2009-07-26

"戦史(上/中/下)" トゥーキュディデース 著

アル中ハイマーの購入予定リストには、昔から亡霊のように居座る奴らがいる。本書もその一つ。岩波文庫でしばらく絶版になっていたので諦めかけていたが、偶然にも復刊されているのを見かけた。と言いながら、本書を買ったのは昨年である。なかなか読む気になれないのも仕方がないだろう。なにしろ、大作だ!この三巻の分厚さを目の前にすれば、尻込みもしようというものだ。それにしても、本書から克明と伝わる出来事の記述は感動ものである。

古代ギリシャの歴史家トゥーキュディデースは、ほぼ同時代に生きたヘロドトスとよく対比される。それは歴史家の使命についての論争である。古代の歴史叙述には、神話や伝説といった物語的に着色されたものがほとんど。ヘロドトスの著書「歴史」にも、多くの誇張が感じられる。それも仕方がないだろう。現在でさえも主観的論調が多いのに、古典に期待するべくもない。歴史の信憑性という意味では、トゥーキュディデースに軍配を上げる人が多いようだが、二千年以上も前の文化的価値を現代の価値観で単純に判定するのも無理がある。よく歴史学で問題にされるのは、いかに主観を排除し、ありのままを客観的に語れるかである。これは非常に難しい問題で、主観も客観も人間の精神の持つ本質である。主観を排除すれば、深い思考は得られない。単なる現象の羅列からは、せいぜい最寄の事象の関連付けぐらいしかできない。主観の境界線も個人によって微妙であって、主観と客観の按配にこそ、歴史学者の腕の見せ所がある。また、歴史事象は社会現象の一つであって、真の原因と広められた原因の二つの性格を持つ。トゥーキュディデースの生きた時代は、宗教や神託など思想や予言に支配されていた。にもかかわらず、主観をできるだけ排除し、隙の無い論理で組み立てようと試みたところに凄みがある。本書の序説には、事実関係を淡々と記述しているため読み物としてはおもしろくないだろうと語られる。ところが、どうしてどうして!戦争の実況中継や、その原因と背景が詳細に描かれ十分に味わい深い。軍勢の数や死者の数など、その具体性には説得力がある。中でも注目すべきは、多くの演説が克明に描かれるところである。民主政治で最も有効な政治行動は、政策を論理的に民衆に訴えることである。その演説は対立構図で描かれ、民衆の票決で世論が動く様子には、民主政治とは何か?という原点に立ち返る思いがする。二千年以上の歴史の差がありながら、その演説の見事さや誇り高さには惚れ惚れする。ましてや、日本の政治ではなかなか見られない光景で新鮮なのだ。また、疫病が流行った時の病状の詳細には、後世に治療法をうながすためか?医学的使命感も伝わる。ソクラテスの生きた時期とも重なり、哲学的あるいは論理的論争が盛んであったことも想像できる。報告書とは、斯くありたいものだ!

本書は、古代ギリシャ最大の戦争と言われ、27年間続いたペロポネーソス戦争の記録である。とはいっても、著者は21年目で筆を置いていて、この大作は未完に終わっている。著者は戦後も生きているはずだが、執筆中に亡くなったということか?人間が20年も生きれば思想や哲学にも変化が生じるであろう。しかし、終始一貫して乱れがないという出来栄えには、戦時中の記録というよりも、戦後に冷静に分析した結果と思われる。ペロポネーソス戦争は、アテーナイ軍を中心としたデーロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネーソス同盟との間で発生した。地域でいえば、東側のアッテイカ地方と西側のペロポネーソス半島の対立である。著者自身は、両軍がトラーキア地方のアテーナイ植民都市アムピポリスをめぐって争った時、アテーナイ軍の指揮官として救援にかけつけたが、ペロポネーソス軍の名将ブラーシダースに先を越されて都市を奪われ、その責任を問われて追放されたという。そうした、やりきれない立場からの回想録と解釈することもできる。ちなみに、この戦争は、11年目のニーキアースの平和条約を境に二つの別々の戦争と解釈する人も多いという。この平和条約が有効期限を50年と定めているところからも、そのように解釈されたようだ。著者は、それは誤りであると主張し、あくまでも一つの戦争として記述すると語る。

