2007-06-17

"行動経済学" 友野典男 著

アル中ハイマーが市場経済に興味を持ち始めたのは5年ほど前からである。せっかく興味を持つのだから、教科書とも言うべき経済学や金融論の書籍を読むべきだと考えた。 そして実行してみると、どれもなんとなく読み辛いような受け入れ難いような、難しいという印象を持っている。感覚的には、数学や物理学の方がはるかに難しいと思うのだが、自然科学の分野の方がおもしろく受け入れられるのはなぜだろう?こうした疑問は、アル中ハイマーには経済学など理解できる頭脳を持ち合わせないという悲観的な結論に向かわせていた。そのような時、いくつかの受け入れやすい本に出会い少し勇気を取り戻すことができた。本書もその中の1つである。

本書は、まえがきに行動経済学の入門書とあるが、現状の経済学の限界を指摘している。そこには、「行動経済学」に対して従来型を「標準的経済学」と呼び、標準的経済学が、超合理的な行動をとる非人間的な学問で、現実から掛け離れたものであると攻撃する。そして、今や経済学は、心理学や脳神経科学などを取り入れた学際的な学問にしなければならないと主張する。中でも、一番印象に残っているのは、ある実験調査で「経済学を勉強すれば利己的になる」という仮説を唱えているところである。非経済学専攻の学生は、歳とともに協力を選ぶ者が多くなる。これは一般的傾向である。一方、経済学専攻の学生は、協力を選ぶ者が少ない。というのである。この結果に否定的な実験もあるという補足付きで述べているが、こうした観点でこの学問を覗くと納得させられるところが多いのである。
この本を読んでいると、かつて"Common Stocks and Uncommon Profits(1958年)"の著者フィリップ・フィッシャーが記していたことを思い出す。アル中ハマーの記憶力を最大限駆使して読み返してみると、
「経済予測に頼るのは止めることである。経済学理論としては間違っていないが、予測そのものが信頼できない。為替相場も同じで、この複雑系を予測できるほど経済学は進んでいない。経済学は上辺の現象を追いかけすぎて、本質を見抜こうとする努力を怠ってきた歴史がある。大半の頭脳をもっと建設的に使われれば、古典派を脱することもできたであろう。」
といった内容が書かれている。当時、フィッシャーの言葉をなんとなく理解していたつもりだが、本書のおかげで理解を深めることができる。この感触からして、今宵の純米酒はなかなかいけそうだ。経済学に実感がわかず、難しく感じるのは、アル中ハイマーの頭が悪いということで片付けるのは早計だと思い始めたのである。

1. 標準的経済学
標準的経済学で対象としている経済人とは、極めて合理的に行動する人種であると紹介する。
「自分の嗜好が明確で矛盾がなく常に不変であり、自分の効用を最大にできる意思決定能力を持っている。他人のことは一切顧みず、自己の物質的利益を最大にすることだけを追求する利己的な人間である。いわゆる倫理、道徳という概念は持ち合わせない。」
と述べている。 なるほど、私益が得られる機会があれば、どんな小さなチャンスも見逃さないという性質が派生的に導かれる。標準的経済学は、このような人種が経済活動する前提に立った学問だというのである。
更に続けると、市場における淘汰論が展開される。非合理性に行動する主体は市場から排除されるから、実質的に経済に影響を及ぼすのは合理的な主体しか残らないという。アル中ハイマーがひっかかっている点は、ここである。一見理論的で、学術的であるから、納得というよりは説得されている感じがする。例えば、ボランティアや献血はありえないと予測されるなど、しばしば現実に起きる事を予測できないという。
一方で、この学問は、経済人という仮説は強すぎるということも認めている。だからといって適当な理論も見当たらないから、合理的な分析を進めるために暫定的に認めているという半ば諦めたものであるという。こうした議論は政治的によく見られる。こうなると幻滅しかない。おいらに言わせれば分析放棄論である。そもそも、経済理論とは規範理論であり、人々の行動を予測するのではなく、人々が、どう行動するべきかを示したものだという。もはや経済分析ではなく説教論である。

