前記事の「菊と刀」が読みやすかったので、その訳者である角田安正氏に惹かれて本書も手に取ってみた。ましてや、ボリシェヴィキに惹かれたわけでも、共産主義に惹かれたわけでもない。
ちなみに、酔っ払いが解釈する共産主義とは、すべて平等で、すべての国民を幸せにしてくれる思想といったところだろうか。ひらたく言えば、「みんなの社会にする」ということである。そのためには、あらゆる私有財産を没収する。私的所有の概念をすべて取っ払う。つまり、欲望という人間の持つ本質までも拒絶する。下手すると、個性をも否定しかねない。この体制の矛盾は、欲望を捨てきれない脂ぎった人間が支配することである。最高の理性の持ち主と自負する輩が権力の中枢に居座り、巨大官僚体制の下で堂々と搾取が行われる。平和主義者が理想を崇め過ぎて戦争を招きいれるように、現実を直視しなければ悲劇となる。まだしも、人間の持つ本質を認めた資本主義の方が現実的と言えよう。そもそも、マルクス主義者たちはテキストの解釈権を党が独占したという経緯がある。それをマルクス自身が意図したかどうかは知らん。どこぞの教会のように、恣意的に解釈されることを拒むような思想がまともとは思えん。マルクスは、まさしくマルクス主義者たちによって悪者に仕立てられたと言ってもいいだろう。優れた思想にありがちな展開だ。創始者がどんなに天才であっても、自称継承者は凡人である。マルクス・レーニン主義と呼ばれることがあるが、マルクスとレーニンが同じことを主張していたのかも疑わしい。アル中ハイマーが解釈する共産主義とは、所詮この程度のものである。
本書は、「資本主義の最高の段階としての帝国主義」という論文からきているらしい。レーニンは、帝国主義を資本主義の最高段階として位置付け、その体制を猛烈に批判する。その思想の根底にはマルクス主義があるのは言うまでもない。だが、その解釈には昔から疑問がある。マルクスの言った「疎外」を解釈したければ、その著書「資本論」を読むのが一番だろうが、あまりにも大作でなかなか手の出せる領域にない。ただ、本書によって、マルクス自身の意図とは別にしても、マルクス主義者たちがどのように解釈していたかを垣間見ることはできそうだ。また、資本主義の弱点を指摘している点から、資本主義の理解にも役立つ。ただ、本書がここまで資本主義あるいは近代経済の欠点を暴露しながら、なぜボリシェヴィキのような思想に陥るのか?なぜ暴力的な社会主義革命運動を煽るのか?という疑問が残る。この疑問を探るには、時代背景を考察しないわけにはいかない。その根底には、ブルジョアジーとプロレタリアートの対立があり、そこにイデオロギー闘争へと発展した構図がある。本書は、資本主義批判書であるが、資本主義固有の問題ではなく、人間社会が抱える普遍的な問題を内包しているように思える。
本書とは少々ずれるが、ちょいとレーニン時代までの経済史を紐解いてみよう。
資本主義思想の根底には、宗教や伝統主義から脱皮した自由な経済活動がある。つまり、労働者の自立である。この自立をうながしたのが、キリスト教の予定説であるといった議論は、社会学者ヴェーバーをはじめ多くの専門家が支持している通りである。中世ヨーロッパの時代に、ローマ教会の堕落が宗教改革やルネサンスを呼び起したのは事実であろう。ただ、プロテスタンティズムが資本主義傾向を加速させたと解釈することに異論はないが、資本主義がキリスト教世界のみに生まれた独自の思想という行き過ぎた解釈があるのには抵抗がある。
ここでいう労働者は、商工業であって、農業だけが置き去りにされる。一般的に先進国では、農業組織の発展が遅れてきた経緯がある。食料は人間が生きる上での根本であり、農奴といった政治による支配的伝統が農民の自立を妨げてきたとも推察できよう。当初の商工業は資本を持った経営者と、そこで雇われる労働者によって構成される。当然、資本家側の権力が強い。したがって、経済活動は資本家階級相互間の自由競争によって活性化される。自由競争が激化すると、勝者と敗者に分かれ、勝者は敗者を吸収していく。巨大化した企業は、資本効率が高まり、ますます優位性を保つ。となると、一部の資本家階級が社会を仕切るようになり、労働者の奴隷化が進むことになる。優位に立った資本家階級は、政治と癒着して、その地位をますます強固なものにする。つまり、企業による独占や寡占といった状態が、政治への寄生や腐敗となっていく。巨大化企業体の中で労働者は「疎外」を感じざるを得ない。いや、資本家階級ですら巨大化し過ぎた組織の実体すら把握できなくなり、もはや何を所有しているのかも分からなくなる。これが、マルクスの言う「疎外」の正体なのかは知らん!
