2024-10-27

"人間・この劇的なるもの" 福田恆存 著

人生とは、滑稽劇のようなもの。猿の仮面をかぶれば猿に、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンに、エリートの仮面をかぶればエリートになりきり、セレブリティの仮面をかぶればセレブかぶれにもなる。あとは、幸運であればその流れに乗り、不運であればそれを糧とし、いかに達者を演じるか...
人生なんてものは、得体の知れぬ実存なだけに、こいつに意味を求めずにはいられない。それで、人生の意味を見つけたと信じて優越感に浸ってりゃ、世話ない。意識の権化はいずこに...

「自然のまゝに生きるといふ。だが、これほど誤解されたことばもない。もともと人間は自然のまゝに生きることを欲してゐないし、それに堪へられもしないのである。程度の差こそあれ、だれでもが、なにかの役割を演じたがつている。また演じてもゐる。たゞそれを意識してゐないだけだ。さういへば、多くのひとは反發を感じるであらう。芝居がゝった行為にたいする反感、さういふ感情はたしかに存在する。ひとびとはそこに虚偽を見る。だが、理由はかんたんだ。一口でいへば、芝居がへたなのである。」

自我の世界では、誰もが主役。だが、現実の世界では、誰もが主役を演じられるわけではないし、欲してもいない。主役でなければ生きる喜びが得られないわけでもない。それでも、何かを演じたがっている。その意識は、他人にも何かを演じさせなければ成り立つまい。
人間が欲しがっているのは、自己の自由ではないのか。ここでは、「自己の宿命」と表現される。自己の宿命を自覚した時のみ、自由感を味わえるものらしい。自己が居るべきところにある実感、それが宿命感というものらしい。
人は自由であることを信じる。幸福であると思い込む。そうやって現実と折り合いをつけ、自己を納得させながら生きている。成功しても、失敗しても、その結果を必然とし、自己を納得させる。それは、自己がそこに存在しているという実感が欲しいのか。これ以上の自己欺瞞はあるまい...

「人間存在そのものが、すでに二重性をもつてゐるのだ。人間はたゞ生きることを欲してゐるのではない。生の豊かさを欲してゐるのでもない。ひとは生きる。同時に、それを味はふこと、それを欲してゐる。現實の生活とはべつの次元に、意識の生活があるのだ。それに關らずには、いかなる人生論も幸福論もなりたゝぬ。」

自由は、個人主義との結びつきが強い。本書は、シェイクスピア劇の主人公に個人主義の限界を見る。かの四大悲劇を渡り歩けば、ハムレットの復讐劇に、マクベスの野望劇に、オセローの嫉妬劇に、老王の狂乱劇と動機は単純。だから設定を複雑にせずにはいられないのか。前戯好きにはたまらん。
ハムレットには、気高く生きよ!このままでいいのか?と問い詰められ、リア王には、道化でも演じていないと老いることも難しい!と教えられ、マクベスに至っては魔女どもの呪文にイチコロよ。
四大悲劇の魅力といえば、なんといっても道化が登場するところ。真理を語らせるには、この世から距離を置く者が説得力をもつ。人間が語ったところで、言葉を安っぽくさせるのがオチ。ハムレットやリアの主張を聞いたところで、作者自身の声は聞こえてこない。シェイクスピアはいずこに...

「シェイクスピアから私たちが受けとるものは、作者の精神でもなければ、主人公たちの主張でもない。シェイクスピアは私たちに、なにかを與へようとしてゐるのではなく、ひとつの世界に私たちを招き入れようとしてゐるのである。それが、劇といふものなのだ。それが、人間の生きかたといふものなのだ。」

シェイクスピアの個人主義の限界に自由の許容範囲を重ねると、まったく正反対にある全体主義が見えてくる。自由主義者は、全体主義を忌み嫌う。だが、全体主義とは、個人を生かすための集合体として結成される。そして、集合体が維持できなければ、奥深い無意識の中で自由が悪魔と結託して個人を抹殺にかかる。
それは、シェイクスピア劇が見事なほどに再現してやがる。全体主義は個人主義の帰結であり、その延長上にあるというわけか...

