2009-08-16

"社会科学の方法" 大塚久雄 著

著者大塚久雄氏は、ヴェーバー著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(岩波文庫)の訳者である。この本には感銘を受けて以前記事にもした。その訳者の解釈にも興味を持ったので本書を手にとった。ここでは、マルクスとヴェーバーについての著者の解釈が記される。この二人に注目した理由は、あらゆる社会学の科学的アプローチの原型がここにあるからだという。マルクスとヴェーバーの解釈をめぐっては様々な見解が錯綜する。その中で著者は、思いっきり主観で語ると宣言している。そもそも、客観で語ると言って、そうだったためしがない。もし、本当に客観で語られても、単なる事象の羅列に過ぎないことも多い。むしろ、主観的に語られる方が違った考え方が見られておもしろい。読者が客観的に眺められればいいだけのことである。もちろん本ブログも、すべての記事を主観で、いや!気まぐれで語っている。

社会学は、人間あるいは人間行動を対象にした学問であり、極めて複雑系の中にある。この学問を科学的に解析することは可能だろうか?人間行動をある程度は利害関係によって説明できるだろう。ただ、利害は個人の価値観で判断されるからやっかいである。経済学が扱う利害関係は物質的なものばかりに着目する。だが、実際は内面的や精神的な価値を追求する人も多い。知識を得ることに精神の安定を求める人もいる。また、倫理観や人生観を形成する慣習や信仰などによって価値観が生み出される。人間の行動には、どうしても動機付けのできないものがある。その人にとっての合理性は、他人にとっては非合理性と見なされる。結局、利害関係は個人の多様な理念によって生じ、もはや統計学的に捉えるしかないようにも映る。だが、多様性を平均することに意味があるのだろうか?あらゆる統計データはちょいと視点を変えただけで、どうにでも誤魔化せる。自由 + 平等を2で割ったところで、答えは見つからない。となると、統計的分析にも限界を感じ、もはや社会学の科学的分析は不可能のように映る。だからといって、諦めることにはならない。学問として法則性を追求することで、今まで見えなかった因果関連を解明できる可能性はある。そこに意義を求めなければ学問は成り立たない。少なくとも、物質的な価値評価のみで体系化できたと言い張るよりは、混乱を意識している方が健全である。人間は、永遠に人間自身を探求し続ける宿命を背負っているのだろう。

冷戦構造が終結すると、社会主義やマルクス主義は崩壊したと言われた。現在ではマルクス主義を見直す動きもあるようだが。歴史教育では、社会主義は資本主義の枯渇によって生まれたと教える。教育関係者に共産党系が多いかどうかは知らん!もし、そうならば、なぜ?資本主義の成熟したイギリスやアメリカで起きずに、資本主義後進国のロシアで起きたのか?未だ歴史上に、真の社会主義モデルは出現していないのではないのか?そうした疑問をなんとなく持ち続けている。世間では様々なマルクスの解釈が氾濫する。その混乱を招いていたのは、マルクス主義信奉者たちの奇妙な解釈であろう。本書は、ヴェーバーがマルクスを批判しているというよりは、むしろドイツ社会民主党を批判していると指摘している。なるほど、マルクスの経済批判は、資本主義を前提とした現行経済を批判したと主張する人も見かける。マルクスの主張は、社会主義というよりは、資本主義を認めた上での平等主義という解釈もできなくはない。少なくとも、マルクスをボリシェヴィキと一緒に葬り去るべきではないような気がする。いずれにせよ、マルクスの「疎外」を理解したければ、その著作「資本論」を読むのが一番であろうが、なにしろ大作!生涯読む気がしないだろう。ということで、本書でお茶を濁しておこう。
ところで、マルクスとヴェーバーを対立構図で語られることが多い。確かに、ヴェーバーの著作の中にもマルクス批判を匂わせる記述がある。しかし、本書は、批判しながらも褒めているところもあって、双方の分析手法では、むしろ二人は重なる部分が多いと指摘している。

