2025-11-30

"バナッハ - タルスキの密室" 瀬山士郎 著

数学の本をミステリー仕立てとは、なかなかの趣向(酒肴)。定理に至るプロセスは推理過程そのもの。数学とミステリーは、すこぶる相性がよいと見える。
登場人物は、推理小説ではお馴染みのシャーロック・ホームズと、その記録係ジョン・ワトスン。ここでは、バナッハ - タルスキの定理をホームズ探偵譚で物語ってくれる。
見ることと観察することは、はっきりと違うのだよ... ワトスン君!

これは、錬金術に惑わされる人々の物語である。人間の欲望本能がそうさせちまうのか。かのニュートン卿は錬金術の研究に没頭したと伝えられる。「自然哲学の数学的原理」を書した人物までも...
人類は、実に多くの仮想的な価値を編み出してきた。市場取引で貨幣の倍増を目論むのも、ポイントを貯めて貨幣と見なすのも、ネット社会に出現した分散型通貨も錬金術の類い。いや、貨幣そのものが仮想的な存在。いやいや、資本主義経済そのものが価値を自然増殖させちまうシステム。したがって、人間社会にインフレ現象はつきもの...

「単純なものにほど人は騙されやすい。これは奇術の常識さ!」

ホームズは、犯罪組織のボス、モリアーティ教授とライヘンバッハの滝で最後の対決をし、それから三年もの間、失踪する。死亡説も囁かれたが...

1. 最初の偽錬金術師事件
最初に登場する錬金術師は、ホームズの失踪と同時に現れたシャイロット・ヘルメスという男。そこの奥さん!ちょいと、見て見て見て!ここに取りい出したるは、賢者の石の粉末!これをニュートン卿の霊に導かれて手に入れたのよ。どうやって手に入れたか?って。それは営業秘密ね!この粉末を使って、過去の錬金術師がやろうとしたように鉛を金に変えることはできないよ。だけど、目の前にある金を増やすことはできちゃう!
そして、不器用な手付きで、正方形の金の延べ板を適当に切って長方形に並び替えると、なんと面積が増えちゃった。

  8 x 8 = 64 を 5 x 13 = 65 に並び替え、1 マス分、増えている。

まさに、幾何学的トリック!不器用ってところが、本当っぽく見せるのよ...
これを「ボヤイ - ケルヴィンの定理」で反証する。

「平明図形 A をいくつか切って並び替えて平面図形 B ができるための必要十分条件は、A と B の面積が等しいことである。」

これを三次元に拡張したのがヒルベルト 23 問題の三番目のヤツ。ここで、その反証に用いられた「デーンの定理」を持ち出す。

「正四面体を切ってどんなに並び替えても立方体にはならない。つまり、同じ体積の正四面体と立方体は分割合同ではない。」

この分割合同を球体に適用すると「バナッハ - タルスキの定理」が強烈に匂い立つ。

それはさておき、ヘルメスに金をだまし取られたのは、モリアーティ教授にかかわる悪徳貴族ばかりだったとか。ホームズは失踪から帰還するも、ヘルメスは行方をくらまし、取り逃す。ヘルメスが世間を騒がした時期とホームズが失踪した時期が重なるのは、単なる偶然か?ワトスンは、この事件の真相を記録する勇気がなかったとさ...

2. 次に、偽降霊術師の密室事件
自称降霊術師の両手には手錠がかけられ、手錠は窓の手すりに鎖でくくりつけられている。部屋には死体と降霊術師しかいない。まさに密室!事件解決に、殺された男の霊を呼び出して事情を聞こうと...
確かに手錠は外せない。だが、くくられた鎖との関係から紐解くことができる。手錠は閉空間をなし、鎖も閉空間をなすが、これらを両手という開空間で結びつければ... またもや幾何学的トリック!
ホームズは「ライデマイスター移動」という結び目の定理を持ち出し、トポロジーを絡めるが、ちと大袈裟な。知恵の輪か、あやとりの類いでは...

