2026-09-13

"ロートレアモン全集" Isidore Lucien Ducasse 著

石井洋二郎氏のロートレアモン論(前記事)に触発され、彼の翻訳で「全集」を手に取る。
本書には、「マルドロールの歌(全六歌)」と「ポエジー(I, II)」が掲載される。前者が悪魔風なら、後者は誠実風。どちらも悪ふざけに見えるのは、読み手が天の邪鬼だからか...

悪の言葉にも有用なところがある。それを心得ていれば、戒めにもなろう。すべての欺瞞は善の言葉に始まり、悪用されればより厄介となる。イジドール・デュカスは、言葉の逆転現象を弄ぼうってか。
詩ともなれば、音調が整っているだけに真理めいたものを歌い上げる。そこに理屈はいらない。言葉は箴言となり、心の中にいつまでも響く。理屈を必要とする箴言は出来が悪い...

「箴言は証明されるのに真理を必要としない。推論は推論を要求する。箴言はもろもろの推論の全体を包括する法である。ある推論は箴言に近づくにつれて完璧になっていく。ひとたび箴言になると、その完璧さゆえに、それが変貌してきたことを示す数々の証拠は却下される。」

「マルドロールの歌」は、なるほど刊行を拒否されただけのことはある。
汚物にまみれ、精液をぶちまけるといった光景に、男根の奇形、膣のただれ、皮膚の腐食、梅毒みどろ... といった語のオンパレード。これで、狂信、熱狂、悪夢を歌い上げちまうグロテスクぶり。
「ロートレアモン伯爵」を名乗ったのも、変身願望の現れか。デュカスは伯爵の称号も持ち合わせていない。貴族階級への嫌味か...

「天に願わくは、どうか読者が蛮勇を奮い、ひとときは自分が読むものと同じく凶暴になって、方向を見失わず、これらの暗く毒に満ちたページの荒涼たる沼地を貫いてみずからの険しい未開の道を見出されんことを...」

一転して「ポエジー」は、希望、期待、平穏、幸福、義務を歌い上げる。
本名を名乗るのも、実は自分が誠実な人間とでも言いたいのか。「マルドロールの歌」の後では、こそばゆい!
人間を崇高で完全な存在として持ち上げ、宇宙を不完全な存在と蔑めば、詭弁のオンパレード。人間は悪を許容しない... 人間の魂に堕落はありえない... 人間の理性こそ宇宙で最も信頼に値する... などと、やはりこそばゆい!

「作者と読者のあいだには暗黙とは言えない約束事があって、それによって前者は病人と称し、後者を看病人として受け入れている。詩人のほうこそが人類を慰めるのだ!両者の役割は勝手に入れ替わっている。」

さらに、「ポエジーII」では、偉人たちの言葉を引用しながら、誠実風に書き換える。パスカル、ダンテ、ヴォーヴナルグ、シェイクスピア、ラ・ロシュフコーなど、彼らの言葉は皮肉ぶっているからこそ人間の本性を暴き、箴言や名言となる。
だが、この皮肉ぶりを誠実風に書き換えちまうと、すべてが色褪せ、言葉をのっぺらぼうにしちまう。いや、誠実ではなく誠実風であることが、逆に皮肉っぽくも、嫌味っぽくもなる。

例えば、パスカルが「人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。だが、それは考える葦である。」としたのに対し、「人間は一本の樫である。自然にはこれ以上頑丈なものは見当たらない。」と人間を逞しい存在とし、「宇宙は何も知らない。それはせいぜい考える葦にすぎない。」と宇宙の存在を蔑む。パスカルのパロディ版か...

ラ・ロシュフコーが「正義への愛は、大半の人間にあっては不正に耐える恐れにすぎない。」としたのに対しては、「正義への愛は、大半の人間にあっては不正に耐える勇気」とし、人間の勇気、理性、正義といったものを持ち上げれば、やはりこそばゆい!

「詩についての判断は詩よりも価値が高い。それは詩の哲学である。このように把握された哲学は、詩を包含している。詩は哲学なしで済ませることはできまい。哲学は詩なしで済ませることができる。」

「マルドロールの歌」によれば、人間は悪魔の化身。「ポエジー」によれば、人間はいずれ神に昇華する存在。悪魔も神も似たりよったり、いずれも人間の創造物に過ぎない。誰しも、地獄より天国がお好き。その影で創造主の代弁者どもが、免罪符をちらつかせて盲信者を募り、ふんずりかえってやがる。
人間の尊厳なんぞクソくらえ!人間ってやつは、喰って排泄するだけの熱機関に過ぎない。希望も、絶望も、クソ喰らえ!

「絶望は、偏見をもっておのれの幻影を喰らいながら、物書きが神と社会の掟を大量に廃棄し、理論的にも実践的にも邪悪になるように、淡々と導いていく。ひとことでいえば、人間の尻を推論において最も優先させるのだ。おっと、こんな言葉遣いをお許しあれ!繰り返しておくが、人は邪悪になる。そして眼は死刑囚の色合いを帯びるのだ。」

2026-09-06

"ロートレアモン 越境と創造" 石井洋二郎 著

ロートレアモンとは、どんな人物か。フランスの詩人でアルチュール・ランボーと並び称されるそうな。どんな人間にも、その生き様には生きた時代と生きた土地が刻印される。芸術家ならば尚更。但し、その名声が死後に訪れることはよくあること。今、「ロートレアモン全集」へ向かう衝動は抑えられそうにない。著者石井洋二郎氏の翻訳で...

本名イジドール・デュカス。彼は、フランス人の移民を両親に持ち、南米の都市モンテビデオに生まれたという。13歳で大西洋を渡り、両親の故郷フランス南西部のタルブとボーで学び、南米への一時帰国を経て、21歳でパリへ上京。大都会の地に立って「マルドロールの歌」を匿名で発表したとか。
そして、その完全版をロートレアモン伯爵の名で出版しようとするも、24歳の若さで謎の死を遂げる。彼の人生は、国家の越境に留まらず、言語的にも文化的にも越境に彩られたものだったという。
越境に創造を掻き立てるものがあるのか。思えば、人生とは、何かを乗り越えることの連続。本書に「越境 = 創造」という図式を見て取る...

デュカスの代表作に、「マルドロールの歌」と「ポエジー」の二つが挙げられるらしい。前者はロートレアモン伯爵の名で、後者は実名で発表されたという。
「マルドロールの歌」には、標準的なフランス語から逸脱した奇妙な言い回しや変則的な破格構文が散見されるとか。フランス語とスペイン語の混在とするのが合理的な見方だが、バイリンガルだからこそ、どちらも完璧な言語になりえない。そもそも完璧な言語なんてありえるのか。あまり完璧な言い回しを求めると、芸術性そのものが損なわれる。
作風では、皮肉を超越した悪魔じみたものがあるらしい。わざとらしい善行、幼稚な思い上がり、滑稽な風潮を攻撃し、憂鬱、悲嘆、苦悩、絶望、沈痛なうめきを歌い上げる。ダンテが天国への道を、地獄や煉獄から導いたように。斯くして、残虐な暴力が炸裂する悪夢さながらの光景とは。デュカスは、不可解主義哲学者と称号されとか。そして、こう書簡したという...

「私はミツキェヴィチ、バイロン、ミルトン、サウジー、A・ド・ミュッセ、ボードレール、等々がしたのと同じく、悪を歌いました。もちろん、いささか調子を誇張しましたが、それというのも、もっぱら読者を打ちのめしてその治療薬として善を欲するよう仕向けるために絶望を歌いあげる、あの崇高な文学の方向性に沿って、新たなものを生み出そうとしてのことでした...」

人間ってやつは、自分を誤魔化しながら、自己完結的に生きているところがある。真理だけでは心もとない。詭弁や欺瞞にも頼らなければ、現実を生きてゆくのは難しい。経験を積み、歳を重ねるほど...

「私は置き換える、憂鬱を勇気に、疑惑を確信に、絶望を希望に、悪意を善に、不平を義務に、懐疑を信仰に、もろもろの詭弁を平静な冷徹さに、そして傲慢さを謙虚さに...」

一連の二項対立は、官能ロマン主義の遺産か。悪を善にすり替えられるなら、なんでも正当化できる。いや、いつも悪は善を装い、いつも両者は結びついてきたではないか。もはや真理は存在しないのか。いや、永遠に到達できないからこそ崇高となる。二項対立間での越境は危険だ!対立すべく意識が同化していくと、自己存在すら曖昧になっていき、自己同一性が危機にさらされる。まさに、現代病そのものだ!

ところで、「ロートレアモン伯爵」という名は、どこからくるのだろう...
一般的な説によると、大衆小説家ウジェーヌ・シューの小説『ラトレオモン』に由来するそうな。ラトレオモンは架空の人物ではなく、17世紀に実在した騎士だとか。黒馬にまたがる大男で、野性的なイメージ。
ただ、伯爵の称号は持っていない。ラトレオモン伯爵を名乗るつもりが、表紙の誤植でロートレアモン伯爵になってしまったという説もあるとか。デュカスも伯爵の称号を持っていない。貴族という身分への越境か。尤も、人間には変身願望なるものがある。自分の生きる世界とは違う人間になりすまそうと、別人への越境を目論んだのか。そうでないと詩人になるのも難しいのか...

2026-08-30

" 「シュレーディンガーの猫」のパラドックスが解けた!" 古澤明 著

これも、ブルーバックスの一冊。
前々記事「量子テレポーテーション」、前記事「量子もつれとは何か」、そして、本書の三部作で一つの物語を成す。それは、存在の本質をめぐる物語である...

「シュレーディンガーの猫」とは、波動方程式の解釈をめぐって提起されたパラドックス。
まず、密閉した箱の中に、一匹の猫と放射性元素を入れる。放射性元素は、崩壊すると放射線が放出されて有毒ガスの入った瓶がわれ、そのために猫が死ぬという仕掛け。崩壊しなければ、猫は生きている。その確率、50%!
おまけに、放射性元素がいつ崩壊するかは予測不能の上に、観測不可能ときた。

科学には観測の哲学がある。まずは観ること!この客観的な姿勢こそが科学に意義を与える。
しかしながら、量子力学には、観測哲学を覆す呪われた法則がある。不確定性原理は告げる。一つの量子の位置と運動量を同時に決定することは不可能である... と。量子の世界では、共役となる物理量を同時に正確に観測させてはくれないのである。
となれば、統計的に、確率的に捉えるしかないのか。そこで、重ね合わせという裏技である。

これがパラドックスとされる所以は、量子力学に支配される放射性元素の状態と、ニュートン力学で説明できる猫の状態を関連づけていることにある。量子力学では、量子の状態を重ね合わせで捉える。放射性元素を重ね合わせで捉えるならば、猫の生死も同じように重ね合わせで考えなければ...

|猫の状態⟩
= |放射性元素が崩壊しておらず猫が生きている⟩ + |放射性元素が崩壊し猫が死んでいる⟩
= |放射性元素が崩壊していない⟩|猫が生きている⟩ + |放射性元素が崩壊している⟩|猫が死んでいる⟩

また、量子には粒子と波動の二重性がある。粒子として捉えることができなければ、波動として捉える。ド・ブロイ波とも呼ばれる物質波を記述したのが、シュレーディンガー方程式である。
通常の波は重なり合うと位相で相殺され、例えば、sin 波と cos 波が重なると波は消滅する。
だが、量子の世界は違うらしい。それぞれの位相を保ちながら重なり合うというのだから。しかも、一つの量子で観測不可能であったものが、二つであれば、相対的にまたがった物理量とすることができるという。一つの量子についての位置と運動量が、二つの量子についての相対位置と運動量の和として。
そして、猫の生死は、プラス位相とマイナス位相の二つの状態と見ることができるってさ...