そもそも企業体には、資源資本と労働資本によって生産して、製品を売るという仕組みがある。その決済は銀行を介して行われる。そもそも銀行の役割は決済の仲介業務であったはず。やがて、資本の流通に目をつけた銀行は、金融資本と化し間接的に企業体を支配することになる。株式資本という形をとって、その保有率を増しながら巨大化した企業に役員を送り込む。持ち株会社によって独占や寡占という形態が現れるが、これは一般企業のみにとどまらず銀行自身にも及ぶ。レーニンが生きた第一次大戦前後では、資本家階級の中でも金融資本が台頭した時代であり、ロックフェラーやロスチャイルドといった金融組織が勢力を拡大し、欧米政府を震撼させた。その名残で、いまだにユダヤ系の金融支配という陰謀説の噂は絶えない。欧米列強国では、莫大な富を得た金利生活者を蔓延らせる。しかし、誰かが生産しなければ生活は豊かにならない。そこで、隷属国で生産された商品を先進国に流通させることによって富を得る海外政策が展開される。つまり、独占と寡占によって巨大化した企業体が政府と癒着して植民地政策へ乗り出した結果、帝国主義という形態が生まれた。植民地支配は原料争奪戦である。列強国が競って新たな土地を求めれば、やがて植民地が枯渇し、植民地の奪い合いとなる。そこには、一部の列強国による世界分割という構図がある。
第一次大戦の発端に目を向ければ、バルカン半島をめぐった陰謀が渦巻く。古くからバルカン危機は、セルビア、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャといった民族問題を抱えていた。ハプスブルク家の謀略は、セルビアをオーストリア=ハンガリー帝国に従属させようとする。もはや、資本主義で培われた自由競争原理は、まったく正反対の独占の概念へと変貌した。そこで、労働者階級は自らの権力を復活させるために立ち上がらなければならないと叫ぶ。大方の流れはこんなところだろう。
そこで、レーニンが「バーゼル宣言」で弱い立場にある労働者の結束を呼びかけたのは意義深い。とはいっても、インターナショナルという組織は平和主義を唱えながら暴力革命を煽るのだが。あらゆる平等を謳った団体の結成当初のスローガンは美しい。しかし、平等を崇め過ぎて宗教的な洗脳力を発揮して政治団体と化す。そして、結果的に、弱者を利用して毟り取る権力者を育ててしまう。これが社会のタブーとなり聖域化すると、もはや手に追えない。
本書は資本主義の暴走による独占権益が官僚体質と結びつき寄生と腐敗を発生させたと指摘している。だが、社会主義の暴走が寄生と腐敗で巨大官僚体制を築き、共産主義国を崩壊させたことは見逃せない。これはどんな体制や組織においても起こり得る現象で、ヴェーバーが指摘した官僚化の法則とも言うべき理論が的を得ている。いずれにせよ、イデオロギーの暴走は社会に害をなすことの証であろう。どんな社会システムであれ、常に検証され続けなければ健全な状態を保つことは難しい。
第二次大戦後、植民地解放運動が広まり、資本主義国は帝国主義を捨てた。これも、ソ連という巨大な社会主義国が経済的に成功するかに思えたからであろう。ソ連の計画経済は、1960年代までは福祉向上に貢献しているように見えた。西側で左翼政党が一定の勢力を保てたのも、ソ連の存在が大きい。資本主義の暴走を抑止するという意味では、ごく少数派で共産党が存在するのも意味があるかもしれない。となると、ソ連崩壊とともに抑止力を失ったと見ることもできるわけだが、現在ではその暴走が市場原理主義という形で現れているのだろうか?当時と似通った状況に映るのは、巨大な金融資本が蔓延るところである。資本主義が健全に機能するためには、本当の意味での投資が定着する必要がある。だが、実際は投機が煽られる。帝国主義熱は、現在の投機屋による金融資本熱にも通ずるものがある。経済システムが特定の金融組織に依存度を高めるということは、事実上、金融植民地化を意味する。資本主義国を代表するアメリカは、総収入90%以上を20%の富裕層が独占すると言われる。これが健全な資本主義の姿だとは到底思えない。対して、日本は一般的に資本主義と言われるが、高度成長期からの日本型社会主義といった側面がある。それは、「一億総中流」という言葉からもうかがえる。現在では、小さな政府が唱えられ、なんでも民営化の方向へと進む。この流れが間違っているとも言えない。少なくとも現在の政府は大き過ぎる。いや、政府は機能せず、官僚が巨大化し過ぎたと言った方がいい。日本が資本主義と信じていても、むしろ旧ソ連体制に似ていると疑っている人も少なくないだろう。
