2008-06-01

"死因不明社会" 海堂尊 著

本屋を散歩していると、謎めいたタイトルに目が留まった。ブルーバックスの話題にしては珍しい。宣伝文句にAiとあるから人工知能関係と思ったら全く違う。本書は、医学界のシステムの欠陥から生じる社会問題を扱う。著者は、外科医でありながら推理小説作家という風変わりな面も持つ。その著作「チーム・バチスタの栄光」は映画化もされている。著者は、作品の中で死因究明問題を扱っており、本書でも、その推理小説の中の架空の人物を登場させる。ブルーバックスでは、この虚構の世界の住人によるガイダンスは初めての試みだという。なかなかおもしろそうな趣向(酒肴)だ。これはブルーバックス教の信者であるアル中ハイマーには見逃せない。

「死因不明社会」とは、いかにも薄気味悪い。死因不明とは、現在の医療システムでは死因を明確にできる手段がないというのだ。それは、医学界には監査システムが機能していないという。おいらは、日本には最新の医療システムが備わっていると信じている。それなのになぜ?本書は、技術が最高レベルでも、システムが人為的に機能していないと指摘する。死因を特定するには死亡時の検証が重要であることは素人にでもわかる。その検証を医学検索という。ほとんどの死は生前からの診察で、重病であればその経過から判断できるだろう。しかし、この考えは甘いと指摘されてしまった。特に、終末期医療は闇に包まれるという。そして、衝撃的なデータを提示する。聖路加国際病院院長の福井次矢氏によると、臨床診断と解剖後の病理診断では死因一致率が88.3%だったという。なんと誤診率12%。ちなみに、欧米の論文では解剖を行うと生前診断は、30%以上のエラーがあるという。医学界ってこんなもんなのか?統計データは厚生労働省の管轄である。官僚の数字操作はお手の物で、分母を変えればなんとでもなる。死因が特定できなければ、治療効果の判定もできないので医学の進歩を妨げることにもなろう。医療現場では、再発か、治療で完治したか、別疾患の併発で死亡したかも判定できないのが現実なようだ。これでは、医療ミスも明るみにならない。不当な医療請求を受けることにもなる。また、犯罪を煽ることにもなる。福祉施設などの虐待や、巧妙に仕組まれた犯罪は闇に葬られ、保険金殺人も見逃されるだろう。捜査機関に運び込まれた死体も同様に、体表から調べる検案だけで死因を確定しているため、殺人や虐待は見過ごされるのが現状だという。これでは死亡統計も当てにはならない。日本警察の優秀さはもはや神話に過ぎないのか?本書は、この問題は市民が認識すらしていないので役所も反応せず、メディアも取り上げないと嘆き、死因確定は基本的人権の一つであると主張する。

死因究明の一つの手段に解剖がある。日本の解剖率は2%台で、先進諸国の中でも最低だという。98%の死者は厳密な医学検索を行われないまま死亡診断書が交付されていることになる。だからといって、突然死や事故死ならともかく、よほどの事がない限り、遺体を損傷させるなど遺族には承諾できることではない。頭部の解剖となれば尚更である。そこで、本書は、Aiを用いた新しい概念「死亡時医学検索」を紹介している。Aiとは、Autopsy imagingの略で、簡単に言うと死体に対する画像診断である。なーんだあ!日本ではCTやらMRIがそこらじゅうの医療施設に散乱しているではないか。画像検索ならば、遺族だって同意できるだろう。しかし、そんな簡単なパラダイムシフトでさえ一筋縄ではいかないという。その根底は、経済至上主義にあろう。正確には目先経済至上主義である。税金を上げるのか?と迫るのも官僚の得意技である。しかし、そこには社会的リスクが考慮されない。そして社会問題の代償に何倍もの拠出を強いられるようにできている。そして、その財源は税金である。ほとんどの官僚的組織の歪んだ政策が、この罠に嵌る。論理的に見えても何かが抜け落ちている。ただ、この現象は霞ヶ関だけの問題ではない。民間組織にもしばしば見られる。凝り固まった思考から官僚思想が生まれるのは自然法則である。その法則を弁えるかどうかが分かれ道となる。自分自身にとって新しいことに目を向けることは、興味でもない限り面倒なことなのだ。弁えていないと潰される世界に身を置けば、自ら外部の風を受け入れることに躊躇しない。エリート官僚は極端に外部の風を拒む傾向にある。本書は、問題の根源は厚生労働省にあると語る。それも事実だろう。ただ、官僚改革を謳うにしても、エリート連中でも比較的弱いところから攻撃されるようにできている。やはり、本丸は財務官僚であろう。金を牛耳る人間の立場が一番強い。そんなことは、家庭内の力学を観察すれば容易に解明できる。ここに手が付き始めなければ、官僚改革はいつまでも前進を見ない。それも、監視能力のない政治家に期待できるはずもない。いや、彼らを選出する国民の問題かもしれない。それも世論を扇動するマスコミの仕業か?いや!闇の侵略者ダース・ベイダーの陰謀に違いない。いずれにせよ、裁判員制度も始まろうとしている。素人にでも判断できるような科学的な根拠を提示してほしい。検察官と弁護士の雄弁さを競う場だけには、ならないように願いたい。死因が特定できなければ裁判は迷走する。明確な情報提供が前提でないと、裁判員制度は司法局が責任を転嫁するための制度となる。