ここでは、量子の状態を電場のイメージで描写し、「スクイーズド状態」で物語ってくれる。「スクイーズ」とは、「絞った」といった意味で、相対的にペアとなる位相と変位の関係は、雑巾を絞ったような波形になるという。
量子力学では、位相のずれに関わるものとして、干渉の度合いを表す「コヒーレンス」という用語を見かけるが、位相が揃うと振幅は増幅され、位相のずれが大きいほど個々で位相を保ったまま共存できるというのか。猫の生死は、まさに正反対の状態で位相が 180 度ずれた状態というのか。
しかし、これは波動として見るからであって、粒子として見ればありえない。今、シュレーディンガーの猫が、アリス物語のチェシャ猫に見えてくる。いや、人間が認識できるすべての存在が、そうしたものやもしれん...

ところで、量子力学には、二つの大きな流れがある。波動力学と行列力学である。本書でも、シュレーディンガー描像とハイゼンベルク描像の違いに言及してくれる。シュレーディンガー描像は状態が主役で、ハイゼンベルク描像は物理量が主役である... と。
普通の波では「振幅の 2 乗 = エネルギー」となるが、波動関数では「波動関数の 2 乗 = 量子の存在確率」になるという。
とはいえ、確率分布にせよ、物理量にせよ、ばらつきがあることに変わりはない。量子の重ね合わせは、振幅のような物理量の重ね合わせや波の干渉とは本質的に違う。
結局、量子を集合体として捉え、平均値や期待値といった統計的な情報、あるいは確率論が頼りか。
かの物理学者は、神はサイコロを振らない!と言ったが、どうやら神はギャンブル好きらしい...

2026-08-23

"量子もつれとは何か" 古澤明 著

前記事「量子テレポーテーション」では、量子力学を理解するためのキーワードに「量子の重ね合わせ」,「波束の収縮」,「量子エンタングルメント(もつれ)」の三つを挙げてくれた。本書は、その補足版といった位置づけで、「量子もつれ」に絞って物語ってくれる。

量子の世界には、呪われた法則がある。不確定性原理ってヤツが...
一つの量子の位置と運動量を同時に決定することは不可能!つまり、共役となる物理量を同時に正確に測定することはできないというのである。物理学は、現象をモデル化し、理論式で記述し、それを実験で検証する学問。実験の場で正確に測定できないとすれば、もはやお手上げか...
いや、量子ってヤツは、一つを相手にすると厄介な存在だが、複数まとめて相手にすると、呪われた法則をかいくぐることができるらしい。「量子もつれ」という裏技で...

ヒントとなるのは、「EPR パラドックス」という思考実験。それは、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンが、量子力学に突きつけた問題である。この思考実験には、二つの量子が登場する。二つの量子が絡むと、片方の量子の位置ともう片方の量子の運動量、もっと正確には、二つの量子の相対位置と運動量の和が決定できる場合があるというのだ。このような状態にある量子、あるいは量子系を「EPR ペア」と呼ぶそうな。

本書では、EPR ペアの生成実験が紹介され、光子が主役を演じる。量子力学の中で光を研究する立場に、量子光学という研究分野があり、量子の特性は粒子性と波動性を併せ持つとされる。ただ、電子や原子核といったものには質量があるが、光子には質量がない。実体がないのに、粒子性とはこれいかに!?
そこで助言をいただく。量子の世界で考察する時は波動性に着目し、粒子性はおまけ!ぐらいでいい... と。とはいえ、数式で表すと、粒子っぽい!だから、粒子ではなく、粒子性というわけだ。
ちなみに、二つの光ビーム(A, B)がエンタングルした状態の一例は、こんな感じ...

  1/(2√2) [(|0⟩A + |1⟩A)(|0⟩B + |1⟩B
   + (|0⟩A - |1⟩A)(|0⟩B - |1⟩B)]
   
波の現象は、振幅と周波数という二つの物理量で決定できる。そこで、AM 変調や FM 変調といった電気回路と対比させながら、光子のゆらきをイメージさせてくれる。違いは、電気回路で扱う周波数が百ギガヘルツ程度であるのに対し、光の周波数が数百テラヘルツと途轍もなく高いこと。これこそが大きな障壁なのだけど...

おまけに、光波は多くの光子が束になった状態で、個々の位相が特定できない。量子力学では、位相のずれに関わるものとして、干渉の度合いを表す「コヒーレンス」という用語を見かけるが、ここでは、位相をいかに揃えられるかという問題を突きつける。
ちなみに、位相が揃った状態を「位相整合」と呼ぶそうな。そして、干渉のしやすさから「スクイーズド光」というものを持ち出す。位相が揃うと振幅は増幅され、位相のずれが大きいほど個々で位相を保ったまま共存できるという特性があるらしい。通常の波は、位相がずれれば相殺されるが...
ちなみに、スクイーズドとは、ゆらぎを圧搾する、といった意味だとか。

また、ハーフビームスプリッターに光子を反射させる実験も、にわかに信じがたい!スプリッター面に対して、二つの光子をそれぞれ両面から同時に入射すると、それぞれの面で反射しそうなものだが、片側に両方の光子が出力され、もう片側には出力されないという。そればかりか、それぞれの面で生じる現象が重ね合わせの状態になるというのだ。二つの光子が互いに干渉しあって、片面に引き寄せられる現象は、波動性の特徴を表している。両面で生じる現象が重ね合わせの状態!?
これを受け入れられるなら、シュレーディンガーの猫が生と死で共存するようなことも、イメージできなくはない。いや、量子光学のトリックか...

「波束の収縮」という現象も気味が悪い!ばらばらに存在する重ね合わせの状態に、第三者が関与すると、ある状態に収縮しちまうというのだから...
しかも、遠隔操作のような作用も働くという。空間的に離れた二つの量子に対して、片方への観測の影響が、もう片方にも及ぶ、そのような量子ペアが存在するというのだ。かの物理学者が、不気味な遠隔作用とつぶやいたのも頷ける。

さらに、二つの量子エンタングルメントを拡張して、多量子間エンタングルメントや量子エラーコレクションにも言及される。
多量子間エンタングルメントでは、与えられた量子系の数が決められ、その構成図はそのまま量子コンピュータの実装イメージを与えてくれる。これにエラーコレクションが加われば、雑音源を加味したシャノンの通信モデルと重なる。どんな通信路にもノイズはつきものだが、量子の世界でのノイズとは、不確定性のことか...

「多量子間エンタングルメントこそが、量子コンピュータの本質であり、量子コンピュータが現在のコンピュータより高速になる拠り所である。」

そして、帰結は...
すべての元凶は、まったく不条理なもつれに発するのか。それは非局所的な相関関係で、一度でも関係を持っちまうと、離れていても付き纏われるというのか。
対象となる量子状態に、入力の量子状態をぶつけることで、出力の量子状態を炙り出す。これで、入力との関係が成立しちまう。関係を持ったからといって、相手が思い通りになるかは知らんが...
どうりで無数の量子で構成される人間が、いつまでも痴情のもつれに付き纏われるわけだ。量子の腐れ縁に、乾杯!

2026-08-16

"量子テレポーテーション" 古澤明 著

久しぶりにブルーバックスを一冊...
おいらが美少年だった時代、ブルーバックス教の信者であった。だが、脂ぎっちまった今、純真な好奇心の傾け方を思い出せずにいる。
このシリーズの魅力は、なんといっても分かった気にさせてくれること。分かった気になるということが、いかに幸せであるか。同時に、いかに危険であるか。
ある物理学者は言い放った。「量子力学がわかったと思ったら、それは量子力学を理解していない証拠である」と...

テレポーテーションといえば、SF で登場する瞬間移動のイメージ。時間を超える、光速を超えるといった...
しかしながら、量子テレポーテーションでは、そんな突飛な現象は登場しない。量子を相手取る時点で突飛ではあるのだけど。それは、電気が発見された時代と似た感覚であろうか。
ちなみに、ヴィクトリア女王時代、マイケル・ファラデーは首相から電気なるものに現実的な意義があるのかと尋ねられると、これに税金をかけることになるでしょう... と答えたと伝えられる。

量子の世界は、ニュートン力学では説明のつかない世界。その存在については、シュレーディンガーの猫や EPR(Einstein–Podolsky–Rosen)パラドックスといった思考実験で論じられる。だが、物理学はあくまでも実証学問!実証できなければ、単なる仮説に終わる。かのニュートン卿も、仮説嫌いで知られている...

不確定性原理は告げる。一つの量子の位置と運動量を同時に正確に測定することは不可能である... と。
測定するということは、対象とする物理現象とは別の物理現象、すなわち、観測過程が加わることになる。量子状態は、観測者という第三者が関与すると簡単に壊れてしまう。この法則こそ、量子力学を決定付けるエッセンスとなる。
状態が正確に把握できないものを、技術的にどう利用しようというのか。ましてや量子コンピュータなんぞ、夢のまた夢か!
なぁ~に、心配はいらない。完全に存在を定義できなくても、なんとなく存在するというだけで十分利用価値はある。量子の存在を定義づけるものは、スピンの状態などの量子情報や量子状態。ここで、存在感を示す物理量にエネルギーってやつがある。質量が定義できる世界では、あの有名な公式が幅を利かせる。

  E= mc2

では、質量が定義できない世界ではどうであろう。それは、プランク定数 h と光の周波数 ν で記述される。

  E = hν

量子状態を量子エネルギーの塊として捉えれば、それが不確定性原理を克服するエッセンスとなるだろうか。
今日、世界を席巻するデジタルシステムにしても、完全に制御できているわけではない。電流制御によって成り立っているものの、電子の個々を制御できているわけでもなく、統計的な制御に頼っている。それを支えているのが、エラーコレクション、すなわち誤り訂正機構である。どんな通信路にもノイズはつきもので、シャノンの通信モデルにも雑音源が考慮されている。
量子状態においても、量子の個々を相手取るのではなく、集合体として捉えれば、確率分布として扱うことはできそうか...

