2009-11-15

"純粋理性批判(上/中/下)" Immanuel Kant 著

アル中ハイマーの購入予定リストには、昔から亡霊のように付き纏う奴らがいる。そろそろ亡霊退治に乗り出すとしよう。ただ、「カントの三大批判書」という亡霊は一筋縄ではいかない。科学書や歴史書などに触れていると、あちこちでカントの影響を感じることがある。一度読んで見る価値がありそうだと薄々感じてはいたが、その大作を目の前にすれば尻込みするというものだ。実は、全部読むのが億劫なので、第三批判書の「判断力批判」だけを読もうと試みた。ところが、一歩踏み入れたがために精神は蟻地獄へと引き摺られ、第二批判書「実践理性批判」、第一批判書「純粋理性批判」と遡ってしまった。通常の読み方からすると逆順であろうが、そこは天の邪鬼!結果的に理解を深めるためにも悪くない読み方である。というのも、読んでいるうちに気づいたのだが、三大批判書は併せて一つの体系を成している。「純粋理性批判」では、悟性認識に則った数学や自然科学の原理を論じ、「実践理性批判」では、理性認識に則った道徳と自由の原理を論じている。いずれも、認識能力の可能性と限界を考察したものである。前の二つの批判書で認識能力の限界を認めるならば、それに基づいた判断力もまた限界を認めることになろう。率直に「何のために認識能力を働かせるのか?」と問えば、それは「判断力を働かせるため」となろう。いや、認識そのものが判断の結果であるとも言える。カントは、思考の統合的立場としての判断力の不完全性を論じようとしたのではないか?おいらには、そう思えてならない。いずれの批判書も、ア・プリオリな認識を相手取った、人間認識の基本原理に迫ったものである。やはり一番おもしろいのは「判断力批判」であろう。したがって、おいらにとっては、前の二つの批判書は第三批判書のための序章の位置付けにある。いや!引き立て役と言ってもいい。ただ、記事にするのは通常の順番としよう。なぜかって?それは、純米酒を呷ると、天の邪鬼も素直になれるから。それにしても、引き立て役にしては大作過ぎるなぁ。なぁーに、アル中ハイマーは前戯が大好きだからまったく問題はない。もちろん本番も!

偉大な哲学書というものは、難解な論理の羅列がBGMとともに流れ去るような、不思議な錯覚に陥れる。しかも、一つの言葉に違った意味をめぐらせながら混乱させやがる。一語多義的な世界とでも言おうか、一貫性さえ疑いたくなる。もっとも、人間精神は矛盾律で成り立っているので違和感はない。そして、いろんな思考を錯綜させながら自らの哲学を覚醒させる。これが哲学書の極意というものか?世界には実に多くのどうにでも解釈できる抽象的な概念が氾濫する。
カント曰く、「多くの書物は、これほどに明晰にしようとしなかったら、もっとずっと明晰になったろうに」
人間は、その概念が奥深いものであっても、皮相的な結論に安易に飛びつく習性がある。それも人生が短いので仕方がないのだろう。だが、真理の探究で結論を急ぐこともあるまい。未解決な問題があって結構!「哲学する」とは人生の暇つぶしであるから。

