2009-11-29

"判断力批判(上/下)" Immanuel Kant 著

さて、前記事、前々記事に続いて、カントの第三批判書を記事にする。三大批判書はあまりにも大作なので、全部読むのが面倒である。実は、この第三批判書だけを読んでお茶を濁そうと考えた。
ところが、だ!一歩踏み入れたが最後、精神は蟻地獄へと引き摺られ、第二批判書、第一批判書と遡ってしまった。順番に読んでいたら、はたして第三批判書まで辿り着いていただろうか?結果的に、理解を深める意味でも、悪い読み方ではない。ただ、一貫した難解な文章に、酔っ払いの脳は飽和状態にある。したがって、本記事がカントの意図したものかどうかは知らん!
下巻の表紙には、ゲーテの言葉が綴られる。
「たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えているのだ...君がいつか彼の著書を読みたければ、判断力批判をお勧めする。」
なるほど、アル中ハイマーは三大批判書に出会うずーっと前から、カントの影響を受けてきたような気がする。久々に、鳥肌の立つような哲学書に出会ったような気分だ。

読んでいるうちに気づいたのだが、三大批判書は併せて一つの体系を成している。カントは、第一批判書「純粋理性批判」で悟性認識に則った自然の法則を論じ、第二批判書「実践理性批判」で理性認識に則った道徳と自由の法則を論じた。第三批判書では、認識能力の根源である心的能力から精神の究極目的へと迫る。いずれの批判書も、ア・プリオリな認識を相手取った認識能力の可能性と限界を論じたものである。また、本書では、哲学ばかりでなく美や芸術にも言及している。なるほど、多くの芸術家や科学者に影響を与えたと言われるだけのことはある。前の二つの批判書で認識能力の限界を認めるならば、認識を基にした判断力もまた限界を認めることになろう。率直に「何のために認識能力を働かせるのか?」と問えば、それは判断力を働かせるためとなろう。いや、認識そのものが判断の結果であるとも言える。カントは、思考の統合的立場として、第三批判書を完成させようと試みたのであろう。したがって、三大批判書の中で本書がもっとも興味深い。
ところで、人間認識の限界を規定することはできるだろうか?そこには、なんとなく境界なるものが存在しそうだ。だが、有限と無限の境界線を明示するようなもので、数学で規定できるからといって、精神を規定できるはずもない。それが規定できるならば、「人間とはなんぞや?」という素朴な疑問にも答えられるであろう。ここで断っておくが、理性認識とは、理性の欠いたアル中ハイマーのもっとも避けていた領域にある。だが、誰にだって気まぐれはあろう。アル中ハイマーの認識力にとって、「気まぐれ」ほど崇高な地位を占めるものはない。そして、判断力もまた「気まぐれ」によって実践している。したがって、アル中ハイマーは「ア・プリオリな判断力」を「崇高なる気まぐれ」と解釈するのであった。