人間社会の統治でも、個々の人間を把握する必要はない。個人が持つ価値観、倫理観、世界観... などというものはあまりに多様性に富み、すべてを考慮することは不可能である。それでも、大衆の意志なるものを傾向として把握することは可能である。それは多数決的で、妥協点の模索でもある。
その意味で、量子力学は社会学的とも、統計学的とも言えそうか。少なくとも、無数の量子の塊で構成される人間よりも、個々の素朴な量子の方が扱いやすいし、集合論的な見方もできよう。集合論で扱えれば、数学が強力な武器となる。
そして、誤り訂正能力に持ち込めるほどの状態確率が担保できれば、量子コンピュータも夢ではなくなる...

ところで、人間の存在を定義づけるものとはなんであろう。肉体を感じ取る五感の存在か、精神の存在か、感情の存在か... などと並び立てたところで、そんなものが正確に把握できるわけではあるまい。そもそも、人間は本当の自分自身を知らずにいる。いや、知らぬが仏か!エネルギーを通して存在を感じているとすれば、霊感と何が違うのだろう...

本書は、量子テレポーテーションの理解のためのキーワードに、「量子の重ね合わせ」,「波束の収縮」,「量子エンタングルメント(もつれ)」の三つを挙げる。
多数の重ね合わせた状態を一つの運動量と見なすのはいいが、それでも個体群で捉えることが困難であることに変わりはない。そこで、量子には粒子性と波動性がある。粒子群で捉えられなくても、波束で捉えることは可能か。位相群にしてもエネルギー分布として捉えるならば、振幅で捉えることはできそうか。
数学的には、確率振幅というやつが有効だという。それを自乗すると存在確率になるというのだから。ここでは、光子の事例でその存在を物語ってくれる。光だって電磁波の一種に過ぎない。人間の目に見えるというだけで、とびっきりな存在とされるだけのこと...

「正しい量子力学の理解のために、あえて最も難しい例を挙げる。それは、時間的に長い波束、つまり、ほとんど波として振る舞う場合でも、光子を考えることができるという、我々の常識からは想像できない例である(これが真の量子力学である)。これが理解できれば(慣れてしまえば)、怖いものなし!光子というのはエネルギーが定まった状態であり、位相の情報を失った波の状態と考えるのが正しい。ここで、エネルギーとは波の振幅の自乗に相当する。」

2026-08-09

"人生について - 日記抄" Henri Frédéric Amiel 著

前記事にて、アンリ・フレデリック・アミエルの大作「日記」(全四巻)を味わった。その余韻に浸り、抄本版を手に取る。河野與一訳(岩波文庫)から土居寛之訳(白水社)へ、翻訳者が違うのも、なかなか乙。
哲学者とは、世界中が酔いしれる中で、ただ一人さめている人をいうらしい...

アミエルは自我を取り戻すために、苦悩、義務、意志が必要だと自分自身に言い聞かすように綴る。自我と非自我、汎神論と有神論、スピノザとライプニッツの狭間で動揺しつつ、精神のゆらぎを受け入れようともがく。人生とは、善と悪の糸が複雑に絡まった織り物。万能の神に創造できぬものはない。だから、悪魔をもつくるのか。ここに、諦めの哲学を見る。なすがままに... ありのままに... 死に方は選べない。アーメン!

「生きてゆくためには、習慣は格言以上の働きをするものである。習慣は本能となり肉となった生きた格言であるからだ。自分の格言を改めるだけでは何にもならない。それは本の表題を変えるようなものだ。新しい習慣をつけるということがすべてである。なぜならばそれではじめてほんとうの生活へと到達することになるからだ。人生は習慣の織り物にほかならない。」

生きる上で、不動の一点を見つけることは至難の業。アミエルは、自由こそが最も固執する情念としながら、自由そのものに確信が持てずにいる。人生とは、諦めてゆくことへの修行。希望、所有、能力の限界を知り、多くの自由が削られていくことに耐える場。そうした受容の場で、自ら意志が欠けていることを嘆き、心の落ち着きを絶望に求め、孤独に自己の居場所を定める。そして、義務が自我を肥大化させ、使命が自我を膨張させていく自分自身に、運命を甘受せよ!と説く。厭世家の遠吠えのごとく...

彼は、日記に孤独者の打ち明け相手を求め、慰め相手を求め、自我の肖像が変化していくのを感じ取る。変身願望がそうさせるのか。生きる覚悟は、死ぬ覚悟と同じこと。いや、死ぬことよりも、老いてゆくことの方が難しい。人に読まれるために書くのではない。自我の救済者は、なにも人間である必要はない。過去を回想して未来への道しるべとし、自らを極楽浄土へ導くために。そして、日記は人生の清算書となる...

「人間がほんとうに人間であればあるほど、人間は孤立する。物を見通す力と善意とを増せば増すほど、同類が少なくなってくる。もし人間が完全なものになれば、それはたった一つの見本になることだろう。そういうわけで、優秀な性質は人間を孤立させ、その環境や一般人や大衆から引き離す。」

健全な懐疑心を保ち、啓発した利己心を実践することは難しい。それを、哲学とやらが手助けしてくれる。不機嫌を克服するためには、まず謙虚な気持ちになることだという。自分の弱点を知っていて、それを指摘されたからといって、なにゆえ怒る必要あるか... と。次に反省すること。結局、人はあるがままの存在でしかない... と。

「哲学とは、精神の完全な自由である。したがって、宗教的、政治的ないしは社会的なあらゆる偏見から独立することである。哲学はその出発点においては、キリスト教的でも異教徒的でもなく、君主的でも民主的でもなく、社会主義的でも個人主義的でもない。哲学は批判的であり公平である。哲学は一つのことしか愛していない。それは真理である。」

批評は、一つの芸術だという。それは、天賦、機知、鑑識力、直感である...と。それは教えられるものでも、論証されるものでもない... と。それは、偽りや改竄を見抜く能力によって支えられる... と。人が生きていく上では、自己批評もまた教訓となる。その率直な意志を自然の風景と同化することができれば、おいらでも詩人になれるだろうか...

「芸術は、自然のはっきりしない思想を浮き彫りにすることにほかならない。それは多くの線の単純化であり、目に見えない群れを外に引き出してくることである。霊感の火は感応インキで書かれたデッサンを浮かび上がらせる。神秘なものが明瞭になり、雑然としたものが明らかになり、複雑なものが簡単になり、偶然のものが必然になる。要するに、芸術は自然の意図を翻訳し、その意志(理想)を言いあらわすことによって、自然の正体を明らかにする。」

2026-08-02

"アミエルの日記(全四冊)" Henri Frédéric Amiel 著

アンリ・フレデリック・アミエルとえいば、やはり「日記」であろうか。しかし、これは日記というより告白の書、いや、彷徨の書と言うべきか。かの小説家の如く、ぼんやりとした不安を漏らしつつも、空虚な盲目の鬼ごっこ... 意地悪な運命の隠れんぼ... でもやっているかのようで、箴言めいた文句を鏤める。
尚、河野與一訳版(岩波文庫)を手に取る。

「結論。日記は講義の準備でもなく構想の稽古でもない。それは話すことも書くことも筋道と方法を立てて考えることも教えない。それは心理的な寛ろぎ、休養、食道楽、無駄な活動、仕事の見せ掛けである。」

丸一日をバイロンに捧げては、ドン・ファンを読み、カインを読み、ゲーテに捧げてはファウストに耽り、なお陰湿な世界から逃れられず、ヘーゲルやショーペンハウアーを試みるも、一向に視界は開けず、挙げ句にダンテの煉獄に縋り、バルザックに、ディケンズに、ヴォルテールに身を委ねるも... 荒涼たる悲観論の中に自我を埋没させていく。キリストのドグマでさえ自己のエゴイズムに染まっていくとすれば、人間とは絶滅に値する存在か。エホバの従僕の叫びが聞こえてきそうな、いや、メフィストの囁きが...

アミエルは、いまだ真の献身、真の信仰ができずにいると自戒する。あらゆる成功に嫉妬し、社会に反抗心を抱き、人から受けた好意や人の名誉を認めようとしない自分がいる、と...
鎮めることのできない虚栄心、想像力を欠く利己心、これらを日記の題材にすることで、自己を救おうというのか。日記を芸術作品に仕立て上げ、自我を芸術の中に埋没させることで、自己を救おうというのか。
自我を非我の如く冷静に観察せよ!と自らを説き、幸福とは満足すること、真の謙遜は満足すること、心の平静は満足により... とするも、自分の記憶力と知力の限界を測り、自己の無力さを悟る。
それで、自己否定に満足を見るのも、自己肥大より、自己欺瞞よりましか。突き詰めれば、悲観論は楽観論に通ずるらしい...

精神を事物に屈服させ、人間から人格を奪うこと、これが現代社会の傾向だという。それは、デカルトの二元論に発する、と...
自由と平等、どちらが実現しやすいであろう。平等は、権威主義でも、共産主義でも、ある程度強いることができるし、宗教とて服従の下で成り立つ。対して、自由は、現実的に自由な個人のいない個人主義ということになるらしい。
それでも自由に帰依し、自発的な服従はできる。真の自由を得るには、何に服従すればいいのか。健全な懐疑心をともない... 啓発された利己心を少しばかりともない... やはり自由の実践は難しい。
せめてもの慰めに、格言めいた言葉をいくつか拾ってみる。その日の気分によって拾う言葉も違ってくるのだけど...

