2009-12-16

もしも、アル中ハイマーな法学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな法学者がいたら...だめだこりゃ!

「法律とは誰のためにあるのか?」
アル中ハイマーはドスの利いた声で、いかにもダーティハリーが吐きそうな台詞を返すのであった。
「法律なんてものは、都合が悪くなった人間が利用するためにあるのさ!」


1. 条文の不完全性
法律は条文で構成される。条文は言語で構築される。精神を人間が発明した言語で規定できるとすれば、人間は精神を完璧に解明できたことになる。したがって、法律に欠陥があるのは当然である。法が道徳を構築できるのか?法ができることと言ったら、せいぜい行き過ぎた欲望を抑えるぐらいであろう。法は、人間社会で理性が構築できないために、人間が考案した実践的な手段である。憲法に矛盾する法律が山ほどあるのは、条文の限界に対する応急処置なのか?法律が、社会秩序を守るための最後の砦であることに疑いがない。だが、現実には業界に支配された法律が続々と生み出される。どうみても、政界との癒着がなければ説明できないほどに。したがって、法律を言い訳に保身に走るということは、最も理性を失った行為と言えよう。しかも、立法権を持つ政治家たちが、いつも法律を楯にするとは、最悪の人種ということになろう。
アメリカ合衆国憲法は、あらゆる独裁者の出現を拒むように考慮されている。だが、数学者ゲーデルはその弱点を指摘した。かつて、世界で最も進んだ憲法と言われたワイマール憲法は一人の独裁者によって廃れた。しかも、ヒトラーはワイマール憲法に従って政権についている。つまり、合法的に独裁者を生んだわけだ。歴史的には「全権委任法」を議会で可決させたことでワイマール憲法は死んだとされる。そう、論理学には、一つの全否定によって全ての論理を否定するという恐ろしい技がある。
どんなに論理を整備しても、そこに不完全性が紛れ込むとすれば、法は成文法ではなく慣習法であることを認識すべきであろう。どんな組織にも、事実上反故にした規定がゴロゴロしている。人間が草案するもので、完璧な論理に従ったドキュメントなんて存在するはずがない。そもそも、人間は普遍恒久的な価値観に到達していない。永遠に到達できるとも思えないが。神は、人間を永遠に退屈にはさせてくれないようだ。したがって、あらゆる条文を生きたものにしたければ、常に検証を怠らないことである。

「身代わりを用意してある...黒幕だ!幽霊のまったくの架空の人物さ!書類上でしか存在しない。法には抜け道がある。黒幕君には出生証明も免許もある。当局は幽霊を追い回すって寸法さ...」
...映画「ショーシャンクの空に」より...


2. 法律が命令するもの
「法律は誰のためにあるのか?」と問えば、一般的には「国民のため」と答えるであろう。だが、法律には人々の行動規範が定められる。つまり、国家権力が人々に命令している。となると、国家権力を縛る仕掛けも必要であろう。それが憲法ということになろうか。だが、政治家は、憲法と明らかに矛盾するような法律を続々と誕生させる。銀行法は銀行に命令する。民法は国民に命令する。ちょっと変わったところでは、刑法には刑罰があっても犯罪を禁じているわけではない。なるほど、脅し文句か!いや、どうやら刑法は、裁判官に命令するもののようだ。裁判官の裁量で勝手に刑罰を決めることができないというわけだ。となると、刑事裁判で裁かれるのは、被告ではなく検察官ということになりそうだ。つまり、求刑するからには、その証拠が検証されなければならない。証拠の正当性が認められてはじめて、被告人に罪状が与えられるだけのこと。検察官は警察という行政権力の代理人というわけか。ここには、人生観や感情は一切排除されるはずだが、有罪率99%という数字が際立つ。この数字は、公平性よりも国家権力の面子を優先した結果なのか?
裁判の場は、真相を暴く所でなければならないと考える人も多いだろう。だが、現実には真相なんてどうでもよく、検察官と弁護人の弁論大会となる。そして、民衆は「遠山の金さん」のように公明正大な存在者を求める。だが、ちょっと考えてみると、自ら証拠集めをし自ら判決を下すのは、神を自覚しているようなものである。こんな独裁的な存在を民衆がヒーロー扱いするのは、一般的に裁判の公平性に疑いを持っている証でもあろう。政治の根本原理は公平性の構築にある。法律や裁判はその手段に過ぎない。主権国家である以上、国民の生命を守るという義務を背負う。そうでなければ、税金を払う義務もない。命令ばかりして義務を果たさない国家に存続する意味はない。
人間は過ちを犯しながら生きている。法律は過ちを認識するための一つの基準に過ぎない。そして、刑に服せば、すべての過ちはチャラになると解釈される。したがって、法律を言い訳にしながら生きている人間は、強制力や権威力に従うだけで、自主的に過ちを認識できないということになろう。