3. 最後に、本物の偽錬金術師事件... 本当に本物?
大学の研究室で日系数学者の森屋氏が不可解な事故死を遂げた。直径が 2 メートルもある岩で圧死したという。この巨大な岩を外から部屋へ持ち込む方法は皆無。一度家をぶっ壊せば話は別だが。つまり、巨大な岩は最初から部屋にあったことになる。
ここで、取りい出したるは「バナッハ - タルスキの定理」。この定理には、二つのバージョンがある。拡大バージョンと複製バージョンとが...
前者は「球面を分解して組み立て直すと、大きさの違う球体を作ることができる」と告げ、後者は「一つの球面を分解して組み立て直すと、二つの球面を作ることができる」と告げる。
こうした現象は、球面に実存する各点を集合として捉え、これらが群と絡まった時に生じる。それは、無限のなせる仕業か...
群とは、一言で言えば、ある演算の対象となる数の体系。球面を適当に回転すると、回転群ができる。回転の仕方は軸の取り方次第で、それこそ無限にある。

「球面から可算集合を取り除いた残りの球面と元の球面とは分解合同になる。」

カントールが集合論を編み出したのは、無限を手懐けるためだったのか。なにしろ、直線上の点の数と平面上の点の数が同じだというのだから尋常ではない。無限集合から選ばれしものを一つの集合と見なした時、その選ばれしものの正体は... 「選択公理」ってやつが、大きさや数量といった概念を崩壊させちまうのか...
人間の思考に無限が絡むと、実存主義なんぞ自己崩壊しちまう。無限とは、得体の知れない存在という意味では、魂のごとく。
群は恐ろしい。群れは恐ろしい。それは人間社会とて同じこと。どんな良い事でも、人間が集まり過ぎると碌な事がない。群衆には、個々の意志とはまったく別の意志が働く。群衆という一つの個体が生まれたかのように。そして、この集団力学はことのほか強大だ。これも、ある種の群論であろうか...

それはさておき、森屋教授は密室でバナッハ - タルスキ分解を実践して見せたというのか。実は、森屋というのはモリアーティ教授の変名であったとか。なんと強引なオチ!数学の定理と駄洒落は、すこぶる相性がよいと見える...

2025-11-23

"バナッハ - タルスキーのパラドックス" 砂田利一 著

こいつぁ、定理か?それとも逆説か?
バナッハ - タルスキーの定理には、二つのバージョンがあるという。拡大バージョンと複製バージョンとが...

「球体を適当に分割し、それらを適当な方法で寄せ集めると、大きさの違う球体を作ることができる。」
あるいは、
「球体を適当に有限個に分割して寄せ集めることにより、元の球体と同じ球体を二つ作ることができる。」

大きさの違う球体とは... 野球のボールのような小さな球体から、地球のような巨大な球体が作れるとでもいうのか。どうやらそうらしい。
同じ球体を二つとは... 同じ理屈でいくつでも球体を作ることができるというのか。どうやらそうらしい。
これは、存在の定義を問うているのか。実存からの解脱を意味しているのか。宗教家ともなると、言葉では語り得ぬ事柄については、逆説をもって語ってみせる...

「不合理なるが故に信ずる。」... 教父テルトゥリアヌス

数学史を紐解いてみると、それは矛盾との葛藤の歴史とも言えよう。ゼノンに始まるアキレスと亀の徒競走には、瞬間という微分的思考と積算という積分的思考が交錯し、無限の影をちらつかせる。瞬間という無限小の概念を通して眺めれば、飛んでいる矢だって止まっている状態を定義できる。時間の流れを瞬間の集まりと捉えるなら、ここに集合論が匂い立つ...

集合論では、二つの集合を比較する時、要素を一対一で対応させ、対応できない余った要素があれば、そちらの集合の方が大きいとする。実に当たり前な考え。
では、無限集合ではどうであろう。カントールは、無限集合を自身の真部分集合と一対一で対応できるものと見なした。対角線論法が、それだ。
しかも、無限集合の大きさに濃度、ℵ(アレフ)という概念を持ち込む。
例えば、自然数の集合と一対一で対応できる状況が作れれば、同等の無限集合ということに。そして、整数、奇数、偶数も可算集合として同じ濃度 ℵ0 ということに...
直観的に同じであるはずもないが、数学の証明においては、こういうことが起こる。同じ理屈で、二次元平面上に存在する有理数は一次元の直線上にマッピングできる。多次元でも同じこと。カントールは、無限を手懐けることで、うまいこと有理数に居場所を与えたものだ。
そして、無理数という不可算集合を考察すれば、実数は有理数よりも大きくなり、この手の集合を ℵ1 ということに。ある集合より大きな集合は、集合の集合の... 冪集合!さらに次元の高い無限集合!無限の無限!寿限無!寿限無!と呪文を唱える羽目に...