「虚世の途に於て習慣は格言にまさる。習慣は、生きた格言が本能となり肉となったものである。格言を改めるということは何にもならない。本の標題を変えただけのことである。新な習慣を採るということが肝腎である。それは生活の実体に立ち入ることになる。生活は習慣の織物に他ならない。」

「狂気とは何であるか。錯覚の自乗である。常識は、事物と人間と常識自身の間に規則的な関係、生き方を設定して、安定した真理、永遠な事実に触れているという錯覚を持つ。」

「人間が本当に人間であればある程、孤立して来る。明瞭と善意を増せば増す程、同類が少なくなる。もしも完全なものになるとすれば、唯一しかない実例になるだろう。その意味で、優秀な性質は人間の周りに空虚を作り、その人間をその環境、卑俗、多数から分離する。幸いにして慈愛はその人間に深淵を再び跨がせる。」

「教育は目的を変えないにしても方法を変える。努力による満足の次に、忍耐による満足が来る。いずれにしても満足していろ。平静にしていろ。それが一番強い力だ。」

「革命とは何か。自分の旗に記した或る主義の名に於て権力の把握に成功した、暴徒のことである。」

「自殺の本能は私にあっては保存の本能と同一なものになっている。」

「どっちが偉大か、モーツァルトかベートーヴェンか。無益な問である。一方は完成していて他方は巨大なのである。前者は完全な芸術の平和、美であり、後者は崇高、恐怖と憐憫、立奏して味わう美である。」

「愚人を相手にする態度ほど人柄を表わすものはない。」

「誠意は、今でも遍く守られている徳である。その結果、嘲弄するものに対しては立腹し、器用な人間に対しては不器用さを示し、狡猾な人間に対しては反感を抱き、上品な趣味に対しては素朴な感嘆を発し、且つ高雅な身振をぎこちなく誇張する。」

「老いることを心得るのは、叡智の傑作であり、偉大な生活術の最も困難な部門の一つである。」

2026-07-26

"断絶の時代" Peter F. Drucker 著

1960年代末、かの P. F.ドラッカーは、知識社会の到来、知識労働者の興隆、情報社会の高度化、グローバル経済の出現といった大変革からもたらされる未来像を描いて魅せる。それは、来るべくして来る断絶の時代か...
尚、上田惇生訳版(ダイヤモンド社)を手に取る。

「手動のトロッコは、ゲリラ戦で活躍する。後続の列車のために、レール下の地雷を見つける。本書は、このトロッコである。未来はゲリラ戦である。予期せぬことが脱線の原因となる。本書は、そうならないための警報を発する。まだよく見えないいくつかの断絶が、政治と経済と社会を変えつつあることを、いち早く知らせるために...」

断絶は、主に四つの分野に見られるという。
一つは、新技術や新産業の出現。同時に、今日の重要産業や大事業が陳腐化する。
二つは、グローバル経済の到来。今日でもなお、エリート官僚たちが打ち出す経済政策は、主権国家を単位に言語、法律、イデオロギーといったものを前提にしている。だが、来るべく経済社会は、そんな枠組みの意味をなくすであろうと...
三つは、社会と政治の多元化。現実を支配しているのは中央集権だが、この最大の組織である政府に幻滅が広がり、その能力が疑問視されると...
四つは、これが最も重要なこととして、知識の性格の変化。すでに知識は、資本、費用、資源など様々な意味を含んでいる。労働と仕事、学ぶことと教えること、知識の本質と使い方は変化していき、権力者の知識ある責任が新たな問題になると...
いずれも、21世紀の今、目の当たりにしているところ...

「本書は趨勢を予測しない。非連続の断絶を見る。明日を予測しない。今日を見る。明日はどうなるかを問わない。明日のために今日いかに取り組むかを問う。」

高度な情報テクノロジーが、誰にでも情報や知識を手に入れる機会を与えてくれる。となれば、あとは個人の問題。意欲ある者は、ますます知識を得、偏狭な者はますます偏狭になり、意識格差を増幅させていく。その結果、意識の多元化とはほど遠い、二極化が進む。最も深刻な格差問題は、経済格差よりもこの意識格差であろうか。最も重要なこととして四つ目に挙げている知識の性格の変化は、これに当たるのやもしれん...

発明の時代から起業家の時代を得て、創造する能力が問われる時代、組織のあり方が問われ、マネジメントのあり方が問われ、個人のあり方が問われる。科学や技術のダイナミクス、市場やイノベーションのダイナミクス、そして人間のダイナミックス、ますます知の用い方が問われていく。そうした中でドラッカーは、組織の病や政府の病を指摘する。
まず、組織リーダの責務として、社会に敏感であることと...

「組織とは、自らのために存在するのではない。組織は手段である。それぞれが、それぞれの社会的な課題を担う社会のための機関である。生き物のように自らの生存そのものを至上の目的とすることはできない。組織の目的は、社会に対するなんらかの貢献である。その行動の評価基準は、生き物とは違い、自らの外部にある。」

次に、マクロ経済に特化した近代経済学に苦言を呈す。経済発展の理論でイノベーションを強調したシュンペーター以降、進展が見られないと...
多元化社会では善玉も悪玉も必要だという。いや、善玉の越権行為の方がはるかに危険か。民主主義国家のあり方を再確認するには、権威主義国家や共産主義国家の存在にも、それなりに意味があるのやもしれん。
政治学には、「統治のくもの巣」なる言葉があるらしい。本書は政治の実態をフェルト化現象で説明する。

「歴史上、今日ほど政府が突出した存在になったことはない。1900年頃の最も独裁的な政府さえ、今日最も自由な国において税務署が日常行っているほどには、市民のプライバシーに踏みこまなかった。ツァーの秘密警察さえ、今日当然とされているほどの公安調査は行わなかった。1900年頃のいかなる官僚も、今日政府が企業、大学、個人に記入させているほどの数字の詳細は求めなかった。しかも政府は、あらゆる国において、最大の雇用主となっている。そして政府は、あらゆるところへ進出している。しかし、それは本当に強力なのか。たんに太って巨大になっただけ... まったくのところ、政府は病んでいる... この政府への幻滅こそ、今日の最も深刻な断絶である。」

組織や政府が当てにならないとすれば、あとは個人のあり方が問われる。一流の人材を育てるには、できるだけ多くの人間に教育を与えることだという。イタリアのルネサンスしかり、日本の桃山時代しかり、オランダのレンブラントやルーベンスの時代しかり... と。
大学は多様な人材を必要とする。博士号を重視し、狭い専門分野を研究することは、知識をないがしろにするという。そのような種類の人間も必要だが、それぞれの分野に少しいればいいと。
多様な人材という意味では、アメリカにその強みがあったが、本書が刊行された時代に知の流出に警鐘を鳴らし、マネジメントの必要性を強調する。それは、組織のマネジメントばかりか、個人のマネジメントも含まれる。
しかしながら、個人は集団の中に埋もれ、ソーシャルメディアに埋もれていく...

「権力を馬鹿にすれば、悪用される。組織の力は使わなければならない。それは現実の存在である。理想をもつ者がどぶに捨てれば、どぶさらいがそれを拾う。教育ある有能な者が責任をもって使わなければ、無能で無責任な者がその座に座り、権力を振るう。社会的な目的に使わなければ、自らの目的に使う者の手に渡る。せいぜいのところ、自らの臆病さのゆえに専制者となる者の手に渡るだけである。」

2026-07-19

"道徳感情論(上/下)" Adam Smith 著

「人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても...」
こう書き下ろすアダム・スミス。経済学の父と呼ばれる彼は、人間の本質に身を委ねる意義や自由な経済活動の意味といったものを論じて魅せる。
尚、水田洋訳版(岩波文庫)を手に取る。

後に、自由放任主義の礎となり、レッセフェール!や、神の見えざる手!といったスローガンに結びつけられるものの、そうした風潮に反発するかのように、自由で平等な個人の平和的共存は可能か、それは権力の介入なしにいかに可能か、と問いかける。そして、いかに利己的な人間であろうと、その根底に道徳原理があるからこそ... 自由とは、自己抑制の能力との調和においてこそ,,, と説く。伝統的な哲学の問題に、人間は生まれつき善か悪か、というのがあるが、スミスもまたそれを問うかのように...

人間が人間足るとは、どういうことか。道徳ってやつは上から目線で論じられるところがあるが、それほど高貴なものなのか。不遇が人を冷徹にするところもあるが、幸せすぎることが人を残酷にするところもある。平和的共存ってやつは、社会の中でしか生きられない個人の集まりから自発的に、しかも自然に築かれるものなのか。それは普遍原理と呼べるものなのか...

スミスの道徳感情論は、経済理論との間で利他心と利己心の狭間をさまようかのように記述される。自由放任主義を唱えれば、欲望を解き放つ議論になりかねないし、現在でも、経済学を学ぶと利己的になる... といった意見を耳にする。欲望のあり方を論じれば野心を増幅させ、どこかで歯止めが必要となる。それを、スミスは自己規制の原理として語る。同感や共感といった利他的情念が、義務の観念を呼び、正義の観念を呼び覚ますと...

古くから、徳は愛に発するとする考えがある。しかしながら、自愛心は利己心と矛盾しない。人のすべての情念が自己愛と結びつくのも事実。人は自己を愛されることを強く望む。
となれば、徳はいかに可能であろうか。知識によるか、忍耐によるか、慣行によるか、自己犠牲によるか、様々な要因や条件が考えられるが、徳や知恵も、悪徳や愚行も、人間が自然に具える本性。人間には、最高善に従おうとする意志が本能的に備わっているようでもある。
だが、善にも、悪にも、あらゆる人間の情念が暴走する可能性を秘めている。行き過ぎた道徳感情が、社会に害をなすこともあれば、行き過ぎた正義や行き過ぎた義務が、個人を追い詰めることもある。

スミスが生きた時代、封建的な道徳観念を批判し、個人の尊厳を唱えることの意味は大きい。同感、共感といった情念を、商品と同じように交換する議論。そこに正義や義務の概念を絡ませ。正義とは、互いの自由を侵害しない、等価の交換価値をいい、この点において経済活動と道徳感情を結びつける。

それにしても、言葉の扱いは難しい。道徳感情を経済学的な交換価値の一つとして捉えれば、道徳そのものが陳腐なものに見えてくるし、経済学用語が人間の本質を陳腐なものに見せちまう。
だが同時に、主観的な感情論から距離を置き、客観的な視点を与えるという見方もできる。本書に、価値交換の原点と自由主義の原点を見る思い...

2026-07-12

"経済学原理(上/下)" Thomas Robert Malthus 著

富とは、なんであろう...
ありふれた言葉だけに、きちんと定義したものを見かけない。豊かさとも、ちと違う。物質的な豊かさと精神的な豊かさとを区別するなら、経済学が論じることのできる領域は前者ということになろうか。
ただ、物質的な豊かさを精神的な豊かさで補うことはできても、その逆はできそうにない。結局、幸せとはなんであろう... という問いに帰着する。しかし、幸せという概念も一筋縄ではいかない。経済学に精神的な豊かさまで求めても... 経済学者に、人類を救え!などとふっかける気にもなれん...

トマス・ロバート・マルサスは、富と価値を区別し、生産と分配の側面から経済原理を論じて魅せる。その語り口は、どこか人口論の影を引きずっているような... 地球の限られた資源を暗示しているような...
また、本書には、デヴィッド・リカードの名が散りばめられる。議論の対象として。だが、二人は反目しあってはいない。生涯で本音で議論し合える人物に巡り会えるのは、幸せであろう...
尚、小林時三郎訳版(岩波文庫)を手に取る。

人生の意味を労働に求める考えは、ヘーシオドスの時代から語り継がれる。しかも詩的に。労働や勤勉に価値を求める哲学は、アダム・スミスも、マルサスも継承しているようで、21世紀の今でも散見する。
マルサスは、労働を生産に結びつけ、生産による利潤と非生産による利潤を区別する。あらゆる階級の生産活動を国力に結びつければ、国富論も成り立つ。過剰生産は、かつての経済学者たちが論じてきたように、長期的には相殺もされよう。だが、仮想空間に編み出された価値となると...