1. マルクス経済学と疎外
マルクス経済学の対象はあくまでも個人であって、人間を超越したような社会的実体の一環といった発想はないという。そして、経済学を自然科学と同じように理論的方法を適用する。個人はそれぞれ意志をもって目的を設定し、手段を選び、決断しながら行動する。これを説明するのに、自然成長的分業という方法概念を持ち出す。これは、自然に発生した、いわば偶然性による職業分化であって、計画経済などで政治的に仕組まれる分業ではない。この分業が総合和となって、社会全体の経済力として機能する。もちろん、個人の職業は私的なものである。となると、需要と供給の関係の中で、必要な職業が生まれ、その人員配分も自然に組み込まれることになる。まさしく、自由主義や資本主義は、この方法で成り立っている。ただ、こういう社会では、マルクスは「疎外」という現象が起こることを指摘している。生産諸力の総合が巨大化すると、経済そのものが巨大な生物のようになり、人間の意志では手に負えなくなるだろう。こうした段階になると、自然と同じように法則性を持った客観的現象になるという。統計的現象とでも言うか、これを「疎外」と言っているらしい。
「疎外とは、人間自身の力や成果が人間自身から独立して、あたかも自然に法則性を持って運動する客観的過程と化すということである。」
個人の総和が群集の力となった時、個人の無力感を思い知らされる。資本主義が人間を対象とした経済システムであるにもかかわらず、巨大化すると物価の変動には無力となる。人間の欲望の総合力として株価が暴走し、社会そのものを崩壊させてしまう。こうした複雑化する群集の力をどうやって収拾すればいいのか?まさしく、現在の経済が直面する問題である。この対処で、一つ一つの疎外の現象を解消していくにも無理があろう。一つの疎外を解消すれば、新たな疎外が生じる。経済システムの中から社会の運動法則を見つけるのも難しい。そこで、問題となるのが資本家の人格で、彼らを経済的範疇へ人格化できるかが問題であるという。自らの利害関係だけでなく、社会全体の利害関係を意識する人格ということだろうか。疎外とは、絶望論にも映る。本書は、「資本論」が疎外現象の中を動きまわるだけの経済学を批判し、経済の主体は他ならぬ人間であることを明らかにしようとしたものだと語る。あくまでも、「疎外」からの回復という観点からの経済学の考察ということらしい。
ところで、哲学で「疎外」というと、やりきれない!自我の喪失!といった印象を与える。それが、資本主義から人間性が失われると解釈され、人間性を取り戻す意味での社会主義が想起し、その発展型が共産主義や全体主義となり、ついには完全に人間性を失うわけか。

2. ヴェーバー社会学
ヴェーバーもマルクスと同様、経済活動を営むのは個人であると主張しているという。ただ、ヴェーバーは経済の対極とも言える宗教を考察し、宗教社会学に大きな意義を与えている。この宗教的な考察には伝統的慣習も含まれる。ヴェーバーといえば「価値自由」の概念が登場する。これは、不当な価値判断を混入しないことであるが、その観点を人間の主体から遠ざけるという意味ではない。価値判断が完全な客観性に基づくのであれば、あらゆる物の価値は明白なものとなろう。しかし、主観的に価値判断されるのが人間社会である。本書は、目的論的関連と因果関連とが方法的に混同される危険性を指摘している。政治家の政策で思惑がはずれるのは、因果関連の分析が中途半端のまま、目的論的に結論づけるからであろう。現実に、政治が社会を混乱させ、経済政策が経済危機を引き起こす。最大の過ちは、政治主導だけで社会や経済が動いていると勘違いしていることであろう。資本主義が自然成長的な分業で成り立っているからには、あらゆる因果関連を解明することは不可能に思える。だが、ヴェーバーは、主観的な目的論的関連を、客観的な因果関連に組みかえることができると主張している。
「社会学とは、社会的行為の(主観的に思われた)意味を解明しつつ理解し、それによってその経過と影響を因果的に説明しようとする学問。」
社会学では、自然科学とは違って、動機を理解するという過程が加わるという。しかし、この動機を理解する方法が分からん!ヴェーバーの著書では理念型を定義していた。それは、階級や身分によって、理念型を細分化する。例えば、資本家の理念型、労働者の理念型といったあらゆる人間のタイプを分析する。ただ、理念型で抽象化したところで、それに属する人間の中でも意志はバラバラである。となれば、厳密な分析を求めると、理念型は人数分存在することにならないか?ある程度、多数決の原理や確率論に頼ることになろう。ヴェーバーは、人間の意志が自由になればなるほど、学問的に理解しやすくなり科学的な考察が有効になると主張している。そして、社会学の客観的考察が可能になるというわけだが、これが分からん!自由意志が拡大すれば、多様性が増大してより複雑系になるように思えるのだが?人間社会のエントロピー増大の法則とは、人間の凡庸化を意味しているとでも言っているのだろうか?精神の成長が、人間の持つ真の合理性へと向かわせ、共通理念に収束するとでも言っているのだろうか?そして、純粋理性の獲得と結び付けているのだろうか?近代では、ますます凡庸な指導者によって政治が行われるかのように映る。人々の自由意志が進化すると平均化され、精神のスーパースターが出現する可能性は低くなるのかもしれない。