こうなると、無限なんてものが本当に実在するのかも疑わしい。それは数学でしか扱えない代物か。単なる証明技術に過ぎないのか。
仮に定義を単純化して、有限でなければ無限!とするなら、有限で不可能なことは無限ではすべて可能!と解することもできる。数学の本質がその自由さにあるとすれば、なんでもありか。宗教じみてもくる...

「無限には二種類ある。否定的無限と真無限である。否定的無限は果てしのない進行をいい、これは有限を越えて進むが、どこまで進んでも有限に止まる。これに対して、真無限とは他者のうちにおいて自己自身に止まるところの普遍者、有限なものを契機として止揚している精神・絶対者である。」
... ヘーゲル

似たような思考実験は、幾何学にも見られる。辺の長さや角度といった概念を取っ払えば、トポロジーの世界へ。バナッハ - タルスキーの定理は、この幾何学の領域にある。
鍵となるのは、「選択公理」というやつ。証明に至る計算は正しそうだ。論理的にも間違ってなさそうだ。
しかしながら、選択公理の適用においては狐につままれた気分。こいつぁ、数学の技術か。姿や形なんてものは、要素の選択の仕方でどうにでもなるというのか。まさに人生そのもの。人生もまた矛盾に満ち満ちてやがる...

「分割は存在するが、その構成法はない。」

矛盾に遭遇すれば憂鬱にもなるが、無批判に信じてきたものに疑念を抱かせ、反省を促すこともある。人類は、矛盾を手懐けるために、様々な思考技術を編み出してきた。
例えば、存在が証明できなければ、一旦存在を否定し、そこに矛盾を見い出して否定の否定を真とする。背理法がそれだ。
あるいは、系に内包される矛盾を論理的に乗り越え、自ら統一した見解を無理やり見い出そうとする。弁証法がそれだ。
こうした思考法が新たな境地を開いてきたのも事実だが、存在をめぐる論理は相も変わらず隙だらけ。自己の存在すら確かなものではないし、精神や魂の存在すら物理的に説明できずにいる。自己存在を確実に説明できなければ、自己言及によって矛盾に陥るは必定。人間の認識すべてが...
無限を相手取るには、存在の定義をたった一つで限定するより、多くの奇妙なことを容認しなければならないようだ。シュレーディンガーの猫のように...

「存在証明に適用される背理法は、具体的構成法には拘らない論理であるが、現代数学はさらに究極的とも言える論理上の約束事を使うことがある。それは『選択公理』という、集合論に現れる大前提である。...(略)... 選択公理は、選ぶという人間の行為を超越した、まさに『御神託』とも言える約束事なのである。」

2025-11-16

"微積分読本" 田村二郎 著

秋風立つ今日この頃、いつもの古本屋で散歩していると、なにやら懐かしい風を感じる。数学を読み物にする本とは... 読本の定義も微妙だが、それは読み手次第ということであろうか。今、童心に返る思い...

「現実の世界を支配している自然法則に対して、われわれが一度十分に透徹した理解に到達するならば、これらの法則はただちに、最も透明な単純さと、最も完全な調和をもつ数学的関係として表現される; この事実は幾何学のなかだけではなく、それにも増して物理学のなかで、驚くほど繰り返し示されてきた。この単純さと調和に対する感覚は、今日、理論物理学において欠くことのできないものであり、これを養うことが数学教育の主な任務であると私には思われる。」
... ヘルマン・ワイル

本書は、六つの基本関数を典型的な物理現象に照らしながら物語ってくれる。六つの関数とは、一次関数、二次関数、cos 関数、sin 関数、指数関数、対数関数。物理現象とは、物体の一様な運動で、自由落下、放物体、等速円運動、振り子、放射性核の崩壊など。微積分が対象とするのは連続関数で、動的な関数の挙動や動く量に対する感覚を要請してくる。

物理現象の変化は時間の関数で記述され、それを瞬間的に捉えようとすれば時間で微分することになり、大局的に捉えようとすれば時間で積分することになる。
連続性は、人間の認識能力にとって根源的な性質であり、「瞬間」という見方と「変化率」という捉え方で、距離、速度、加速度を時間の関数で記述することができる。そう、ニュートン力学の第二法則だ。