資本蓄積のために節約を論じた時代から、資本拡大のために投資を論じる時代を経て、いまや、自然増殖する仮想価値から消費を煽る時代か。地代や労働賃金、あるいは資本の利潤で論じられた時代は、なにやら懐かしい。需要と供給の関係ですべて説明のつく社会は、なんとなく心が落ち着く。

生産や労働の概念も、時代とともに随分と変化したものである。お金に執着すれば道徳観を疑われるが、お金のおかげで安穏と生活できるのも事実。自由とは、その人の能力に依存するというのは一理ある。人間の欲望が、その人間の能力に比例するという見方も...
しかしながら、人には生まれ持つ環境や条件がある。労苦なしに得られる収入や財産など。貯蓄にしても、個人の神聖な義務となるところがある。老後にお金をため過ぎて処理に困るといったことが、本当に豊かなのか。巨額なローンを頼りに欲望を満たす社会が、本当に豊かなのか...

お金持ちほど節約家だったりする。いや、お金の使い方が合理的と言うべきや。人間の合理性には、物的合理性と心的合理性がある。お金との付き合い方のうまい人は双方の按配をよく心得ていると見える。
経済循環とは、分配や再分配を促すものであろうが、節約よりも浪費の方が合理的な側面がある。金は天下の回りもの!実際、金融政策は、消費を煽ることばかり。マルサス風に言えば、「生産という名に値しないもの」があまりに多すぎるのか。
では、生産に値するものとは。少なくとも生産費用に等しい価値を生み出すもの... などとするなら、貨幣価値という幻想を追いかけている気分にもなる。

お金を得る手段ともなれば、利息所得や配当所得、あるいは相続財産ばかりか、貨幣を右から左に流す金融業や情報を右から左に流す広告業など、様々な非生産的形態がわいてでる。いや、生産の仮想化と言うべきや。
権力を右から左に流す政権業まで、すべてがお金と結びつくから、資本主義経済、恐るべし!この経済体系では、投資家が経済循環に大きな役割を担うが、その反面、なんでも資本にしちまう、お化け経済にも映る。人類は、貨幣を自然増殖させちまう巨大な経済システムを出現させちまった。発明者自身が制御不能なほどの。エントロピーの法則に照らすなら、貨幣に始まる仮想価値の暴走は、まだまだ序の口やもしれん...

「食物にたいする欲望は、あらゆる人の胃の腑にかぎりがありので、それによって制限されるが、建物、衣服、什器および家具というもろもろの便宜品および装飾品にたいする欲望には、なんらの限度もなければ一定の限界もないように思われる。」
... アダム・スミス

2026-07-05

"理論経済学の本質と主要内容(上/下)" Joseph A. Schumpeter 著

物事の本質を問えば、その素となるものを求める。哲学するとは、そういうことか。では、経済学にとっての素とは、なんであろう。
本書は、「純粋経済学」という語を用い、「アプリオーリ」「動学」という語をちりばめる。
カントは、人間の純粋認識として、時間と空間の二つを挙げた。
シュンペーターは、理論経済学の要素として土地、労働、資本は元より、財産の所有と権利といった帰属意識や価値観念を通して、価格理論、貨幣理論、貯蓄理論、分配理論、賃金理論、地代理論、利子理論を論じて魅せる。そして、これらの理論をニュートン力学との類似性に照らし、経済学の運動法則を探る。彼は、こうした視点を「変化法」と呼称し、従来の経済理論を、静学的な洞察から動学的な洞察へ発展させようと試みる。
尚、大野忠男、木村健康、安井琢磨訳版(岩波文庫)を手に取る。

「『すべてを理解するとはすべてをゆるすことである』という格言には、もっともな意味がある。一層適切にはなお次のように言うことができよう。すべてを理解する人には、ゆるすべきものは何もない、ということが分る、と。そして、このことはまた知識の世界にも妥当する。」

プトレマイオスの体系がコペルニクスの体系に屈したように、現代の理論もまた新たに見い出される理論に屈するのであろう。それが歴史というものか。スミスの富みの概念も、リカードの体系も、マルサスの原理も、経済学の発展に意義あるものであった。悪評高きロビンソンモデルにしても、そのまま吐き捨てるのでは、ちと惜しい。古典理論は、その時代背景を十分に考慮せずに先に進むと同じ轍を踏む。それを賛美しようが、非難しようが... 本書は、そうしたことに警鐘を鳴らしているような気がする。

学問の視点は、合理性や効率性を意識しすぎる感がある。それは、経済学に限ったことではない。欲望や利潤の最大化を見積もることは、現実離れしていないか。均衡状態なんてものが本当に存在するのか。経済学では、価格と効用が同義語ごとき扱われる。限界効用とは限界苦痛のことか...

しかしながら、何事も極限を考察することには意味がある。少なくとも学問的には。極限を記述する強力な道具に微分方程式があり、いまや経済理論の組み立てに欠かせない。
但し、これをそのまま鵜呑みにした経済政策は、しばしば弊害になる。それだけ経済状況は、カオス下にあるってことだ。シュンペーターも、「すべての理論は不完全!」とつい漏らしているが、おそらくそれが本音だろう...

そこで本書は、あえて人間性や心理的要件を排除する立場をとり、価格、貯蓄、分配、賃金、利子などの素朴な変動に着目することを表明している。数学的な記述は無味乾燥な議論にも映るが、そうした視点が逆に、人間と経済の棲み分けを暗示する。
実際、自由競争といえば、人間の自由行動に目を奪われがちだが、貨幣や資本そのものが自由に動き回り、もはや人間の手に負えない。人間を介さなくても、現実に交換関係は生じ、取引は成立する。おまけに、AI の参入とくれば、いよいよ人間は無用の産物か...

需要曲線と供給曲線の交差点で均衡状態を論じても、時間とともに曲線は左右に移動し、価値関数はいつも右往左往。享楽曲線や不快曲線も変化に富み、すべての相互依存関係から運動法則を見い出すのは、絶望的ですらある。それは、経済学だけでなく、心理学しかり、社会学しかり、そして、科学しかり。もはや経済学だけに、貧困問題を押し付けるわけにもいくまい...

ところで、「資本」というのも不思議な用語である。あらゆる価値を資本の一言で説明できちまうのだから。
例えば、不動産も、労働も、投資も、資本財となり、人材資本なんてものもある。
金融業ともなれば、他人からの投資まで自己資本として計上しちまう。返済義務が生じなければ、なんでも自分のもの!あとは自己責任で!あらゆる資本の間で依存関係が生じ、なんらかの奴隷制が成立する。
そもそも資本主義とはなんぞや?共産主義という語は分かりやすい。みんなで共に生産経済を発展させよう... などと綺麗事を並べれば、人間の本性をむき出しにするだけのこと。共産主義社会にも資本の概念はある。これに上級官僚や金持ちが群がるって寸法よ。ユートピアは人間にとって悪夢か...

2026-06-28

"ピュロン主義哲学の概要" Sextus Empiricus 著

真理の探求には、三つの立場があるという。それを見つけたと主張する者、それは永遠に見つけられないと主張する者、そして、結論を急がず、探求し続ける者とが...
人間の認識能力が不完全であることを認めれば、客観的な考察までも疑問視する。常に悠然と構え、何事にも疑いの目を向ける態度は、巷では懐疑主義と呼ばれる。それは、探求と考察を継続することから探求主義とも、あるいは行き詰まり主義とも...
この世には、判断を保留せねばならぬ事柄で溢れている。懐疑主義の第一の目的は、ドグマに毒されぬよう注意を払うこと。だからといって、すべての知識を否定するような独善的懐疑主義にも御用心!健全な懐疑心と啓発された利己心こそが、知の原動力となろう。しかしながら、この態度を保ち続けることは至難の業...

おまけに、人間のあらゆる認識や判断は相対的である。善や悪も、理性や正義も。人間は、万物の尺度を相対的にしか把握できずにいる。そのことを、常に心得ておくべし!これが、「ピュロン主義」というやつか。
この呼称は、古代ギリシアのピュロンという人が、懐疑的な考察に専心し、慎重な言い回しに徹したことに由来するという。そこには、無知を自認してこそ思考は深められる... というソクラテス哲学にも通ずるものがある。
古代ローマの叙述家セクストス・エンペイリコスは、自らの経験主義的立場から古代懐疑主義を物語ってくれる。エピクロス派やストア派を批判する立場をとりながら、アカデメイア派とも一線を画し...
尚、金山弥平、金山万里子訳版(西洋古典叢書)を手に取る。

なにゆえ哲学をやるのか。平静や節度ある態度で真理に挑むも、真偽の判断を下したがために動揺し、善悪を決定づけたがために抑制を失い、正義を掲げたがために横暴となるのでは、何をやっているのやら。
理性にも、二つあるという。内にある理性と言葉で表される理性とが。理性は、徳と結びつき、正義とも結びつきやすく、それだけに言葉で操られやすい。プラグマティストは、どうあるべきだ!こうするべきだ!と声高に唱える。だが、理性とは、自制心によって支えられるもの。自分の理性に自信満々でいられるのは、すでに理性が暴走していると見るべきや...

宇宙の摂理は完全かもしれない。が、人間が知りうる摂理は不完全!古代の哲学者たちは、そのことに思いを馳せ、人間は人間自身を知りうるか?と問い続けた。プラトンが、人間は羽のない二本足の動物と定義した時、それで人間の正体を確信したわけではあるまい。アリストテレスが、人間は社会的動物であると定義した時、それで人間社会の正体を確信したわけではあるまい。パスカルが、人間は考える葦であると定義した時、それで人間の存在意義を確信したわけではあるまい。はたまた、言葉でうまく説明できないからといって、それをまったく知りえないということにもなるまい。
デモクリトスが、原子論を唱えた時、そこに実存と空虚の共存を見る。存在とは、虚像と結びついて成り立つ概念か。精神や魂も、理性や真理も、徳や正義も、そして、神も。神が不敬虔者のみを罰するなら、神にも悪意があると言わねばなるまい。

人間が常に平静を保ち、自然体でいることは至難の業。それゆえ、時として説得力のない議論に耽り、思い上がりや性急さを鎮めるために、あえて答えの得られない問答を繰り返す。真に理性を得ようとすれば、何事も自問自答を繰り返すしかなさそうだ。結論も控えめに...
しかしながら、人間社会には、自信満々に断言する者ほど目立ち、これを大衆が支持するという構図がある。二千五百年もの年月を経ても尚、懐疑心と批判精神を科学することは難しい。あの世で、ピュロンは愚痴ってるやもしれん。私はピュロン主義者ではない!と...