「自由が正義によつて合理化され、目的として追求されはじめたとき、生命力は希薄になる。いや、個人のうちに全體との默契を可能ならしめる生命力が希薄になるにしたがつて、ひとびとは無目的な自由を恐れはじめ、身を守るために、それに目的や名目を與へて、正義の座に祀り上げるのだ。さうすれば、さうするほど、この形式的な威嚴のうちに機械化された自由が、弱體化した生命力を締めつけてくる。個人を解放するための自由が、個性を扼殺するのだ。」

人々は、全体主義と同様に、死を忌み嫌う。だが、死を遠ざけることによって、生は弱体化していく。生の終わりを考慮しない思想や観念は、幸福をもたらさないばかりか、行き過ぎたヒューマニズムを煽る。せめて、劇の中で臨終体験を...

「生はかならず死によつてのみ正當化される。個人は、全體を、それが自己を滅ぼすものであるがゆゑに認めなければならない。それが劇といふものだ。そして、それが人間の生きかたなのである。人間はつねにさういふふうに生きてきたし、今後もさういふふうに生きつゞけるであらう。」

2024-10-20

"マイケル・ポランニー「暗黙知」と自由の哲学" 佐藤光 著

暗黙知 "Tacit Knowledge" という言葉に惹かれて...

「われわれは語るよりも多くのことを知ることができる。」

マイケル・ポランニーとは、どんな人物であろう。物理化学者と紹介されるが、経済論、知識論、宗教論、芸術論、神話論などと、その視界は広すぎるほどに広い。ナチズムからスターリン体制下のソ連時代という苦難の時代を生きたユダヤ系ハンガリー人ということもあって、様々な方面で考えを巡らさずにはいられなかったのであろう。人間社会ってやつは、自由主義に内包される責任に耐えられなくなると、権威主義や全体主義に傾倒していくらしい...

認識過程において、言語で表すこのできない領域がある。だが、哲学者や思想家たちは、言語による明証、説明、論証を最高の手段としてきた。客観性を熱く主張すれば、その主張自体が個人的な主張を強めてしまう。人間ってやつは、思考する限り主観性からは逃れられない。それでも、主観から導かれる客観の領域がある。形式化と非形式化、言語領域と非言語領域、その狭間をもがきつつも辿り着く知の領域がある。

本書は、知識の根源を「分節化されたもの」「分節化されないもの」をダイナミックな相乗効果として物語ってくれる。分節化とは、文章化や記号化できる明確な知のことで、暗黙知に対して明示知としている。
人間の知るという技芸は、分節化されない領域でなんとなくイメージされたものが多分に混在しているものと思われる。誰にでも生じる思い込みという現象も、こうした暗黙の領域で説明がつきそうだ。沈黙の力も...

とはいえ、暗黙知というのは思考プロセスに位置づけられるものであって、そこから導かれる哲学的思考の方が重要やもしれん。
ポランニーが自由を信奉した人であることは間違いあるまい。だが、当時のリベラリズムにも二種類あるという。それは、英米系リベラリズムとヨーロッパ大陸系リベラリズムである。彼は前者を肯定し、後者を否定したとか。英米系リベラリズムは、ミルトンやロックによって定式化され、教会をはじめとする権威からの脱却と、科学をはじめとする思想の自由を擁護する。ただ、宗教の自由を唱えても、カトリックとプロテスタントに寛容なだけで、無神論者を否定する立場。
一方、ヨーロッパ大陸系リベラリズムは、ヴォルテールや百科全書学派などによって定式化され、英米系よりもはるかに真面目で、厳密で、反権威主義と哲学的懐疑の原則を究極にまで適用する。権威という権威を徹底的に排除すれば自由の権威までも否定し、懐疑的思考を徹底的に膨張させれば、あらゆる書物や聖書までもが否定される。