哲学は理論哲学と実践哲学に区分できる。純粋哲学も自然の形而上学と道徳の形而上学で区分できるだろう。そして、それぞれの立場を調和しながら精神の解明を試みるのが、この学問の特徴だと考えている。平たく言えば、主観と客観の調和である。カントの体系にもその流れがあり、第一批判書で純粋領域を扱い、第二批判書で実践領域を扱う。そして、第三批判書がその調和をとる。本質に近づこうとしても、けして到達できないという意味では、哲学は微分学にも通ずるものがある。実は、真理なんてものは存在せず、人間の精神を永遠に退屈させないように、怠惰にさせないように、神が創出した虚空の概念なのかもしれない。ここで、かかる概念は二つしかない。自然の概念と自由の概念である。自然の前では人間はひれ伏すしかなく、自由の実践には道徳的理性能力が働く。ここには「宇宙原理」対「道徳原理」の構図がある。カントは一貫してア・プリオリな原理について言及する。おそらく哲学一般が、このア・プリオリな概念と対峙することになろう。「哲学する」とは、精神の崇高な領域に迫ろうと試みることである。古代、数学は哲学の領域にあった。その中で論理的解決策を見出すことができたものが、数学へ分離していったと思っている。人間精神は、なおも哲学の領域を脱することはできない。下手をすると、安易に宗教の領域に入り込もうとさえする。個人は、自らア・プリオリな認識の中で立法を構築し独自の理念を形成するだろう。となると、人間社会でつくられる法律は、個人の中にある立法を厳守する最後の砦ということになる。なるほど、法律を楯に言い訳するということは、自らの理念を形成できないと主張しているようなものか。法は経験的に積み重ねてきた現実的な手段であるが、もはやア・プリオリな認識を超えてノイズに惑わされる。となると、法律に詳しい人間ほど、理性構築が難しいということになりはしないか?なるほど、規制したがる政治家や法律家ほど、道徳観から縁遠いように映る。これらの論理的帰着は、専門家ほど自らの専門を理解できていないことに気づかないということになる。物事とは、解明が進むほど分からなくなるものである。
「浅はかとは、理解したと自負することである。信じるとは、思考を停止させることである。おまけに、哲学するとは、酒を飲むことである。したがって、酔っ払いはいつも理解した気分になる。あぁ愉快々々!」
...「アル中ハイマーの哲学とは」より...

本書は、上巻「美学的判断力の批判」と下巻「目的論的判断力の批判」で構成される。そして、判断力もまた、それ自体がア・プリオリな原理を持つのか?という問題を論究している。上巻では、認識能力と欲求能力の仲介役として、快や不快の感情をア・プリオリに規定できるか?という問題を考察しながら、崇高な芸術的感性から理性と結びつく美学に迫る。下巻では、主観的合目的と客観的合目的を考察しながら、自律的判断力とは何か?あるいは、精神の究極目的とは何か?という問題を論じている。ただ、ア・プリオリな認識を説明するにしても証明根拠を得るものではない。自然や慣習を引き合いに出すのも、その偶然性を都合よく説明するための手段に過ぎない。では、真の客観的な論議は成り立つのか?数学の公理や定理は客観的な考察である。だが、公理や定理を導くまでの思考プロセスには主観的直観が関与する。となると、世間で客観的な考察と呼ばれるほとんどのものは、同意見の者同士で慰め合っているだけのことか?人間社会で実践される客観性とは、個々の主観性の多数決に支配されることも否定できない。人間は、ご都合主義によって矛盾の概念をも凌駕する。その想像力たるや、神も感服するであろう。本書は、主観の領域でありながら、崇高な宇宙原理のようなものを存分に堪能させてくれる。
「判断力は、自然や自由に法則を与えるのではなくて、もっぱら自分自身に法則を与える。」

1. 美学的認識
心的能力には、三つあるという。認識能力、快や不快の感情、欲求能力である。自然概念では認識能力における悟性だけが立法的で、自由概念では欲求能力における理性だけが立法的であるという。そして、この認識能力と欲求能力の間で快や不快の感情が複雑に絡み合って判断力が形成されることになる。つまり、理性はこの三つの心的能力の調和によって構築されるというわけだ。個人は、自らの精神の立法の過程で独自の美学を見出すであろう。美的感覚は快や不快の感情と直接結びつく。美的感覚は欲求と混在しそうだが、ア・プリオリな認識では欲求は抑制と背中合わせにあるという。つまり、理念の中で美的自由を理性に訴えるというわけだ。とはいっても、美的感覚は主観的であって、人間の判断力は快い感情を求める方向にバイアスをかける。快い感情は享楽と結びつき、享楽が善をもたらすとも言い難い。快い感情は理性を持たない動物にも妥当する。
しかし、本書は、美的感覚は快い感情を求める関心と結びつき、善に対しても関心と結びつくという。関心を持つという意味では、美的感覚も善も同じというわけか。確かに、関心が無ければ、善などどうでもよくなる。人間は善と快い感情を区別するだろう。善だからといって必ずしも快いものではない。健康に良いからといって美味いとは限らない。ここに通常の認識とア・プリオリな認識の違いがあるのだろう。主観的な領域にある美学的判断であっても、ア・プリオリな認識では自然合理性があるのかもしれない。その判断力を形成する心的能力とは、創造力と悟性が自由に遊びまわる調和した状態ということであろう。
「美は、概念にかかわりなく普遍的に快いところのものである。」
美について議論するのは楽しい。明確な論理があるわけではないので無責任に語り合える。論理的なこじつけはできるにしても、とりとめのない談話が心地良いのだ。

