2008-04-20

"史上最大の発明 アルゴリズム" David Berlinski 著

論理学は、物事の真理を追究していく学問であるが、危険性もはらむ。自分自身の思考で道に迷った挙句、狂気する者も数知れない。常識によって救い出された人は、見つけられないものを探していたことに気づくだろう。それでも、狂気に向かう衝動は抑えられない。数理論理学に身を投じた数学者の人生は、叙事詩的でもあり悲劇的でもある。人より早く歳をとり、成人を迎えると無情な早さで衰える。数々の論争を単純化することに努力した天才たちは、ついに生きることよりも死ぬことの方が単純であることを悟る。その結末が本人にとって悲劇でなければ、それでいい。
数学の中で疑う余地がない分野があるとしたら、それは算術であろう。手に負える知的範囲に留まっていると思えるのは、ユークリッド幾何学のみである。一度得られた数学の公理は永遠である。数学者は帰納法という魔術で、無限をも手なずけ、見ることもできない世界を証明する。彼らは魔術師か?それとも占い師か?詐欺師のアル中ハイマーとしては見逃せない。「私は嘘をついている」さて、この嘘つきの言葉は真か?偽か?数学のパラドックスのほとんどが、この自己言及の罠に嵌る。大デカルト曰く「我思う、故に我在り」。そして、自らの存在を証明し、ついには神の存在までも証明してしまう。アル中ハイマー曰く「我時々思う。故に時々存在する気がする」。そして、自らを酔っ払いであることを認め、ついには人間は皆、俗社会に酔っていることを証明するのだ。
ゲーデルは晩年、不完全性定理は、自分が発見しなくても誰かが発見していたにちがいないと謙虚に述べたという。この主張は正しいだろう。真理の概念とは必然的なものであり、概念が歴史の中で散歩しているのである。誰がその概念を歴史の流れに乗せるかは、大した問題ではないのかもしれない。すると、人間は何のために存在するのか?人間は真理を暴くための使命を帯びているのか?人口増加とは、真理を導くために、その確率を高めるためのものなのか?戦争とは、科学を進化させるために、怠け癖のある人間の尻たたきを目的としているのか?競争の原理の正体とは?その最終目的とは、宇宙の真理を暴くことか?神は随分とカオスなシステムをお創りになったものだ。こうしたくだらないことを真面目に考えた挙句にかかる病が、アル中ハイマー病である。おっと!論理学を語り始めると酔っ払いは歯止めがきかない。これを静めるには、グィッと一気に沈めるのが一番だ。なぜかって?そこにグレンリベットがあるから。

本書は、哲学と論理学を母体とする人間の思考から、ついにアルゴリズムに到達するまでの歴史ロマンを物語る。また、歴史上の人物たちと会話するフィクションが盛り込まれ、現実と幻想が交錯する。文学的でもあり、科学抜きで読み物としておもしろい。アルゴリズムの歴史は古代ギリシャにさかのぼる。その語源は、アラビア代数学の創始者、通称アルフワリズミが変形したものらしい。アルフワリズミが示す10進数の四則演算は、最も単純なアルゴリズムである。科学の意義は体系化されるところにある。人間思考や社会現象のような複雑系は、論理的な姿も見せるが、推測できない部分が多い。数理物理学者を支えてきた偉大な概念は微積分であるが、その時代も三百年に渡って息切れしている。これを解明する手段として、注目されている概念がアルゴリズムである。アルゴリズムは記号を操作する手続きに過ぎないが、知能の概念をも解き明かそうとする。アルゴリズムの計算は、有限で不連続で、関数などをもたらさない。ただ、シミュレーションによって離散的にスナップショットするだけである。数学者は、この不連続なものを貼り付けることによって、近似的な仮想世界を推論する。いまや、自然科学の基本法則は、アルゴリズム、情報、記号の三つの概念によって救済されている。果たして、この道具は複雑系にどこまで迫ることができるだろうか?

1. ライプニッツに始まる
論理学を体系化したのはアリストテレスである。それは、万物を「すべて」と「ある」の絡み合いである。これを表すには、0と1の二つの数で十分であり、なんとなくデジタル思想がうかがえる。この体系は、矛盾を抱えながらも幾世代にかけて支配し続けた。17世紀、論理学は、まだ社会的に認められた学問ではなかったが、それにライプニッツが挑む。彼は、この世はこれ以上悪くしようがないという通念とは逆に、この世はこれ以上よくしようがないと信じていたという。ライプニッツの概念は「神」と「無」であったらしい。この時代の偉大な数学者にオイラーがいる。数学界で、足し算が無限和に拡張された時、数がどこまでも続くのに、どういうわけか、ある数に収束するパターンを発見した。無限の演算を「部分和」と「極限」の二つの道具で克服する時代が到来する。ジュゼッペ・ペアノは、一次微分方程式の解が存在することを証明した。それは無限個の数を有限個の記号に分解される。ペアノ公理は無限にいたる道を示す。新しい数学の体系を示す概念は、しばしば矛盾をはらむ。微分の概念で、無限に小さい数は他のどんな数よりも小さく、しかも0ではないとは、不条理にしか思えない。
本書で登場する夢商人の話はおもしろい。真理の見える夢を商売にしている。毎晩夢を見ることによって、一段ずつ真理の階段を上っていき、だんだん真理に近づいていく。では、いつ真理に到達できるのか?それは階段を上りきったら。では、いつ階段を上りきるのか?それは真理に達すれば。真理の夢を見るには高くつきそうだ。

