2008-05-11

"世界でもっとも美しい10の科学実験" Robert P. Crease 著

本屋を散歩していると、おもろいフレーズに目が留まった。
「科学実験の美しさを展覧会の絵のように鑑賞する。」
アル中ハイマーは、この宣伝文句にいちころである。科学といってもここで挙げられるのは物理学が主である。現代の世界観の基礎を築いた物理学の功績は大きいということであろう。多くの科学実験の中から10を選別した著者の苦悩する様もうかがえる。今宵は、ブランデーを飲みながら画廊を買った気分に浸っている。

美しい実験とは何だろう?即座に思いつくのは、ユークリッド観に見られる数学的な美である。科学者は単純な理論ほど美しいと言う。数学者は単純な数式で世界を表せれば、それを美しいと言う。本質を分析し、いかに単純化するかは、優れた思考である。しかし、人間の美の定義は難しい。それぞれの世界の美しさを理解できるのは、その世界の住人だけである。退屈な科学実験の最中、新しい洞察に明確な形を与え、ものの見方を一変させる瞬間がある。そんな瞬間が苦悩から解放し、新しい世界観を与える。科学者は、そんな瞬間を「美しい」と表現する。
本書は、科学実験の美しさには、絵画や彫刻と違って動きがあり、むしろ演劇に近いという。そして、美しい実験には、一般化や推論をしなくても、結果が明確に示されるような決定的なものでなければならないと語る。
「もし、美しい実験をめぐって疑問が生じるならば、それはその実験に関する疑問ではなく、世界に関する疑問である。」
科学実験は、何かを明らかにする一種のパフォーマンスである。確かめたい状況を見出すために計画し、シナリオを描く。一方で、科学は論理であり、美を語るのは見当違いであると主張する人も少なくない。美は主観と感情の領域にあるのに対し、科学は客観と知性の領域にある。果たして、論理だけで真理に近づけるだろうか?おいらは、こうした哲学的な疑問を昔から持っている。哲学的な対立には、理性と芸術の衝突というプラトン時代からのものがある。プラトン曰く。「芸術は理性よりも情熱の求めるところを満たし、魂の愚かな部分の機嫌をとる。」真理を探究する時に、こうした理性と論理から離れることへの警告も多い。ただ、感情と論理をそれほど遠ざける必要があるだろうか。歴史は感情で左右されてきた。人間は直感に頼っているところも多い。ここで言う直感とは、経験に裏づけされたものである。

科学の美には、崇高なものを感じる。素晴らしい真理をみせてくれるからである。科学は、人間味に欠け、宇宙における人間の地位を引き下げるものとみなされることも多い。一方で宗教は、人類を特権的な地位へ無理やり押し上げる。思うに、人を惑わせる宗教よりは、科学は、はるかにイケてる宗教である。
科学と芸術にも論争は多い。科学的創造性と芸術的創造性の差異とは何か?物理学者ハイゼンベルグは次のように述べたという。
「私がこの世に生まれてこなくても不確定性原理は、誰かが定式化したであろう。しかし、ベートーヴェンがこの世に生まれてこなかったら、作品111は誰も書かなかったであろう。」
哲学者カントは、天才は科学者の中には存在せず、芸術家の中のみに存在すると言った。対して、ニュートンは別格で、その人のみが達成できる個人的な偉業であると賛える人も多い。本書は、理論だけでなく、実験に目を向ければ、芸術的な領域が広がることを教えてくれる。実験のプロセスにこそ想像力や独創性に富んだ世界がある。科学が知覚できる瞬間とは、どういう時だろうか?ブラックホール説を唱えたって、実際に見られるわけではない。実験室は、そうしたものを少しだけ体験の場として見せてくれる。そこには伝記と呼べるほどの物語がある。真の物理法則を得るためには、極限状態を確保しなければならない。それには熟練した技が必要である。科学者の人間性にも左右され、資源、予算、人員といった制約の中で発揮される。ゲーテ曰く。「制約の中にのみ、巨匠の技が露になる。」論理性と正当性だけでしか科学が見られないのは、あまりにも寂しい。結果よりも、発見のプロセスにこそ人間味がある。そこには、彼らの情熱と執念がある。そして、成功した時に一種の芸術を見せてくれる。