なんとなく、植民地の資本の流動が現在の途上国の資本の流動と重なって映るのは気のせいか?例えば、先進国よりも途上国の方が、賃金が安く労働資本は効率的に運用できる。大企業が生産拠点を途上国に移すのも理解できるが、やがて途上国も労働者の生活水準は上がる。そして、新たな途上国を求めることを繰り返せば、いずれ地球上の労働資本は限界点に達するだろう。これは急激な人口増加を無視して議論することはできない。つまり、地球資源の枯渇と似た状況にある。経済発展がこのままムーアの法則で加速するとしたら、資本の枯渇もそう遠い未来ではなさそうだ。となると、資本主義は拡張経済から分配経済へと移行するだろう。20世紀までは、国家間や企業間の格差が、資本の流れを円滑にしてきた。だからといって、わざわざ格差を拡大する政策をとれば暴動が起こるだろう。先進国では付加価値の高い製品が輸出され、後進国では資源資本や労働資本を供給するという関係は、後進国が豊かになれば資本の流れが均等化するだろう。では、最終的に資源資本を持った国が優位になるのか?いや、技術革新は資源や資本の概念をも変えるだろう。化石燃料に頼らないエネルギー政策を取ることが優位性を保つ鍵となるかもしれない。20世紀までは世界経済を自由の概念によって牽引してきたが、21世紀は平等の概念に少し重きを変えるのかもしれない。いずれにせよ資本主義の改良版が求められるだろう。極端に理想論へ移行するのは実践的ではない。人類には、皮肉にも理想を追いかけることによって、逆に社会を暴走させてきた歴史がある。本書は、資本主義の本質には私有財産の神聖化があるという。その通りであろう。しかし、社会主義が強すぎて国家が私有財産を取り上げれば、巨大官僚支配となる。この点では、資本主義よりもむしろ共産主義の方が質が悪い。もし、完璧な政治体制があるとすれば、それは神による独裁であろう。ただ、政治指導者たちが神になろうとするから困ったものだ。人間社会とはおもしろいもので、支配階級が自らの道徳観が最も優れていると自負した時に、最も醜い政治体制が完成する。
1. カウツキー主義批判
レーニンのドイツ社会民主党の理論家カール・カウツキーに対する攻撃は尋常ではない。その性癖はスターリンさながらである。ボリシェヴィキとは、そうした性癖をもった連中ばかりなのか?本書は、ほとんどカウツキー主義の批判書と言ってもいい。そして、第二インターナショナルを堕落と腐敗の産物と蔑む。第二インターナショナルとは、第一インターナショナル(国際労働者協会)の後継組織で、ヨーロッパ各国の労働組合と社会主義政党が結成した労働団体である。この団体は、マルクス主義に基づくプロレタリアートの組織として発展した。そして、指導者エンゲルスが亡くなると日和見主義者が指導者になったという。ちなみに、第三インターナショナルは、別名、共産主義インターナショナルなのだそうな。カウツキーは資本主義の崩壊を唱えている点でマルクス主義的であるが、プロレタリアートを軽視した点で、マルクス主義の理論的誤謬を犯していると批難している。そして、言葉の上では社会主義を唱えながら実は社会主義的排外主義であって、彼らが唱える社会平和主義や世界民主主義は欺瞞であるという。ここには、真のマルクス主義こそが共産主義であり、ボリシェヴィキだと主張しているところに、レーニンの傲慢さがうかがえる。実際に、ドイツではビスマルク首相の時代に社会保障政策を唱えている。こうした流れが、ドイツの労働者を資本主義の改良主義へ導いたとも言えよう。だが、帝国主義を目の当たりにすれば、資本主義の暴走に歯止めがかけられないと考えて、革命を煽るのも分からなくはない。そして、ボリシェヴィキが活躍したのが資本主義の後進国ロシアであったのも、まだロシアなら救済できると信じたからかもしれない。