2026-06-21

"芸術とは何か" Susanne Katherina Langer 著

S. K. ランガー女史には、人間が物事を表象的に捉える認識過程からシンボル哲学なるものに魅せられた(前記事)。ここでは、芸術哲学とやらに魅せられる。
シンボル化という感性は、人間の思考プロセスに根源的に組み込まれているらしい。それが意識的であるにせよ、無意識的であるにせよ...
尚、池上保太、矢野万里訳版(岩波新書)を手に取る。

「感覚的形式を通しての表現能力は、着想力の必要に応じて成長する。芸術の目標は洞察であり、感情の本質的生命の理解である。だが、すべての理解は抽象化を必要とする。... シンボル化を伴わないところに理解はなく、抽象化を伴わないシンボル化もない。... 実存をまったくそのままに伝達しようと努めるのは無意味である。経験自体さえ、そのようなことはできない。私たちは理解する事柄を観念するのであり、観念作用は常に定式化、表示、抽象化を伴うのである。」

芸術とは、SM の世界か。芸術家たちは極めて独断的に仕掛けてくる。しかも、独善的ですらあり、S のなせる業!
しかしながら、鑑賞者の側に感じるものがなければ、そこに芸術は成り立たない。素直に感じたければ、M にもなるさ。もはやカノンの虜よ!
人間の認識力には、事物を抽象的に捉える機能がある。これを具現化する技術が芸術ということになろうか。その技法の極地は、美的啓示と至高の芸をもたらすが、巧妙な欺瞞の芸にもなりうる...

「芸術は技術である。だがそれはある特別な目的、すなわち、表現形式、つまり本然の人間的感情を打ち出して、視覚、聴覚、または、想像力を通して知覚できる形式を創造することを目的とする技術である。」

芸術は哲学でありうるだろうか。無論学問分野として、芸術と哲学は別物。
しかしながら、どんな事物であれ、そこに哲学的思考を見い出せないものはない。その意味で哲学とは、摩訶不思議な学である。存在意識が絡むから、そうさせるのか。存在という意識があやふやである以上、いかようにも解釈できる...

人間の思考は、言語を通じて強化され、概念となる。人間は思考段階を登っていく上で、その場その場で表象的な何かを求める。内面を投影する仕掛けとして、シンボルやイメージ感覚のようなものを。空間とは何か、時間とは何か、そして、そこに存在するものとは、自己とは... などと問うだけで哲学的思考へ導かれる。

芸術は、内面と強く結びつくだけに、実に多くの哲学的問題を提起する。芸術家は表象を超えた何かを創造し、鑑賞者も負けじと表象を超えた何かを想像する。それが、芸術の意義というものか。
芸術空間は、一つの仮象であり、空想的幻影であり、虚空間であり、それでいて純視覚的空間で覆い、その全体がヴィジョンを提示する。そして、実在と概念を結びつける思考過程で、その思考そのものが哲学的であることを知らしめる。
芸術作品に癒やされるのは、それが真理へ導くからであろうか。おそらく、真理そのものが重要なのではあるまい。真理へ近づこうとする過程こそが...

「科学は普遍的表示作用から緻密な抽象化に進み、芸術は緻密な抽象化から、普遍性の援用をまつことなく、生命的内包作用に進む...」

2026-06-14

"シンボルの哲学" Susanne Katherina Langer 著

人間の思考は、物事を象徴的に捉えるところがある。それは、どこに発するのか...
最も顕著なものに、言語現象がある。それは音声に発し、記述の仕方を経て概念と化し、記号論や構文論に至る。言語は、人間が思考する上で極めて重要な役割を担う。それはコミュニケーション手段だけでなく、自己意識や存在認識などにも寄与し、おかげで、より多くの知識を得、学ぶ意欲を高める。その反面、欺瞞に惑わされ、感情が煽られることもしばしば...

こうした意識過程をより抽象的に捉えると、シンボルという概念が浮かび上がる。美術や音楽も、祭典や儀式も、人間は認識できるものすべてをシンボル的に捉えているところがある。
S. K. ランガー女史は、言語の論理的機能と感情的特性、聖礼や神話の発生源、音楽や芸術の意義といったものを、シンボル化という根源的な意識に照らしながら論じて魅せる。
尚、矢野万里、池上保太、貴志謙二、近藤洋逸訳版(岩波書店)を手に取る。

「哲学史上、どの時代にもそれ独特の先入見が存在する。各時代の問題は、政治的理由とか、社会的理由などの一目でわかる実践的な理由のためではなく、知性の発達に伴なういっそう深遠な理由のために、各時代に特有なものとなっている。」

人間は、認識できるものすべてに意味を与えようとする。まずは、一個人が生きる意味とは何であろうか... と。自己を象徴的な存在とすれば、自我を肥大化させるばかりか、無意味なものには拒絶反応を示す。精神そのものが非合理的な存在でありながら、認識をとりまく存在となると、そのすべてに合理性を求めてやまない。これぞ人間の性癖か...

確かに、言語では表記できない領域がある。しかも、それは思いのほか広大ときた。無意識の領域がそうであるように。そんな領域にまで意味を与えようとする意識が、シンボル化の原動力になっているのだろう。実践的なヴィジョンは行動のための指針を与えるが、これもまた心の中でシンボル化される。ある種の依存症か。となれば、人間にとって物資の欠乏よりも、シンボルの欠乏の方がより深刻なのやもしれん...

シンボル化という抽象的な意識が具体的な言語で記述され、芸術やら科学やらに投影されると、明確な定義を与える前に何らかの解釈を施さずにはいられない。やがて、解釈という行為は義務と化し、学術的な権威をまとうことに。仮説の有用性とは、そうしたものであろうか...

芸術や音楽は、居心地の良さを提供してくれるばかりか、自己の居場所を与えてくれる。人間は意味のある場所が与えられると、心が落ち着く。それが幻想であろうと、幻想だと知りつつも...
人間の有意義説に縋る性癖は、抑えられそうにない。人間は生涯を通して、意味と解釈の狭間で無意味の充満する世界を有意味で充填させようともがく。ただそれだけのことやもしれん...

「自由の本質は目的の実現可能性なのである。人類は、自己の主要な目的の挫折のために、種としての人類の定義そのものに属しているような目的さえも挫折したために苦悩してきたのである。シンボル的過程のどんな失敗も、われわれの人間的自由を廃棄させるものである。」

2026-06-07

"マキャベリの名言" 矢島みゆき 編訳

「君主論」に触れたのは十五年ほど前。そして、共和国に焦点を当てた「フィレンツェ史」やディスコルシこと「ローマ史論」にも触れてみたが、未だ消化不良!マキャベリの政治思想に少しでも近づけるよう名言集を手に取るも...

名言の効用とはなんであろう。行動指針の一つに、言葉で説明できるか、ということがある。言葉は動機を明確にし、やるべきことも明らかにし、名言はそれを後押ししてくれる。

「言葉で表現できる行動をせよ!」

おいらは、完全に一貫性を持った著述家を知らない。どんな著述家も、どこか多面性を具えている。偉大な著述家ともなれば抽象レベルが高く、それゆえ勝手な解釈や誤った解釈を招き入れる。
だとしても、彼らの著作はそんなものまで呑み込んじまうから、そりゃ、飲まずにいられない。まぁ、理解からは程遠くても、偉人の言葉というものは生きてゆく上で励みとなる。凡人ばかりか、凡人未満にも... 愉快!愉快!

「ともかく現在に生きよ。過去の豊かさから学ぶことを忘れず...」

こと政治の世界では、理想郷を掲げると、逆の形が出現する。憎悪ってやつは、悪行からだけでなく、善行からも生じる。どんなに優れた政体を打ち立てようとも、どんなに高尚なイデオロギーを掲げようとも...

「ダンテは言う、過去の歴史を学ぶことこそが科学であると。また、学んだ歴史について人と語り合うことも科学である。」

古くプラトンは著作「国家」の中で政治指導者に哲学者を据えた理想像を描き、マキャベリは著作「君主論」の中で政治に必要な力量と決断力を持つ君主像をちらつかせた。
しかし、どんなに優れた政治指導者が出現しても、これに続く者は愚人ども...

古くアリストテレスは、最高の政体は君主政で次が貴族政、そして最悪な政体が民主政と愚痴めいたことを弟子たちに漏らした。マキャヴェッリもまた、「フィレンツェ史」や「ローマ史論」を通して共和国の欠点を炙り出した。
現実に、君主はすぐさま僭主に成り下がり、貴族は贈賄の類いにまみれ、民衆とて移り気が激しく暴徒の群れと化す。人間が人間を統治するには、善だけでは不十分!善も悪も人間の本質であり、やはり社会には法というものが必要なようだ。統治する側にも、統治される側にも...

「時の経過がもたらす各種の恵みを楽しむと良い。時はあらゆる種類の出来事をもたらしてくれる。悪に似た善や善ともまごう悪を...」

どんなに善良に生まれつこうが、どんなに優れた教育を受けようが、人はやすやすと堕落しちまう。自らの野心に踊らされ、他人の悪徳に誘われ、やすやすと悪事に手を染める。人間とは、そうしたものだということを心得ておく必要がありそうだ。偉人たちから何を学ぶか。それは、善行だけでなく悪行からも...

「卓越した人物は、どのような環境に置かれても常に変わらない。運命が彼らを高い地位に就かせたり、あるいは虐げさせたりすることがあっても毅然として変わらず、常に不屈の心を持ち続けることができる。」

2026-05-31

"ローマ史論(全三巻)" Niccolò Machiavelli 著

「ディスコルシ」こと「ローマ史論」...
ニッコロ・マキャヴェッリは、歴史家リウィウスの大作「ローマ建国史」から最初の十巻に着目し、政治論を論じて魅せる。「君主論」と補い合うように...

古くプラトンは、著作「国家」の中で政治指導者に哲人を据えた理想像を描いた。だが、どんなに優れた政治指導者であろうと、これに続く者は愚人ども...
マキャヴェッリは、著作「君主論」の中で政治に必要な力量と決断力を持つ君主像を描いた。だが、どんなに優れた政体を思い描こうと、どんなに高尚なイデオロギーを掲げようと、結局は現実に引き戻される。
あとできることと言えば、なんであろう。「すべての道はローマに通ず...」というが、やはり原点に立ち返ることか。共和国の原点、ここにあり!と...
尚、大岩誠訳版(岩波文庫)を手に取る。

「平等の存するところ、君主国にはなり得ぬ。それの存せぬところ、共和国とはなり得ぬ。」

人間が編み出した政体は、大まかに三つ。君主政、貴族政、民主政が、それである。だが、それぞれに深刻な欠点を抱え、僭主政、寡頭政、衆愚政となるも紙一重。
古代ローマの場合、その起源は王国に始まり、やがて共和国となり、強大な帝国へと発展していったが、その基盤となると、最初期から共和国になるまでにほぼ確立されていたという。

まず、偉大な精神は、始祖ロームルスに始まる伝説の王たちによって築かれる。その支柱に据えられたのが、自由精神。マキャヴェッリは主張する。「ひとつの都が存続するには、自由人の力によらなければならない。」と...
賢君が二代続けば、精神的影響は大きい。三代続けば尚更。古代ローマの場合、七代続いて共和国へ導いた。その過程で、創立者たちの叡智が伝統精神として法に刻まれ、法の精神を育んでいく...