空間認識を記述するには、ベクトル空間の概念がしっくりくる。ベクトル分解の概念は、座標に関数を投影する感覚で捉えることができ、多次元に適用できる。ベクトルの加法が登場すれば、可換群が匂い立つ。そう、あのアーベル群だ。本書にアーベルの名は見当たらにないが、ここでは匂わせてくれるだけで十分。

cos 関数と sin 関数の相関では、ともに二階微分すると符号が変わる特性に照らして、そのまま向心力と遠心力に適用できる。そう、ニュートン力学の第三法則だ。cos と sin はセットで相殺特性があり、解析学で鍵となる分解特性が匂い立つ。そう、フーリエ変換だ。本書にフーリエの名は見当たらないが、ここでは匂わせてくれるだけで十分。

指数関数と対数関数の相関では、考古学や地質学で用いられる年代決定法などに照らして、相対変化率や減衰率といったものを味わわせてくれる。

しかしながら、微分方程式には、いつまでもつきまとう問題がある。解の存在と一意性の問題である。微分方程式を相手にすれば、その多くは解くことができない。少なくとも、おいらには解けない。
となれば、対象の範囲を狭めて、解に近づこうとする思考法が有効となる。そう、ε-δ論法の思考法だ。あの忌々しい... 呪われた... おいらを数学の落ちこぼれにしやがった... 本書では、そんな感覚にも目を細める。それを振り子の運動で体現させてくれる。単振動の微分方程式の解で、初期条件を満たすものは一つしかないと...

2025-11-09

"越境する巨人ベルタランフィ - 一般システム論入門" Mark Davidson 著

生物学者として紹介されることの多いルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィ。彼をどのカテゴリで捉えるかは悩ましい。
ここでは... 二つの大戦と東西冷戦の時代を生き、ヒトラー主義、スターリン主義、マッカーシズム、盲目的愛国主義、狂信的排外主義に反対し、科学万能主義の高慢を糾弾した科学者で、生物学主義の遺伝万能論を否定した生物学者で、経験主義の絶対価値に異議を唱えた実験研究者で、物質主義を拒否した不可知論者で、個人主義を擁護した社会的計画の支持者で、システム科学が全体主義のために使われる可能性があることを警告したシステム科学の先駆者などと紹介される。
純粋な好奇心をもって学に励み、孤高であるがゆえに、あらゆる世界から距離を置いて物事を観る眼を持ち得たのであろう。健全な懐疑心を保ち、啓発された個人主義を貫くことは難しい。これぞ、遠近法人生か!
尚、鞠子英雄、酒井孝正、共訳版(海鳴社)を手に取る。

「ベルタランフィは、おそらく二十世紀において最も知られていない知的巨人であろう。一般システム論として知られる学際的な思想の父として、彼は生物学、医学、精神医学、心理学、社会学、歴史、教育、哲学に重要な足跡を残した。にもかかわらず、彼は人生の大半を日陰の中で過ごし、今日ほとんど脚注の中で生き長らえている...」

システム論的思考は、なにも真新しいものではない。アリストテレスが遺した言葉に「全体は部分の総和以上」というのがあり、ヒポクラテスもまた医療の基礎に、患者を取り巻く空気や水から、食生活、性衝動、政治的姿勢といった行動原理を重視したと伝えられ、古代の哲学思想に統合的に物事を捉える思考原理を辿ることができる。
しかしながら、人間というものを手っ取り早く理解しようとすれば、機械論に埋没するやり方が効率的ではある。少なくとも人体構造は、それで説明できる。
おまけに、社会科学、精神科学、心理科学、人文科学などとあらゆる学問分野に科学が結びつくと、研究した気にもなれる。人間が編み出した科学が万能だとすれば、人間そのものが万能だということか。そりゃ、神にでもなった気分にもなろう...