2. 帝国主義批判
第一次大戦当時、帝国主義によって狂気の沙汰となった軍拡熱が高まり、物価の高騰を招いた。そして、列強国の国民は互いに反目しあうようになる。本書は、鉄道建設、石炭産業、鉄鋼業といった資本主義を牽引した工業を、ブルジョア民主主義文明の象徴と蔑む。そこには、カルテル、シンジケート、トラストといった資本家による独占形態が現れ、国内市場を分割して占有した様子が語られる。そして、必然的に独占団体同士が世界的に結びつき、国際カルテルを結成する事態になったという。更に、資本主義では農業は育たないと主張している。確かに、工業が資本主義を牽引してきた。だが、ボリシェヴィキの指導下で農業組織が進化したとも思えない。植民地支配もまた、資本主義が生み出した産物だと主張している。まさに、鉄道建設は資本主義的奴隷制によって支えられながら、私的所有と結びついてきた。しかし、強制労働という意味では、共産主義も負けていない。資本主義でなくても、支配階層の欲望に寄生と腐敗が結びつくのは人間の本性であろう。領土の奪い合いで見られる世界分割、植民地争奪戦、経済的勢力圏を求める闘争、これが資本主義の最終段階であるという。帝国主義は資本主義の振り子が極端に振れた結果とも言えよう。では、社会主義が極端に振れた結果が共産主義で、その最たるものがスターリンというわけか。ボリシェヴィキによってスターリンが登場したわけだが、レーニンがこの人物の危険性に気づいていたことは明白である。スターリンの失脚を企てて失敗したが、こうした行動はレーニンが社会主義の暴走にも危険性を感じていたからかもしれない。
3. 帝国主義における銀行の役割
いつの時代でも、銀行の役割が議論される。社会で最も道徳的な立場が要求される業種の一つでもあるが、伝統的に暴走する性格を持っているようだ。人間はお金が絡むと目の色を変える。それも、お金には実体がないという意識から不安に駆られるのだろう。だから、大金を持ち過ぎても欲望に憑かれる。現在では、銀行に依存しない経済システムの構築が囁かれるのも皮肉である。銀行は、決済の仲介業務から離れると常に批判の対象となる。まったく生産性のない業種が、資本主義の中枢を握るという経済構造があり続ける。本書は、銀行の独占化が帝国主義を強化したと指摘している。そこには、銀行は投資の仲介ではなく、投機を煽る巨大組織となった様子が語られる。旧来の資本主義では、銀行は自由競争の調整機関である証券取引所として機能していたという。証券取引所の役割は、企業価値や貨幣価値といった物質的評価を正常に安定させることにある。この仕掛けは、人間のできない価値評価を自然原理に委ねたと言ってもいいだろう。ところが、銀行が優位性を保つために巨大な資本を集めた結果、資金流入を独占し、資金を頼みにする企業を事実上傘下に置くことになる。株式保有率を高めれば、そこに役員を送り込み、そこに政府高官が癒着する。ドイツでは、巨大銀行の取締役に、国会議員や市会議員を見かけるのは珍しくなかったという。また、経営能力を超えた資本の流入によって、経営者がギャンブル的な事業に乗り出す光景がある。そこには、貸借対照表に現れない一般投資家を欺いた工作行為がある。おまけに、新規事業に失敗しても、機を逸することなく株式を売り抜ける。当時、貸借対照表の実態を読みにくくする手法が横行したという。本来、銀行は産業界の裏方のはずだが、資本主義では金融資本の強化が事実上国家を支配したと指摘している。「株式所有の民主化」と言ってしまえば聞こえはいいが、資本の民主化は金融寡占制の威力を増幅する便法になっているという。経済危機で、政府が救済するのは破産に追い込まれた富裕層であることは、いつの時代も同じようだ。
2009-11-08
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