もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな経済学者がいたら...だめだこりゃ!
経済学者と称する者で、社会学的観点のない者は単なる統計調査員である。おまけに、数学的観点のない者は単なる占い師になり下がるであろう。
1. 奇妙な学問
経済学者は最近の出来事の予想が当たると思いっきり自慢する。だが、まったくと言っていいほど経済予測を継続的に当ててきた者はいない。経済学者は占い師か?
経済学は、他の学問に比べ、対象となる範囲が酷く限られる。学生時代、大学の学部で経済学部と商学部が分離されていることに疑問を持ったことがある。経済学部は社会学部経済科ぐらいでええんでないかい、商学部は社会学部経済科の中にある一教科ぐらいでええんでないかい、などと思ったものだ。ちなみに、哲学部なんて聞いたことがない、文学部哲学科ぐらいだろう。電磁気学部なんてものも聞いたことがない、工学部電子工学科には一教科としてある。これも、エントロピー増大の法則にしたがって学問の専門化が進んでいるということだろうか?なるほど、経済学は他の学問よりも形式化だけは早いようだ。ちなみに、経済学を専攻すると利己的になりやすい傾向がある、という統計情報もあると聞く。経済人は勘定に合わぬことはせぬ!というわけか。
あらゆる分野で深さを追求すれば、分化や専門化が進む。それと同時に、知識の縦割れ現象が起こり、総合的視野が失われる。学問の専門化も、その程度に善し悪しがあるのかもしれない。古代のあまり専門化の進んでいない時代には、知識を見渡せる総合的な視野に立つことができたことだろう。ネット社会では、情報が氾濫する分、知識も得やすい。知識が安易に得られる分、生産性も高い。だが、創造性や思考力が高まっているかは疑問である。安易に結論に飛びつけるということは、思考の過程を放棄することにもなる。少なくとも一つのことに熱中できるのは、一部の天才たちに与えられた幸せであろう。凡庸の、いや!凡庸未満の酔っ払いは、知識の縦割れどころか横割れ現象も起こるから困ったものだ。
2. 金融危機と「ウォール害」
米国発の金融危機が叫ばれながら、米国大手の金融系は、すぐに危機以前の水準までに業績が回復した。そして、大幹部たちの巨額な報酬が復活する。彼らは、短期的な利益によって評価されるために、わざわざ高いリスクの戦略を仕掛け、銀行を共倒れさせた。しかし、その後の損失によって責任を問われることがない。その影で、他業種は失業で喘いでいるというのに。この対照的な現象はなんなんだ?
レーガン政権下で銀行の規制緩和が実施されて以来、経済システム自体が金融化した。つまり、金融債権を細かく切り分けして、資金の移動をやりやすくしたわけだ。そして、流通や広告といった間接的な業務に大量な資金が流れ込むようになる。この傾向は、生産一筋で発展してきた資本主義の価値観を再構築したとも言えよう。
ここまでは良しとしても...
問題は、アメリカにおけるレーガン主義の根強さであろうか。あらゆる政府介入を常に悪とする風潮は、どうみても尋常ではない。オバマ政権が目指す公的医療保険制度でさえ、なぜ?そこまで目くじらを立てるのか?しかも、根拠のない反対派議員の発言に民衆が扇動されている状況がある。感情論が蔓延るのは民主主義の宿命か?