次に、国家の在り方は、三つの要素で力関係を均衡させていく。統領、元老院、護民官がそれである。統領は君主とその取り巻き連中。元老院は貴族や上流階級で構成されて国家の最高機関となり、いわば統領のお目付け役。護民官は平民の代表で、国の隅々にまで政治機構を浸透させる役割がある。
この時点で平民の意向がどれほど反映されるかという問題は残るにせよ、後に護民官を選出する平民会が大きな存在感を持つことになる。こうした三要素を具えた政体は、君主制、貴族制、民主制の混合物という見方もできよう。ここに分権の起源を見る思い...

更に、宗教が絡む。帝国の時代にはキリスト教が国教とされ、教会の権威が加われば政治の主導権はいずこへ。政教分離の思想は、こうした有り様からも見い出せよう...

そもそも国家とは何か、本当に必要なのか。そして、その形が、なぜ共和国なのか...
自由精神こそ鍵というわけだが、政治指導者を選ぶ自由は民衆にあるか。政体を選ぶ自由は民衆にあるか。自由は妥協との折り合いの中で成り立つ。それが正当かは、ただ信じるのみ。自由とは、信仰の類いか。少なくとも、自由は自己抑制との釣り合いにおいて行使される。善には制約があるが、悪にはそれがない。

国家には、当たり前のように付随する法というものがある。そもそも法とは何か、本当に必要なのか...
法は悪に対するものとなり、法の下での正義は駆け引きの道具となる。せめて復讐心が伝染せぬよう願うばかり。結局、毒をもって毒を制す!の原理に縋るほかはないのか...
こと政治の力学では、高貴な理想を掲げるほど泥沼にハマる!恐怖、憎悪、嫉妬といった情念は、人間の本質であり、これを避けることはできない。確かに、人間は聖人になりきることはできないが、悪魔になりきることもなかなか難しい。それがせめてもの救いか...

政体は時代とともに変化していく。変化こそ不変!ゆえに、何事も改善は必要であろう。それでも、基本精神を見失うな!というのが、マキャヴェッリの立場。確かに、古代ローマのそれは理想に程遠い。三千年を経た 21 世紀の今でも...
そもそも理想がどんなものか、そんなものが本当にあるのか、ますます分からんよ... マキャヴェッリ先生!

「政治や歴史上の数多の事例を取り扱ったひとたちの挙って説明することに従うと、国家を建設し国宝を制定するものとしては、何よりも先に、人間はすべて悪人で、思う通りに振る舞う機会があればすかさず其の非道ぶりを発揮して私欲を満たそうと身構えていることを常に考えている必要がある。」

2026-05-24

"フィレンツェ史(上/下)" Niccolò Machiavelli 著

権力者といえば... 悪の権化、冷徹で狡猾な独裁者... といったダーティーなイメージがつきまとう。だが、共和国精神の根付いた地域では、人間的な面を併せ持つ政治指導者を言うらしい。とりわけフィレンツェの地には、共和制ローマから脈々と受け継がれる伝統精神なるものがあるとか。
ニッコロ・マキャヴェッリは、「君主論」で政治的な力量を備えた人物を論じて魅せた。本書では、フィレンツェ共和国の発祥から、その黄金時代に君主的存在となったロレンツォ・デ・メディチの死までを物語ってくれる。いわゆる「偉大なるロレンツォ」を「君主論」に、ある面で重ね、ある面で反するかのように...
ここでは「すべての道はローマに通ず...」という格言を引いて、「それはフィレンツェを経て...」と付け加えておこう。
尚、齊藤寛海訳版(岩波文庫)を手に取る。

アリストテレスは、最高の政体は君主制で次が貴族制、そして最悪が民主制と愚痴めいたことを弟子たちに漏らした。しかし、君主は野心のために僭主に成り下がり、貴族もまた贈賄の類いにまみれ寡頭化し、民衆とて移り気が激しく暴徒の群れと化す。それでも、比較的ましなのが民主制ということになろうか。
人間の集団性はことのほか手ごわい。権力ってやつは、一部に集中したり、肥大すると、社会の弊害になるものらしい。それは、人間の本質であろうか...

マキャヴェッリは、フィレンツェ史を通して共和国の長所と短所を炙り出し、あるいは、共和国にあるべき君主像をちらつかせ、いずれ出現する近代国家の礎となる権力分立や政教分離といった政治思想へ導くかのように物語る。彼もまた、アリストテレスのように共和国の行く末を案じていたのであろうか。
権力ってやつは、強すぎても、弱すぎても、腐敗するものらしい。しかも、腐敗の伝染力は極めて強い。どんなに優れた政体を取り入れようと、どんなに高尚なイデオロギーを思い描こうと、すぐさま現実に引き戻される。

概して、共和国には破滅を運命づけられた大家があるらしい。メディチ家もそうした家の一つだったのか。絶え間なく繰り広げられる権力抗争の裏で、憎悪、敵意、対立から党派が生まれ、処刑、追放、静粛の横行。貪欲と野心でのし上がる者ども。力ある者が力なき者を足蹴りし、才ある者が才なき者の鼻面を引き回す。これが人の世か...
支配者の命令したいという欲望と民衆の隷従したくないという願望が衝突し、少しでも権力を手中にすると、自己顕示欲を膨らませ、権威主義に陥る。
現代、民主主義や自由主義の対極に権威主義や全体主義が配置される。だが、独裁者を生み出すのは、民衆だ!
自由主義者は全体主義を忌み嫌い、全体主義者は個人を生かすためと称して民衆の結束を強いる。結束が維持できなければ、自由が悪魔と結託し、個人を抹殺にかかる。実は、自由主義と全体主義は表裏一体なのかも...

政治指導者が、いつも市民を監視していなければならないとすれば、なんと滑稽な社会であろう。自由とは、権限を持つ側の論理か、それとも与えられる側の論理か。平等とは、それを主張する者の論理か、それとも発言すら許されない者の論理か。そして、正義とは誰の論理か。
極端なことを言えば、基本的人権以外に権利は必要なのか。どんな聖人君主が命令を下そうとも、それを行うものは愚人。愚人の行動には、模範的な規定と、具体的な条文が必要なようだ。おかげで、法の条文は増すばかり。エントロピーのごとく。これに教皇の権威と戒律が加われば、エントロピーの勢いは増すばかり。政治と宗教の力学原理は、すこぶる似ている。やはり分離した方がよさそうだ...

自由ってやつは、奪うものでもなければ、与えるものでもあるまい。巷には自己責任論が渦巻き、自由主義に内包される責任に耐えられなくなると、権威主義に傾倒していく。民主主義や自由主義にとっての最大の脅威は、権威主義でも全体主義でもなく、それ自身にあるのかも。敵が己自身にあるとすれば、これに対抗できるものは... 基本的人権とは?法のあるべき姿とは?人間足らしめるものとは?と、その原点を問い続ける他はあるまい...

「国々は、大多数の場合、それぞれが変遷していく過程で、秩序のある状態から秩序のない状態へ、それからまた新たに、秩序のない状態から秩序のある状態へと移行する。なぜなら、この世のことに対して、自然は静止することを許さないからである。国々は、最終的な完全さに達したら、もうそれ以上は上昇することがなく、下降するしかない。同様に、下降するとなると、無秩序のせいで最低の状態にまで達するが、必然的にそれ以上は下降することができず、上昇することになる。
  ...(略)...
武勇は平穏を生み出し、平穏は無為を、無為は無秩序を、無秩序は破滅を生み出し、同様に、破滅からは秩序が、秩序からは武勇が、武勇からは栄光と幸運が生まれるのである。
  ...(略)...
だから、分別のある人は、教養は武力の後にやってくること、国家や都市では最初は哲人ではなく、武人が生まれるのを観察することになる。」

2026-05-17

"詩と認知" George P. Lakoff & Mark Turner 著

原題 "More Than Cool Reason: A Field Guide to Poetic Metaphor..."
シェイクスピアの言葉から引かれているらしい。これを「冷めた理性の及びもつかぬ...」と邦訳し、「詩と認知」との邦題を与えている。「冷めた理性の及びもつかぬ...」を主題に、「詩と認知」を副題とした方が、隠喩が利いていそうな...
尚、大堀俊夫訳版(紀伊国屋書店)を手に取る。

言語学には、「認知的隠喩論」なるものがあるらしい。詩ってやつは、想像力や思考力を掻き立てるメタファーであり、道徳的、社会的、個人的な問題意識を高める手助けになると...
また、本書には、シェイクスピア、ダンテ、ミルトン、キーツ、エリオットら、あるいは、聖書やサンスクリット恋愛詩が鏤められ、原題にあるようにメタファー・ガイドブックにもなっている。

 Because I could not stop for Death...
 He kindly stopped for me...
 The Carriage held but just Ourselves...
 And Immortality.

 佇む死を待てずにいると...
 かれは私のために立ち止まってくれた...
 客車には私たちと...
 永遠だけが乗っていた。
 ... エミリー・ディキンソン

「冷めた理性」とは、客観性に裏付けられたもの。これに「及びもつかぬ...」とするところに、客観主義への批判が込められる。
かつて、科学でなんでも解決できると豪語された時代があった。だが現在、あらゆる学問分野で科学的分析が進みながらも、客観主義、機械主義、構造主義、物質主義... といった主張だけでは限界を感じる。
そこで、心の本質的な営みを詩的隠喩に求めるのが、言語学者ジョージ・レイコフと文学理論家マーク・ターナーの試みである。人間精神の合理性を、客観性と主観性の調和に求めて...

「隠喩を研究することは、精神と文化のかくれた面に向い合うことである。詩の隠喩を理解するには、慣習的な隠喩を理解することから始めなければならない。それはとりもなおさず、ある世界観の存在、想像力に加わる制約、そして日常の出来事を理解する上で隠喩の果たす重要な役割を知ることに他ならない。これはそのまま詩の隠喩がもつ力の核となる。なぜならわれわれの日常的な理解の根底を認識し、新たな様相のもとに経験させるのが詩のはたらきだからである。」

隠喩ってやつは、日常的に広く使われるだけに、却って気づかぬところがある。自明であれば、その奥底にあるものを見落としがち。
一方で、生や死といった概念に時の流れが結びついて、人生観を暗示する。人生は旅路、人間は旅人、生は奴隷、死は自由、死は安息の場、死は人生の帰結... などと。生命体は、時間軸上で死を運命づけられている。だからこそ生の虚しさを想い、死の果敢なさを想わずにはいられない。

「時は全てを運び去る。心までも...」
... ウェルギリウス

詩の特徴は、なんといっても音調をともなって、人の心に言葉を刻み込むこと。気分を乗せるには、リズムが重要だ。諺、格言、名言といった文句も、音調がともなって訓示や戒律となる。これらの音調には隠喩が媒介し、それゆえ人は言葉に動かされる。
しかしながら、詩を理解するには、それなりの知識がいる。隠喩を味わうにも、それなりの経験がいる。そうでなければ感じることもできず、いったい何が言いたいのか?などと最低な感想をもらす。「盲人はドブに文句をつける」とさ...

