2008-06-08

"カラヤン 帝王の世紀" 中川右介 著

今年は、ヘルベルト・フォン・カラヤン生誕100周年である。昔々、アル中ハイマーが美少年だった頃、カラヤンのレコードを集めようと奮闘した時期があった。まだCDがない時代である。おいらが、最初に聴き始めた音楽分野はクラシックである。そういえば、最近はクラシックを聴く機会も思いっきり減った。持っているCDの数も少ない。せっかくレコードで集めたのに、もう一度CDで集めるのが面倒だったからである。今宵は、久しぶりに第九を聴きながら、カラヤンについて知っていることを少し語ってみよう。

カラヤンといえば、音楽と映像の融合。これほど映像にこだわったマエストロも珍しいだろう。アメリカでは、演奏に映像を取り入れていたバーンスタインがいる。きっと、彼にもライバル意識を持っていたことだろう。カラヤンの晩年の映像といえば、なんと言っても1987年のウィーンフィル、ニューイヤー・コンサートである。これは世界的にも有名である。それもベルリンフィルとの確執の中で、ウィーンフィルとの組み合わせが注目を集めたのかもしれない。そこには、カラヤンの優しい表情があった。そして、演奏途中、突然後ろを振り返り、観客に向かって手拍子を指揮し始める。この感動シーンは、アル中ハイマーの記憶領域が破壊されたとはいえ、なぜか鮮明に記憶している。おいらは、これほど観客と一体化した演奏を他に知らない。また、どこかの放送局のインタビューでは、ゲーテの言葉、「一つの肉体で才能を出し切れないのなら、もう一つの肉体を与えられるのが自然の摂理だ。」を引用して、「まさに、この考えに賛成だ!私は必ず生まれ変わることを信じている。」と語っている姿も印象的だった。
カラヤンは、当時からテレビの将来性に気づいていたのだろうか?現実に、オリンピックでどんなに多くの観客を集めたところで、テレビの恩恵で億単位の人々が観覧できる。カラヤンは、自分の死後、自分の音楽が忘れられるのを恐れていた節がある。それは、「トスカニーニがどんな指揮をしたか、その資料が残っていたら素晴らしいことだろう。」と述べたという証言がある。彼は、自らの演奏を永遠に刻みたかったに違いない。テレモンディアル社を立ち上げ映像作品を作ったのも、その理由であると言われている。映画界とも交流を深め、撮影や演出の技術を本格的に勉強したことは、よく知られている。そのこだわりは半端ではなかった。舞台色、レンズの種類、アングル、カメラワークなど、楽器を浮かび上がらせるような撮影法を駆使したり、鏡などを用いた反射映像を使ったりと、特にソフトフォーカスがお気に入りだったようだ。残された映像を観ると、彼自身のショットが多いという独占振り。しかし、こうした映像へのこだわりは、音楽を二の次にしてしまうという批判もある。
カラヤンは政治の中で生きたとも言える。フルトヴェングラーとの確執など、政治、喧嘩、陰謀と噂は絶えない。ベルリンフィルとの関係悪化で、ついに、ザルツブルグ音楽祭からベルリンフィルを外した。ベルリンフィルも全収録をキャンセルという報復に出た。そこにウィーンフィルが目を付けるといった構図がある。
カラヤンの人物像では、あまりにも両極端な評判が共存する。支配欲が強く、不快な人物、極めて政治的、イエスマンには優しく主張する者には対抗心をむき出す。こうした厳しい批判の一方で、個人的な悩みには必ず手を差し伸べ、苦境にはいつでも駆けつけ、病気で手術が必要なときは治療費を出すといった友愛の情を持つという証言もある。独裁者と思われがちだが、本番の演奏は、彼ほど自由にさせてくれる指揮者はいないといった証言もある。いずれにせよ、全てを仕切らないと気が済まなかったのは確かなようだ。天才芸術家の徹底的なこだわりは、ギャラで動く演奏家には鬱陶しいものとなる。芸術家としてのエゴ、これが無ければ、真の芸術は生まれない。
また、かなりの機械好きだったという証言もある。ソニーの大賀氏によると、当時社長の盛田氏とともに最高のもてなしをしたという。訪日時のホテルには、最新機材を持ち込み、いつでも遊べるように計らったという。大賀氏が、カラヤンの最期を看取ったというのは、単なる偶然だろうか?