1. Aiとは
Aiとは、狭義では死体の画像診断。広義では死亡時画像病理診断。つまり、画像と病理所見の融合である。日本は、死亡時画像診断(PMI)の最先進国であるという。酔っ払いには、技術進歩が解剖の必要性を奪い、それも悪い傾向ではないと思っていた。実際、PMIから解剖へつながるケースは稀なようだ。しかし、著者は、それだけでは不十分で、解剖がパートナーとして存在するべきであると主張する。まず画像検索によってシミュレーションし、それでも死因が特定できない場合に解剖するという二段構えである。画像検索は、全体をスキャンするのに効果的で、結果も素早く判定できる。死体は、臓器も停止しているから鮮明な画像が得られる。高被爆検査も可能というわけだ。死者に対しては、高磁場や高線量で、機器の最高スペックで検査できるメリットがある。また、生きている人間へのフィードバックもできる。解剖は、局所に絞った診断の質を高くするが、全体のスキャンには向かない。また、一日の大仕事で大変な肉体労働である。結果も一ヶ月以上かかる。画像診断が解剖を凌駕するわけでもなく、画像診断と解剖は互いに補完しあう関係にある。Ai概念が加わると、一変してPMIは解剖へつながる扉となるだろう。画像診断が解剖からの視点に変わる。この視点の違いが大きいという。現在ではホスピスケアがもてはやされる。終末期では、そっと見送ってあげたいというのが遺族の心情というものである。著者も終末期に医療検査を行わない方針も妥当であると語る。だからこそAiが必要だという。そうしないとホスピタル医療が無責任医療になってしまう可能性が高いからである。ケア中に検査せずに、死んだらそのままお見送りでは、施設現場での虐待や、医療ミスは闇に葬られるという。

2. 二つの反対派
反対派の一つは、学会上層部にいる臨床医だという。臨床経過を丁寧に追えば解剖は不要と主張する。彼らは厚生労働省と仲がいいらしい。二つは、解剖関連学会の上層部であるという。ただでさえ解剖が虐げられているのに、更に軽視される恐れがあるという意見だ。しかし、画像検索だけで完全に死因が特定できると考えるのは自惚れであるという。いずれにしても、経済効率主義や、自らの学問的業績にしか興味がないエリート達の論理だという。制度の不備に隠れて横着したり、自らの領域を堅守することに躍起になる官僚主義はどこにでもある。中には、死亡診断書を書く時に、死因がわからないのでは申しわけないと、自ら画像撮影する医師もいるという。