生産、流通、販売という経済の基本構造は、実体のないものに価値がシフトしてきた。これは疎外感の発展型か?証券取引所では、巨額な資金が流れるにもかかわらず、肝心な産業への資金が滞る。では、実体のないものは、どのように評価されるのか?ここに人間の欲望が群がり瞬時に価値が乱高下する。世界恐慌時代と原理的には大して変わっていないわけだ。金融系は、相変わらず実体のない金融商品を誕生させる。しかも、その価値やリスクの評価にお墨付きまで与える。実体がないものほど欺きやすいというわけか。物の価値を自然に市場に委ねるのと、とんでもない金融商品を自由に創出するのとではまったく意味が違う。実体のないものが社会で冷静に見直されると、瞬時に暴落する。これは自爆テロか?いや、通りすがりの人までも危険に曝す金融テロだ!「資本の民主化」と言ってしまえば聞こえはいいが、資本の自由化は金融寡占化を増幅する便法というわけか。
ウォール街には、金融危機を促した報酬制度という悪しき習慣が、いまだ健在である。しかも、政府は金融体質改善を迫る前に、公的資金によって真っ先に救済しやがる。ここには、まさしく政府が後ろ盾になった金融支配の構図がある。そもそも、銀行の本来の業務は、決済の仲介業務であるはず。リスク評価を最も冷静に判断できる第三者機関であるはず。いまや、まったく生産性のない業種が、資本主義の中枢を握る。銀行が本来の業務から離れるほど、社会の害になるというわけか。自動車会社が、わざわざ欠陥自動車を販売して、自動車保険の価格を吊り上げているようなものだ。依然として蔓延る旧体質は、新たな金融危機を招くであろう。そして、バブルは繰り返される。投機家たちは、次のバブルの機会を狙ってなりを潜める。経済の目的は、物の価値を正当な値で安定させることにあるはず。市場や流通の活性化は、その手段に過ぎない。一時的に市場が活気付いたところで、将来へ混乱を先送りするのであれば、むしろ害は倍化するであろう。
3. 空虚と価値
正当な株価は存在するのだろうか?株価は未来予想を含んだ企業価値で評価される。では、未来とはいつか?10分後か?明日か?1年後か?10年後か?もしかしたら、100年後を予想する投資家もいるかもしれない。現在の株価が妥当するかどうかは、投資戦略によって見方も変わろう。にもかかわらず、エコノミストたちは、現在の株価水準は低いという意見を強気で主張する。もっとも、銀行系や証券会社系の評論家は売買を煽ることしか言わない。なるほど、エコノミストたちは「株で儲ける方法」なんて本を売って儲けるわけだ。ならば、経済理論を組み立てるよりも、いっそ証券取引所に群がる群集心理を分析した方が手っ取り早い。取引で儲けるということは、差額を求めることである。アンブローズ・ビアス曰く、「儲かるとは、商品を卸で盗んで、小売で売ることである。」
証券取引所には、デリバティブ商品が横行する。そもそもデリバティブの役割とは、相場変動によるリスク回避のために用いられるはず。大阪商人によって始まった先物取引は、米の生産が気候変動に影響を受けても、予め米価を決めることによって、価格を安定させ社会混乱を避けようとする仕組みであった。ところが、現在ではデリバティブ商品が価格変動を煽る。そこに、価値の乱高下を好み、バブルを大歓迎する連中が群がる。
その一方で、経済学者や政治家は、バブル経済を悪魔のように言う。彼らも同様に、証券という空虚を追いかけながら、証券価値が下がることに過敏に反応する。そして、金利ばかりに目を奪われ、インフレを必要以上に懸念する。人類の歴史には、インフレで百倍にも千倍にも貨幣価値を瞬時に変動させた実績がある。そう!市場原理には、「無を存在とし、存在を無とする」奇妙な法則が働く。人間は、社会が複雑化し疎外を感じるようになると、空虚な世界に価値を求めるのだろうか?かつて、資本主義を牽引してきた製造業には、見るからに物作りの世界があった。今では、コンピュータ上でシミュレーションしながら物が作られる。大部分のハードウェアがソフトウェア化し、仮想的な世界で物が作られ、実体のない物の価値が高まる。なるほど、人間には、空虚なものに憑かれる性質があるのかもしれない。数学者が、無限数に憑かれるように。人間社会の進化は、哲学的な実存問題をややこしくしているようだ。何も語らずに何かを語ろうとしたり、修行や鍛錬で無意味な苦難の道を選んだり、自分の実存を絶望したり、実体のない信頼を拠り所にしたり、確証のない安全に身を任せたり、検証できない事に自信を持ったり、愛なるものに無限の期待をかけ続ける。人間はますます実体から離れていく。そもそも、そこに実体なるものは存在しなかったのかもしれない。
4. 賢明なる経済ビジョン
いまや、金利やマネーサプライのコントロールといった従来のマクロ経済学の発想では、景気が左右されることはないだろう。先進国が、通貨をコントロールして自国の生産力を強化しようと目論んだところで、生産拠点は労働コストの低い東南アジア系などに分散している。現在の経済システムでは、実体は自国にはない。企業が実質労働を派遣や下請けに委託すれば、空洞化は避けられず、ここにも実体はない。経済が、いや!人間社会そのものが、仮想化へ向かう。これが、人間社会のエントロピーであろうか?