著者は、予めこの戦争が史上最大になると予測している。その理由に戦備の量や参戦国の数を挙げている。戦争規模の基準は様々であろうが、著者が言う戦備とは軍資金のことを指している。そして、富の蓄積と政治権力の形成という観点からの国力の評価には鋭いものがある。富の蓄積がないところに政治力の結集は期待できないだろう。支配者と被支配者との関係も希薄となり、内乱があれば外敵に向かうことすらできない。その莫大な資金から、庶民の生活も豊かで税収入が多かったことが予想される。なるほど、人々の定住や、安心して農耕を営むこと、海洋を利用する商業利益の蓄積といったものに重点を置きながら、戦争が大規模化すると、武装と武装の戦いではなく、経済力と経済力の戦いになることを見越している。まさしく、現代的な分析と言おうか、科学的な分析である。これほどの冷静な分析がなされながら、なぜアテーナイは敗戦したのか?その分析は敵意とまでは言わないが、アテーナイに対してかなり辛口である。もしかして、著者は敗因を残そうとしたのだろうか?敗戦の問題提起だったのだろうか?戦争は得てして、敗者の分析に鋭いものが現れる。クラウゼヴィッツの「戦争論」はナポレオン戦争の敗戦の反省として残されたと解釈することもできよう。

本書には、全ギリシャの共通意識と価値観がうかがえる。その合言葉は「自由なギリシャ」といったところだろうか。その中で、実に多くのポリスが登場し、他ポリスからの干渉を嫌う性格が見受けられる。各ポリスで政治体制も異なり、大別するとアテーナイ側の民主制とペロポネーソス側の貴族制のイデオロギー対決といった構図がある。全ギリシャの民族価値を前提としながら、独自のポリスが多く混在する政治モデルには、地方自治体の単位で結束した地方分権モデルに通ずるものを感じる。アテーナイでは自由とは何か?といった哲学的思想が根付いているようにも見えるが、一方で奴隷制が栄えた時代でもある。現代感覚では矛盾しているが、「人間」という身分の抽象度はまだまだ低い。独立した諸ポリスの性格には個性があるが、ペルシア戦争では、大軍が押し寄せるとアテーナイとペロポネーソス諸国は団結した。いざとなると意志統一ができるのも、根底に共通文化があるからであろう。そして、ペルシア軍は遠征という不利な立場から撃退された。本書には、ペルシアの大軍に勝利した余韻がまだ残っているように思われる。ペロポネーソス側では、ヘーラクレースの子孫である誇りも覗かせる。しかし、不利な遠征を、ペロポネーソス戦争では、大軍アテーナイがシケリア(シチリア島)に侵略して大敗する。アテーナイでは、大敗責任を追及され民主制の弱点を露呈する。それは、気まぐれな世論の変化である。諸ポリスには強国アテーナイと隷属関係があって、その遺恨も根深い。この侵略の失敗が相次ぐ離反国を生み、ペロポネーソス戦争を敗戦へと導く。

1. 歴史学とは何か?
本書は、「歴史学とは何か?」という素朴な疑問に、一貫して答えようと努めているように映る。人間の文明は何を前提としているのか?人間の行動は何を目的としてるのか?社会や歴史を動かしているものは何か?こうした疑問を自問しながら、経過を辿る様子がうかがえる。そこには、条件と反射との正確な記述がなければ、人間行動の本質を見極めることはできないという原理が潜んでいるようだ。そもそも、歴史文献には権力に着色される性格を持っている。権力者は歴史を美化する傾向がある。したがって、歴史文献をそのまま鵜呑みにすると本質を見誤る恐れがある。世俗的な風刺などにその本性が隠されていることも多い。著者は、政治演説で、人から聞いたことや、自分で聞いても一字一句記憶することはできなかったことを予め断っていて、主旨をできるだけ忠実に綴ったと語る。特に、戦争といった敵対関係では、感情的になって食い違いも生じるだろう。歴史は分かりやすく記述することはできても、正確に記述することは難しい。正確であっても、その実証も難しいので、あぐらをかいてしまう。政策に対する意見の評価も難しく、常に賛否両論がつきまとう。本書の特徴は、そうした混乱を避けるために、賛否の演説が組となって記されるところにある。これは、議事録としての真実性よりも、更に踏み込んだ真実性とでも言おうか。真実は行動した結果だけをもって判断できるものではない。真の因果関係と、表に現れる因果関係が違うことも多い。人間の行動には、表向きの行動と、その奥底に潜む真の動機が共存する。本書は、演説と決議、理論と実際、知性と行動といった両面から迫ろうと試みる。

