本書に出会ったのは20年ぐらい前であろうか。当時、感動したような気がするが、ほとんど中身を覚えていない。そこで、いつかは読み返して記事に残そうと固く決意し、やっと片付けた。なにしろ三巻からなる大作。一つ一つの文章はそう難しいわけでもないが、難解!戦争自体は、単純な人間行動の積み重ねで成り立っているので、そんなに難しいことが記されるわけがない。しかし、ある時は肯定し、またある時はそれを否定するといった具合に、しばしば混乱させられる。したがって、真意を読み取ろうとすると気が抜けない。だいたい10ページも読めば一冊のリズムは掴めるのだが、本書は100ページ読んでも掴めない。訳者篠田英雄氏によると、もともと原文も難しい文章で翻訳に苦労したという。それだけ戦争論を理論体系化することは難しいということであろうか。そもそも軍事行動とは、相手を出し抜くために仕掛けるものである。その行動パターンが体系化できれるとなれば、双方にとって矛盾が生じる。孫子の兵法では「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」と言うが、双方の知識水準が同等レベルにあれば知的優位性も失われるだろう。今日では、技術力や科学力によって圧倒的な有利性を保とうとする。有利性が確保されなければ軍事バランスは混沌とし、戦局は泥沼化するであろう。戦争の本性は激烈であるが、人間は物に臆する性質を持っている。となれば、戦争を好むなど不合理に思えるが、紛争はいつもどこかで繰り返される。
クラウゼヴィッツの「戦争論」と言えば、読み方は様々であろう。戦略理論や戦術理論として読む人が多数なのだろうが、ある人は哲学書として、ある人は歴史書として、ある人はビジネス指南書として、ある人はマネジメント手法の参考書といった具合に。また、読者の目的によって重要となる章も違ってくる。いろいろな場面で話題とされるのは、それだけ人間の本性に近づこうとした証でもある。「戦争論」は、クラウゼヴィッツの晩年12年間の労作である。彼はこの大作を生前に刊行することを拒否したという。序文には、出版を婦人に託した旨が婦人によって代弁される。彼は、ニ、三年で忘れ去られるような書物を作ることに、自尊心が許さなかったという。クラウゼヴィッツは、物理量と精神論の双方から考察して、戦争理論を体系化しようと試みる。そこには、戦争心理学や哲学的思考といった人間精神の分析が随所に見られる。だが、人間精神を扱うからにはどうしても不合理性が生じる。本書は、戦争理論を体系化するには不可能な部分が多いことを認めている。戦争は一つの人間行動の現象であって、主観的思考に大きく影響される。ここでは、戦争を一つの社会現象と見なしている。ここに現れる理論は彼自身の実体験に基づいていることに注目したい。それは、なんとなく古代ギリシャの歴史家トゥキュディデスと重なるものを感じるからである。トゥキュディデスは都市国家アテナイの歴史家、いや政治家としてペロポネソス戦争で敗れた苦言を残し、クラウゼヴィッツはプロイセン国の軍事学者、いや軍人としてナポレオン戦争に敗れた苦言を残したと、双方を勝手に解釈している。だから実践的な考察がなされるのであろうと。そして、導かれる結論は「臨機応変」という概念に帰着するような気がする。物事を考察する上で、思考の出発点を定義し、思考の流れをつくることは大切である。理解していると大言壮語しながら、実際に資料としてまとめようとすると、実は全然理解できていなかったことに気づかされることも多い。複雑系だからといって考察を諦めていては、永久に脳死状態となろう。クラウゼヴィッツは、自らの理論に不完全性を認めながらも、後世に伝える価値があることを理解していたに違いない。
1. 批判的な歴史叙述の有効性
本書は、歴史叙述の方法論において、批判的な議論の有効性を主張する。なるほど、本書には従来の軍事論の批判が根底にある。歴史学では、事象をありのままに叙述することの重要性が問われる。だが、ありのままの叙述だけでは単なる物事の羅列に留まり、せいぜい最寄の因果関係を示すことぐらいしかできないだろう。そうなると、表面的な知識で終わってしまい、研究者としての使命を放棄することになる。人間は主観で物事を捉える傾向にあるから、客観に固執するぐらいでちょうど良いのだろう。だが、歴史学が、歴史事象を通しての人間そのものの研究であるとするならば、人間の本質である主観と客観の双方を相手にしなければ空論となろう。したがって、研究者の主観と客観の按配といった微妙なさじ加減に期待したい。
