2009-11-22

"実践理性批判" Immanuel Kant 著

前記事に続いて、カントの第二批判書を記事にする。相変わらず難解な文章に、酔っ払いの脳は飽和状態にある。したがって、この記事がカントの意図したものかどうかは知らん!断っておくが、理性認識とは、理性の欠いたアル中ハイマーにとってまったく縁のない領域にある。だが、誰にでも気まぐれはあろう。

カントは、第一の批判で時間と空間のみをア・プリオリな認識であると主張した。アインシュタインは双方の概念を統合した時空の概念を持ち出したが、これは本質に迫っているかもしれない。宇宙物理学では、時間と空間を純粋スケールとして扱う。一人の人間は若い時期と老いた時期を同時に体現することはできない。ところが、時間軸を加えることによって、その双方を体現している。つまり、一人の人間の中に同時に体現できない理性が、時系列では多重人格性を見せる。時間と空間は人間の意識の産物であるとも言えよう。無学な人間と侮っていても、数年後には変貌することだってある。一年前に借金した一つの理性は、現在では違った理性に変わっているかもしれない。したがって、借金の取り立てに会えば、「今の俺は、昔の俺とは別人なんだ!帰ってくれ!」と追い返すこともできるわけだ。これを「時系列における別人論」あるいは「借金揉み消しの原理」と言う。自己破産法はこの認識論に則ったものであり、法の裁きには人間の反省の原理が内包される。
すべての事象は、時間と空間の変化とともに、変化しながら存在する。過去の時間は自由にはできない。では、未来の時間は自由にできるのか?少なくとも、存在を実感できるのは現在のこの瞬間だけでしかない。いや!その瞬間ですら自由なのかも疑わしい。自由の概念は実存論とも絡みそうだ。経験によって事象を意識するにしても時系列の中で認識される。したがって、歴史の解釈が時代によって変化するのも道理というものである。

第一の批判では純粋理性と先験的弁証法の限界が語られた。純粋理性とは、思弁的認識から生じるものであり、一切の経験的なものにかかわらない論理的直観のみで意志を規定するものである。それは、純粋悟性のみで到達した恒久普遍的な理性と言おうか、宇宙論的なア・プリオリな認識によって獲得できる理性である。したがって、純粋理性はすべての理性の持ち主においてまったく異なるものではないはず。対して、実践理性とは、経験によって獲得する価値観である。だが、経験的であってもア・プリオリな認識がなければ普遍的価値観には到達できないという。ここでいう経験とは、個人的な経験もあれば、歴史から学ぶような他人の経験も含む。その経験の中から直観的な崇高なる認識が生起すれば、それを実践理性とすることができるというわけである。法律や宗教の戒律といった道徳規定は、歴史的な経験によって形成されてきた。こうした規定も、原点を辿れば崇高な認識のもとで形成されたに違いない。しかし、現実社会では、規定が拡張していく過程の中で、奇妙な規定が氾濫する。積み重ねられた規定の複雑化が自己矛盾に陥っているとも言えよう。
純粋理性も実践理性も客観的な理性構築を目指すものであるが、第一批判では主観的方法論から迫り、第二批判では客観的方法論から迫ったと言えるかもしれない。いずれにせよ、ア・プリオリな認識の範疇で構築しようと試みるのであって、ノイズには目もくれない。本書は、実践理性を道徳的に獲得する理性として位置付け、道徳的法則と自由意志とのかかわりを論じている。そして、自由の概念は道徳的法則の原因性として存在すると語る。これは、実践理性が純粋理性を補完して、理性構築に完全性を見出すことを目指しているのだろうか?理性構築が不完全ならば、自由の概念も理性によって規定したところで完全であるはずもない。現実に、社会で形成される道徳観が多数決の原理に従っているのは否定できない。法律も裁判も多数決に支配され、人間社会は規定という消極的な意志によって支配される。
自由の概念は人口論ともかかわりそうだ。莫大な人口増加は自由の範囲も狭めるであろう。そこで、道徳的法則は自律から得られるか?という疑問がわく。人間の自律とはまさしく理性の獲得であろう。ただ、自律さえも法律といった他律に頼らざるを得ない。自由意志には衝動が共存するからである。義務の概念を確立する一方で、魔が差すことがある。となれば、人間は永遠に自律できないということか?所詮、人間は不完全性の中でしか生きられないのだろう。実践理性によって客観的完全性を見出すにしても、すぐに限界に到達する。そもそも、認識そのものが主観性の強いものである。法律は客観的であるが、人間が解釈した時点で主観的となる。いや!法律も主観に汚されているように映る。もし、純粋理性と実践理性の双方を統制する更なる高尚な理性なるものが構築できるとしたら、そこには誰もが納得する客観性が得られるはずだが、はたして、経験的な道徳的法則から真の最高善という価値観を獲得することができるだろうか?本書はこうした難題を突きつける。そこには、強制力をともなわなければならない理性構築への批判があるようだ。