2. ヘラス(ギリシャ)の地
ヘラスの地に人々が定住したのは比較的新しい時代のことだという。それまで人々は住居を転々としていた。互いの生命を維持するに足るだけの土地を領有し、物資の余剰を持たず、日々の必要な糧さえ確保できれば十分だった。こうした身軽さから、外敵に侵略されると未練なく土地を捨てることができる。豊かな土地のテッサリア、ボイオーティア、ペロポネーソスは、内乱や陰謀の餌食となっていたという。その一方でアッティカ地方は、土壌の貧しさが幸いして内乱は稀であったがために、古来から同種族が住み着いたという。各地で紛争が起こると、国を追われアッティカ地方へ逃げ延びる。その結果、アテーナイの保護を求めた王侯貴族の数が多いという。アッティカの繁栄は難民の増加によってもたらされ、アテーナイのポリスを巨大化させた。トロイア戦争以前は、ギリシャという国が一致団結した例はないそうな。海洋航行が盛んになると、海賊からの防衛のために城壁を築きポリスが形成される。蓄財するようになると、海軍も組織され勢力が拡大し、その結果トロイア遠征が行われた。ここで、ホメロスの叙述にあるトロイア戦争の規模は、詩人としてのありがちな誇大な虚飾であると批判しているようだ。トロイア戦争後、国を離れる者など住民の入れ替わりが激しく、国力を充実することはできなかった。それは、トロイアからのギリシャ人の帰還が遅れたために社会的変動が生じ、新たな国を建てるという現象が繰り返されたためだと指摘している。その80年後、ドーリス人がヘーラクレースの後裔とともにペロポネーソス半島を占領して、ギリシャにようやく平和が戻ったという。ペロポネーソスはイタリア方面に植民地を建設し、ギリシャ人の勢力が拡大すると、各ポリスでは独裁者が台頭し収益を増大させた。各地に海軍が組織され、ますます海上へと勢力を広げる。ギリシャで最初に三重櫓船を建造したのはコリントス人だと伝えられるそうな。コリントスは、ギリシャ人がペロポネーソス半島を往来する時に通る通商の要地である。コリントスは、船舶を建造し海賊を制圧し、陸海両面の通商で商業の中心となる。アテーナイで軍船が建造されるようになったのは、ダレイオス王のペルシア軍が迫った時だという。ペルシア軍を撃退した後、アテーナイはギリシャの頭となった。そして、アテーナイを盟主とした同盟ができる。同盟財務局はデーロス島にが設置された。

