2024-12-08

"背徳者" André Gide 著

福音書に愛想を尽かされた人間の物語とは、こういうのを言うのであろうか...
「狭き門より入れ!(前記事)」の訓示に逆らい、異常な情熱をもって学術研究に消磨してきた青年学者。彼が肺結核を患い、死の淵から蘇って見えてきたものとは...
尚、川口篤訳版(岩波文庫)を手に取る。

生きるということを、どう解釈するか。その答えを神学者に求めたところで、死後の世界を提示するだけ。天国に行きたければ... と。哲学者に求めても... 理論哲学者は面倒な現実から目を背け、数理哲学者は自己存在に関わる様々な量の計算に耽り、あとはニーチェ風に生き様を冷笑するか、パスカル風に死に様を見下すか。学者馬鹿ってやつは、平凡な馬鹿よりもタチが悪いと見える。それで背徳者に成り下がってりゃ、世話ない...

「僕は... 僕はただ話したいのだ。自由を得る道などは問題ではない。困難なのは自由に処する道だ。」

死にかけた父に促され、愛してもいない女性と結婚するも、その妻には看病の重荷を背負わせる。病気が回復に向かうや生の喜びに浸り、幼き頃から叩き込まれてきたキリスト教の訓示に背いて享楽に走る。すると今度は、その生活ぶりが妻に負担をかけ、とうとう瀕死の状態に。男は看病の末に、妻の死という重荷を背負う。

人間は自由を求めてやまない。境遇が過酷であれば尚更...
しかし、自由とはなんであろう。贅沢三昧な生活が自己を破滅にかかる。宗教に縋ったところで、現実逃避に救いを求めるばかり。哲学に目覚めたところで、自己破滅型人間を助長させるばかり。それで何が会得できるというのか。雄弁に、抗弁に、詭弁に、論弁に、屁理屈弁に... 言い訳の技術を磨いていくばかり。人生とは、自己に何か言い聞かせながら生きていく、ただそれだけのことやもしれん...

「死ぬほどの病苦に悩んだものにとって、遅々たる回復ほどみじめなものはない。一度死の翼に触れられたあとは、かつて重要に思われたものも、もう重要ではなくなる。重要らしく見えなかったもの、あるいは存在さえ知らなかったものが、かえって重要になって来る。われわれの頭に積み重ねた既得の知識は、白粉のように剥げ落ちて、ところどころに生地、つまり隠れていた正体がむき出しに見えて来る。」

幸福なんてものは、平穏で淡々としたもの。これについて語ることは難しい。人間の語るに足る所業は苦痛しかないのか。無論、幸福な人間には語れまい。自分の不幸を愛し、舐めるように語る。そこに第三者として自我が介入し、自己を審判にかける。病的な性癖を自ら語るのは難しい。自由な語りには、これを統制し、調和する知的努力が欠かせない。だが、その努力も強い野望をともなわなければ...

「私は、この書を告訴状とも弁護論ともしようとしたのではない。... (中略)... 勝利も敗北も明白に提示していない。... (中略)... 要するに、私は何物も証明しようとしたのではない。よく描き、描き上げたものをよく照らし出そうとしたのである。」

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