2. 行動経済学
ここで、アル中ハイマーは一つの疑問にぶつかる。
経済は一言で言えば金(価値)の動きであり、人間の感情が左右されやすい世界である。詐欺行為などは金銭が絡むことが多く、巧みに心理を攻撃してくる。それにも関わらず、今更心理学やら他の学問を取り入れるとはどういうことか?
本書は、過去の経済学に心理学を組み込むことは何度も試されたが、あえなく玉砕した様が語られる。そうした背景で1978年ノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンが登場する。彼は標準的経済学が仮定している超合理性を、人間の認知能力の限界から体系的に批判した最初の経済学者であると紹介される。本書は「行動経済学元年は、1979年」としている。
古典派経済学では、現実から掛け離れた考察や主張が世間を席巻したことが語られるが、古典派ならばやむを得まい、科学でも天動説やら、宗教的影響を受けた理論が席巻したものだ。しかし、1979年に現実にそぐう見方が始まったとは驚きである。とっくにおいらは生まれているではないか。なんとなく経済学は、どんくさい頑固な学問という印象を受けるのである。背景からして、経済学が必要に迫られる人々とは、金持ちだけかもしれない。政治家や地主など支配層に見られる地位と名誉の世界である。おいらは経済学は理系だと思っている。現象の解析が数学的だったり物理学的だったりするからである。そうすると進化という意味では、それほど差があるとも思えない。自然科学は、貧困層など関係なく興味が湧けば研究できる世界なので学問の底辺も広い。こうした底辺だけを比較すると経済学が後進的なのも仕方がないのかもしれない。マスコミ等でよくみかける経済評論家がどんくさそうに見えるのは単なる偶然だろう。アル中ハイマーは、酔った勢いで拡大解釈をするのである。
本書では、行動経済学を、完全合理性を否定するが、ランダム性を主張しているのではなく、ある一定の基準から外れる限定合理性を持つと述べている。

3. ヒューリスティック
人間の経験や学習から得られたり、直感的に判断する手法である。対比されるのが、手順を踏めば厳密な解が得られるアルゴリズム手法である。ヒューリスティックは、合理性に直感的バイアスをかける。経済予測や政治予測を確率で述べる場合、ほとんど直感的判断による主観確率が多い。主観確率は過去にあった事象から記憶を辿って確率として押し上げる。大地震が起きて防災グッズが売れたり、BSE問題で牛肉忌避運動になるのも、その例である。起こってしまったことを予見していたように意見することも後知恵バイアスが働いている。株価が下がった時、「そうなると思っていたよ!」などと素人でも意見する。
"代表性による罠"も取り上げている。おいらはいつも討論会などで、女性の代表や各国の代表と称してコメントしている人の信憑性に疑問を持つ。身近な人には逆の意見を持つ人が多いのは、周りに天邪鬼しかいないからだろうか?類は友を呼ぶ。

市場において誰にも答えられない疑問に、株価はどうやって決まるのか?というのがある。経済や企業の基本的な実力であるファンダメンタルズに基づいて決定されるというのが標準的ファンダメンタルズ理論の主張である。しかし、投資家は適正な株価水準を知らないのが現状であることを指摘している。せいぜい、日経平均などの数々の指標を過去から推測するだけである。
ファンダメンタルズ原理主義者と称しているアル中ハイマーには頭が痛い指摘である。確かに、株価収益率や資産倍率などから過去の水準に対して判断しており、その水準を微調整しているに過ぎない。株価は将来予測に基づくと言われ、マスコミ等で材料は折込済みなどと報道されるが、では、将来とはいつか?そんな基準があろうはずがない。おいらは、夜な夜なテクニカル分析を繰り返していたことに気づかされるのである。アル中ハイマーは本日より、ファンダメンタルズ原理主義を廃し、夜のテクニシャンと名乗ることにする。