3. アテーナイの民主制確立
戦前からアテーナイでは、急進的な民主派と旧勢力の保守派との間で指導権の争奪が続いていたという。新興勢力の海軍と、旧勢力の重装歩兵との間に政治問題が発生する。この問題を、支配圏拡大と植民地増設によって解決しようとする急進派と、収縮的な解決を狙う穏健派、更に、ペロポネーソスに対する親疎両派の対立などが絡む。そして、急激な民主制の発展にともない新旧勢力の均衡が崩れつつあったという。こうした背景で、著者とペリクレースの特殊な関係がある。著者の所属するキモーンの一派は旧派を代表する。その旧派を打倒し新派を代表したのがペリクレースである。著者の態度は、両派に影響されず、冷静に歴史を傍観する眼力を持っていたということだろうか。アテーナイの新旧両派の争いは、まずキモーンとペリクレースの政治抗争として現れた。キモーンは、海軍を率いてエーゲ海各地からペルシア軍を撃退し、後のアテーナイ支配圏の基礎を築いた。しかし、外交的にはスパルタとは平和政策をとったために破綻したという。勢いずく海軍を支えていた下層市民は、更に生活向上を要求したため、キモーンの内政政策に不満を持ったからである。そこに、下層市民の生活向上を旗印に現れたのがペリクレースである。スパルタが地震と奴隷叛乱のために窮地に陥ると、キモーンは援軍を率いるが、逆にスパルタ側の猜疑を受けて面目を失う。キモーンはその責任を負われて追放刑となる。この頃、法廷も民主派の要求に屈して権限を縮小された。新興勢力はテロ事件まで起こし、その振る舞いには目にあまるものがあったという。キモーン追放後、次々と民主派が勝利して、海軍はエーゲ海のみならずペロポネーソス連邦を牽制し始める。海軍は強化され重装歩兵は弱体化という構図。下層市民は海洋制覇を拠り所にして生活権を獲得する。ペリクレースは、植民地経営権を下層市民に分譲し、都市の美化運動、祭典や競技の振興などで民心を掴む。パルテノン神殿の建築もペリクレースが提案し着工したものだという。ペリクレースの政策は、最初は民主主義を押し進めたが、ある時期から民主主義の行き過ぎを是正し、福祉と国の安泰へ向かう。この時期、「人が人である限り守るべきものとして神が与えたものであり、現世の敵味方のべつなく守らねばならなぬもの。」といった高い道徳性と良心が現れたという。

4. ペロポネーソス戦争の直接原因
アテーナイの隷属国エウボイア島で離反が起こり、鎮圧のためアテーナイは軍を差し向ける。その隙を狙ってスパルタがアッテイカに侵入したが、深入りせずに引き揚げた。エウボイア島を屈服させた後、アテーナイはペロポネーソス側のラケダイモーン人と30年間休戦条約を結ぶ。ペロポネーソス戦争は、この休戦条約を破棄したところから始まった。それは、コリントス人とケルキューラ人の、エピダムノスというポリスを巡っての紛争から始まる。コリントスはペロポネーソス同盟に属す。ケルキューラは、イオニア海に面したポリスで、ギリシャ西方に位置しイタリア方面へ向かう要地でもある。エピダムノスを植民地にしていたのはケルキューラであるが、ケルキューラの母国はコリントスで、両者は遺恨の関係にある。ケルキューラはギリシャ諸国と同盟関係にないが、アテーナイに援助を請う。アテーナイもコリントスとの対立関係を歓迎して同盟参加を認める。いずれはペロポネーソス側と戦争が始まると考えていたので、強力な海軍を擁するケルキューラを同盟に加えることは得策だと考えた。そして、アテーナイとケルキューラのどちらかが攻撃されれば、双方で援軍を出し合うという防衛協定が成立。この同盟参加は、ペロポネーソスとの休戦条約違反にはならない。条文には「条約にその名を連ねないポリスは、意のおもむくままにいずれの側の同盟に参加することを得る」とあるから。条文を逆手に取ったわけだが、一方を害する国が、他方に参加することを容認できるわけもない。コリントスは、ケルキューラへ軍船を送る。アテーナイも、ケルキューラに援軍を送るが、指揮官にコリントス船と海戦してはならないと訓令を与えた。だが、戦争とは勢いで意図しないことが起こる。結局、アテーナイはケルキューラと組んで海戦に加わることになる。

5. ペロポネーソス同盟会議と戦争の原因
コリントスは、ペロポネーソス同盟の諸国にラケダイモーンに集まるように呼びかけた。コリントスの代表は、アテーナイが和約を蹂躙したと批難した。ちょうどこの時、アテーナイは代表使節をラケダイモーンに送っていた。アテーナイの代表も演説で、アテーナイがいかに強大な勢力を擁するポリスであるかを示すことによって脅威を与えようとする。各国の演説の応酬が始まる。ケルキューラ事件に見ぬ振りをする態度に、自由なポリスの尊厳をどう説明するのか?アテーナイ人の演説には、侵略行為への釈明が何一つ述べられていない!平和を守るという名目だけで、侵略を黙認することはできない。そして、票決で開戦が決定される。本書の分析では、戦争の理由はアテーナイがすでに広くギリシャ各地を支配下に従えている現状から、これ以上の勢力拡大を恐れたからだとしている。アテーナイの横暴な態度が、諸ポリスの間で顰蹙を買っていたようだ。