3. 選挙制度の懐疑
多数決が民主主義の絶対的なシステムではない。だが、効率的で現実的な手段である。となれば、民主主義を機能させるために、選挙制度は常に検証され続けなければならないはず。にもかかわらず、訳の分からん仕掛けが何十年も亡霊のように居座り続ける。
摩訶不思議な存在に、国政選挙で行われる最高裁の国民審査がある。投票用紙に×印を書かなければ、自動的に信任されるとは、これいかに?そもそも罷免された例があるのか?信任方向にバイアスがかかる仕組みが、民主主義のシステムだとは到底思えない。いまや、三権分立が機能していると信じる人も少数派であろう。社会の反抗分子としては、全て×印を書いたものだが、最近ではネット情報で判決状況が容易に分かるのはありがたい。インターネットというメディアが一般の報道機関を補完する役目を担っているのも事実である。
また、選挙区の規模に目を向けると、国政選挙は小さな地方選挙の規模に過ぎない。だから、地元への癒着が強すぎて国政を疎かにするのであろう。しかも、当選回数が多ければ、政党の中で次第に権力を増し、ついには派閥の親分や大臣になったりする。その人の支持率が全国的にどんなに低くても、地元の支持者だけで当選する仕掛けがある。しかも、選挙の勝敗の基準も彼らの主観に委ねられる。そして、ふんずり返る連中ばかり集まり、政界は困ったちゃんの世界となる。
知事選の方がはるかに多い得票数で選ばれるのだから、知事の方が権威があってもよさそうなものだが。比例名簿に順位をつけることがまともなのか?比例区と選挙区の割合の根拠もよく分からん。はたまた、一票の格差が民主主義のシステムとして妥当なのか?などなど...考えれば続々と疑問がわいてくる。まぁ、偉い人たちが決めたんだから、間違いはないだろう。なにしろ、選挙制度を国会が決めるということは、刑法を泥棒が決めているようなものだから。
いまや、選挙制度に寄生する国会議員が多過ぎる!国会議員に権威を与える意味でも、議員数を思いっきり減らすしかあるまい。選挙が民主主義を機能させるための根幹的システムであるとするならば、その仕組みの公平性は常に検証されなければならない。にもかかわらず、政党論争にかかわる情報は氾濫しても、選挙システムそのものの欠陥を指摘する情報があまりにも少ないのはなぜか?なるほど、民主主義のシステムを話題にしたところで、ワイドショーとしては成り立たんというわけか。

4. 有罪率99%の脅威
裁判官は、検察官を監視するという機能を本当に果たしているのだろうか?あちこちで取り上げられる有罪率99%というのは、考えてみれば恐ろしい数字である。そのうち冤罪率は?と問うたところで答えがあろうはずもない。あっても揉み消されるのがオチだ。この数字からして、無罪の人が有罪判決を下された可能性を想像すると、かなり高い確率になるだろう。更に、この数字が前提となれば、恐ろしいことになる。推定無罪という裁判の基本原則は推定有罪として機能する。無罪の人でも、この数字を恐れて有罪を認め、少しでも刑を軽くしようと現実的に取引するケースもあるだろう。警察に脅されて妥協するかもしれない。それでも頑強に無罪を主張すれば、逆に反省がないと悪い印象を与えて重い刑が下されることもあろう。最大の問題は、冤罪が存在するということは真犯人を野放しにすることを意味することである。「真実は神のみぞ知る!」というのも嘘っぱちだ。少なくとも裁かれる人間は知っている。
ところで、量刑相場ってものがあるのだろうか?求刑よりも重刑になった例もあるが、なんとなく求刑の8掛けといった具合で決まるように見えるのは気のせいか?裁判官の量刑は、検察官の求刑に一切影響を受けないのが建前であろうが、検察寄りであるという印象は拭えない。エリートたちの心理には、庶民に欺かれることを極端に嫌う傾向があるのだろう。

