近代人とは何者か。それは、ひとつの理想像か。それとも、時代の人間像を映し出した表語に過ぎないのか。
大酒を喰らって淫蕩に耽り、暴力と不潔の代名詞とされてきた民衆が、十五世紀から十八世紀の約四百年に渡って近代文明とやらを育んできた。歴史学者ロベール・ミュシャンブレッドは、人類の近代化に至る生い立ちを、フランスの民衆社会から紐解く...
尚、石井洋二郎訳版(筑摩書房)を手に取る。
「充分に意識していようといまいと、人間の個人的人格というのはいくつもの異なる時代から受け継がれた多様な集合的寄与物の組み合わせである。」
近代文明とは、大衆文化をいうのであろうか。「大衆」という語がいつごろ生まれたかは知らんが、ひとつの人間像として、自由の象徴とされるフランス革命あたりに見ることはできそうか。かくして、エリートが大衆化していくのか、大衆がエリート化していくのか...
「私たちは何者なのか?... 執拗に、また時には人知れずこっそりと、歴史家は自分自身にきわめて密接に関わるこの一般的な問いかけを発してはくりかえす。」
「近代」という語も、定義が難しい。封建的な価値観が崩壊し、個人主義に彩られた合理的、科学的思考を覚醒させた時代といったイメージであろうか。
一つの見方として、市民革命や国民国家といったものを挙げることができよう。王権が衰退し、いよいよ主権国家の成立を見る時代。それを内面的に辿ると、王宮のマナーモデルがまずは都市部へ伝搬し、やがて農村部へ徐々に浸透し、社会全体がお行儀よくなっていく。
モンテスキューの三権分立論、ヴォルテールの寛容論、ルソーの社会契約説といった啓蒙思想と重なり、道徳や正義の観念が強調され、自己抑制の意識を強めていく。それは、民衆が知性を獲得していった時代であろうか。
仮に、近代人が内面的に大きく進歩した人類の姿であるとするなら、やがて出現する国粋主義や帝国主義、さらには過去に類を見ない大量殺戮といった現象をどう説明できるだろう...
「習俗の文明化は差異化をめざすものでり、均質化をめざすものではない。その本質的な機能は、絶対主義をあいだにはさんで経済から宗教にいたるまで、他のさまざまな力が十七・十八世紀にますます厳密に画定しつつあった社会階層秩序を有効化することであった。」
上流への強い憧れは、下流への劣等感を掻き立てる。自由競争社会ともなれば、経済的に、学識的に優越主義を旺盛にさせる。階級のない社会を目指しておきながら、新たな階級を編み出しては再編成されるという寸法よ。近代の経済発展が、こうした競争原理に支えられてきたのも事実。
では、近代人を受け継いだ現代人は、どうであろう。情報社会が高度化していくと、知識は誰にでも入手できるようになる。意欲のある者はますます知識を獲得し、意欲のない者はますます取り残され、意識格差を助長させる。おまけに、現代の大衆はメディアとの結びつきが強く、ネット上には理性の検閲官に溢れ、誹謗中傷の嵐が吹き荒れる。周りの意識が高まれば、周りの目が気になってしょうがない。自由意志の尊重が、逆に自由精神を圧迫しようとは。人類の進化の過程は、単純な右肩上がりではなさそうだ。「近代人」という語が、過去を懐かしむための語とならぬよう...
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