6. ラケダイモーンとアテーナイ間の外交的前哨戦
ラケダイモーンは、アテーナイへ何度も弾劾の使者を派遣し、開戦を正当化する有利な口実を模索していた。神の呪いを清めよ!デルポイの神託を仰げ!などの扇動の応酬が交わされる。そこには、互いに過去の侵略などの不当行為を責めるといった遺恨の深さが現れる。ラケダイモーンは陰謀を企て、ペリクレースを失脚させようとする。ペリクレースも、相手の資金不足や軍事的弱点を指摘し、ペルシア戦争以来のアテーナイの実力を誇示し勝算を裏付ける。そして、戦争完遂の決意と十分な資金の蓄積があれば、戦争に間違いなく勝てると主張する。やがて、両者は戦争不可避の結論に達する。開戦にあたっては、無数の予言も横行する。開戦の直前に、前代未聞の地震がデーロス島で発生すると、多くのギリシャ人はラケダイモーン支持に傾く。ある者はアテーナイ支配からの離脱を望み、ある者はその支配を恐れる。

7. 第一次アッテイカ侵攻
第一次アッテイカ侵攻では、ペロポネーソス勢が撤退しアテーナイは勢いに乗る。この勝利で、アテーナイの国葬の光景が詳細に描かれる。最初の戦没者を祖国の慣習にしたがって、栄誉ある死が崇められる。墓地はポリス郊外の美しい場所にあって、そこに参列者の列ができる。国葬でのペリクレースの演説では、偉大な民主政治を守るために犠牲者となった市民の誇りを賛える。利害得失の勘定にとらわれず、自由人たる信念をもって結果を恐れずに人を助ける。これがギリシャ人の理想的精神のようだ。もはや勇士たちに憐れみの言葉はいらない!とその演説も熱い。

8. 第ニ次アッテイカ侵攻
ペロポネーソスは大勢力で侵攻する。その時、アッテイカでは疫病が流行った。一説によると、疫病はナイル川上流のエチオピアで発生し、やがてリュビアに広がって、更にペルシア領土の大部分をも侵したと言われるらしい。それが突然アテーナイに発生したので、ペロポネーソス勢が貯水池に毒を入れたという噂が流れた。疫病による死者がたちまち急増し、混乱はポリス内の秩序を乱す。命も金も今日限りと思うようになった人々は欲望をほしいままに顕にする。宗教的な畏敬や社会的掟をすっかり失い、アテーナイは疫病と外敵の侵略によって窮迫状態に陥った。人間は困窮すると迷信深くなるもので、予言や神託の祟りのような噂も流布し士気が低下する。この窮地にペリクレースは、ラケダイモーンに使節さえ派遣している。だが、なんの成果もない。こうした弱気の行為は、ペリクレースに対する批難となる。ペリクレースは演説で不屈の精神を訴えるが、群集感情は収まらず罰金刑で落ち着いた。ペリクレースは、開戦後二年六ヶ月生きた。ペリクレースは世人の高い評価を受け、優れた見識をもった実力者だったと評している。彼は畏怖するまで市民を叱りつけ、群集から不安を取り除き士気を立て直したという。やがて持久戦となり、ペロポネーソス勢の兵糧が尽き、人肉を食すという事態まで起きたという。ここに経済力の差が出たのか、遠征軍の不利が出たのか、ついにアッテイカから引き揚げた。翌年はアッテイカへ侵攻せず、その後ペロポネーソス勢は苦戦する。アテーナイの船隊はペロポネーソスの船隊を撃破する。その戦闘シーンでは、アテーナイ軍の技術的経験の高さで圧倒した様子が描かれる。