反自由も独裁も、それを行う者にとっては自由の一形態と言えなくもない。マルクス主義は、人権、自由、平等を過剰なまでに要求し、ジャコバン主義は、フランス革命の下で旧体制を完全に葬り去ることを目的とする過激派に変貌した。ナチズム、ファシズム、共産体制も、こうした流れに位置づけている。行き過ぎた自由が自由主義を破壊し、行き過ぎた平等が平等主義を破壊する。行き過ぎた正義が正義を堕落させ、行き過ぎた倫理観が非人道的行為に走らせる。そこに政治と宗教の原理がある。本書では「道徳的反転」「宗教的反転」と表記され、いずれも自己破壊がもたらした結果というわけである。

「現代思想はキリスト教的信仰とギリシア的懐疑の混合物である。キリスト教的信仰とギリシア的懐疑は論理的に両立不可能であり、両者の葛藤が、先行する諸思想よりもはるかに、西洋思想を活性化させ創造的なものとしてきた。しかし、この混合物は不安定な基礎である。現代の全体主義は宗教と懐疑主義の葛藤の極限の姿である。それは、われわれの道徳的熱情の遺産を現代の唯物論的諸目的の枠組みのなかに組み入れることによって、この葛藤を解決しようとする。」
...マイケル・ポランニー

ポランニーは「開かれた社会」を批判する立場を表明しているという。すべての価値観に開かれているという理想は、人間が特定の価値を必要とする以上、実行不可能な要請であると...
開かれた社会を理想像に掲げる有識者は多い。だが、理想が高すぎるがゆえに破綻することもしばしば。すべてを受け入れれば、全体主義も受け入れることになり、リベラリズムは非リベラリズムへと傾倒していく。その結果、どのような世界観も信じることのできないニヒリズムを助長させることに...

「ポランニーにとっての自由社会は、すべての価値を無差別に認めるような『開かれた社会』ではなく、自由社会に伝統的な諸価値への積極的献身(dedication)を求める、ある種の『閉ざされた社会』だった。」

人間社会で自由主義が機能している場の一つに、経済活動が挙げられる。市場原理は、自由な取引によって価格を決定し、自由な生産活動を促進する。だが現実には、自由競争は弱肉強食と化し、独占や寡占が横行、新たな奴隷制度が組み込まれる。その反発から、マルクス主義的唯物論が生じることに...
ポランニーはケインズ主義を表明し、完全雇用のために公共投資の必要性を唱えたようだ。だがこれもまた、行き過ぎたケインズ主義が公共事業を無理やり創出しては、族議員を蔓延らせることに。大衆民主主義を利用してのし上がるのが政治屋の常套手段。失業問題をあっさりと解決したヒトラーも...

「しかるに、世の多くのリベラリストは、本末転倒にも、自由社会あるいは反全体主義社会を構想するにあたって、私的自由を基本あるいは究極目的として、その上に公的自由を積み上げようとしている。こうした思想は、じつは、全体主義者、ファシスト、共産主義者にとって少しも脅威ではないのであり、多くのリベラリストは自分で自分の墓穴を掘っていることになる... これが、ポランニーの主張の要点である。」

宗教を論じれば、その存在意義を問わずにはいられない。多種多様な人間の在り方を、融合せしめるのが宗教であるはず。なのに、あらゆる紛争の火種となるのは、どういうわけか。無宗教や無神論の方が合理的ではないのか。
一つの人間を崇めれば、他の人間を否定することになり、一つの宗教を崇めれば、他の宗教を否定することになる。ならば、絆で結ばれるより距離を置く方がましではないか。その結果、ニヒリズムや人間嫌いを助長させても...
宗教が不要だとは言わない。人間である以上、なんらかの信仰を持って生きている。無神論者であっても、宇宙の絶対的な存在を感じないわけではない。科学界も、産業界も、非宗教的に振る舞ってはいるが、宗教的信仰と無縁ではない。底なしの無信仰に陥ったり、狂信の世界に埋没したりすることはあっても、人間である以上、なんらかの信仰を持ち続けている。

本書の興味深いところは、宗教論をシェイクスピア劇のような虚構や芝居との類似性において考察している点である。それも、儀式という形態の中で。神の世界へ導くというより、俗界からの解放の方が意味がありそうだ。聖なる時間を取り戻すというより、苦悩に満ちた俗なる時間からの解放を。現世で救われなければ、普遍的な世界に縋るほかはない。その儀式的行為が慣習化すると、盲目的に崇めることに。それで心が安住できるなら、精神的合理性というものか...