理性認識は、理性の欠いたアル中ハイマーのもっとも避けていた領域である。カントは、本書を哲学における「コペルニクス的展開」と述べたという。なるほど、ここに記される純粋理性認識は、数学的理性認識と言ってもいい。ただ、数学のような成功をおさめるかは別である。数学の公理は永遠である。はたして哲学に公理なるものを見出すことができるのか?哲学と数学は同じ論理学を扱う意味で非常に似通っている。おいらは、数学は哲学の中で普遍性を見出したものが独立したものだと考えている。逆に言うと、人間精神に関わるものだけが、哲学にとどまったままとも言えよう。不完全性定理は、まさしく数学を哲学の領域に引き戻した感がある。ただ、数学と哲学では扱う対象が違う。数学は物理量や時間スケールといった「空間の量」を対象とする。一方、哲学は人間の認識や理性といった「精神の質」を対象とする。論理学は常に客観性に基づく形式化を求める。ところが、精神ってやつは主観の領域に深くかかわるから厄介なのだ。数学の証明には直観的確実性や自明性なるものが現れるが、哲学の証明には弁証法なるものが現れる。あらゆる学問が人間にかかわる現象に対して体系化を試みたが、ことごとく失敗してきた。だが、体系化できるかできないかの境界をさまよいながら、人間精神の限界を知ろうとする試みは無駄ではない。物事を深く掘り下げれば哲学的思考に辿り着くはず。あらゆる学問で、偉大な学者が、同時に偉大な哲学者であったのもうなずける。哲学的思考では、物事は本当に存在するのか?と疑えば実存論と争い、存在意義はあるのか?と疑えば無意味論と対峙する。そして、哲学とは何か?と自己言及の罠へと導かれる。そもそも、人間精神の解明に人間精神がどこまで迫れるかという問題自体が、自己矛盾に陥っている。そして、「おいらは誰なんだ?」と問い続ければ、「飲むしかないではないか」となる。もはや、酒を飲んでいるのか?酒に飲まれているのか?自己認識の存在すら疑わしい。つまり、「哲学する」とは、酒を飲むことである。したがって、多くの哲学者はアル中に違いない。

本書のテーマは哲学的問題の中でも、理性というとてつもない領域へと踏み込む。理性を観察するには、理性よりも高次の宇宙原理的な価値観から眺めなければならないだろう。数学は、自然数を解明するために整数や有理数の概念を登場させた。物理学界は、空間を解明するために、より高度な次元への移行を求める。つまり、一つの系を観察するためには、より抽象度の高い系を必要としてきた。純粋理性とは、宇宙原理に近い恒久普遍的な理性とも言えよう。そして、純粋理性の中で根幹を成すものが、純粋悟性である。その認識能力は、直観的で単純な論理の組み立てだけでは到達しえない崇高なもののように映る。本書は「ア・プリオリ」という言葉を登場させる。そして、理性構築に人間のア・プリオリな認識能力から演繹できるのか?という問題と対峙する。
ところで、「ア・プリオリ」とはなんぞや?辞書で調べると先験的や先天的となるようだが、いまいちしっくりとしない。主観を働かせることによって得られる客観的帰結とでも言おうか。例えば、数学の定理は客観的な考察と言えるが、定理を導くまでの思考プロセスには直観的な考察が関与する。人間は物事を認識する時、論理の組み立てだけでは深い思考が得られない。そこで、本能的に自然原理のようなものに照らしながら、直観を働かせるだろう。つまり、直観と論理的思考の調和のようなものと解釈できそうだ。したがって、数学の公理は、ア・プリオリな総合的判断の演繹によって積み重ねらてきたと言えよう。そもそも論理学は、悟性によって形式的規則を成立させることを求め、客観的に構築するものである。その論理学を主観的領域に持ち込んで客観的に構築するとはどういうことか?問題は既に自己矛盾に嵌っている感がある。だが、論理学の先験的弁証法は主観的と言ってもいい。直観の原理による認識が、結果的に客観的認識として見出すことができれば、それをア・プリオリな認識として受け入れることはできそうだ。そこで問題となるのが「はたしてア・プリオリな悟性認識だけで理性構築は可能なのか?」ということになる。本書は、この問題を通じて、思弁的な理性認識を否定しているのではなく、おそらく理性能力の限界を示したかったに違いない。これは、アリストテレス的な形而上学の限界を指摘しているのか?唯物論よりも唯心論の方がましだと言っているのか?その批判の意図はよく分からん。酔っ払った精神では、勝手な解釈によって御託を並べてみることぐらいしかできないのだから。

本書で注目したいのは、理性認識の重要な意義に自由の概念が内包されていることである。古くから自由意志の存在をめぐった哲学的論争がある。自由意志を主張したところで自然法則に支配されるような気もする。ただ、理性認識の範疇で自由意志が規定される可能性を匂わせている。なるほど、自由の概念は理性の原因性によって生じると考えることができるかもしれない。理性構築では、どうしても経験的観念に頼らざるを得ない。では、経験を重ねれば理性は進化するのかと言えば、それも疑わしい。先験的認識と経験的認識が調和した時、更なる高次な統制能力を持った理性認識が生起するとでも言っているのだろうか?

