2008-05-25

"13階段" 高野和明 著

推理小説は麻薬である。先週からもう10冊以上読み続けている。本書は「江戸川乱歩賞受賞作品」。ハズレはないだろうという軽い気持ちで手に取ったのが夜の九時。これが悲劇の始まりである。推理小説は、暇な時にしか手を出してはならない。そう気づいても時既に遅し!昔の衝動が甦る。きれいな朝焼けに、あっさりした朝酒。余は満腹じゃ!麻薬がもう数冊、目の前をおよいでいる。そして、翌朝まで飲みつづける。今日は何日だ?あれから何日たった?次々に手にした本は、初めて読むはずだが、既に読んだことのあるような懐かしさがある。どうやらデジャヴの罠に嵌ったようだ。もはや時間を感じていない。時間とは、人間の意識の中の産物でしかないのか?時間の意識が破壊されれば、あらゆる概念が無意味であることを悟れるかもしれない。こうして、アル中ハイマーはミステリーの中をさまよう。

人は自己主張している時、全く耳をかそうとはしない。相手の話を聞く身構えができて、はじめて効果的に話題を切り出すことができる。こうした人間心理は、推理小説には欠かせない。間合いをはかって真相を少しずつ明らかにしていく。これが推理小説の醍醐味というものだ。もちろんシナリオも大切である。ストーリー展開には意外性がなければつまらない。本書は、そうしたテクニックを存分に見せてくれる。また、社会問題をあらゆるところにちりばめているところも興味を惹く。法の平等性への限界、命の重さ、死刑制度の是非、応報刑思想と目的刑思想の対立といったものを問題提起する。これが当時の新人作品であることにも驚かされる。
本書は、死刑執行までのわずかな時間に冤罪を晴らすという一般ウケしやすい題材でもある。死刑囚は、犯行時刻の記憶を失っている。残された記憶は「階段」。そこには意外な設定がある。主人公二人が、刑務官と、仮釈放され保護観察中の男で、真相究明のため互いに協力する。その刑務官が、保護観察中の男を助手として誘ったところに、本書の隠されたテーマがある。殺人犯の宿命は、家族の崩壊、経済的な苦難、世間の眼からは逃れられない社会的報復がある。法廷での論争では、検察官と弁護人による被告人の罪状を巡っての引っ張り合いなる。反省している演技が判事の心証形成を揺さぶる。正直者が馬鹿を見るのは世の常である。犯罪を犯した者が、本当に更生して、社会復帰するためには数々の難題を抱えている。そうした社会問題を浮き彫りにする。筋書きにも意外性がある。実は、主人公の一人、仮釈放中の男が犯した殺人事件と、冤罪とされる本事件には関わりがあった。本事件の依頼人の関わり方にも意外性があり、もちろん犯人も。これがなければミステリーではない。最後に、仮釈放中の男が、自分が犯した殺人の動機を明かす。これに刑務官は「俺もお前も終身刑だ」と呟く。なんとも印象的な終わり方が作品を際立たせる。

本書は映画化もされたという。おいらは観てない。この映画、著者には気に入らないらしい。一般的に活字の方が想像力がわく。アル中ハイマーは反応が鈍いので読み返せる方がありがたい。凝ったシナリオの映画は何度も見返さないと理解できないが、繰り返し観るおもしろさもある。映画の良さは、おもしろい場面が一瞬のうちに過ぎ去るところにある。一瞬だからこそ余計に感動を強める効果がある。ただ、本書を映画で観たいとは思わない。本書の印象を変えたくないからだ。映画を観た途端にがっかりさせられる作品も少なくない。

ちょいと印象的なキーワードをメモっておこう。

1. 13階段
死刑判決の言い渡しから執行までの手続きの数は13あるらしい。まさしく13階段である。明治以降の日本の死刑制度では、13階段の死刑台が作られたことがないという。唯一の例外は戦犯処刑のために作られた巣鴨プリズンの絞首台だが、それは米軍の手によるものである。我が国の昔の処刑台には19段あったらしい。しかし、死刑囚に階段を上らせる際に事故が多発したという。改良を余儀なくされ、現在では目隠しされた死刑囚の首に縄がかけられ、床が二つに割れて地下に落下する「地下絞架式」となっている。

2. 死刑執行
刑事訴訟法の第475条では、死刑は判決確定後、法務大臣の命令により6ヶ月以内に執行することが定められている。しかし、実際は法務大臣が命令することは少ない。まず、国会審議中に執行命令が出ない。野党の追及があるからであろう。内閣改造時期がヤバいという。法務大臣が代わる時に、残した仕事を一気に片付ける傾向があるからである。死刑執行命令とは、そんな次元のものだと登場人物の刑務官は吐き捨てる。死刑執行を拒否した法務大臣は多い。宗教上の理由とか言い訳はいろいろある。法律で定められているならば、明らかに職務放棄である。法を否定するならば、最初から法務大臣就任を拒否するのが筋というものだろう。ただ、人間の命を裁くのに、ためらいのない者などいない。こうした状況は、我が国の法律に矛盾を抱えている証拠であり、社会的にもタブー化されてきた。しかし、裁判員制度が施行されようとしている今、この矛盾からは逃れられない。