「宗教とは、儀礼(rites)、儀式(rituals)、教義(doctrines)、神話(myths)、礼拝(worship)と呼ばれるものを含んだ想像力の広汎な作品(work)であることがわかる。したがって、それは、われわれがこれまで考察してきた他のどのようなものより、はるかに複雑な『受容(acceptance)』の形態なのである。」
... マイケル・ポランニー

2024-10-13

"エフォートレス思考" Greg McKeown 著

本書は、「エッセンシャル思考」の続編。前編では、何をやるかを伝授してくれた。ここでは、どうやるか、その事例を紹介してくれる。
コンセプトは、「努力を最小化して成果を最大化!」。極力無駄を省こうというわけだが、現実は厳しい。あまり無駄をなくすことに執着するのもどうであろう。極論を言えば、生きていること自体が無駄、人類の存在そのものが無駄という見方もできる。
また、物事は、あまり単純でもつまらない。難問に立ち向かうことに喜びを感じたり、我武者羅にやってみたいという衝動に駆られることもある。頑張って努力したことが自信につながることもあれば、我武者羅にやっているうちに、今まで見えなかったものが見えてくるってこともある。

とはいえ、アドレナリンジャンキーはゴメンだ!燃え尽き症候群もゴメンだ!
懸命な努力が成果につながることも事実だが、それには限界がある。無駄をなくすというより、脳にゆとりをもたせようという意味合いであろうか。仕事というより、趣味のような生き方を!無駄から学べれば、無駄ではなくなる。
本書も、失敗から多くを学べるので第一歩を気軽に踏み出そう... 失敗なくして習得なし... と励ましてくれる。どんなに優れた書き手でも、言葉ですべてを言い尽くすことは不可能であろう。その奥に、バランス感覚と中庸の哲学が読み取れる。あまり力まず、肩の力を抜いて、人生を謳歌しよう... これがコンセプトだと解している。
古くから人生論に「ビッグロックの法則」が囁かれてきた。器に小さな石から入れると、大きな石が入らなくなる、優先すべきものを考えよう... まさに、そんな教訓を物語ってくれる。
尚、高橋璃子訳版(かんき出版)を手に取る。

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」
... マタイ福音書、11章30節

ポイントは三つ...
  • エフォートレスな精神... 余裕のマインドを手に入れ、難易度を下げることに抵抗しない。
  • エフォートレスな行動... 最も効率のよいポイントで実行する。
  • エフォートレスな仕組み... 行動パターンを自動化し、成果が勝手についてくる仕掛けをこしらえる。

アジャイル開発は、無駄をなくし、難解な部分を簡略化する戦略だが、エフォートレス思考は、この戦略に適合しそうである。
エフォートレスな仕組みでは自動化戦略を物語り、直線的な、直接的な成果よりも、累積的な成果を求める。この自動化を、おいらは習慣化と解す。累積的な成果とは、小さな努力の繰り返し。アリストテレスは、こんな言葉を残した。「人は繰り返し行うことの集大成である。それゆえ優秀さとは、行為でなく習慣である。」と...

認知心理学に「知覚的負荷」という概念があるそうな。
ソーシャルメディアが荒れ狂う社会では、余計な知覚を捨てることはすこぶる難しい。シンプルに考え、シンプルに行動するには、余計な情報を捨て去った方が幸せになれそうだ。
努力の価値が過大評価されているのも事実。成功するために心身を酷使して働かなければならないというのは、社会の集団幻覚か。現代人は、なにかと多忙だ。おまけに、慢性的な睡眠不足ときた。そして、すぐに結論に飛びつく。現代人の多くは、人生のリズムを集団の中で乱している。しかも、自ら...