5. 裁判員制度の是非
裁判員制度が始まったが、その是非をめぐってはいまだに論争が尽きない。ただ、どちらの意見もしっくりとしない。
反対派は、有罪率99%をどのように捉えているのだろうか?裁判は、検察官の証拠を検証する場である。そして、法律によって、不正な判決を下さないように裁判官が監視される。だが、しばしば、人間観を疑うようなとんでもない判決を目にする。裁判は、人間社会における人間行動を裁く場であって、社会的認識が必要となろう。となれば、人間社会の認識にプロも素人もないだろうに。法律のプロとは、それを施行するための手続きのプロに過ぎない。反対派の意見は、どうみても裁判官と検察官の癒着構造を隠蔽するための論理にしか聞こえない。
まだしも、賛成派の意見の方がまともに見える。一般の人々に裁判を通して、社会認識を持たせようというのは、それなりに意味がありそうだ。民衆が裁判を監視するという意味でも、役立つ可能性がある。それならばなぜ?いきなり凶悪犯罪を対象とするのか?民衆の習慣として根付いているわけでもないのに。CGなどを駆使してビジュアル化し、複雑な事実関係や証拠を分かりやすくするということは、情報を加工していることを意味する。一審で有罪となり、高裁や最高裁あるいは再審で逆転無罪となった場合、有罪を言い渡してしまった裁判員経験者の中には、一人の人生に取り返しの付かないことをしたと、良心の呵責に苛まれる人もでてくるだろう。まず、社会的風潮として論理的思考に慣れる必要がある。毎日マスコミの論調を目にしていては、それも難しいだろうが。
ところで、裁判員制度の対象となるかどうかは、どうやって決められるのか?最初から裁判の形勢が決したものだけが選別されるような、そこになんらかの思惑が感じられるのは気のせいか?酔っ払った社会の反抗分子には、いつも疑いの目が付きまとう。この制度が失敗すれば、反対派の餌食になるだけだ。裁判の民主化と言えば聞こえもいいが、言葉でイメージ付けて欺瞞するのは官僚たちの得意技である。いずれの意見も、偉い人の考える社会的感覚にはついていけない。どんな制度も用い方しだいで善にも悪にもなろう。
ちなみに、凶悪犯罪の基準も警察と法務省でも事情が違うようだ。警察では、殺人、強盗、強姦、放火といったもので、法務省では、殺人と強盗だけといった違いがあるらしい。法務省の定義では、命が助かればだいたいOKってか。警察も、10年もすればチャラになるってか。どちらも、「すべて忘れて、ポジティブに生きようぜ!」ってなわけか。いずれにせよ、「他人が死んでも構わない!」という行為は、「自分が殺されても構わない!」を意味する。

6. 認識能力の実践
神学は道徳を規定する手段である。法学は法律によって道徳を実践する手段である。人間社会は、実践的に道徳を規定するが、いずれも強制力によって方向性を示しているに過ぎない。自律を欠いたところに、真の価値観を得ることはできないだろう。あらゆる抗争には排他論理がある。平和的な抗争が議論だとすれば、非平和的な抗争が戦争ということになる。もし、相手の存在を認め、共存の原理が働くとしたら、もはや沈黙するしかなくなるであろう。などと言えば、教育そのものが成り立たなくなりそうだ。では、理性が構築されるまで、大人が子供に思考を押し付けることになるのか?では、いつ理性が構築されたと判断するのか?それが一人前というやつか?人間は永遠に一人前になれそうにない。
物事の存在意義は、なんらかの目的を見出せた時に、その価値があると認識される。もし、人間の幸福が最高の目的だとすれば、人間の存在を宇宙創造の究極目的として前提されなければなるまい。だが、宇宙原理に絶対的な価値があるとしても、それが人間の幸福とは到底思えない。もしかしたら、カント的ア・プリオリな認識によって、人間の存在価値を認めることができるのかもしれない。天才たちに自殺する例が多いというのも、彼らがその価値観に到達した証であろうか?

0 コメント:

コメントを投稿