2007-11-04

"高校数学でわかる半導体の原理" 竹内淳 著

アル中ハイマーは高校まで数学が得意だと錯覚していた。ところが、大学であっさりと挫折してしまう。以来数学は嫌いだ。「高校数学でわかる!」なんて、ブルーバックスもなかなか憎い企画である。酔っ払いは、三度もこの呪文の罠に嵌ってしまう。

おいらは半導体業界との付き合いがある。ちょうど先月から仕事が迷い込んできた。独立する前は、この業界にお世話になっていたこともあり、その流れで今でも年に一、ニ度ほど関わることがある。主な業務は、回路設計と検証環境の構築である。今、検証環境を作り終わって一息ついたところである。あれ?今月末完了って見積もったような?いや!まだ夜の社交場からのアクセスをテストしていない。それも、ほど酔い気分という暗号語はセキュリティレベルの調整が難しい。テスト中、うちの酔っ払いマシンは「君に酔ってるぜ!」とかぬかす始末。やはり月末までかかりそうだ。
アル中ハイマーは元来ハード屋なので、ハードボイルドに生きることをモットーにしている。しかし、昔から雑用係になることが多いため、多少コミカルな態度をとる。これもハードに生きる人間の隠蓑で、世を欺くための演技である。

ハードな世界も言語による設計が進み、随分ソフトになったものである。20年前、アル中ハイマーが社会人になった頃、まだまだアナログ全盛で増幅回路が分からないと馬鹿にされたものである。おいらはオペアンプなどのリニアICに逃げ込んでものだ。物理数学の苦手な人間には辛い分野である。その頃CPUが流行だした。プログラマブルデバイスも登場しベテランの技術者を混乱させていた。大した知識ではないのだが、論理式やアセンブラ言語に拒否反応を起こしている。こうした背景もあって、おいらはディジタルへ逃げたのである。しかし、いまや論理だけでは対応できない。線形数学の中に放り込まれている。アル中ハイマーは、いつまでも数学に追いまわさる運命にあるのか。

デバイスの話も苦手であるが、完全に避けていたわけではない。昔、Behzad Razavi著の「アナログCMOS集積回路の設計」を読んだ時は、それなりに理解したつもりである。ただ、いつもながらリフレッシュサイクルが追いついていかない。ある産学連携の企画で、アカデミック価格で開催されたアナログ回路の講義をこっそり受講したりもしていた。こうした企画は貧乏人にはありがたい。無駄な努力を面白半分にやっていたものである。本書は、そうした時代を懐かしく思い出させてくれる。そこには、半導体の基礎知識、ショットキーとPN接合、トランジスタ開発のドラマが語られる。高校数学でもなかなか難しいレベルもある。どうせアル中ハイマーの能力では厳密に理解することなどできない。しかし、その難しい部分でさえなんとなく理解した気分にさせてくれる。なかなか気持ち良く酔える味わい深い再入門書である。

本書は大半が科学の話であるが、トランジスタの発明については、そのいきさつにも触れている。ちょっとメモっておこう。
トランジスタは、PN接合を組み合わせることにより電気信号を増幅できる素子である。AT&Tベル研究所のウォルター・ブラッテン、ジョン・バーディーン、ウィリアム・ショックレーらのグループにより発明が報告される。
リーダーのショックレーは有能な研究者であったが人格的に問題があったという。自分自身の能力に自信をもっていて協調性を欠いていたらしい。優秀な人材には時々見かけるパターンである。
ショックレーが目指したものは、電界効果トランジスタのタイプ。半導体の両端に2つの電極を付け、中間にもう1つの電極を付けて、中間の電極に電圧をかけることにより両端に電流の経路を作るといったものである。当時は、この経路ではなかなか増幅作用が得られなかった。これをバーディーンとブラッテンが実験により克服する。半導体もシリコンからゲルマニウムを採用する。ゲルマニウムとプラスチックの三角形の頂点を押し付けられることから点接触型トランジスタと呼ばれる。1947年、真空を使わずに固体だけで増幅装置を実現したのである。
尚、バーディーンは、この実験にはショックレーの貢献はないと語っている。トランジスタの発明が公表されたのは1948年。ベル研究所はチームワークの勝利であると公表。記者会見ではショックレーが質問に答えたので発明の中心人物として映った。その後、特許論争でショックレーと二人の間に溝ができた。点接触型トランジスタは製造が難しく、量産しても不良の山を作る。力学的にも壊れやすいなどの欠点を持っていた。
ショックレーは、トランジスタの開発を主導してきた自負心の一方で、点接触型トランジスタの実験には関わっていない後ろめたさがあったのかもしれない。休暇を返上し、わずか1ヶ月後に接合型(バイポーラ)トランジスタを発明した。バーディーンとブラッテンは、特許からみても増幅作用がなぜ起こるかの明確なイメージを持っていなかったという。一方、ショックレーは、P型からN型、そしてP型へと戻る電流の経路から増幅作用が得られるという本質を見抜いていた。
1955年ショックレー半導体研究所が設立される。これが後年のシリコン・バレーの起源となる。順調にスタートしたかに見えたショックレー半導体研究所も、間もなく部下との対立が始まる。その中の、ゴードン・ムーアとロバート・ノイスはインテル社を設立する。ノイスは集積回路の発明者としても有名である。ムーアはムーアの法則を提唱した人である。ムーアは、ショックレーは半導体の中の電子の動きを直感的に把握する優れた能力を持っていたが、人を動かすのは下手だった。と評している。
ショックレー研究所は、やがて経営に行き詰まるが、シリコン・バレーという米国半導体の中核を生み出した貢献は大きいと語られる。

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