「不運な出来事が起こったとき、それをあきらめて受け流すのは難しい。どうしても不満や怒りが湧いてくる。不満を言うのは簡単だ。あまりに簡単なので、多くの人は不平不満を言うのが日常になっている。... 不満をぶちまけるのは、一種の快感だ。ソーシャルメディアを見れば、ありとあらゆる不満が並んでいる。みんなが攻撃的になっている。巻き込まれまいとしても、知らず知らずに影響を受けてしまう。」

脳科学や心理学によると、「今」として体験される時間は約 2.5 秒だそうな。人生は、2.5 秒の繰り返しというわけか。この短い時間に、スマホを置き、ブラウザを閉じ、深呼吸することができる。この 2.5 秒をモノにして、最初の一歩を有利に踏み出そう!というわけか...

「難しいのは、聞くことではない。聞きながらその他のことを考えないことだ。難しいのは、その場にいることではない。そこにいながら過去の出来事や未来の予定に気を取られないことだ。難しいのは、何かを見ることではない。雑多な情報を無視して、見るべきものだけを見ることだ。」

2024-10-06

"芸術作品の根源" Martin Heidegger 著

ハイデッガーが生きた時代は、二つの大戦を経て、ナチスの高官どもがヨーロッパ中の美術品を漁りまくった時代。もはや芸術は死んじまった!との愚痴が聞こえてきそうな芸術論に出くわす。
芸術に自由精神は欠かせない。だが、束縛の反発として自由精神が生起することだってある。芸術の根源を探求すれば、芸術そのものの在り方を問い、その本質に立ち向かうことになる。本質に立ち向かえば、真理を問うことに...
ここでは「真理の生起」と表現され、芸術作品は「現実性」においてのみ存在しうるとしている。そして、カント風の主観的普遍性の域に達すると、不滅たる作品に昇華させると...
尚、 関口浩訳版(平凡社ライブラリー)を手に取る。

「作品そのものが、作者の巨匠たることを証明する、ということはすなわち、作品がはじめて芸術家を芸術の支配者として登場させる... 芸術家は作品の根源である。作品は芸術家の根源である。一方なしには他方もない。それにもかかわらず、両者のいずれもが単独で他方を支えることはない。芸術家と作品とは、各々それ自体の内で、そしてそれらの交互連関の内で、第三のものによって存在する。」

「現実性」という表現も、なかなか微妙である。芸術は現実性に支配されているんだとか。
しかし、リアルとリアリティでは、似ているようで違う。例えば、コンピューティングの分野には仮想現実(VR)や拡張現実(AR)といった空間世界があり、人間の認識はこの空間に現実性を見る。また別の空間では、夢を見ている間は現実と区別ができないほどリアリティに満ちている。
人間の認識能力は、心理的にも、生理的にも、誤魔化しが利き、現実でなくても現実性と見なすことができちまう。それは、「真理」とて同じことやもしれん。真理めいたものは大いに語りまくるが、本当の真理となると沈黙せざるを得ない。そもそも、真理ってやつは人間が発明した言語体系で記述できるものなのか。言語の限界に挑めば、暗号めいた叙述となるは必定。それは哲学の宿命か。
神は意地が悪い。人間と真理は絶妙な距離感を保ち続け、近づけそうでなかなか近づけない。弁証法をもってしても、真理の探求はすぐに行き詰まる。そして、永遠に探求し続ける羽目に。馬の鼻先に人参をぶら下げるかのように...

ところで、真理とはなんぞや?どうやら、真なる本質を言うらしい。芸術を探求する過程で、伏蔵性と不伏蔵性の狭間でもがく。
美学は、真理が不伏蔵性としての本質を発揮する一つのやり方だという。原因から結果へ写像していくうちに、不伏蔵性という明確な存在から伏蔵性という内なる存在を感じられるようになるんだとか。論理性からの脱皮とでも言おうか。真理への開眼とでも言おうか。芸術への道は甚だ遠し...