2. 崇高な認識
本書は、美的認識が自然法則から自由法則に従う究極目的へと移行し、ついには欲求能力を道徳によって規定するという。精神のすべての崇高な認識は、美学的認識から始まるのかもしれない。数学の幾何学的法則や、建築物の線描的輪郭に美を感じることがある。音楽で鳥肌が立つこともあれば、色彩心理学では、部屋の色によって心拍数を変える何かがある。科学には、プラトン哲学から継承された単純化の真理といった思想がある。いずれも、人類の美学と言えよう。こうした感覚には、好みという多数決で支持されるような共通意識的なところもあるが、その分野の住人にしか理解できない美が現れる。だが、これらの認識が経験的というだけでは説明できない。主観的直観とは不思議なもので、誰に教わったわけでもなく本能的に崇高な感覚を呼び起こす。美は快く感じさせ、崇高は更に自然の本質のようなものを感じさせる。どちらも快いという感情から想起するという意味では似ている。美は、芸術家によって感情を誘惑されるので、形式的で受動的感覚のように思える。対して、崇高は、その形式を超越した能動的感覚のように思える。本書は、理念を言葉通りに解釈して論理的な考察のみに頼るならば、理念そのものを形成することはできないと指摘している。物事の解釈に自然的直観が介在して、経験的考察と調和した時に理念なるものが想起するのだろう。したがって、自由とは、自らの理念に支えられた美学に他ならない。
「威力とは、大きな障害を克服する能力のことである。この威力は、これまた威力を具えているところのものからの抵抗を克服する場合には強制力と呼ばれる。そして自然が、美学的判断において威力と見なされながら、その威力が我々に対してまったく強制力をもたない場合には、かかる自然は力学的崇高と言われるのである。」
力学的崇高では、自然は恐怖の念に喚起するという。なるほど、人間は人工的な社会に対して無力を知った時に疎外を感じるが、自然に対して無力を知っても心地良さを感じるだけだ。したがって、自然をも凌駕しようとする有徳者は、強靭な勇気の持ち主と言えよう。

3. 技術と芸術
芸術は自然と深く結びつき、技術は一般的に自然と区別されるという。とはいえ、技術にも芸術性を感じることがある。技術は学問とも区別されることが多い。学問は知識を学ぶところで、技術はその知識を実践するところと解釈される。知識は創造力や構想力の蓄積である。だが、十分な知識を得たからといって、そこに技術が現れるとは限らない。例えば、科学実験は、科学的知識を試す場である。そこには理論的現象を見出すための現実的な工夫が施される。その工夫は創造力と構想力に支えられる。ゲーテ曰く、「制約の中にのみ、巨匠の技が露になる。」理想論を語る評論家が、いざ実践となると無力になるのも、そこに創造力と構想力を欠いているからであろう。
「芸術は天才の技術である。」
芸術は、自然から自由を感じさせるための人工的なものであり、その意味で技術と言えよう。芸術的才能は自然に与えられるものであろうが、その才能にも限界があって、天才の芸術はいつかは停止する。いわゆる人間の限界というやつで、その限界を覗けるのも天才の特権と言えよう。本書は、機械的技術は勉強と習得から得られ、美的技術は天才だけのものであるという。天才は、自然美と芸術美を明確に嗅ぎ分ける能力を持っているのだろう。だとすると、美の真理は天才にしか見えないことになり、大衆は芸術作品の一部しか理解できないことになる。天才は、芸術美を一般大衆に強制しようと、完全に天才の宇宙の中に閉じ込めようと企む。にもかかわらず、教育者や道徳家の強制とは違って快く感じられるのはなぜか?実は、強制しているのではなく、「勝手に覗けば!」と自由を与えているだけのことかもしれない。一般大衆を感動させるからには、天才には精神を曝け出す心的能力があるのだろう。そして、鑑賞者に自由と遊びを味あわせる。芸術の力は、美学的理念が現れるところに発揮される。そこには、技法や流派といったものに影響されたとしても、あくまでも芸術家独自の自由の中にある一定の概念に支配された主観的合目的がある。したがって、芸術の技術を習得したところで、芸術や独創性を生み出すことはできないだろう。流派があるとすれば、芸術家の数だけあると言ってもいい。芸術が人を惑わせるという意味では、人を欺く行為と似た事情がある。芸術家は詐欺師か?詐欺に会っても心地良ければええ!となると、宗教にも通ずるものがある。それは思考停止に陥れるかどうかの違いか?人間の精神とは、実に際どい認識でうごめいている。