2. ラッセルのパラドックス
フレーゲは、量化を持ち込んで命題演算を可能にする。「すべて」と「ある」の論理は、「任意」と「存在する」という概念に置き換わる。フレーゲは、アリストテレス以来、二千年続いていた伝統論理学を一掃し、推論規則を体系化した。あらゆる命題を解くために、変項、量化子、述語という道具を使って述語演算する。フレーゲの野望は、算術演算で論理思考を組み立てることだったという。19世紀末、ゲオルク・カントールは、集合論を確立した。基本的な概念は「分離」と「同化」である。分離は対象から選び出すこと、同化は集めること。フレーゲは、集合論をも含む論理形式の算術へ挑む。そして、集合から生まれるあらゆるものを同化しようとした。ここで、ラッセルは集合論における矛盾を指摘する。これは、数学界にとって深刻な問題となる。ラッセルは言う。「自らを要素として含まない集合を考えよ!」と。そもそも集合とはそういうものだ。全ての数の集合は数ではない。全ての犬の集合は犬ではない。しかし、通常ではありえない、それ自体を集合として含む集合がある。つまり、集合の集合はどうか?複数の集合を集めて一つの集合とした場合、要素に集合が含まれる。
ここで、集合Xについての条件Aは、「Xは、X自身の要素とならない集合である」とする。「集合Xは、要素ではない」とすると、条件Aを満たすので、集合XはXの要素となる。「集合Xは、要素である」と仮定しても、条件Aを満たさないので、集合XはXの要素とならない。この議論は、「この文章は偽である」という文章が正しいのかどうか?という問いに似ている。自己言及は自己陶酔を招き、自らをアル中にしてしまう。

3. ゲーデルの不完全性定理
ヒルベルトは、初等幾何学に革命を起こし解析数論を統一した。彼は、ヒルベルト・プログラムで、数学界の未解決問題をリストアップし、解を導くように先導する野望を画策する。彼は、どんな問題も体系的であり、数学上の共通する構造があると主張した。彼の目指す論理体系とは、無矛盾でなければならない。形式的体系は完全でなければならない。そして、これを証明するために、同じ形式的体系をもった道具を使わなければならない。広範囲に及ぶ難解な概念を、機械的ルーチンに従属させようとしたのである。しかし、クルト・ゲーデルは、ヒルベルト・プログラムを破綻させる。「算術は不完全である」ことを証明してしまったのだ。彼の定理では、無矛盾性の証明が、算術そのものの次元を超えているという。算術には言うまでもなく矛盾が無い。その無矛盾から自身の無矛盾性を証明できないという主張である。またもや酔っ払いの発言である。「自己言及!」という酒の銘柄を造れば、きっと売れるだろう。しかし、これを形にできる道具があった。それが帰納法である。帰納法は、有限な構成規則を扱うのに、なぜか無限の世界へ導いてくれる。まず初期値を指定し、次にk番目の数を定義し、更に(k+1)番目の数を定義できれば、無限の数列が得られる。帰納法は、人間が無限の総体を把握する一つの手段である。ところで、人間の精神は無限なのだろうか?そもそも人間は無限の総体を把握する必要などあるのだろうか?無限を把握することは、精霊にでも任せようではないか。
アロンゾ・チャーチは、論理学界にラムダ変換という計算方法を持ち込んだ。これは、様々な関数型プログラム言語に具体化される。それは、二つの基本操作「適用」と「抽象」により結び付けられ、柔軟な表記法ができあがる。ところで、柔軟とか自由とかいうものほど混乱するものはない。矛盾から逃れるために自由度が必要である。抽象度は、レベルによっては不毛なものになりかねない。そして、ついには「すべての難問」を「理解した気になった」と変換してしまうのだ。アル中ナイマーは、この「理解した気になった」という概念が大好きである。