「人間というものは、自分以外のものには驚くほど能率的に対処できるのに、こと自分自身のことになると、その取組みは途端に不器用になってしまう。」

とはいえ、機械論的思考が科学進歩の原動力となってきたのも確か。それはベルタランフィも認めている。ここでは、情報理論、ゲーム理論、オートマトン理論などのシステム理論に触れ、特にサイバネティックスの数学モデルの役割に注目している。
ベルタランフィの著作「人間とロボット」では、サイバネティックスの基本概念はフィードバックと情報にあるとしていた。サイバネティクス・モデルは、情報との関係においては開放系であるが、環境との間では閉鎖系であると(前記事)。
機械に自己調整機構を実装するためには、フィードバックは欠かせない。だが、生命システムの維持では、それだけでは不十分。動的に相互連携する自動調整機構が必要となる。
人間精神ともなると、自己実現や自己啓発、自発性や創造性など、環境による刺激だけでは説明のつかない特性がある。胚の発育を一つとっただけでも、生命活動にはエントロピーの法則に反するところがあり、確率の低い秩序から確率の高い秩序へ向かうとは限らない。生命体は、負のエントロピーという矛盾を突きつける。かのシュレーディンガーもまた、「有機体が食料としているものは、負のエントロピー!」としたとか...

「システムの特性は、その構成要素からだけ由来するものではない。むしろ、構成要素の配列あるいは相互関連から生まれる特性の方が重要である。」

ベルタランフィは、生物システムの中でも人間を「シンボルを創造する独自の存在」と規定している。シンボルこそが人間の文化的遺産であり、人間の存在証明であり、人間精神を創造する原動力であると...
そもそも人間の認識アルゴリズムは、シンボリズム的である。ブランドや流行に流されるのも、象徴的な存在を求めてのこと。なにより人間が育んできた言語文化がシンボリズム的で、人生の指針に格言や名言を引き、コミュニケーションに合言葉を用い、理性や知性に模範的な理念を求める。国家や宗教といった枠組みも象徴的な存在。価値観、世界観、イデオロギーといった意識も、これらの反発として生じるニヒリズムや疎外といった情念も。生や死にも象徴的な意味が与えられ、人間像そのものがシンボリズム的と言えよう。
但しそれは、言語の枠組みを超え、文化の恩恵となるばかりか、自ら破滅をもたらすことも...

「あらゆる知識は、究極的実在の近似でしかない。」

本書は、ベルタランフィが描いた「新しい人間像」というものを紹介してくれる。多様化し、複雑化し、混沌としていく人間社会において、また、進化し続ける科学技術と共存していく中で、実存というものが曖昧になっていき、人間性を見失いがち。こうした状況下で、多種多様な視点とアプローチが試され、新しい人間像を模索する。一般システム理論は、そのアプローチと傾向において複雑で難解な多様性を持つ。これを、ベルタランフィは「豊穣なカオス」と形容したそうな...

また本書は、様々なキーワードを提示してくれる。有機体論、フィードバック、負のエントロピー、開放系の自己制御的定常状態、シンボリズム、システム、遠近法主義など...
最も注目したいキーワードは、「オーガニゼーション」である。生物の本質は、その組織化、すなわちオーガニゼーションにあるという。自発的組織化、自己調整、自己修復、さらに自己実現、自己啓発といった特性は、オーガニゼーションにかっかているというわけだ。
自己浄化できない組織に未来はない。それは、あらゆる組織に言えること。今、ベルタランフィが提示する人間像は、自己組織化によってもたらされるもの... と勝手に解している。これこそ生命の偉大さであろう...

「ベルタランフィの新しい人間像は、あらゆる面で人間精神の開放を宣言するものだ。生物としての人間と一人一人に与えられた固有の創造性を科学的に確認する試みである。新しい人間像はまた、人間自身が負うべき責任の確認でもある。それまでの人間性を否定するような、自分の将来を脅かすようなねじ曲げられた自我像を乗り越える責任である。」

2025-11-02

"人間とロボット - 現代世界での心理学" Ludwig von Bertalanffy 著

「一般システム理論」を提唱したルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィ。彼の著作「生命」では、有機体論の観点から生命体は開放系にあり、しかも定常状態システムであることが告げられた(前記事)。ここでは、その枠組みで、人間という生命体に焦点を当てる。
今日、精巧な機械システムが乱立する中で、人間は存在する...
技術革新の勢いが増し、AI の出現とともに機械が人間化し、人間の定義が曖昧になっていく。伝統的な人間像に思いを馳せては精神を破綻させ、新たな人間像の模索に迫られる。それで人間が非人間化していくのでは、世話ない。機械技術の発達は、精神技術の発達で補えるだろうか...
尚、長野敬訳版(みすず科学ライブラリー)を手に取る。