4. プロスペクト理論
標準経済学の効用関数に対する「価値関数」と確率に重みを付ける「確率加重関数」により構成される。価値関数の特性は、人間の心理は、大きな変化が起きると、利得に対してリスク回避的で、損失に対してリスク追及的である。しかし、小さい変化が起きると、その逆になるという。確かに人間の意識は、同額であるならば利得よりも損失に対する不満の方が大きい。損切りは難しいが、少しでも儲けが出るとすぐに手仕舞うといった行動も説明がつく。プラスの刺激よりもマイナスの刺激の方がより敏感である。確率加重関数とは、価値関数に事象が起きる確立を掛け合わせたものである。確率が小さいところでは過大評価され、確率が大きいところでは過小評価される。人間は極端な変化は好まない。不確実性も好まない。総合すると、確率が高いところでは、利得に関してはリスク回避、損失に関してはリスク追求。確率が低いところでは、利得に関してはリスク追求、損失に関してはリスク回避と述べている。
また、保有効果についても述べている。つまり、保有している資産の価値は多めに見積もる傾向にある。これは、企業などの組織についても言える。自分自身の地位や名誉を守ろうとする行為や所属する部署に愛着を感じるなどで、改革路線に影響を与える。政府の認可や免許など法的権利にしても、規制緩和により手放すことを強いる政策に対して、想定以上の抵抗が表れる。人間には、安いからとか効率的だからと言って、簡単にシステムを変えようとはしない現状維持バイアスがある。うすうす感じていたが、人間社会には、完全な効率的システムや、完全な公正はそぐわないものらしい。例えば、賃金アップの労使交渉では、労働者側は必ず現時点からのアップを要求する。しかし、物価上昇率など世界的水準からみた場合は高いレベルにあるなどは考慮しない。名目賃金を切り下げると抵抗は大きいが、インフレ期にには名目賃金を下げることなく、実質賃金を下げることができる。これは不公正とみなされないのはなぜだろう。アル中ハイマーの昔から持つ疑問である。

5. フレーミング効果
同じ状況であるにも関わらず、変化の方向で人間は全く違う感情になるという。同じ問題でも、肯定的に捉えた場合と、否定的に捉えた場合では答えが違う。景気指標でも、雇用率 90 %と表現するか、失業率 10 %と表現するかで世論の方向性を操作できるかもしれない。
また、初期値効果についても語る。パソコンの環境を初期状態でそのまま使っている人は多いだろう。一般的ユーザは分からない領域をいじることはない。これもユーザを扇動する有効な手法である。初期設定を選んだからといって、人間はそのシステムを信任しているとは限らないだろう。こうした話はすぐに国政選挙を思い出す。例えば裁判官の信任、不信任の意思表示がそれである。バツを書かない限り自動的に信任したことになるとは、これいかに?おいらは、裁判官の信任には大抵バツを書く。わからなければ信任できないからである。わからないから何も記載しない。これが信任する方向にバイアスがかかるのはシステムが間違っているとしか思えない。そもそも選挙に行くということは、それなりに意思表示があるということである。マスコミは、決まって投票率が国政に対する不満の指標であると主張する。評論家や知識人と言われる人々は、生放送でシステムの欠陥を指摘しないのはなぜだろう?あらゆる官僚主導で調査される市場調査やアンケートの類は、このような手法であるに違いない。そうでなければ、これだけ第3セクターで失敗し、箱物ができては廃れるなどを繰り返すわけがない。「こんな場所に、こんなもん建てても無駄だ!」という台詞は、その辺の婆さんでも吐いている。これを専門家が分からないはずがない。これを地位と名誉のバイアスと言うのである。

経済学では、過去に払った費用を埋没費用という。
プロジェクトの検討には多大な労力と時間を費やしてきたとなると、なんとしても実行に移したいと考える。乗りかかった船だから途中で降りられないといった発言はよく見かけられる。しかし、こうした状況を考慮することは合理的行動とはいえない。その要因の一つは評判である。途中で止めると過去の判断が間違っていたことになる。つまり自尊心が傷つくことを避ける働きである。二つはヒューリスティックの過剰な一般化である。「無駄にするな!」とは子供のころからよく聞かされた言葉である。この効果は年齢を重ねれば、ますます顕著になる。これぞ公共事業の真理である。ただ、日本の場合、そもそも予算取りが、手段ではなく目的であるために、途中で止める前に最初からするな!という事例が多過ぎる。

6. 選択のパラドックス
経済学や意思決定理論では、選択肢は多い方が人々は自由に選択できて満足度が大きいという前提が、暗黙の法則になっているらしい。この発想は自由主義思想とも結びついており世間を席巻しているが幻想だろうと述べている。しかし、お姉ちゃんの選択肢は多い方が幸せである。おいらには無限に広がる大宇宙である。マーケティング戦略にうなぎの例がある。特上、上、並とあれば、上を選択する人は多い。つまり、一番売りたいものを真中にランクする効果である。祖母の葬式で葬儀屋から、松、竹、梅でコースが選択できる場合、竹を選んだ。梅だと、亡くなった人にあまりに失礼だと思ったからである。しかし、明細を見て驚いた。ちょうちん一つが5万円。これは高い!実はレンタル料と知って更に驚いた。「買ったんじゃねーのかよ!」どうりで使い古している感じがする。冠婚葬祭でケチることなど、あまり聞かない。ぼったくりに合う悲しい性である。おいらも飲み屋でケチることはあまりしなかったが、生まれ変わることにした。07式アル中ハイマーは、フルパワー改造だ!