3. 監察医制度
日本には、監察医制度というものがある。戦後、飢餓、栄養失調、伝染病による死亡が続出し死因が特定されなかったために設立された。現在は、5都市のみの制度で、東京二三区、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市。この制度では、まず死体の検案を行い、死因が不審な場合は、遺族の承諾無しで遺体解剖ができる。つまり、5都市以外では、遺族の同意が必要というわけだ。虐待死した子供の解剖を親が認めるわけがない。こんなことで行政格差があるのも奇妙な話である。「家族の虐待は、地方でやりましょう!」ということか。厚生労働省は、戦後の制度で時代遅れという理由から、この制度を廃止に追い込もうとしているという。また、監察医が設置されている5都市でも、唯一機能しているのが東京都監察医務院だけだという。日本で唯一の「死因究明センター」というわけか。では、「死因不明社会」とは正確には東京都以外ということか?東京都監察医務院の業務は現在でも拡大しているという。高級官僚は優遇エリアに住んでいる。これは、監察医制度は時代遅れではなく、むしろ必要なシステムである証拠ではないのか?昭和57年頃からの行政改革の流れの中に、監察医制度の廃止が地方行政の業務のようにされたという。5都市になる前は7都市で、京都市と福岡市で廃止された。神戸市も廃止対象だったが、阪神淡路大震災での検案の結果、有用であることから残されたらしい。ちなみに、福岡市では、年間異状死の発生件数は約4000件、うち承諾解剖は10から20件に過ぎないという。巧妙にカモフラージュされた殺人事件は発見困難ということである。ちなみに、異状死による解剖率は、イギリスで60%、アメリカで50%、日本では9%。しかも、監察医制度がない地域では、4%。これは、素人が見ても恐ろしいデータに見える。

4. 処方箋
高価な画像診断機器が多く導入されているのは日本の底力であり、その結果もたらされる医療インフラは他国の追従を許さない。では、問題は公衆衛生意識ということか?夜間のフリータイムを利用して、既にAiの運営に取り組んでいる医療施設もあるという。本書は、高度な機能特化した病院が乱立しているが、死亡時医学検索センターだけが抜け落ちていると指摘する。具体的には、救急医療センターにAi解剖センターを併設することを提案している。また、大学病院にも併設されるべきだろう。医学教育には解剖実習が重視されるからである。しかし、問題はある。マンパワー不足と、医学検索コストの拠出である。マンパワーでは、医学検索には熟練の技術が必要であることは素人でもわかる。
おいらは海外ドラマNCISをよく観るが、必ず登場するのが解剖シーンである。そこで重要なのが、解剖結果に隠された犯罪性を臭わせるところだ。そりゃそうだ。ドラマティックに演出するには、手口は巧妙でなければならない。ただ、かなり気持ち悪い。一瞬酒を飲む気が失せる。このシーンが好きなのは、そこで活躍するダッキーにいちころなのだ。ちなみに、博多の中洲にはトッキーと呼ばれる潜入捜査官がいるという噂だ。おっと!脱線した。
人員の熟練度を増すには教育が重要である。システムを整備するにしても人材が育つまでには時間がかかる。かなり長期的な戦略が必要であるが、そんなことが厚生労働省にできるのだろうか?官僚は、数年のモデル期間を作って、効果無しと宣伝して葬り去るであろう。著者は、医学検索コストは国家が捻出するべきであると主張する。そして、医療費の1%程度、医療監査費用として拠出するだけで、かなりの効果が見込めると試算している。それで解剖率が2%台から5%台に上昇したとしても、年間死亡者数100万人に対して、Ai費用を一体2万円として200億円、解剖費30万円として150億円。合わせて500億円で計上したとしても、平成14年度の国民医療費の約31兆円に対して、その1%でも3000億円。計算上はおつりがくる。まあ、この計算は、読者にわかりやすいように簡略化してくれているのだろう。

本書のような情報は、テレビや新聞のようなメディアには乏しい。おいらは読書が趣味というほどではない。仕事が忙しいという言い訳からほとんど読書していない時期もあった。職が不安定だと不安を紛らわすために、読書する機会は増える。読書によって恐ろしい現実に出会うことができるのは、困ったものだ。インターネットの普及で情報も手軽になった。立派な意見をメルマガなどで提供してくださる著名人もいる。討論会では声の大きな意見に影響され、ネット社会では発信回数の多いものが助長される。巧みな口述にも情報操作される。どんなメディアもカモフラージュされて、真の情報を得るのは難しい。情報には、意見の対極的なものを双方とも選択するのもいいだろう。ますます勤勉さが求められる。ただ、おいらのような不精な人間には手軽さがほしい。こう情報が多すぎては酔っ払いには選別できない。したがって、今日も日本酒を選んでしまう。

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