おいらが、カラヤンについて知っているのは、こんなところだろう。本屋を散歩していると、ちょうど、カラヤンの生誕記念コーナーが設けてある。この機会に一冊買ってみるのも悪くない。ただ、陳列の多さに目移りする。迷った挙句、一番安いものを選ぶことにした。

カラヤンは、三歳でピアノを始め、その頃から絶対音感があったという。彼の青年期はナチス時代と重なる。戦後、ドイツ復興の過程で、特にフルトヴェングラーの死後、カラヤンは帝王となる。東西分裂したベルリンに身を置き、カラヤンの死とともにベルリンの壁も崩壊する。これも歴史の運命を感じざるをえない。彼の人生には、政治に翻弄されながらも芸術に生き、権力闘争に生きた姿がある。本書は、カラヤンの人物像をヒトラーに重ねる。彼らは共にトップ以外のポストには就こうとはしなかった。彼の晩年への批判に、「同時代の作品を演奏しない」というものがあるらしい。カラヤンほどの大指揮者ともなると、「何を演奏したか」よりも、「何をしなかったか」が重要だと語る。本書は、こうした流れを歴史年表のように綴る。ただ、気になるのが、全体的に歴史上の出来事をちりばめ過ぎている感がある。音楽に直接関係のないものも多い。政治背景が多いのは、彼に影響を及ぼした点からしても仕方がないところであるが、日本の左翼や中国共産党は全く関係ない。また、科学者や日本の小説家まで登場する。これは、世界情勢と同期させたいという意図でもあるのだろうか?それとも、もっと深く味わいたいなら、他の本を読みなさいという意味なのか?いや、一番安いものを選んだといういい加減な動機が、あの世のカラヤンを怒らせたに違いない。まえがきには、文字数が限られいてるので...という言い訳めいたコメントがあるが、それならば、もうちょっと絞って人物像に迫ってほしかった。読んでいるうちに、なんとなく出版社の意向も想像してしまう。

1. ヨーロッパのオーケストラ
ヨーロッパのオーケストラは、オペラハウスの管弦楽団や宮廷楽団が発展したものが多いらしい。しかし、ベルリンフィルは民間のオーケストラとして発足した。ちなみに、ウィーンフィルも民間で、その楽団員は国立歌劇場管弦楽団のメンバーとしての公務員であるという。そして、勤務時間外に民間のオーケストラとして、ウィーンフィルで演奏するらしい。したがって、ウィーンでの定期演奏会は、基本的には昼間の講演で、夜は公務員としてオペラを演奏するのだそうだ。
ストラヴィンスキーの「春の祭典」がパリで初演された時、客席では、支持する者と反対する者とが罵りあうなどの、大スキャンダルになった話は有名である。当時のヨーロッパでは、従来にないバレエの振付けをしたり、斬新な演奏をすると、楽器の使い方を知らないなどと罵声を浴びせるような事も少なくなかった。この「春の祭典」をカラヤンが演奏した時、ストラヴィンスキーが激怒したというエピソードがあるという。野蛮さをテーマにしたのに、あまりにも美しく演奏したからだそうだ。

2. ナチスに入党
ヒトラー政権は、国民啓蒙のための宣伝省を新設し、ゲッベルスがその大臣になった。歴史的に、省レベルの宣伝組織を作った国家も珍しい。その管轄下に、音楽、映画、演劇など文化全般を置く。ナチス支配下の全国音楽院の総裁にリヒャルト・シュトラウスが、副総裁にフルトヴェングラーが就任。フルトヴェングラーは、ユダヤ人芸術家を擁護するが、やがて政治に屈する。カラヤンもナチスに入党する。この点は、後に批判の的にもなるが、再婚相手がユダヤ系女性ということもあり、擁護する人も多い。ドイツ全土の歌劇場やオーケストラは宣伝省のゲッベルスの支配下にあったが、ベルリンの州立歌劇場はプロイセン州首相のゲーリングのものだった。二人はヒトラーの寵愛を競う。ゲッベルス側にフルトヴェングラーが付いたので、ゲーリングは対抗できる指揮者を求めていた。そこで、若いカラヤンが抜擢されたという。フルトヴェングラーとカラヤンの対立は、ナチスの権力争いの代理戦争とみることができる。敗戦色が濃くなるとフルトヴェングラーはナチスから命を狙われ、スイスに亡命した。カラヤンもイタリアへ亡命した。