1. エラトステネスによる地球の外周測定
コロンブスが登場したのが15世紀とずっと後にも関わらず、古代ギリシャ人は既に大地は球形であることを示す多くの証拠を挙げていた。アリストテレスは、月に投げかけられる影が湾曲していると指摘し、南北で見える星座の違いに着目した。アルキメデスは天体が互いの周囲をめぐるという宇宙モデルを作った。エラトステネスは、太陽からの光は地球のどの地点でもほぼ平行になると仮定し、異なる地点で影を観測する。使った道具は日時計の針が投げかける影である。そして、地球の曲率を求め、地球の外周を測定した。この実験の美しさは、そこに難しい理論があるわけではなく、ただ影の長さを測定することにより、宇宙規模の測定がなされたことである。この実験は、地球と人間の位置関係による世界観を構築したと言ってもいい。

2. ガリレオの斜塔伝説
ガリレオは、重さの異なる物体が真空中では同じ速度で落下することを説明しようとした。その著書では、ピサの斜塔の名は無く、大砲の弾とマスケット銃の弾を使って実験したことが報告されているという。斜塔伝説は、ヴィヴィアーニによる報告が唯一の手掛かりであり、実際には行われなかったというのが多くの歴史家の考えのようだ。いずれにせよアリストテレスの枠組みからはみ出したのは確かである。アリストテレスは、物体の落下速度は密度によって決まると主張した。つまり、金でできた球は、銀でできた球よりも二倍速く落下するということである。ガリレオ以前にも、アリストテレスの論点に欠陥があることに気づいた科学者がいた。ガリレオの偉大さは、加速度という概念を取り入れ、物体の運動に新しい世界観を与えたことである。当時、新しい世界観は、政治的にも宗教的にも問題になる。斜塔伝説は、ドラマティックに仕立てるために良い宣伝効果があったであろう。昔、理科の先生が、真空ポンプで熱心にデモンストレーションをしていたのを思い出す。先生には悪いが、おいらは懐疑的に眺めていた。ガリレオが正しいとは思っていても、酔っ払いの感覚はアリストテレスの世界で生活している。したがって、アルコール濃度の重い方が沈むのも速い。

3. アルファ実験とガリレオの斜面
理科の教師たちは、もっとも重要な実験という意味で「アルファ実験」という言葉を使う。実際に物体の落下運動を観察するには、人間の目では速すぎる。アリストテレスのように水中を使えば現象を複雑化してしまう。そこで、斜面で自由落下を近似できると考えた。今日、運動を時間の関数で扱うのは当り前であるが、運動を時間の観点から見るという新しい世界観を与えた。等加速度運動の法則の始まりである。ただ、この時間の測定方法に世間は懐疑的だったらしい。水時計を使ったからである。水時計では短い時間を正確に測定することは難しそうだが、ガリレオは一脈拍分の一まで測定したと主張したという。ガリレオの専門家アレクサンドル・コイレは、ガリレオの実験に価値がないと蔑んだという。しかし、トマス・セトルは、この方法でもガリレオの精度の主張を見出せることが可能であることを示したという。

4. ニュートンのプリズム
アイザック・ニュートンは、太陽光である白色光は、異なる光線の混合物であることを示した。彼は、プリズムを使って成し遂げた実験により、レンズによる望遠鏡の性能には限界があることに気づく。すべての光線を一点に集めることはできないということである。驚くべきは、白色光は、基本的な色がすべて決まった比率で混ざっていることである。ニュートンは色についても説明する。色は物体を照らし出す光の性質であって、暗闇には色はない。哲学者や芸術家や詩人たちは、光をこの世のあらゆる現象の中でも特別な地位に置く。光は、神が創造した万物を照らすという意味で宗教的にも高い地位にある。ニュートンは、こうした世界観に疑問を投げかけた。物理学者ファインマンは、科学者は花の美しさがわからないどころか、芸術家よりもよくわかると言った。科学の知識は、生態系における美も、進化のプロセスに花が果たす役割の美しさも明らかにするからだ。音響学を学んだからといって、交響曲を聴く楽しみが損なわれるわけではない。