自然法則には、実に多くの対称性を見出すことができる。ポーは、その著書「ユリイカ」で物質の本質を引力と斥力の対称性のみで説明した。物理学者は、物質に対して反物質を登場させて、エネルギー保存則になんら矛盾することなく宇宙の起源を説明する。現実世界には仮想世界を対抗させ、社会は創造と破壊の原理を繰り返す。宇宙や神という絶対的存在者があるとすれば、その対称に悪魔を登場させないと説明がつかない。では、悪魔に対応する存在とは何か?それが人間なのか?理性が幻ならば、道徳もまた幻であり、ついに人間の存在も幻となろう。そして、人間の持つ合理性そのものが宇宙原理に反するということにはならないのか?はたして、人間を超越した宇宙論的な超理性なるものが存在するのか?これは永遠に見つからない問題であろう。だが、道徳家は、平気でそれを自らの道徳観で説明するから滑稽と言わざるを得ない。もし、人間が恒久普遍的理性を説明できるならば、人間の存在意義も説明できるはず。そんなことできるのは神だけであろう。いや!神にすら説明ができないかもしれない。神が宇宙を創造した時に、偶然にも悪魔も一緒にできちゃった?と言い訳するかもしれない。となると、理性どころか道徳性も人間の持つ合理性も、その意義を疑わなければならなくなる。

1. 道徳的法則
道徳的法則は実践理性の根拠であり、二つの原則から成り立つという。それは格律と道徳規定である。格律は、意志を規定する主観的原理であり、善悪の規準は個人の中にある。一方、道徳規定は、道徳家や法律家などの理性の持ち主が例外なく妥当する客観的、普遍的原則である。ここで格律と道徳規定がなぜ区別して議論されるかというと、理性の持ち主が不完全者だからである。もし、完全無欠の理性の持ち主が存在すれば、格律は無用となろう。道徳の基本原理は善悪の規準で定められる。しかし、善悪の規準は個人によって違うから厄介なのだ。社会で発生する抗争では、侮辱や復讐といったものを個人の格律によって処理される。そこで、客観的な規準を必要とする。法は経験的によって積み上げられた客観的規準であり、法律や裁判は、第三者による客観性を求めた制度である。ただ、法は共存の概念から必然的に生まれた秩序で、強制的に押し付ける。これは骨肉の争いといった感情的争いが伝播するのを避けるための経験的手段である。法律や裁判が、ア・プリオリな原則から生じたのでなければ、そこに欠陥があるのも当然であろう。
宗教もまた、神という崇高な第三者の意志を命令として義務付ける経験的手段と言える。ただ、これも客観的かどうかは疑わしい。宗教家は普遍的原理として崇めるが、時代とともに価値観が変化するならば、そこに思考停止という現象が見られる。人間社会に現れる規律は明らかに自然法則とは異質である。それは、規定の根拠が人間の行動様式を対象としているからであろう。普遍的立法という形式で行動様式を規定することができないとすれば、人間の意志は宇宙原理にかかわりがないということか?道徳的法則による人間の意志と社会形成には依存関係がある。この依存性から責務や義務といった行動様式が現れる。いずれにせよ、道徳に尊厳がなければ、道徳的義務など当てにはできない。