7. 近視眼的な心になる傾向
一般にほとんどの経済的な意思決定は異時点間の選択である。長い時間に渡って効用が少しずつ得られる。人は将来の利得を割り引く傾向にあると述べている。また、将来的にだんだんと良くなる上昇系列を選択する傾向にあるとも述べている。身近な幸せを望みながら将来の上昇志向を好むのは、人間の欲の真理かもしれない。株価においても、一時的に下降トレンドが生じて、トータルでは合理的であったとしても、徐々にでも上昇トレンドを選択する傾向にあるという気持ちは理解できる。人間は不快な時は時間が長く感じるが、快い場合は短く感じる。お姉ちゃんの手を握っている時間は短いが、おっさんとの握手は辛いものである。

時間的な人間の心理として、協力関係を述べている。短期間であれば進んで協力したり、奉仕したりする人間は、意外と数がある。しかし、長期間になれば、だんだん協力関係が減少するという。では、協力関係を維持する方法とはなんだろう?処罰の役割は大きいと指摘している。ここでの処罰とは刑罰や罰金だけではなく、悪評や村八分など社会的制裁も含む。これは、完全な利己主義者であっても多少の協力をさせることは可能である。しかし、実験的に、利己主義者は所詮利己主義で、本質的には変えられないことも付け加えている。処罰の効果を指摘しながら、逆に処罰で低下するモラルも述べている。人間は、悪いことをするとモラル的に反省するが、処罰が加わるとモラルが消えるという。人間は罰せられると、罪が消えると思うのかもしれない。裁判システムは罪を取引のできる定量的なものにしているのかもしれない。そうなると、市場における制裁システムの効果とは、どうなるのだろう?悪評による社会的制裁の方が効果的かもしれない。人は公正であることを求める性質もあるだろう。何をもって公正かとなると、本書は平等性からくるだろうと主張する。
この根本は人を羨む心ではないだろうか。人を羨む心は、参照できる範囲から生まれる。自分から見て、到底別世界の人間には、憧れても羨むことはない。しかし参照できる身近な範囲となると、同じ生活レベルの人間の行為には憧れではなく羨む心となる。よって、その人間が参照できる範囲がその人間の器というものだろう。

ここで、「情けは人のためならず」という諺の解釈について紹介しているのでメモっておこう。最近「情けをかけるのは人のためにならないから、止めたほうがいい」と解釈する人が多いという。ちなみに、めぐりめぐって自分のためになるから、情けは自分のためである。というのが本筋である。アル中ハイマーは、人に酒をつぐと、酒が大量につぎ返されて潰される。よって、情けをかけると不幸が返ってくると解釈している。

8. 感情の役割とはなんだろう?
感情的になると、人間的に成熟度が低いと見られそうだ。よって感情的にならず、常に冷静に意思決定できる人間は知的で品格を感じる。それは本当だろうか?なぜ人間は感情を持っているのか?
人間は、過酷な進化の中で、瞬間的に判断しなければならない危機に直面したはずである。この状況からいち早く反応するためには、合理的思考など悠長に構えていられなかっただろう。よって、直感で判断し行動しなければならない状況は多かったはずである。その進化の過程で自然と身についた武器かもしれない。人間が近視眼的な行動をするのも、かつての進化で今生きることが大変だった時代のなごりかもしれない。
本書では、合理的な推論や、冷静な計画による決定が必ずしも上手くいくとは限らないと述べている。よりよい意思決定のための重要な役割が感情であるという。このことが、最近、心理学、脳神経科学の発展により、明らかにされつつあることを主張している。経済学には人の感情というのは不要と考えられているのが一般的なようだ。しかし、行動経済学の最先端のテーマは、感情の積極的な意義をめぐるものであると語られる。
直感は、思ったよりも当たっている場合がある。仕事などで問題解決の手段として結構直感からアプローチしている。ただ、その直感とは経験から養われているのも事実である。そもそも、選択肢が多い場合に、時間的な制限もあるので、全てのパターンを検証するなど不可能である場合が多い。よって、ある程度の選択肢を放棄せざるをえない。本当に経験から直感が養われるならば、直感に頼って生きれば、良い年寄りに収束するかもしれない。ただ、若い頃の武勇伝は凄いこといなりそうだ。

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