5. キャヴェンディッシュの緻密さ
ヘンリー・キャヴェンディッシュは、病的なほど内気であったという。彼の伝記作家ジョージ・ウィルソンによると、人格は虚ろで、人を愛さず人を嫌わなかった。頭脳は計算する機械でしかなく、何かに憑かれたかのように装置を改良し続け、ひたすら精度にこだわった。彼は、50年間も憑かれたように研究したというのに、論文は20篇に満たず、本は一冊も書かなかった。そのせいか、オームの法則には、最初に発見したこのキャヴェンディッシュの名がついていない。キャヴェンディッシュが地球の密度を測定した実験は、彼の代表作となる。二つの物体が互いに及ぼし合う引力が測定できれば、その物体と地球との間で働く引力と比較し、相対的に地球の密度を知ることができる。彼は、二つの金属球を竿にぶらさげ、ゆっくりと近づけ、その間に働く引力を測定することを考える。しかし、二つの金属球の間には極めて小さい力しか働かないため、空気の流れでも誤差を生じる。彼の論文は、ほとんど誤差に関する学位論文のようだと言われたらしい。最大の難問は室内の温度差である。装置内にわずかな温度差が生じるだけで空気が流れる。人間の体温も見過ごせない。金属を使うからには磁気も要因となる。装置を密閉させた部屋に設置し、動きを遠くから望遠鏡で観測したという。そして、地球の密度は、水の密度の5.48倍であることを求めた。ただ、論文の中で、尚も実験には改良の必要性を論じたというから、その執念には感服する。

6. ヤングの二重スリット実験
昔から、回折や屈折など、光には波の性質があるこが指摘されていた。トマス・ヤングは干渉の概念を水から光に拡張してみせた。水の場合、二つの波が衝突すると、山と山がぶつかれば、互いに強めあう建設的干渉が起き、山と谷が衝突すると打ち消しあって相殺的干渉が起きる。光の場合、波の振幅は光の強度と関係がある。干渉する光波の振幅が互いに強めあう場合は明るくなり、振幅が逆向きの場合は暗くなる。ニュートン・リングでは、凸レンズをガラス板に押し付ける時に生じる円心円状の光の帯について、リング中の暗い部分は相殺的干渉によって生じることを示した。ヤングの実験は、光の波動説を強調したが、すんなりとは受け入れられなかったらしい。彼は、売り込みが下手な典型的な科学者だったという。ただ、波動説にも問題はある。その媒体は何か?そして、エーテルという言葉が登場し、宇宙の真空説と充満説の論争を見る。その後、マイケルソン・モーリーの実験でエーテルの存在は否定され、現在では粒子と波動の二重性を持つとされる。ヤングの実験は、水から光に拡張するというアナロジーを持ち込んだ例と言えるだろう。しかし、アナロジーとメタファーは、科学を混乱させる元と考える人も多い。科学とは、真理がどこにあるかを問うものであり、何に似ているかを問うものではないと考えるからである。一方で、科学的思考には、アナロジーやメタファーといった深層心理が不可欠であると主張する人もいる。ここでも、哲学論争のように「感覚」対「論理」の対立を見ることができるのはおもしろい。

7. フーコーの崇高な振り子
ジャン・ベルナール・レオン・フーコーは、星の写真をいくつか撮影した。当時としては離れ業である。明るさの足らない天体を撮影するには、カメラのシャッターを長い時間開けておかなければならない。しかし、その間も地球は自転し天体は動いている。そこで、振り子を動力とした時計仕掛けの装置を考案し、必要時間カメラを一つの星に向けた。フーコーは、振り子によって地球の自転をも披露した。彼は、回転盤の上に、振り子を取り付けるという単純な舞台を用意する。回転盤を回すと、振り子の振動面が回転しているように見えるが、回っているのは回転盤であって、振り子は同じ方向に振れているだけだ。この上演では、回転盤が地球に相当し、部屋の空間が宇宙に相当する。ただ、回転盤は平面であるが、地球は球なので、地球表面の振り子は、極点と赤道でも角度は少し違う。彼は、振り子の振動面が回転する様子と角度を観察すれば、地球上の位置まで計算できることを示した。当時の科学者は、地球が自転していることは知っていた。それも天文学者の推論によってである。しかし、実演されたら、これほど感動的なものはないだろう。ちょいとネット検索してみると、フーコーの振り子は日本でも各地で見学できそうだ。ツーリングでフーコーの振り子めぐりというのも乙である。