4. チューリングマシン
帰納関数とラムダ計算が登場したところで、新たな概念が登場する。アラン・チューリングは、仮想機械という概念を持ち込み、抽象概念を単純な構成概念に変化させた。これは、現在のコンピュータの青写真となる。彼は、人間の思考は、人間コンピュータとして振舞っているのではないかと推測する。そして、「四つの構造」と「手続き」の構成要素で実現できると考えた。四つの構造とは、マス目に分割された無限に長いテープ、有限個の記号(0と1)、一度に一マスを走査する読み取りヘッド、一組の有限個の状態である。手続きとは、従うべき指示であり、左右どちらかに一マス動くか動かないか、マス目に記号を書くか消去するか、この動作をその置かれた状態で判断する。この振る舞いはif...then...によって制御できる。これは、まさしくコンピュータの基本構成であり、しかもハードウェアとソフトウェアの境界がある。フォン・ノイマンのストアドプログラムをも彷彿させる。チューリングは、この構成概念で、人間の知的行為が説明できると主張したのである。ここで重要なのは、この仮想機械は、問題を解く道具であって、問題を設定することはできないことである。現代社会を考える上で、その因果関係を考察する時、常に動きつづける現在と、過去の概念を結びつけようとするだろう。しかし、あらゆる偉大な発明は、時間という連続体を分割するという。チューリングマシンは、まさしく時系列を分断している。

5. 時間によるシミュレーション
多くの事物は、局所的に崩壊し秩序を失うように見える。トランプをきると、カードはごちゃごちゃになる。コーヒーは冷める。ちなみに愛も冷める。グラスが破れると元に戻らない。美酒は知らないうちに無くなっている。こうして無秩序は容赦なく進行する。果たして無秩序は解析できるだろうか?その解決策を熱力学が提示する。分子の振る舞いを時間の経過とともにエントロピーの概念で説明した。ランダムな現象を時間に分割することにより、確率論に持ち込んだのだ。科学者は、事象を時間の関数で定義できれば、シミュレーションに頼ることができる。シミュレーションは、個々の事実から仮想世界を作る。
物理学者がずっと悩ませた世界に微分方程式がある。物理学者は、多くの微分方程式が解けず、多くの微分方程式が解析的に扱えない。しかし、有限な計算手法によるアルゴリズムを用いればシミュレーションできる。なんでもシミュレーションすればいいと知るや、これまた罠に嵌る。そこには、近似の概念で必然的にともなう誤差を含む。結局、人間的な計算手法には限界があるということか?数学は、完全な道具とは言えないようだ。しかし、ある有限の時間内で機能させると、限られた誤差範囲で有効な解をもたらす。科学者は、宇宙理論が完全に解けなくても、宇宙モデルをステップ毎に眺めることができる。

6. 記号が表すものは?
アルゴリズムは手続きを定義し、記号を操作する手段に過ぎない。では、記号とはなんだろうか?記号は抽象化されたもので、それ自体に概念が宿るという。つまり、人間が意識できる情報である。この情報という概念を具体化したのが、クロード・シャノンである。彼は通信モデルに秩序をもたらした。メッセージという情報には、人間の感情を動かす何かがある。あるメッセージを受け取るまで、人はそれを知らない。隠されたものが明らかになるまでには、時が流れるのを待つ。情報もエントロピーと同じく時間の経過と結びついた量である。科学者は、記号という概念に、確率論という古典的概念を組み合わせることにより、人間の精神に迫る。知能は何を行うか?それは「計算」である。知能は何を用いてそれを行うか?それは「情報」である。知能は知的能力をどうやって獲得したか?それはダーウィンに任せよう。「機械はものを考えられるか?」の問いにチューリングは次のように答えたという。
「人間と会話して、機械が人間なのだと思わせることができればイエス。できなければノー。」
ニューラルネットワークは、一種の信号処理として機能するベクトル変換器である。これは計算可能な関数を計算する装置であり、チューリングマシンにもできる。本書は、「人間の心は本質的に一つの計算装置だ」という考えが支配的になるのは、それ以外に答えがないだけであると語る。この主張にどんな価値があるかわからない。ただ、心が計算装置として認められたとしても、疑問は生まれる。その装置は、どんな計算をしているのか?そこには、どんなアルゴリズムが存在するのか?心の計算理論は、人間がなしうる全ての心的状態をカバーしなければならない。
例えば、物を見るという行為は、光が網膜に当たり、脳の視覚系への入力となる。それが脳で計算されて像として描かれる。これは表象なのか実体なのか?物理的には脳への入力データは、誰に対しても同じである。では、出力である表象は同じであると言えるのか?人間が持つベクトル変換機は、どんな人間も同じものを実装していると保証できるのか?赤に見える色も、言葉では誰もが同じように表すが、本当に見えている色は同じものなのか?芸術が理解できる人は、感性の違いで、違う世界が見えているに違いない。見えるもの一つ取り上げても、いろんな仮説が渦巻き、目が渦巻き、とうとう真っ直ぐ歩けなくなった。やはり空間は曲がっているようだ。こうして、なぜかアインシュタインは偉大であるという証明に繋がるのである。

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