3. 「ロビンソン漂流記」
18世紀前半イギリスで活躍した政治経済記者ダニエル・デフォーの著作に「ロビンソン漂流記」がある。デフォーは、イギリス経済を牽引しているのは中産階級であると確信していたという。いずれ、その考えは産業革命で証明されることになる。
ところで、彼が、ロビンソンとして登場させる人物は、この中産階級の人々に酷似しているという。本書は、この階級層の人々をユートピア的に理想化したものではないかと分析している。そして、アダム・スミスの「国富論」で登場する「経済人」を理解する方法として、この本を薦めている。ちなみに、子供の頃に読んだ覚えがあるが、そんな高級な内容だとは知らなんだ。もう一度読んでみるかぁ。
主人公ロビンソンは孤島に漂着する。そして、船に残った小麦や鉄砲などの資材を利用して生計を立てる。そこには、柵を作って土地を囲い込み、植木をめぐらして住居を囲い、囲い込みの中でエンクロージャー的な生活様式が現れるという。囲い込んだ土地の中で住居や仕事場をつくり、製造を営む。農業をやりながら、製造業を営むというマニュファクチャー的な工業形態とでも言おうか。当時のイギリスは、都市部よりも農村部の中産工業によって経済を牽引していたという。毛織物製造で分業し、雇い主も雇われ人も揃って仕事に励み、奴隷制の面影はない。この本には、世の中で最も幸福なのは上流階級でも下流階級でもなく、中産階級にこそ仕事と精神で有意義な生活ができるという教訓がこめられているという。そして、ロビンソンは合理的な人間として描かれる。現実的な計画を立て合理的に行動しながら、再生産によって規模を拡大する。ここには、再生産システムをよく理解した実践的合理主義があるという。おまけに、ロビンソンは、漂流生活の貸借対照表や損益計算書を作っているというから、資本主義の基本的な姿勢が現れているようだ。マルクスの「資本論」には、経済学者がロビンソン物語を好むことを揶揄している有名な箇所もあるらしい。
この本とは対称的にジョナサン・スフィフト著「ガリヴァの航海」がある。ちなみに、「ガリバー旅行記」も幼少の頃、絵本で読んだような気がする。これは、社会批判の書で、中産階級の暗い生活様式を集めてユートピア化したものだそうな。