9. レスボス諸市の離反
ペロポネーソス勢が第三次、第四次アッテイカへ侵攻した頃、ポリスの謀反が起こる。レスボス諸市が離反し、アテーナイはその鎮静化に追われる。クレオーンは演説で離反国に対する極刑論を主張する。離反国を討伐するのに、資金と命を掛けるが、勝利したところで得るものはない。疲弊しきった国は年賦金を納める力も失っていて、もはや戦力として期待できない。離反者の行為は過失ではなく、自発的に謀議を行った。情状酌量とは過失の場合のみに該当する。死刑を科せば、未来において離反者が減るといった意見である。
対して、デイオドトスは処刑に反対の立場をとる。
「良き判断を阻む大敵が二つある。性急と怒気だ。性急は無思慮におちいりやすく、怒気は無教養の伴侶であり狭隘な判断をまねく。」
彼は、怒りの立場からすればクレオーンの意見はもっともであるが、戦争勝利者は裁判官ではないと主張する。ギリシャ諸国の慣例では、様々な罪に対して死刑が定められる。にもかかわらず、浅はかな見込みを信じる者は危険を顧みない。成功を確信していなければ誰も無謀な事はしないだろう。離反する時に、ペロポネーソス側の支援が期待できたからこそ、事を起こしたのではないのか。だが、判断は公私に及んで誤る。これは、あらゆる立場の人間の本性に根ざしているという。人間は、あらゆる過ちを犯すのが本性であって、ほとんど全てを死刑に処してきた今日でさえ、犯罪は跡を絶たないではないか。となれば、死刑にまさる恐怖を与えない限り、死刑だけでは十分な拘束力を及ぼすことはできないだろう。人間は衝動の囚にあり、強い誘惑に盲導されて危険な深みに陥る。だが、一旦思いがけぬ幸福に出会うと、信じられない勇気と力を発揮するのではないか。人間の心情を、法の拘束力とその他の威喝の手段で阻止することは不可能であり、これができると思う者ほど単純な人間である。この条理に従えば、死刑にさえ処せば間違いないと信じる愚かな決定はできないはずだ、といった主張がなされる。アテーナイでは意見が真っ二つに分かれたが、デイオドトスの意見が決議された。そして、首謀者のみを処刑することで落ち着く。

10. 内乱がもたらす諸悪
本書は、戦争があるからこそ、内乱が起こると主張する。平和と繁栄のさなかであれば、国家も個人も己の意に反するように強制されることがないため、より良き判断を選択できるという。しかし、戦時では、円満生活を奪い、人間は弱肉強食となって、ほとんどの感情は目の前の安危へと向かう。そして、後から現れる行為は、先例よりもはるかに過激な行為となる。攻撃手段には復讐感情が加わり、更に残虐化を増す。そして、暴虐が勇気と呼ばれ、先を見通す者は臆病者と呼ばれる。人間の共犯意識は集団行動の中で加速する。優勢な方が寛容な態度で言い分を聞いていたものが、間髪をいれずに暴虐化し狂乱する。こうなると、もはや良識などなくなる。人間は、神よりも復讐を、正義よりも利欲を崇めるようになる。内乱で引き起こされた価値の倒壊や人間性の潰滅といった現象が鮮明に記される。

11. アテーナイ、シケリアで敗北
アテーナイの大軍が押し寄せるという報が入った時、シケリアでは次のような演説で鼓舞する。
「ギリシャ人にせよ、異民族にせよ、本国を遠く離れて繰り出した大軍勢が終わりを全うしたためしがない。いかなる大軍といえどもその地に住む人口を凌ぐことはできない。糧食補給が絶たれては異国の地で挫折する。」
アテーナイは、ペルシア軍と同じ過ちを犯して敗北した。本書は、シケリア諸邦のみが、アテーナイと類似の体質を有する国々であったと分析している。すなわち、アテーナイと同じくらい民主国家であり、軍船や騎馬などの軍備も大きかったと。相手国の反政府分子を利用することもできないほど、民主制が根付いていたと。自由を掲げ、他国の隷属を断固として拒否した結果であり、政治体制を崩すことができなかったことを敗因としている。アテーナイ本国に悲報が伝わっても、当初は誰も信じなかったという。それが真実だと判明すると、市民たちは決議に自らの票を投じたことを忘れて、遠征を支持した政治家たちを一斉に批難した。神託師や予言者などにも憤りを投げつけた。ポリスの多数の重装兵や騎兵を失ったばかりか、国内で第一線の壮年者を失った。船を失い、国庫には余財もない。おまけに、シケリアから襲来される恐れがある。離反国も、大挙して押し寄せてくるかもしれない。アテーナイに隷属していた諸国はその報に熱狂する。最大同盟国キオスが離反し、同盟国の離反が連鎖する。

