ちょいと気に入ったところを拾ってみると...

「学問の要は活用にあるのみ。活用なき学問は無学に等し。」

「国法の貴きを知らざる者は、ただ政府の役人を恐れ、役人の前を程よくして、表向きに犯罪の名あらざれば、内実の罪を犯すも、これを恥とせず。」

「されば一国の暴政は、必ずしも暴君暴吏の所為のみにあらず。その実は人民の無智をもつて、自ら招く禍なり。」

「信の世界に偽詐多く、疑ひの世界に真理多し。」

校注者も乗せられて、こう綴る。

「適切な言葉があって、はじめて真理は人々の心に生かされる。」
... 伊藤正雄

現代にも通ずるフレーズに、崇高な普遍性を感じずにはいられない。
しかしながら、反論したくなる点もある。「赤穂不義士論」と「楠公権助論」が、それである。言うなれば、日本人の帰属意識までも否定していそうな。何事もアイデンティティと結びつくと、讃美しすぎる傾向があるのは確かだけど...
前者は、赤穂浪士は法を犯した罪人で、真の義士ではないという主張は世間を騒がせたであろう。だが、より大騒ぎになったのは後者の方だそうな。楠公とは楠木正成、彼の死ですら権助(下男)の死と同一視し、さすがに諭吉も弁明文を発表したらしい。
そして、日本古来、諭吉が義人として認めたのは、佐倉宗五郎ただ一人としている。あくまでも国法が最高権力というわけである。とはいえ、封建時代の法は幕府が押し付けたものであり、自然法には程遠い。西洋思想にだって欠点はあるし、そこまで持ち上げなくても。ジョン・ロックに触れれば、そこまでの極端論にはならないような気もするが...

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