本書は、「シンボル」「システム」という二つの視点を提示する...
なにより人間の認識アルゴリズムが、シンボリズム的だという。確かに、人間が育んできた文化がシンボリズム的であり、人生の指針には格言や名言を引き、コミュニケーションには合言葉のような共通言語を編み、理性や知性では模範的な理念を掲げる。教育要項や社会的行動はパターン化し、名声や格付けが社会で幅を利かせ、大衆はブランドに群がり、政治家や経営者には模範的な行動を期待する。これらすべてシンボリズム的といえば、そうかもしれない。

人間が何かを認識する時、その対象を模倣したり、類似性を見い出したりして、差異を感じ取ろうとする。価値観にしても、世界観にしても、ある象徴的な存在との比較のうちに形作られ、イデオロギーも、ニヒリズムも、疎外も、社会の象徴となる何かへの反発心から生じる。そして、生や死にも象徴的な意味が与えられ、人間像そのものがシンボリズムに席巻されている、と言えそうな...

では、シンボリズム的な認識アルゴリズムを形成する生命システムとは...
科学では、人間像を機械論的に捉える傾向がある。閉鎖系ではエントロピー増大の法則が成り立ち、確率の高い状態へ向かう。
しかしながら、生命システムでは、無数の不可逆過程が起きているにもかかわらず、確率の低い状態が保たれる。高い自由エネルギーと負のエントロピーが相殺するかのように...
生命システムに組み込まれる能動性や自発性、あるいは自己調整や自己実現といった特性は、どこから生じるのであろう。開放系のポテンシャルエネルギーは計り知れず、これぞ生命の偉大さと言うべきか...

「構成をたえず交換しながら維持されていくのが、生きたシステムの一基本特性である。このことは、細胞内での化学成分の交換、多細胞生物内での細胞の交換、個体群内での個体の交換等々、すべてのレベルにはっきり現われている。生物体の構造はそれ自体、秩序だてられた過程の現われであって、それらはこの過程のなかで、またそれによってのみ維持される。それゆえ生物体の諸過程の第一次の秩序は、既成の構造のうちでなしに過程そのもののうちにさがし求めなくてはならない。」

ここで注目したいのは、人間と機械ロボット、そして、サイバネティクスという三方面からもたらされる秩序を論じている点である。機械ロボットは突き詰めれば、産業、軍事、政治体制が定めた筋書き通りに反応する自動人形。人間もまたそうした存在やもしれん。企業や組織に従い、社会制度に媚びる自動人形的な...

一方、サイバネティックスの基本概念は、フィードバックと情報にあるという。外界の刺激を入力とし、受容器を通した反応を出力する仕掛けに、フィードバック機能を付加して自己調整する機構であると...
こうしたシステムでは、情報を定義する方程式は負のエントロピーを持っていて、サイバネティックス・モデルは、生物学的な調節機能にも広い範囲で適用できるという。例えば、体温、血中の糖、イオン、ホルモンといった調節機能に...

物理学的な過程の多くは、直接的な因果性を持ち込む。例えば、原因 A が結果 B を生じさせる... といった具合に。
対して、サイバネティクス・モデルでは循環的因果性を持ち込み、システムの自己調節、目標指向性、恒常性維持といったものにも適応させるという。
しかしながら、生命となると動的な相互作用が鍵になる。サイバネティクス・モデルは、情報との関係においては開放系であるが、環境との間では閉鎖系にあるという。生体システムでは、情報に対して学習するだけでは不十分ということか。システムが外界との関係において生息するためには、循環的調整よりも動的調整の方が有利なのかもしれない...

動的調整を自発的調整と捉えるなら、人間には自我の暴走を抑制する理性という機能がある。人類にはホモ・サピエンスという呼び名もあり、賢い動物と形容される。
しかしそれは、本当だろうか。技術革新は、効率的な大量破壊兵器や非人道的な化学兵器を編み出した。最後の審判は、いつ下されるか。この手の予言を、あちこちで散見する。
古くプラトンは、哲学者が王となるか、あるいは王が哲学者になりさえすれば、国家は正しく機能すると唱えた。だが、人類の血生ぐさい歩みを辿れば、そのような理想像の無力さ痛感するであろう。
ベーコンは、知識は力であると言った。だが、知識に支えられる科学技術の歩みを辿れば、それだけでは不十分だということを痛感するであろう。
人間は、自分自身を惨めにすることにかけては、名人と見える。人間ってやつは、本当に理性的な動物なのか。一度疑ってみる価値はありそうだ...