人生とは、滑稽劇のようなもの。猿の仮面をかぶれば猿に、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンに、エリートの仮面をかぶればエリートになりきり、セレブリティの仮面をかぶればセレブかぶれにもなる。あとは、幸運であればその流れに乗り、不運であればそれを糧とし、いかに達者を演じるか...
人生なんてものは、得体の知れぬ実存なだけに、こいつに意味を求めずにはいられない。それで、人生の意味を見つけたと信じて優越感に浸ってりゃ、世話ない。意識の権化はいずこに...
「自然のまゝに生きるといふ。だが、これほど誤解されたことばもない。もともと人間は自然のまゝに生きることを欲してゐないし、それに堪へられもしないのである。程度の差こそあれ、だれでもが、なにかの役割を演じたがつている。また演じてもゐる。たゞそれを意識してゐないだけだ。さういへば、多くのひとは反發を感じるであらう。芝居がゝった行為にたいする反感、さういふ感情はたしかに存在する。ひとびとはそこに虚偽を見る。だが、理由はかんたんだ。一口でいへば、芝居がへたなのである。」
自我の世界では、誰もが主役。だが、現実の世界では、誰もが主役を演じられるわけではないし、欲してもいない。主役でなければ生きる喜びが得られないわけでもない。それでも、何かを演じたがっている。その意識は、他人にも何かを演じさせなければ成り立つまい。
人間が欲しがっているのは、自己の自由ではないのか。ここでは、「自己の宿命」と表現される。自己の宿命を自覚した時のみ、自由感を味わえるものらしい。自己が居るべきところにある実感、それが宿命感というものらしい。
人は自由であることを信じる。幸福であると思い込む。そうやって現実と折り合いをつけ、自己を納得させながら生きている。成功しても、失敗しても、その結果を必然とし、自己を納得させる。それは、自己がそこに存在しているという実感が欲しいのか。これ以上の自己欺瞞はあるまい...
「人間存在そのものが、すでに二重性をもつてゐるのだ。人間はたゞ生きることを欲してゐるのではない。生の豊かさを欲してゐるのでもない。ひとは生きる。同時に、それを味はふこと、それを欲してゐる。現實の生活とはべつの次元に、意識の生活があるのだ。それに關らずには、いかなる人生論も幸福論もなりたゝぬ。」
自由は、個人主義との結びつきが強い。本書は、シェイクスピア劇の主人公に個人主義の限界を見る。かの四大悲劇を渡り歩けば、ハムレットの復讐劇に、マクベスの野望劇に、オセローの嫉妬劇に、老王の狂乱劇と動機は単純。だから設定を複雑にせずにはいられないのか。前戯好きにはたまらん。
ハムレットには、気高く生きよ!このままでいいのか?と問い詰められ、リア王には、道化でも演じていないと老いることも難しい!と教えられ、マクベスに至っては魔女どもの呪文にイチコロよ。
四大悲劇の魅力といえば、なんといっても道化が登場するところ。真理を語らせるには、この世から距離を置く者が説得力をもつ。人間が語ったところで、言葉を安っぽくさせるのがオチ。ハムレットやリアの主張を聞いたところで、作者自身の声は聞こえてこない。シェイクスピアはいずこに...
「シェイクスピアから私たちが受けとるものは、作者の精神でもなければ、主人公たちの主張でもない。シェイクスピアは私たちに、なにかを與へようとしてゐるのではなく、ひとつの世界に私たちを招き入れようとしてゐるのである。それが、劇といふものなのだ。それが、人間の生きかたといふものなのだ。」
シェイクスピアの個人主義の限界に自由の許容範囲を重ねると、まったく正反対にある全体主義が見えてくる。自由主義者は、全体主義を忌み嫌う。だが、全体主義とは、個人を生かすための集合体として結成される。そして、集合体が維持できなければ、奥深い無意識の中で自由が悪魔と結託して個人を抹殺にかかる。
それは、シェイクスピア劇が見事なほどに再現してやがる。全体主義は個人主義の帰結であり、その延長上にあるというわけか...
「自由が正義によつて合理化され、目的として追求されはじめたとき、生命力は希薄になる。いや、個人のうちに全體との默契を可能ならしめる生命力が希薄になるにしたがつて、ひとびとは無目的な自由を恐れはじめ、身を守るために、それに目的や名目を與へて、正義の座に祀り上げるのだ。さうすれば、さうするほど、この形式的な威嚴のうちに機械化された自由が、弱體化した生命力を締めつけてくる。個人を解放するための自由が、個性を扼殺するのだ。」
人々は、全体主義と同様に、死を忌み嫌う。だが、死を遠ざけることによって、生は弱体化していく。生の終わりを考慮しない思想や観念は、幸福をもたらさないばかりか、行き過ぎたヒューマニズムを煽る。せめて、劇の中で臨終体験を...
「生はかならず死によつてのみ正當化される。個人は、全體を、それが自己を滅ぼすものであるがゆゑに認めなければならない。それが劇といふものだ。そして、それが人間の生きかたなのである。人間はつねにさういふふうに生きてきたし、今後もさういふふうに生きつゞけるであらう。」