4. 目的論的判断力
客観的判断を与えるために、法律や戒律などを制定しても、そこには自律性はない。こうした手段は、実践的ではあるが、法則や概念を包摂するだけであろう。本書は、他律的思考から判断力自身のアンチノミーが生じる危険性もなければ、判断力の原理が矛盾に陥ることもないという。法律に頼る言い訳は、自らの思考を放棄したということか?反省によって得られる判断力は自らの法則に包摂されるだけで、ここには客観的規準はないと言っているのか?いずれにせよ、判断力の原理は自ら編み出すしかないのだろう。合理的判断は、主観的原理によって、必然的格律が構築されることになろう。しかし、主観的原理に従えば、必然的格律の間に矛盾が生じ、アンチノミーが成立する。判断力もまた弁証法で、もがく運命にあるのか?
ところが、本書は、ア・プリオリな判断力は悟性によって客観的原理が与えれるという。そうかもしれないが、経験的に得られる認識でさえ、個人の法則に従って多種多様である。そこに純粋な客観性などというものを見出すことができるのだろうか?やはり、悟性と反省的経験の調和を求めるしかなさそうに思える。少なくとも、悟性を欠くところに客観的な判断を見出すことはできそうにない。
また、本書は、自然目的の実存論、あるいは、あらゆる実存を説明しようとする原因性、作用する原因の原因性といったものを批判する。そもそも、自然目的を説明できる人間などいるのか?人間の存在意義すら説明できないのに。そこで、神学は、神を持ち出して、あらゆる自然目的を説明できる点では優れている。有神論は悟性による自然目的性の観念を手際よく奪いやがる。そして、ご都合主義によって神の姿をも歪める。結果的に、有神論者は神を冒涜するという矛盾を犯すことになろう。客観的実存性を説明しようとするならば、一旦自らの存在意義を否定してみることだろう。すると、人間は概してニヒリズムに陥ることになる。思考の浅いところに芸術は生まれない。すべてのものに存在意義があるとする欲望的な思考のあるところに、芸術性を感じない。
「純粋な客観的根拠に基づいて(残念ながらかかる根拠は我々の能力を超越している)証明し得ないからといって、そのために我々が何を失うのだろうか、もし失うものがあるというなら、それがなんであるかを知りたいものである。」