3. カラヤン帝国
戦後、ウィーンフィル、ベルリンフィルを巡ってフルトヴェングラーとの確執は続く。1954年、フルトヴェングラーは肺炎で死去。ここからカラヤン帝国が確立する。カラヤンは、ベルリンフィルの初のアメリカツアーの指揮を引き受ける条件に、終身の首席指揮者の座を要求したという。ベルリンフィルは、フルトヴェングラーの後任にカラヤンを決める。フルトヴェングラーの支柱を失ったザルツブルグ音楽祭は、カラヤンに協力を要請した。カラヤンは、全プログラムの演目と出演者を決める権利を持つ芸術総監督の座を要求したという。そんなポストはこれまでになく、前代未聞の要求だったらしい。そして、ザルツブルグ音楽祭総監督に就任。ウィーン国立歌劇場も、演出が旧態依然のもので崩壊寸前であったが、これもカラヤンが手中にする。この背後にあった画策、陰謀がいろいろと噂されているが、真相は不明なようだ。カラヤンの持論に、次のような構想があったという。
「複数の国際的な歌劇場がネットワークを形成し、プロダクションを交換し合う。」
その構想に恐れを抱いたウィーンの官僚たちは、ウィーン国立歌劇場から追い出した。カラヤンは、一時は、二度とオーストリアでは指揮しないと宣言したという。

4. 晩年
やがて、カラヤン帝国はなくなり、ベルリンフィルに専念するようになる。世界最高のオーケストラと仕事をしたために、レベルの低いオーケストラの面倒を見るのも嫌になっていたのかもしれない。ヨーロッパ統合のために、国歌の曲に「ヨーロッパの賛歌」として、ベートーヴェンの第九「歓喜の歌」が選ばれた。カラヤンは、その編曲の要請を受ける。現在使われる「ヨーロッパの賛歌」には、ベートヴェン作曲、カラヤン編曲と記されているという。カラヤンは、ベルリンフィルでベルリン以外の都市でコンサートを繰り返した。ベルリン市が財政援助をしているにも関わらず、むしろベルリン市民の方がカラヤンの音楽を聴く機会が少なかったという。本人が認識していたかどうかは別にして、カラヤンにはベルリンフィルと共に西側の優位を示す象徴として、世界をまわる任務があったという。彼は67歳の時、リハーサル中に倒れる。ここから老いとの闘いが始まる。もはや、完璧だったレコーディングもいい加減になっていく。それでも名盤になるから凄い。カラヤンはソニーのディジタル技術に興味を持つ。以降、カラヤンとベルリンフィルの世界最高の組み合わせがディジタル録音で残ることになる。当初、CDの規格が、11.5センチで録音時間が60分であったが、カラヤンの第九を一枚に収録したいという意向から、12センチで74分収録できるようになったという話は、技術屋に身を置くおいらも聞いたことがある。1982年、ベルリンフィル創立百周年を迎えた。その記念演奏会でカラヤンが指揮をしたのは言うまでもない。しかし、カラヤンとベルリンフィルの関係は既に悪化していた。それは、一人の女性クラリネット奏者の入団をめぐっての対立だったという。カラヤンは彼女を気に入り入団させようとしたが、オーケストラ側が拒否した。それまで、女性楽団員が一人も居なかったことから、女性差別とマスコミに叩かれたという。晩年では、ウィーンフィルとの関係を強める。そして、1989年死去。1990年、晩年の最大のプロジェクトである「影像」の販売権を得たソニー・クラシカルは、「カラヤンの遺産」をリリースした。

本書は、最後に独裁と圧政の時代にこそ、真の芸術が生まれると語る。
「ニヒリズムと狂気がないまぜになったところにこそ、最高の美が生まれる。」
確かに、ヒトラーの圧政があったからこそ、フルトヴェングラーやカラヤンのような巨匠を生んだのかもしれない。ただ、強力な政治力を発揮したことも事実で、偉人と狂人は紙一重という印象を受ける。

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