本書で注目したいのは、批判的叙述には知的活動が含まれると主張しているところである。批判には賞讃と批難が含まれ、そこから反省や教訓が導かれ、戦争指導の理論へと進化するという。批判的考察では、実際に採用された手段を検討するばかりか、採用されなかった手段も検討する。反対するだけでは思考停止状態となるが、批判するからにはより優れた手段を提示することを前提とする。確かに歴史事象は事実であるが、その事実が現象なのか原因なのかを判別することは難しい。例えば、ローマ帝国の衰亡をどこに求めるかは見解の分かれるところであろう。歴史教科書では、異民族の侵入、特にゲルマン民族の移動が原因であると教える。しかし、タキトゥスの叙述には、既に元老院が機能しなくなり、ローマ帝国の腐敗が共和制の崩壊とともに毒されていたことが詳述される。つまり、異民族の侵入は現象であって、その根底の原因はローマ帝国の内政問題と捉えることもできるわけだ。戦争ほど困難な事情が頻繁に生じるものはない。偶然的に突発的に生じる動因に支配され、真因が全く判明できないことも珍しくない。結果が一つの原因から生じることも稀である。「ナポレオン言行録(岩波文庫)」には、次のように語られていた。
「軍学は、好機を計算し、次に偶然を数学的に考慮することにある。しかし、こうした科学と精神の働きを一緒に持っているのは天才だけである。創造のあるところには、常に科学と精神の働きが必要である。偶然を評価できる人物が優れた指揮官である。」
動因は将帥が隠蔽することもあれば、将帥の主観に偏った回想もある。批判的な立場は分析される将帥には不愉快であろう。批判的な考察がより高次の分析へ導いたとしても、相手にされないことも多い。それは、確実な真理体系が証明できないからである。これは政治討論でもよく見かける。せっかく鋭い分析がなされたとしても、批判的な立場であるがゆえに煙たがれる。それが真理だという確証がなければ聞き入れられず、結局、虚栄心を煽るだけになろう。
2. 戦争は政治の延長上にある手段
「戦争は政治的手段とは異なる手段をもって継続される政治にほかならない。」
戦争は政治における国家間の究極の闘争であって、二人の喧嘩の拡大版と解釈することもできる。本書は、政治に近い戦略論と、戦闘に近い戦術論に分けて考察する。戦略論、戦術論、そしてあらゆる場面に絡む戦闘の順にトップダウンで詳述される。ただ、戦略と戦術が供に戦闘に深く関わるので、その境界線も微妙である。戦争の形態はナポレオンの登場によって本質的な変貌をとげ、近代戦では国民総武装の様相を呈する。戦争が国民の利害関係に促されて、激烈化を剥き出しにした時代である。いわば国民戦争の幕開けと言えよう。戦闘の目的は敵の撃滅にあるが、戦闘の規模は一つの戦争そのものを大規模な戦闘として捉えることもできるし、大小様々な戦闘の混在と捉えることもできる。本書は、本戦や大軍の激突といった、それだけで国家の存亡を賭けた戦闘から、一物件の撃滅といった小さな戦闘までを細かく種別し、あるいは時間的に区分し、その影響力や方法論を展開する。ところで、戦略と戦術の違いってなんだ?戦略とは、最終的に戦争を勝利に導くためにあらゆる戦闘を結びつけることで、戦術とは個別の戦闘をどのように行動するかの手段を議論するといったところだろうか。本書は、勝敗の決定も捉えどころのない計測であると指摘している。現在でも、双方の見解に異なるケースがよく見られる。大方の戦局で勝利宣言したところでゲリラ戦やテロ行為が繰り広げられるのは、精神的に打倒できていない証でもあろう。更にやっかいなのは、そこにプロパガンダ性が高いことである。
3. 物理的諸力と精神的諸力
本書は、あらゆる考察を物理的諸力と精神的諸力に分ける。今日では精神論を馬鹿にする傾向がある。おいらもその一人であるが、だからといって、精神論が無用ということにはならない。太平洋戦争でもっぱら精神論に頼った結果、振り子が大きく逆に振れるのも仕方がなかろう。何事を成すにしても、精神論と物理量の双方が噛み合わないとうまくいかない。ただ、仕事をしていると、精神論ばかり強調するマネージャが実に多いことに驚かされる。戦争では、精神論が絶対的に必要であることは確かである。だが、あまりにも物理量とのバランスを欠けば、もはや知性が失われていると言った方がいい。将帥が物理量を怠り、将兵に精神論を強要すれば、もはや将帥の仕事を放棄して応援団になり下がっていると言えよう。本書は、戦争とは極めて知的な活動であることを示している。物理的損失は精神的損失へと転化するが、物理的損失に欺瞞があれば戦意を誤魔化すこともできる。復讐心が原動力となれば、精神的損失は相手国に移ることもある。逆に言えば、物理的損失が少ないにもかかわらず、精神的損失を与えるだけで決着を付けることができる。かつて、死者数や戦利品の量などで戦況の計測がなされた。現代では、プロパガンダによって被害数を都合良く水増しすることもある。被害者意識の助長が、敵意を剥き出しにして意識を高揚することもある。そこに民族の復讐心が結びつけば、驚異的な精神力を発揮して物理的損失すら無意味にすることもある。必ずしも物理的損失が大きいから有利とも言えないわけだ。本書は、最終的に敗戦の主因は精神的損失であると主張する。精神的諸力と物理的諸力を分けて考察し、最終的に融合しようと試みるあたりは、社会学的考察の様相を見せる。