3. 恩赦制度
恩赦とは、司法の出した結論に対し、行政の判断によって刑事裁判の効力を変更させようというものである。内閣の判断で、犯罪者の刑罰を消失させたり減刑させたりできる。これは、三権分立に反するという批判もある。ただ、法律家の高慢さ、法の画一性によって妥当でない判決が下された場合や、他の方法では救い得ない誤判への救済で、支持される制度でもある。しかし、現実にはマイナス面ばかりが目に付くという。恩赦には大別して政令恩赦と個別恩赦がある。政令恩赦は、皇室や国家の慶弔の際、一律に行われる。昭和天皇の病状悪化が伝われた時、死刑執行に関するすべての業務が停止されている。天皇崩御となると政令恩赦が出される。そうした折、死刑を争っていた被告人は、自ら控訴や上告を放棄し、死刑を確定してしまったという。これは、政令恩赦が死刑確定囚にしか適用されないからである。しかし、実際には軽微な犯罪者だけを対象としたため、自らの死を早めた結果となった。恩赦によって釈放された者は、選挙違反の事案が圧倒的に多いという。政治家のために犯罪に手を染めた連中を対象にしているとは、政治利用していると言われても仕方が無い。

x. 将棋名人戦も推理小説ばり(おまけ)
ちなみに、この項は、本書とはなーんも関係がない。
ちょうど、将棋のタイトル戦の一つ、名人戦、森内名人 vs. 羽生挑戦者が行われている。先週の第四局で、羽生挑戦者が三勝目を挙げ、永世名人に王手をかけたところだ。この名人戦にも推理小説ばりのストーリーを感じている。
名人戦の挑戦者が決定した3月初旬、ちょうど棋王戦、佐藤棋王 vs. 羽生挑戦者が行われていた。おいらには、このタイトル戦は名人戦を睨んでいるかのように見えた。それは棋王戦第四局で現れた。後手番の羽生氏は、異常なほど低い姿勢で完全に受けきる構えを見せた。そして、どう見ても勝てそうな気がしない手順を選ぶ。羽生マジックを後手番で試そうとでも言うのか?受けの妙技を会得しようと楽しんでいるかのようにも見える。これは名人戦を睨んだ森内対策だろうか?ネット中継で途中から登場した将棋の大御所らも、「どうしてこんなになっちゃったの?こういうのは見た目よりもダメなんだ!」と酷評されるほどだ。案の定、羽生氏は負けた。更に、棋王戦第五局では、タイトル戦の現場に滅多に姿を見せない森内名人が現れた。渡辺竜王と検討を始めている様子は、なんとも想像し難い。これも名人戦を睨んだ羽生対策だろうか?
森内 vs. 羽生戦では、先手番の勝率が異常に高い。つまり、後手番を如何に制するかが鍵となる。論理的にも先手番の方が有利なのかもしれない。直感的にはそんな気もする。だからといって、この偏りは異常である。両者の対戦では、後手番から無理に仕掛けるため、先手番の勝率を助長しているように見える。流れでは、後手番を持った方が先に良い陣形を見せているにも関わらず、先に仕掛けて負けるケースが多い。わざと先手番から隙を見せて仕掛けさせていると見ることもできる。仕掛けさせるのが、あらゆる戦の常套手段ということか?一手損の論理とは、そうしたものであろう。先手後手で統計をとるよりも、仕掛けのタイミングで統計をとる方が論理的に解明できそうな気がする。羽生氏は書籍で、将棋で最も重要なのは序盤であると語っていた。そう述べている当人が、終盤で異常な強さを見せ、数々の逆転劇を演じているのはおもしろい。形勢不利でも、逆転する手掛かりを序盤で築いているのだろうか?両者の対戦は序盤から奇妙な動きをする。達人の動きには、何か含みがありそうに見える。
名人戦では、第三局に大きな流れを見せた。先天番の森内名人のポカと言われ、50年に一度の大逆転と報じられた。だが、これをポカと評せるのだろうか?羽生挑戦者も鬼のような執念を見せ、逆転に至るまでに凄まじい神経戦を展開していた。名人戦第四局では、後手番の森内名人の方が先に戦型を整えた。そして、仕掛けたが無理攻めだったと語っている。確かに、うまくパスできれば千日手に持ち込めたかもしれない。先手の仕掛けを待つという選択肢もあっただろう。だが、消極的な手順を選択して失敗するぐらいなら、積極的に動きたくなるのも人間の心理というものである。両者は、そこに至るまでに、プロ棋士ですら解説できない難解な手順を見せた。完全に二人の世界を築いていた。その仕掛けのタイミングも絶妙である。羽生氏が席を立ったその時、戦いが始まった。席を立ったのは、その気配を察知して深呼吸でもしてきたのだろうか?そこには、あうんの呼吸が感じられる。両者の間合いには、盤上には現れない宇宙がある。そこには論理を超越した何かがある。この名人戦は、どのような結末を見せるのか分からない。彼らが追求する大局観とはどんなものだろうか?本局の決め手でも見せた羽生氏の「震える手」は、久しぶりに印象深いものであった。

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