5. 精神の究極目的
宇宙の最終目的とは何か?人間の存在意義を自然目的論的に答えがあるとしても、いまだ人間の価値観では説明できない。本書は、もし人間精神に究極目的が存在するとすれば、おそらく幸福であろうと語る。所詮、悟性や理性にしても、人間の価値観で判断されるに過ぎない。などと投げ遣りになれば、あらゆる犯罪も正当化できるわけだが、少なくとも人間社会という範疇で自己保存の原理は働く。では、自己保存の目的とは何か?その最高位なものが自らの幸福ということになろう。では、究極な幸福とは何か?本書が、それを具体的に答えてくれるわけではない。それもそのはず、幸福という価値観は個人の中にあり多種多様であるから。人によっては、麻薬付けにされて意識が朦朧とした状態に幸福を感じるかもしれない。あらゆる現実から逃避する瞬間が幸福かもしれない。キェルケゴール風に言えば、そもそも精神を獲得した時点で絶望となり不幸なのかもしれない。自らの精神を飼い馴らすことができれば、幸福になれるのだろう。いずれにせよ、幸福の正体は、絶対的ではなく相対的な価値でしかない。そして、戦争とは幸福の争奪戦であり、憐れみとは自らの幸福の優位性を確認するためのものとなろう。周りの人々も幸福であってほしいと願うのも、あまり極端に不幸な人を目の前にすれば、自分が不快に思うだけのことかもしれない。皆そこそこ幸福であってほしいが、自分がその幸福を最高に享受したいと願う。生命体である以上、利己心を捨てることはできないのかもしれない。生きるという目的そのものが利己心で成り立っているのだから。偉大な生物史からすると、一匹のプランクトンよりも、価値のある人間などいないのかもしれない。そうした悲観論を呟きつつも、人間社会の保存原理として、平均的な価値観を見出すことはできそうな気がする。一般的な幸福といえば、家族の健康や平和な社会といったところであろうか。しかし、不健康や戦争や経済不況があるから、希望的価値を認識することができる。希望が叶うことが幸福だとしたら、希望が叶わない状態を実感しなければ、幸福を認識できるはずもない。これは人間の悲しい性である。家族の構成や社会環境では、恵まれた境遇もあれば、恵まれない境遇もある。自然的偶然性による災いに対して、なぜ自分だけ不幸に見舞われるのかと考えるのは、自然法則をも凌駕する究極の利己心なのかもしれない。となると、相対的な価値観を求めることが、精神の究極目的とは到底思えない。そこで、精神の高まりのような、精神が崇高な意識を獲得するような、そんな価値観に幸福を求めることはできるだろう。それは、自らの精神を解放して、精神の真理を探究する欲求と言おうか。精神の芸術的領域、あるいは匠の境地への到達を目指すといったところであろうか。少なくとも脂ぎった欲求との差別化はできそうだ。こうしたものを究極目的とすれば、どんな境遇にあろうとも、共通目的とすることができるかもしれない。それは、日常生活や仕事などでも実践できるだろう。一般的に知識を求め判断能力を身に付けようと努力するのも、そうした意識が潜在的にあるのかもしれない。道を究めるとか、何かを悟るとかいったものを、人間は本能的に意識しているのかもしれない。こうした知的生命体の究極目的のようなものがあってもいい。それが「哲学する」ということであろうか。

6. 認識能力の実践
神学は道徳を規定する手段である。法学は法律によって道徳を実践する手段である。人間社会は、実践的に道徳を規定するが、いずれも強制力によって方向性を示しているに過ぎない。自律を欠いたところに、真の価値観を得ることはできないだろう。あらゆる抗争には排他論理がある。平和的な抗争が議論だとすれば、非平和的な抗争が戦争ということになる。もし、相手の存在を認め、共存の原理が働くとしたら、もはや沈黙するしかなくなるであろう。それでは、教育そのものが成り立たなくなりそうだ。では、理性が構築されるまで、大人が子供に思考を押し付けることになるのか?では、いつ理性が構築されたと判断するのか?それが一人前というやつか?人間は永遠に一人前になれそうにない。物事の存在意義は、なんらかの目的を見出せた時に、その価値があると認識される。もし、人間の幸福が宇宙の目的だとすれば、人間の存在を宇宙創造の究極目的として前提されなければなるまい。宇宙原理に絶対的な価値があるとしても、それが人間の幸福とは到底思えない。もしかしたら、ア・プリオリな認識によって、人間の存在価値を認めることができるのかもしれない。天才たちに自殺する例が多いというのも、彼らがその価値観に到達した証であろうか?

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