ゼロ金利政策にしても、本当に銀行の経営体力を回復させたと言えるのか?貸し出し先を積極的に探す努力もせず、むしろリスクばかり追いかけているようにしか見えない。低金利政策をとったところで、資金供給量を増加したところで、一部の投機家を喜ばせるだけでしかない。しかし、いまだに経済学者や政治家は、この手法にとり憑かれている。市場原理が、人間のできない価値判断を自然法則に委ねるために存在するのも事実である。だが、現実には、一部の経済人の価値観によって支配され、市場に参加していない人々に多大の被害を与える。英国元首相サッチャーによる金融ビッグバンは、イギリスの銀行を衰退させながら、シティーを巨大化させてしまった。ウォール街の連中は、金融危機を招きながら、真っ先に金融体制を立て直し、一般企業に被害をそのまま請け負わせたままでいる。いまだ日本政府は、国家戦略的な経済政策を打ち出せないでいる。政治家は政治団体に支配され、ビジョンのないその場凌ぎの政策を繰り返す。しかし、それはある意味、賢明な態度なのかもしれない。国家主導型の経済戦略というものは、発展途上国で道しるべを必要とする段階において機能するだけのことだから。
5. 災害の多い国
日本の経済学界には不思議な現象がある。経済大国と評されながら、ノーベル賞級の経済学者がいないことである。その一方で、ほとんどノーベル経済学賞を独占するアメリカの格差社会は半端ではない。なるほど、ノーベル経済学賞とは、経済危機の実験によって理論を構築した業績を称えるものなのか。これだけ頻繁に総理大臣が変わっても、これだけマスコミが悲壮感たっぷりに扇動しても、経済はなかなかへこたれなかった。そろそろ息切れ気味のようだが。おそらく他の国だったら社会暴動は避けられないだろう。日本は災害の多い国であり、民衆は災害慣れしているのかもしれない。まさしく日本は政治災害に見舞われる。もはや、巨大官僚をコントロール不能にした政治家は、社会の寄生虫でしかない。
ようやく政権交代して、政治主導で盛んに予算削減の議論が進むかのように見える。今までのバラマキを一度凍結して、本当に必要なものは改めて見直すのも良い試みであろう。どさくさに紛れて、必要な予算が一時的に凍結するのも仕方がないのかもしれない。なにしろ、何が必要なのかを判断することができないのだから。プレゼンの出来栄えで判定されても困る。いずれにせよ、今まで検証を怠ってきたツケが回っているだけのこと。だが、科学技術をあまり疎かにすると国の行く末が案じられる。「世界1位ではなく2位では駄目なのか?」という訳の分からん発言をする議員もいる。1位を目指した結果が、3位だったり5位だったりするのだ。最初から2位を目指せば、30位ぐらいに転落するであろう。順位なんて関係なく、資源のない日本は技術大国として生きてきた伝統がある。先人達が育んできた生命線を我々の代で消すこともできない。科学技術は民間の貢献が大きいが、現実に民間はコスト削減のため研究費を抑えている。あまり研究開発を疎かにすれば産業が空洞化し、企業自身の首を締めるであろう。民間と国家戦略の協調は古くからの課題であるが、主力戦略のビジョンを明確に示さなければ、補助金は機能しない。政治家というものは、どうもバランス感覚のぶっとんだ輩ばかり目に付く。見直さないよりはマシだが、ほんの少し見直して改革気分に浸ろうとするところに、一種の麻薬効果がある。なにはともあれ、議員数を減らすのが最も手っ取り早いことは周知の通りである。とりあえず、4分の1ぐらいにしてみてはどうか...。ここから手を付けなければ、どんな改革案を持ち出したところで説得力がないことに、彼らは気づかない。いや!気づかない振りをする。
6. 自然増殖と突然変異
資本主義は自然増殖によって発展してきた。と言えば聞こえがいいが、その実体は自転車操業システムである。どこかの操業が停止すれば、すぐに不況へと傾く。そこには、資源資本と労働資本という実体の間で、空虚な金融資本が、うまいこと介入しながら資本を増加させる仕組みがある。しかし、資本増加を前提とした経済システムに終焉はないのだろうか?地球という閉じられた世界で生きるには、地球資源にも限界があろう。政治は、相変わらず人口増加を煽る政策を取り続ける。枯渇する資源資本と増加する労働資本の間で、資本の不均衡も生じるだろう。その不均衡を是正できるほど、空虚な金融資本に力があるのだろうか?あとは、人類の遺伝子構造に突然変異が起こることを期待するしかなさそうだ。人類が宇宙に飛び出しても生きられるような生命体に生まれ変わるような、そんな体を獲得できる日を!