1. ア・プリオリ
人間の意識はすべて経験に頼っているわけではない。生まれたばかりの赤ん坊が「おぎゃー」と泣くのも生まれながらに持った意識があるからであろう。ただ、人間は歳を重ねるとあらゆる現象が経験的に見えてくるところがある。ここで言う経験とは、自らの経験だけでなく歴史事象や他人の経験も含む。
また、経験を基に直観的認識が浮かび上がることもある。経験によって生じた認識であっても、結果的に純粋な宇宙原理のようなものを感じることがある。道徳的観念において抑制力が働くのは、すべてが経験的というのでは説明ができない。こうしてみると、「経験的認識」と「直観的認識」の境界を明確にすることが難しいことに気づかされる。大人になれば、純粋な心を失っていくのもうなずけるわけだ。
数学の公理は宇宙原理のような純粋な認識を求める。これは偶然存在するのではなく、もっと崇高な認識といったところだろうか。本書は、こうした純粋領域にあるものをア・プリオリと呼び、更にア・プリオリな認識は「時間」と「空間」だけであると主張している。なるほど、アインシュタインが時空の概念を持ち出したのも、本質をついていそうだ。不思議なことに、時間や空間は客観的でありながら、人間認識では主観的である。日常生活では、相対認識の中で時間を短く感じたり長く感じたりする。空間も広く感じたり狭く感じたりする。自殺する意識も、自らの存在感に悩んだ末に現れる空間的な相対意識かもしれない。人間は、時間や空間が絶えず変化することに、はかなさを感じる。しかし、時間と空間が変化するのは客観的事実である。こうなると、純粋直観と経験的直観、あるいは主観と客観の境界も曖昧になってくる。少なくとも、時間と空間の概念を精神の世界のみに限定する必要はないという意味では客観的ではあるのだが。
ちなみに、「ア・プリオリ」の対義語で「ア・ポステリオリ」という言葉もあるそうな。
ところで、ア・プリオリな純粋理性を規定することはできるのだろうか?人生経験の積み重ねの中で理性に目覚めることはあるだろう。しかし、人間の前に現れる問題はいつになっても尽きることがない。それは時間が途絶えることがないからか?人間は、理性が経験的な領域を超越していて、いつまでも不完全であることに、なんとなく気づいているのだろう。にもかかわらず、常識としての共通の価値観を持ち出す。その代表が法律や宗教の戒律といった道徳観である。あたかも完全であるかのような原則として用いて、そこに逃避せざるを得ない。人間はこうした一時避難所である実践的道徳を規定している。

2. 先験的弁証法
理性には、論理的能力と先験的能力があるという。いずれにせよ、人間は自らの価値観よりも高い認識能力を発揮することはできないだろう。人間は、都合によって主観的必然性を客観的必然性と見なすところがある。本書は、これを「仮象」と呼ぶ。そして、先験的弁証法をもってしても、この仮象を避けることはできないという。なるほど、経験を積めば積むほど、その錯覚に陥りやすい。誰が見ても客観性というのは、実は主観性の多数決であったり、業界の慣習に従っているだけだったりする。そこで、主観的認識は悟性との一致を求めて客観的に調和しようとする。だが、純粋理性は、経験から得られるのではなく、推論によって得られる概念である。言い換えれば、ア・プリオリな原則に従い、ひたすら悟性によってのみ規定できる認識である。本書は、純粋理性の分析であっても、無意識のうちに虚偽が入り込むと指摘している。それが誤謬推理である。しかも、純粋理性の先験的証明はすべて弁証法的仮象の中で行われると断言している。数学で生じる矛盾は客観性に基づくが、哲学における矛盾は主観性の中でさまよう。となれば、哲学の基本として、弁証法的矛盾を単なる矛盾として片付けるわけにはいかないだろう。
「自信は見せかけの真実に過ぎない。」
本書は、悟性判断は客観と一致するはずなので、自信を確信の地位に押し上げる努力を求めている。確信に近づけるためには、「臆見」「信」「知識」の三段階を経由するという。「臆見」は空想の段階であり、「信」は主観的段階であり、「知識」が客観的な地位の段階だという。数学で「臆見」を立てることは不合理かもしれないが、難問と対峙する時には有効となる。理性の先験的考察でも有効で、ここが人間精神を相手取る哲学の醍醐味でもあろう。「臆見」や「信」の段階で「神の存在を信じる」と主張したところでなんの問題はないが、宗教はこれを「知識」として押し付けやがる。

