2025-09-07

"第三身分とは何か" Emmanuel-Joseph Sieyès 著

フランス革命前夜、エマニュエル=ジョゼフ・シィエスは聖職者や貴族が保持する特権身分を批判し、国民議会の設立を唱える。歴史を動かした書というものがあるが、本書もその一つに数えられるそうな...
尚、稲本洋之助、伊藤洋一、川出良枝、松本英実訳版(岩波文庫)を手に取る。

本書の構想は単純なもので、三つの論考によって組み立てられる。
  • 第三身分とは何か... 全てである。
  • 第三身分は、これまで何であったか... 無であった。
  • 第三身分は何を要求しているのか... 何がしかのものになることを。

フランスには、もともと三部会というものがあり、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民で構成される。王権と教皇権の争いのさなか、国王が国民の支持を得て優位に立とうと開催したものだが、絶対王政の時代ともに廃れていった。ルソーの社会契約論は知識人に広く知られていたものの、当時はまだ国民相互間の契約ではなく、支配者との服従契約という意味合いが強かったようである。
シィエスは、こうした世情に苦言を呈し、モンテスキュー風に法の下での平等を強調する。そして、国民主権、代議制、憲法制定議会と通常議会の区別といった概念を論じる。彼が提唱するものは、現在では民主主義の基本原理として自明とされるものだが、これらを実践するとなると、未だ...

「モラルに関しては、簡素で自然な手段に代わりうるものはない。しかし、人は無益な試みに時間を費やせば費やすほど、やり直すという考えを恐れるようになる。もう一度はじめからやり直しやりとげるよりも、時にはことのなりゆきに任せ浅薄な策を弄する方がよいとでも言うかのように。このようなやり方をいくら繰り返しても、一向に進歩はない!」

本書は、革命前夜のパンフレットらしく、急進的な発言が目につく。第三身分こそ国民であるべき、いや、国民ならば第三身分であるべき。したがって、特権身分は国民ではない。聖職者特権であぐらをかく輩と、国王にへつらって租税を免れる貴族どもは、もはや有害!奴らを国民議会から排除せよ!と...
21世紀の現在でも、よく耳にするのが、政治家は庶民生活がわかっていない... というもの。それを言うなら、庶民だって政治家という人種をわかっちゃいない。わかりたいとも思わんが。既得権益に守られた輩が蔓延る世情もまた、あまり代わり映えしない。民主主義への道はまだまだ遠いということか。いや、人類が背負うには重過ぎるのやもしれん...

「人間は、一般に、自分より上位にある者全てを自分と平等にしようと強く願う。そこでは、人は、学者として振る舞う。ところが、同じ原理が彼らより下位にある者によって主張されるのに気づくや、この平等という言葉は、彼らにとって忌まわしいものとなる。」

国民の側にしても、何か要求したいのだが、何を要求すべきかが分からない。そもそも、国民がどうあるべきを分かっていない。それは、経済活動における消費者心理にも見受けられる。新商品は企業が提案するもので、これに満足するか、難癖をつけるか、多くの消費者はオススメと評判に動かされる。こうした構図は、政治とて同じ。どんな政策を望むかより、提案された政策に賛同するか、拒否するか、そういう形でしか自分の意思が確認できない。
そう、「何がしかのものになることを...」望むのである。あえて言うなら、最低限の人権ということになろうか。第三身分、すなわち、真の国民がこれまで無であったのなら、これを有に変えるには、かなりの意識改革が必要なようである...

「上位二身分にも、第三身分の権利回復が、利益となることは確かである。公の自由の保障は真の力が存するところにしか存在しえないということに、目をつぶってはならない。われわれは、人民とともに、かつ、人民によってでなければ、自由たりえないのである。」

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