8. ミリカンの油滴実験
ロバート・ミリカンは、原子より小さい粒子を見たと言い張った。彼は、一個の電子が帯びる電荷の質量を測定することに意欲を燃やす。宇宙でもっとも基本的かつ不変な量と考えたからである。J.J.トムソンは、電子を発見した。トムソンは、ウィルソンの霧箱を利用した。これは、過飽和水蒸気を帯電させて霧を発生させる装置である。水滴は負に帯電したイオンを核とする。水滴が一個の電子を核としていると仮定すれば、水滴の数で全電荷数が概算できるという発想だ。水滴一個の質量は、沈下する速度を測れば、ストークスの法則で求められる。こうして一つの電荷を捕まえようとしたのである。しかし、大雑把な概算値でしかない。問題は小さな水滴はすぐに蒸発してしまうというものだったという。ミリカンは、蒸発しない油を利用する。そして油滴の重力と、電荷の力が釣りあって油滴を静止させる。これは「平衡液滴法」と呼ばれる。ここで疑問が涌く。電子を見たと言い張ったミリカンは何を見たのか?彼は次のように述べたという。
「一個の電子が油滴に飛び乗った。実際、電子が油滴に飛び乗ったり、飛び降りたり、退いたりする瞬間までもわかった。一個の油滴が、もっとも遅い速度で上に向かって動いている時は、その背中に一個の電子しか乗っていないことを確信することができた。」
油滴が電場に反応して上下したり、対流によって漂ったり、ブラウン運動するのを見たということらしい。

9. ラザフォードによる原子核の発見
アーネスト・ラザフォードは、原子の内部構造を明らかにした。それは、正の電荷をもつ原子核のまわりを、負の電荷がもつ電子が取り囲み、原子の質量は原子核に集中しているという御馴染みのものだ。当時は、そもそも使える道具が原子でできているというのに、原子そのものの内部構造を調べるなど不可能と考えただろう。ラザフォードは、ウランがアルファ線とベータ線の二種類の放射線を出すことを発見する。彼は、アルファ粒子が原子の内部を探る道具となることを偶然発見したのだ。負の電荷をもつベータ線は、電子であることがまもなく示されるが、正の電荷をもつアルファ線は謎だった。ラザフォードはアルファ線がヘリウムの原子であることを明らかにした。当時の原子モデルでは、全体的になんとなく正の電荷を持つ原子が存在し、その中に電子が分布していると考えられていた。彼は、原子にこのアルファ線をあてる実験をする。入射されたアルファ粒子は、直進するか、わずかに方向が変化するはずだと考えたが、アルファ粒子のほんのわずかの粒子が後方散乱するのを観測した。これで、原子核というごく小さな領域に集中して正電荷が存在すると推測した。

10. 電子の量子干渉
ヤングの二重スリット実験の別バージョンで、光の代わりに電子を使った実験が量子干渉実験である。量子の世界では、日常の粒子の運動とは想像もつかない現象が起こる。電子の一つ一つは粒子であるが、集合体となると波の性質を示すから奇怪である。電子の二重スリット実験は、クラウス・ヨーンソンという大学院生によって実施されていたという。この実験によって量子力学に進展があったわけではないが、ただ、実験不可能とされていたことに、教育的、哲学的な意義があるという。それは、物質は、離散的な粒子でできているにも関わらず、量子力学では、電子を検出する瞬間以外は、電子の粒子像を棄てろと告げている。量子力学の世界は、理論にどれだけ精通しようとも、人間にとっては永遠に直感に反するものであり続けるかのように思える。

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