言葉の認知は、存在意識と強く結びつく。詩や隠喩に有難味を感じるのは、認知対象の存在を意識しているからであろう。
そこで本書は、「存在の大連鎖」という説を論じて魅せる。
この大連鎖を関係と解するなら、キェルケゴールにも通ずるものがある。彼はこんな言葉を遺した... 人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは自己自身が関係するところの関係... すなわち、自己とは自己自身にまつわる関係... さらに、関係の、関係の、関係の...  と。
相対的な認知能力した持ち得ない知的生命体は、他との関係から自己を認知するしかないだろう。関係においてのみ存在意識が成り立つとすれば、人間は依存地獄を生きる他はない。

人間の定義を言葉に頼ると、人間は動物である、生物である、物質である.. と自然界における地位がどんどん押し下げられ、存在そのものが曖昧になっていく。パスカルの言葉に「人間は考える葦である」というのがあるが、隠喩を用いれば高尚さを装うこともできよう。曖昧さを抽象化の概念で包み、崇高な宇宙論とすることもできよう。身体的に、生物的に、本能的に、そして理性的に... と辿り、物理的な存在から精神的な存在へ昇華させることもできよう。隠喩の大連鎖は、因果関係を崇高な意識へ高めていく。

しかしながら、巧妙な言葉は、しばしば強烈な自意識を覚醒させちまう。自己啓発から自己実現へのプロセスは、自我を肥大化させ、自惚れから自己陶酔へ。隠喩で語られる精神ってやつが、どれほど偉大かは知らんが、御用心!御用心!

「狭き門より入れ、滅びにいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者おほし...
生命に至る門は狭く、その路は細く、之を見出す者すくなし...」
... マタイ伝福音書 7:13-14

2026-05-10

"認知意味論 - 言語から見た人間の心" George P. Lakoff 著

本書を分類すると、言語学ということになろうが、大枠では認知科学に属すらしい。認知科学とは、心理学、言語学、人類学、哲学、コンピュータ科学など多岐にわたって、人の心というものについて知見を統合する学問だという。言語学者ジョージ・レイコフは、こんな問い掛けから「経験的実在論」とやらを論じて魅せる。
理性とは何か?それは、いかに意味づけられるか?理性が普遍的なものだとすれば、いかに体系化できるか?と...
また、人間の思考を発達させてきた要因に言語があり、言語が思考を牽引するのか?思考が言語を牽引するのか?あるいは、その双方か?と...
尚、池上嘉彦、河上誓作、他訳版(紀伊国屋書店)を手の取る。

レイコフは、自らの研究の立場を「経験基盤主義」と呼び、客観主義に対抗する。客観主義といえば、科学!かつて、科学でなんでも解決できると豪語された時代があったが、その流れに反発するかのように...
客観性では他を寄せ付けない数学にしても、数学の完全性を目論んだヒルベルトは、ゲーデルの不完全性定理によって挫折せざるを得なかった。このパラドックスの主役に躍り出たのが、集合論だ。言語体系もまた、文法と語彙の集まりで成り立つ集合論と見ることができよう。
まさに本書は、集合論的な言語論から記述を超えた領域へと踏み込み、認知哲学の重要性を唱える。人間にとって言語とは、抽象的な記号と機械的な操作を超越した存在であると...

言葉で説明できるからといって、本当に理解できているとは言えまい。精神や心といった概念は、言葉ではいくらか説明できるが、その実体を見た者はいない。物理的に自由電子の無数の群れとすることはできても、そこに思考や意思のようなものが生じるメカニズムは解明できていない。
科学は、原因と結果を結びつける学問だ。結びつけられなければ、様々な解釈を呼ぶ。しかも都合よく。解釈との馴れ合いがなんでも分かった気分にさせる。人間にとって気分は重要だ。それで、心を平穏に保てる。物事を客観的に捉えるために言語は欠かせない。だが、思い込みを旺盛にし、自我を肥大化させるのも言語だ。

人間足るとは、どういうことか?そのために言語は、どういう位置づけにあるのか?こうした疑問は、チューリングの問い掛けにも通ずる。それは、機械は意思を持ちうるか?ということ。そもそも意思とはなんであろう。それが、言語を超越した現象だとすれば...
今や AI がもてはやされる時代、AI が言語化によってのみ機能するとすれば、完全に身を委ねるのは危険ということになりはしないか。いや、人間よりましかも。もし、AI が言語を超えた領域にまで踏み込むようになれば、理性らしきものを獲得するのだろうか。やはり、人間よりましかも...

言語による認知は、分類、類似性、属性、カテゴリ化といったものを起点にし、これに意味を与えようとする。相対的な認知能力しか持ち得ない知的生命体ができることといえば、他との比較においてのみ。言語が人間の認知活動で重要な役割を果たしているのは確かだが、概念の会得に言語だけでは心許ない。人間が編み出す概念のすべては、自己言及に踏み込んだ途端にパラドックスの網にかかる。
概念は、メタファー、メトニミー、心的イメージを媒介し、思考は、ゲシュタルト的特性を有し、循環論的でもあるという。身体的で、生理的で、情念的で... それで、言語を超越した理解力とは、いかなるものだというのか。少なくとも、言語では説明できそうにない。

とはいえ、言語による記述を認めなければ、学問は成り立たない。この書は、言語学者が自らの学問の限界を示そうとしたのであろうか。いや、学問全体の限界を...
つまり、人間は人間自身を永遠に理解できないというのか。だとしても、AI が人間っぽくなれば、その比較において少しは理解できるかも。そして、人間という概念も変わっていくのかも...

2026-05-03

"最新コンパイラ構成技法" Andrew W. Appel 著

原題 "Modern compiler implementation in ML"
ML(Meta-Language)とは、Algol 系の言語で、高次の視点、すなわちメタ視点から言語を論じる場面に適しているという。本書は、プリンストン大学のコンパイラ講座に沿った教科書だそうな。アンドリュー・エイペルは、自ら提唱する Tiger 言語を ML で実装するストーリーを描いて魅せる。
ちなみに、「Tiger 言語リファレンスマニュアル」を覗いてみると、文脈的な依存関係があまりなく、コンパクトな命令型言語とお見受けする。ソフトウェア工学をプリミティブなレベルから学ぶには、恰好な題材やもしれん...
尚、神林靖、滝本宗宏訳版(翔泳社)を手に取る。

コンパイラと言えば、実行可能なマシン語への翻訳機とでも言おうか。むか~し、おいらが美青年と呼ばれた時代、日本語プログラミング言語に憑かれ、アセンブラ言語のマクロ機能を駆使して翻訳機を書いた頃の記憶がかすかに蘇る。
当時、C言語が主流となりつつあったが、コンパイラ性能はイマイチだし、リソースもしょぼい。リアルタイムシステムでは、まだまだアセンブラ言語に頼らざるを得ない時代であった。
現在、スクリプト言語が華やかに台頭する。言語の分かりやすさや柔軟性は、プログラムのメンテナンスに欠かせないが、人間にとっての分かりやすさと、マシンにとっての効率性は相い反するところがある。実は、根底で密かに活動する翻訳機の存在意義は、以前より増しているのやもしれん。自然言語で機械翻訳が活躍しているように...

コンパイル処理の流れは、お決まりなところがある。字句解析、構文解析、意味解析、データ構造解析、中間言語による抽象化、命令セットの割り当て、レジスタやメモリの割り当て、実行可能なコードの生成... といったところ。
本書は、こうしたトピックに加え、オブジェクト指向型言語のコンパイラ "Object-Tiger" と、関数型言語のコンパイラ "Fun-Tiger" の実装例を紹介してくれる。

まずは、コンパイラの理想像を描いてみるのもいい。抽象レベルでは、無限のレジスタやメモリ、最も効率的な命令セットを想定することもできる。これらを現実のリソースに割り当てるの時、効率的な割り当てがコンパイラの性能にかかってくる。
本書は、こうした視点に付随して、多くの仕掛けやアルゴリズムを紹介してくれる。注目したい話題は、「静的単一代入形式、高階関数、ごみ集め、パイプライニングとスケジューリング」といったところ...

1. 静的単一代入形式
すべてのデータの流れや経緯を単純な代入で組み立てていく記述様式で、集合論的な視点を与えてくれる。人間の思考は言語学的な視点に着目するが、コンピュータは数学的な構造を持っており、集合論的な記述が効率的。データの生存解析にも有効で、ゴミ集めのための情報としても活用できる。

2. 高階関数
関数の入れ子になる仕組みで、引数に関数を渡すことができ、結果に関数を返すこともできる。スコープの入れ子も含めて,,, こうした性質は Tiger 言語の特長でもあり、コンパイラの実装で有用だという。

3. ごみ集め
この機能はコンパイラが持つべきかは微妙だが、ごみ判定のための支援をコンパイラがやってくれると助かる。
そもそも、ごみとは何か?本書では、「ヒープに割り当てられたれコードのうち、プログラム変数からポインタと連鎖を辿って到達できないもの...」と定義される。
お馴染みの静的コンパイルでは、到達可能かどうかの判定をコンパイラ側でやって、あとは、ガベージコレクション側に任せることもできる。
だが、ランタイム時に実行するような動的コンパイルでは、ごみ集めの機能も組み込みたい。ごみ処理機構は人間社会同様、システムの秩序に影響を与え、致命的な問題ともなりかねない。ちなみに、新種のプログラミング言語は多くのごみを出すらしい。
そこでアルゴリズムでは、ガベージコレクションの文献でも見かける「マークスイープ回収法」、「参照カウント」、「Cheney のアルゴリズム」、「世代別回収法」、「Baker アルゴリズム」などが紹介される。

4. パイプライニングとスケジューリング
要するに、時分割並列処理を行うための仕掛け。あらゆるデータや命令セットを完全に平等に配置できれば、並列処理が効率的に分配でき、マルチコア環境をフル活用できるだろう。
だが、データも命令セットも、生存条件や処理順などの依存関係を持っている。データの先読みや先行処理を効率的にやるにしても、レジスタは有限だし、メモリも有限だ。メモリの多重構造までもプログラマに意識させるのも酷だし、キャッシュ構造も考慮したい。
おまけに、対象となる言語仕様との兼ね合いも絡むとなれば、コンパイラの仕事はますます増えるばかり。こうした事を意識せずにプログラムが書けるようになったのも、彼ら縁の下の力持ちのおかげ。ありがたや!ありがたや!