4. 「儒教とピューリタニズム」
マルクスは、宗教は精神的アヘンであると徹底的に否定したことが取り沙汰されるが、本書は、批判しながらも議論の出発点にしていると指摘している。その意味で、マルクスとヴェーバーの宗教的方法は重なる部分が多いという。なるほど、否定と批判では意味が違ってくるわけか。資本主義思想はピューリタニズムから派生したと解釈する人も多いが、本書は、ヴェーバー著「儒教とピューリタニズム」の中に、アジアで唯一日本で資本主義的思想が生まれたと解釈できる部分があるという。それは、おそらく浄土真宗だという。
ところで、儒教とピューリタニズムには人間観の違いがある。キリスト教的な思想では、人間は罪人であって、自らは救いに到達しえないものといった観念がある。一方で、儒教的な思想では、血縁関係や伝統を重視するといった観念がある。ピューリタニズムでは人間を堕落と考えるが、儒教では人間を堕落とは考えない。内面的な成長の欲求を西洋的とするならば、そのまま運命を受け入れて諦めるのが東洋的とするとちょっと言い過ぎかもしれないが、能動的と受動的あるいは積極的と消極的といった印象はある。よって、君子に従う封建的社会が根強いのも、東洋的なのかもしれない。西洋にも、封建的な伝統主義の時代はあったが、宗教改革やルネサンスによって自由思想が広まった。中国の科挙は、まさしく教養人としての官僚層や支配層を示している。この亡霊を追いかけているのが日本の官僚政治である。孔子風に言えば、書物を通じて教養を求めながら、精神を無限に高めることによって自己を完成させる。そこで、書物という物質的背景を必要とするために富が必要となる。だから金儲けをする。つまり、人間形成のための手段として富にも倫理的価値があると考える。一方、プロテスタンティズムでは富の価値観はまったく逆となる。隣人のための奉仕であって、自らの富を直接肯定しているわけではない。その中心的思想に「予言説」がある。救われる者も救われない者もすべて神の予言によって運命付けられる。そして、職業は神から授かった義務、つまり天職と考える。神の予言を人間が知る由しもないので、ひたすら祈りながら励むしかないわけだ。この思想が、自由な個人の勤勉な経済活動と結びついて資本主義を加速させたと解釈される。
キリスト教では神が絶対的な道徳を持つことになるが、儒教では君子が超人的な道徳を有することになる。中世ヨーロッパの国王が絶対的権力を持てずに、ローマ教会にお伺いをたてなきゃならんわけだ。昔「論語」を読んだが、その中で好きな言葉がこれ!
「子曰く、吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず。」
つまり、70歳になったら聖人として完成するわけだが、キリスト教では人間がそんな地位になることはありえない。ヴェーバーは、キリスト教的な思想を「内面的品位の倫理」とし、儒教的な思想を「外面的品位の倫理」として対比しているという。西洋も東洋も宗教的な思想の発展は、似ていると言えば似ているし、違うと言えば違う。じゃ、日本は?東洋的とも言い切れない。一般的には、いろんな文化をミックスする伝統があると言われる。それも間違いではないだろう。極東の遠く離れた地域だけに、最も冷静に異文化を受け入れられたと解釈することもできそうだ。

5. 宗教と経済
ヴェーバーの著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、宗教改革の産物という解釈がなされ、精神面からの考察であって、物質的な利害関係の考察がなされないという批判が通説だという。実際に読んだがそうでもないような気がする。単に、経済行動に思想的なものがどのように影響されるかを考察したものに思える。倫理観だけで資本主義が発生したと主張しているわけでもないだろう。宗教的考察と芸術的考察には、見分けがつかないほど似通った境地に近づくことがある。だから、芸術が宗教に奉仕するような行為が見られるのだろう。しかし、本書は究極の考察を続けると、宗教と芸術には凄まじいほどの緊張関係があるという。宗教の立場からすると、芸術の自己目的とした探求は、悪魔の側に立つことになる。よって、ピューリタンにとって感覚芸術への強い嫌悪感があるという。同じような関係が政治と芸術にもある。芸術的価値の徹底した追及とは、人間のわがままの追求でもある。したがって、平等や協調といった場合に、反発する思考と解釈される。また、宗教と経済にも緊張関係がある。経済活動の目的は利潤を追求するからである。人間行動の基本は、利害関係から生じる。良い意味でも悪い意味でも人間は利己主義である。道徳にもエゴイズムが潜む。しかし、経済学で言う利害関係はあまりにも視野が狭く感じられる。利息が高い方向にお金が流れるといった発想も、そうした典型であろう。そこにリスクの概念が加わったところで、しっくりこない。客観的に社会を安定させるのが、経済の役割であり、政治の役割であるはずだが。人間の価値判断は多様である。いくら世界がグローバル化したところで、民族文化が消滅するわけではない。

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