2. 自由意志と理性の範囲
意志の自由には二通りの意味があるという。それは消極的な自由と積極的な自由である。意志が一切の経験にかかわらなければ、それは消極的な自由だという。もし、恒久普遍的原理の中に意志が存在するならば、人間の価値観は共通となり、積極的な自由を求める必要もなかろう。だが、人間は消極的な自由だけで、普遍的な価値観を見出すことはできない。
一方、意志が自発的に自分自身に道徳的法則を与えるならば、それは積極的な自由だという。一般的には、こちらを自由意志と解釈するだろう。したがって、自発的な道徳的法則に従った意志は自律をもたらすことになる。対して、法律や宗教的な神といった絶対的な教義によって半強制的に与えられるならば、意志は他律をもたらすことになる。そして、そこに生じる義務は個人の行動規範となる。ただ、強制的あるいは強迫観念に捕らわれた道徳観から、真の理性は構築できないだろう。人間の欲求には、快楽の追求と、高い志の追求がある。脂ぎった利潤を求める一方で、才能を成熟させる意志にも快感がある。知識の蓄積が自由度を高めるのも確かであろう。洗練された喜びと言おうか、そうした喜びを得る意志にこそ、自由の概念を生起させるような気がする。理性は消極的にも積極的にも働くだろうが、その按配は個人の経験や主観によって違いを見せる。
古来、哲学的問題に「自由意志は存在するのか?」という論争がある。もし、自由意志が自然法則に従うならば、そもそも実践的理性を必要としないだろう。しかし、いまだに精神に自然法則性を見出すことができない。必死に客観性を主張したところで、客観性であったためしがない。しかも、主張した本人が気づかないでいる。理性の議論は、その根本に自由意志の存在を認めるかどうかという問題と深くかかわりそうだ。少なくとも、自由を意識できるのは人間社会という限られた空間の中だけである。つまり、本人が自由と信じれば、それで幸せということであろう。人間社会は一種の麻薬のようにも思える。人間は、あらゆる制約の中で自由を模索しながら、妥協点を見つけて生きている。人生とは妥協の連続である。自由とは実に美しい言葉だ!だから、民衆は惑わされ、自由の概念を自由な欲望と錯覚するのであろう。欲望にも本能的欲望と理性的欲望がある。となれば、真の理性をともなわないところに真の自由はありえないことになりそうだ。自律から得られた義務にこそ、真の理性が宿るというわけか。その帰結は、人間は永遠に自由を獲得できないということか?

3. 人間が道徳に求めるもの
道徳は幸福という最高善を求めるという。人間にとって最高の価値は幸福であろう。そこで必要となる理性は、実践的必然性というよりは、自然的必然性と言うべきかもしれない。本書は、徳と幸福の結びつきを考察する。徳は義務を履行するのに道徳的な力を与えるという。人間は道徳的法則に従おうと努力する傾向がある。自由意志は最高善である幸福を求めて行動する。したがって、自由は最終的に理性と結びついて存在し、道徳性と幸福が必然的に連結することになるという。だが、その道徳的法則も妥協の中で存在し、その方法論として法律や宗教へ到達した。しかも、幸福は相対的な価値観であって、絶対的な幸福を認識することができないでいる。人間が快感や不快を感じるのも感情であって主観の領域にある。幸福を最上の意志と位置付けたところで、それは自己愛の原理に基づく。幸福に至らなければ道理に背き、人情に反する行為も現れる。そもそも、人間社会の存続自体が、人間が勝手に信じている正義であって、宇宙原理に反するのかもしれない。人間が意識する理性概念は幻想であって、勝手に崇高な意識として崇めているだけなのかもしれない。したがって、幸福もまた都合の悪いことを一瞬だけ忘れさせてくれる錯覚に違いない。「隣人を愛せ!」と命令したところで、命令形の道徳観から理性が生起するとも思えない。厄介なのは道徳的狂熱であり、宗教的熱狂である。よく、宗教なしで道徳観は植え付けられないといった無宗教批判が聞かれる。そして、「なぜ悪行を働かないのか?」と問えば、「いつも神が見ておられるから」と答える連中がいる。逆に言えば、神が見ていなければ、盗みも働くということか?そこには、罰が当たるという強制力が働く。狂信的な宗教力のある地域ほど紛争が多いというのもうなずけるわけだ。道徳家の主張には、徳を意識できることが幸福であるとする教義がある。それも間違いではなかろう。だが、自らの徳が最善であると信じた時に、徳の思考が停止する。そして、洗脳された連中は狂暴化する。歴史的に見ても、あらゆる残虐行為を正当化するところには、宗教的狂乱がなければ説明がつかない。強制された意識がなくても、無条件に信じるところには、受動的な意志となって強制力が発揮される。
自己意識を主観の領域から解放することは、訓練を重ねた人間ですら難しいだろう。自由意志で能動的に意識できる道徳観は、自らの探求欲がなければ難しい。何々学校を頼って、教官と教材が自動的に用意された受動的な学習よりも、独学の方がはるかに効果が大きいのと同じように。独学は、教材を選んだり、情報を嗅ぎ分けるという思考プロセスを大事にする。そこに、試行錯誤によって思考が洗練されるプロセスを味わうことができる。これこそが、学問の醍醐味というものであろう。

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