3. アンチノミー
アンチノミーは、二律背反と訳されることが多い。本書は、アンチノミーは弁証的推理を行う際の理性の状態であり、純粋理性には自己矛盾が自然に出現するという。
本書はアンチノミーの命題を四つ挙げる。
(1) 時間と空間の限界説は有限か?無限か?
(2) 全ての物質は分解不可能な単純要素によって構成されるのか?
(3) 普遍的な自由は存在するか?全て自然法則に従うか?
(4) 宇宙の原因となる必然的存在者が実存するか?

時間と空間が科学的に有限であるにしても、人間の認識としては無限に等しい。数学的に無限と有限の境界を定義したところで、哲学的に解決できるものではない。人間の精神は自己矛盾からは永遠に逃れられない運命にあるのだろう。そして、精神の矛盾を否定すれば、人間の存在そのものを否定することにもなりそうだ。
アンチノミーは、時間と空間の条件下に支配された認識である。もし、こうした概念が自然的、必然的、絶対的な支配から解放された時、宇宙論に到達した純粋理性の存在を認めることができるのかもしれない。だが、人間の理性は、相対的であり、社会的であり、多数決的な性格を帯びている。純粋理性を求めたところで、人間の認識は実践的な関心にしか向かおうとはしない。人間の理性は建設的な意識を受け入れ、体系的に矛盾しないように認識しようとする習性がある。あるいは不都合な現象を見ぬ振りをすると言った方がいい。自由な認識の延長上には、ご都合主義がある。こうした自由は欺瞞なのかもしれない。先験的哲学において答えられる対象といえば、宇宙論的問題や自然科学の問題だけであることを、カントは認めていたのかもしれない。アンチノミーの存在は、哲学の死、もっと言うと純粋理性の安楽死を意味しているのか?

4. イデア論
認識論を語る上で、プラトンのイデア論を避けることはできまい。イデア論はアリストテレスが論じた悟性概念を遥かに超越しているように映る。イデアは、物の原型である最高の理性から流出して、人間理性に授かったものと考える。プラトンは、もともと理想的な理念を持った純粋イデアなるものがあったと考える。だが、人間理性はもはや本来の純粋な姿に戻ることはできない。プラトンのイデア論は、遺伝子コピーが完全ではないことを意味しているのだろうか?遺伝子コピーはある確率の低いところで障害者を生む。というより、どんな人間もなんらかの障害を持っていて、それが不完全性と言えよう。本来人間の持つ純粋理性というイデアは、だんだん悪徳を身に付けて悪魔へと変貌するのだろうか?法や宗教といった道徳規制の登場は、人間の悪徳を抑制するための手段として登場した。法の進化は、人間の悪徳の進化に比例するとも言えよう。知恵や知識とは、悪魔への道しるべなのか?人間は進化とともに認識を拡大してきた。だが、これは本当に進化なのか?退化ではないのか?イデアは生きていく個人の中でも変化していくように見える。泥酔者ともなれば記憶も薄れ、理念も薄れる。きっと、アル中ハイマーにも理想的な理念を持った時期があったに違いない。子供は早く大人になりたいと夢を見る、大人はいつまでも子供のままでいたいと夢を見る。

0 コメント:

コメントを投稿