現在では、勝利の概念も随分と変化してきた。完全に本土を征服できれば、明確な勝利と言えるだろう。しかし、そうなると、原住民族を滅ぼしかねないし、それを国際世論が許すわけがない。そこで、現代の戦争目的は、独裁政権を打倒して、民主主義という看板を押し付けることになる。何をもって勝利とするかも曖昧で、大規模な戦闘作戦が終わった時点と見るべきか、政治形態に平和がもたらされた時点と見るべきかなど、意見も分かれる。軍事行動的には、国民選挙が実施された時点で落ち着くようだが。戦争目的が政治目的とするならば、平和がもたらされない限り戦争状態と言えるだろう。現代では、冷戦状態のような、戦闘状態なのかも判別できない状態もある。さすがに、クラウゼヴィッツも冷戦構造までは想定していないだろう。核兵器のような人類をも滅ぼしかねない強力な武器が登場すると、逆に戦争の抑制になっているのも奇妙な現象である。常に拳銃を頭に押し当てながら引き金に指をかけている状態とは、まるで自殺志望者のようだ。
4. 防御は攻撃よりも強力
攻撃と防御は、背中合わせの関係にある。「攻撃は最大の防御」と言われるのも、防御は待ち受け状態であり、攻撃は先制という有利性がある。
しかし、本書は「防御は攻撃よりも強力な戦争形式である」と主張する。奇襲の効果を否定しているわけではないが、同時にその効果に疑問を投げかけている。戦争が複雑化するのは、交戦国の双方が戦術的に同等の水準に達したということであろう。となると、先制の有利性は小さくなる傾向にある。地の利をいかした幾何学的考察を加えれば、防御側が有利に展開できるはず。ところで、敵の撃滅とは何を意味するのか?味方の損害よりも敵の損害が大きいことを意味するとすれば、どちらかが攻撃を仕掛けなければ、戦闘は成り立たない。我が国には「専守防衛」という概念が強調される。これは近代化するほど曖昧な概念となろう。侵略はどこの国にとっても脅威であるが、何をもって侵略とするかは、科学力や技術力の進歩によってその判別も難しくなる。グローバル化が進めば経済封鎖も大きな脅威となる。この概念は、先制攻撃の禁止という意味で言葉で解釈することは容易であるが、相手国の攻撃をどの段階で判断するのか?戦闘準備の段階か?しかも、戦闘準備ってどんな状態か?科学の進歩は、直接軍隊の侵入がなくても、攻撃されたと認識した瞬間に敗戦となることもありうる。外交戦略も、一つの戦争戦略と見なすこともできる。外交能力に期待ができなければ、防衛システムにおいて科学力や技術力で圧倒するしかない。戦争を放棄した国家が、戦闘力を保持することに矛盾を感じないわけではないが、戦争を回避したいからこそ世界でも有数の防衛力を保持する必要があると考えることもできる。警察官が、一般市民よりも武装能力がなければ、市民の安全と言っても説得力がない。
昔から、軍事的立場が政治的立場から独立するのか、それとも政治的立場の一要素であるかといった議論がある。本書は、政治は知性であり戦争はその道具に過ぎないと語る。つまり、軍略の属するべき性格はむしろ政治側にあるというのだ。これは、この時代にあって、既にシビリアンコントロールの重要性を説いているように思える。本書は、戦争行動を政治の過失と見なしている。だからこそ、防御性の有利性を唱えているようにも映る。
5. 遠征の是非
本書は、ナポレオンやフリードリヒ大王などの軍事例を多く用いながら具体的に議論がなされる。そこには、ナポレオン戦争に敗れた悔しさがにじみ出ているように映る。ナポレオンがロシア遠征に失敗した要因は、様々な議論があるだろう。一般的には、前進が迅速過ぎて、あるいは深入りし過ぎたためとされる。トゥキュディデスは、ペロポネソス戦争でアテナイが敗れた要因をペルシャの大軍がギリシャに遠征して敗れたことに結びつけている。つまり、シチリア島への遠征を直接要因とし、大軍が遠路はるばる進行して成功した例はないと記している。ヒトラーしかり、大日本帝国しかり。ただ、本書では、ナポレオンの敗北を少々違った角度から議論している。それは、遠征失敗の結論は成功に必須な手段を欠いていたからで、ロシアは侵略者がこれを占領地として守備し得るような国土ではないと。ましてやナポレオンが引率した50万の兵力では不可能だという。そして、ロシア帝国を屈服するためには、政治的弱点を突くべきだったと指摘している。その弱点とは、国内に内在する分裂である。ナポレオンは、むしろロシアの民衆を味方につけようとするべきだったのかもしれない。本書は、戦争が政治の手段である以上、政治的解決法を模索することの重大性を指摘している。
2009-08-09
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