7. 信用の本性
世の中は、なんの根拠もない信頼で成り立っている。考えてみれば、会ったこともないパイロットに命を預けるなんて信じられない。それほど、航空会社が信頼できるのか?しかも、高い金を支払わされる。そこには、わざわざ利用者が信頼を買っているという不思議な構図がある。
銀行はATMで手数料を取る。かつて、窓口業務で人の手間がかかっていたから手数料という理屈も分からなくない。しかし、自動機械を使うのは利用者であって、手間をかけているのは利用者である。むしろ、手数料を支払ってもらいたいものだ。銀行は手間を売っているというわけか。
ところで、「信用取引」という奇妙な言葉がある。資金を証券会社より借り入れて売買を行うわけだが、担保が必要だったり、期限があったりと、何かと制約がある。つまり、証券会社が顧客に対して、一方的に課した制約で成り立っている。本来、信用とは相互の認識が合った時に成立するものではないのか?ならば、「人質付き取引」あるいは「差し押さえ付き取引」と言った方がよかろう。
8. 自己資本の懐疑
銀行業が胡散臭いと思う理由の一つに、自己資本の概念がある。そもそも民間経営だから、自己資本で運営するのが基本だろう。だが、その水準の低さには唖然とする。BIS規制ですら、自己資本比率8%しか義務づけていない。専門家が経験から算出した数字だろうから、素人に議論の余地はない。それにしても、株式は自己資本で、債権を他人資本として扱うのも奇妙である。返済義務の有無で区別されるが、どちらも他人の資金ではないか。株式を社外の人間が持てば、外部からの余計な口出しを気にしなくてはならない。それを嫌うのも分かる。つまり、株式とは口出し料というわけか。ならば、事実上、他人資本となって機能するかもしれない。それらしい言葉で欺瞞するところに、まさしく詐欺師の高等テクニックがある。なるほど、銀行屋は自己資本を持ちたがらない連中というわけか。
9. 銀行に乗っ取られるベンチャー企業
エンジニア会社には、ベンチャーキャピタルに、日本の場合は銀行系であるが、安易に資本注入してもらって経営が安定したと喜んでいる経営者を見かける。そして、資本家の口出しには逆らえなくなる。資本が重要な要素であることは間違いない。だが、問題は会社の性格を理解していない連中が資本家になることである。当初、従業員の方を向いていた物分りの良かった経営者は、徐々に資本家の方を向くようになり、従業員からは頑固な経営者へ変貌する。そして、資金凍結の恐れから、会計報告に惑わされ、ひたすら黒字を装うことに躍起になる。そもそも、金融系とエンジニア系の神経ベクトルは真逆にある。エンジニア出身の経営者は経済学オンチという引け目からか?金融系の意見を素直に受け入れる。彼らは金のプロであって、エンジニア会社の経営のプロではないのだが。エンジニア系の経営者は、面倒なことを事務方に丸投げする傾向がある。側近に信頼できる事務方のパートナーがいればいいが、なかなかうまくいかない。次第に、目先の売上に囚われるあまり、人材派遣のような奴隷業務に追われるようになる。そうなると、優秀な人材が逃げていき、人材の入れ替わりの激しい会社へと変貌する。エンジニアが金の事を言い出したら末期症状だ。これは退職を仄めかししていると考えねばなるまい。だが、経営者は、その理由をまともに受け入れ、根本的な問題からは目を背ける。そもそも、退職理由を本音で語るのは稀であろう。人材の質も低下することは言うまでもない。
また、株式を公開した途端におかしなことになる会社を見かける。最初から売却目当ての経営者もいる。経営者はなぜ目先が曇るのだろうか?そもそも、なぜ起業しようと考えたのだろうか?人間とは、金が絡むと変貌する生き物というわけか。
10. 経済人の感覚
経済人は、勝ち組や負け組という言葉を使うのがお好きなようだ。政治家やマスコミは自らを勝ち組に位置付けながら、自らの幸福を確認しているのだろう。そもそも、人生に勝ちや負けがあるのか?物欲ばかり満たしても、資産を墓場まで持っていくことはできない。そういえば、バブル時代に有名な絵画を棺桶まで持っていくと発言した金持ちがいた。人類の財産をそこまで占有したいか?歪んだ所有の概念の持ち主と言わざるを得ない。ところで、高齢化社会では、労働力を失い経済が破綻すると発言する経済学者も多いが、それは本当だろうか?若年層の割合が減れば、労働人口が減ると単純に考えるのも奇妙である。健康寿命が延びている時代に、単純に年齢で区切る発想もおかしい。定年のない世界では、死ぬまで働いている人も珍しくない。定年のある世界では、働いてきた恩賞がもらえるのは当然だ!とでも考えるのか?なるほど、自分のもらう年金を確保するために、少子化問題を訴えるわけだ。人間社会は、永遠にご都合主義の呪縛からは逃れられないようだ。
2009-12-06
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