12. ペルシア王とギリシャの思惑
アテーナイ軍がシケリアで大敗した後、ペルシア王とラケダイモーンが同盟を結ぶ。しかし、ここにはそれぞれの思惑が隠されている。ラケダイモーンからすれば、ペルシア王の資金援助があれば、兵士への給料も支払わられ諸都市が援助される。しかし、ペルシア王からすれば、ギリシャ人同士で互いに傷つけあう方が都合がいいので、この戦争を早く終わらせたくない。アテーナイからすれば、ペルシア王の仲間として支配圏を分け合う相手はどちらが都合が良いかいえば、ラケダイモーンよりもアテーナイであるという意見が支配的である。アテーナイは陸上の支配圏に固執しないからである。その頃、アテーナイでは民主政治の廃止を唱え始める風潮が現れる。そして、一部の有力者による貴族政治へ移行し、四百人評議会が成立する。民主政治を廃止すれば、ペルシア王との関係を良好にできるという意見が支配的だったからである。敗戦の責任を民主制に押し付け、強力なリーダーシップを要求した世論もあったのだろう。ただ、隷属諸邦に貴族派が政治工作したところで、もはや効力はない。そして、ペロポネーソス勢によって自由がもたらされると期待し、自ら自治独立の道を選択する。結局、四百人評議会は離反軍の鎮静化に失敗し、窮地に追い込まれる。この時の状況をほどんどの者が功名心に憑かれて、表向きの政治論を展開していたに過ぎないと、その光景を語る。機能しない貴族政治への不満は最高潮となり、五千人会議による平等な政治体制を模索する。そして、四百人評議会は解体され、貴族と民衆が融合して均衡に達し、悪化を続けていた状況が好転しつつあったという。

13. ニーキアースの最後の演説。
ニーキアースは撤退の兵を励ます。
「諸君、男児らこそポリスをなすもの、人なき城や船がポリスではない。」
しんがりはデーモステネスがつとめた。糧食類も枯渇し、軍兵はただならぬ困窮に陥る。ついに、デーモステネス降伏。続いてニーキアース降伏。両指揮官は処刑され、捕虜も過酷な運命をたどる。筆はこの21年目で終わる。その後、ペロポネーソス戦争は、27年目でアテーナイが降伏することになる。

3 コメント:

大絶画 さんのコメント...

アル中ハイマー様

はじめまして大絶画と申します。
復刊ドットコムにトゥーキュディデース著『戦史』がリクエストされています(「商品あり」となっていますが実際は「重版未定」で投票も可能です)。アル中ハイマー様をはじめブログをご覧のみなさまの投票しだいで復刊される可能性があります。投票へのご協力をお願いします。
なおこのコメントが不適切と判断されたら削除していただいてかまいません。

『戦史』投票ページ
http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=7146

大絶画 さんのコメント...

アル中ハイマー様

大絶画です。
投票へのご協力感謝します。
検索機能や「歴史」のタグから歴史関連のリクエストを検索できるのでご利用ください。

アル中ハイマー さんのコメント...

いえいえ、かねがね同じようなことを思っていました。私が入手できたのは運が良かったんですね。

護送船団式の販売戦略を繰り返す出版業界にあって、字の詰まったこってりした本が少なくなる傾向にあるようです。書き手の側にも、ページ数や字数の制約にうんざりするという意見があると聞きます。
確かに、分かりやすい本の方が売りやすい。しかし、目先の売上に固執すれば、多様なニーズが埋もれ、真の愛読者は選択肢を失うことになるでしょう。それは、電子書籍が我が国でいまいち反応されないところにも表れているような気がします。
書店の売り場には、タイトルだけ変えて内容は似たような本が氾濫し、おまけに著名人の写真付きとなれば、嫌悪感を抱くことも。不景気が続くと、あらゆる業界でありがちな傾向ですけど。

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