2009-12-23

もしも、反社会分子の社会学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、反社会分子の社会学者がいたら...だめだこりゃ!

人間社会は、ご都合主義と有難迷惑主義の呪縛からは、永遠に逃れられないであろう。自立を叫べば他人を犠牲にし、自己責任を叫べば他人に責任を押し付ける。人間社会とは奇妙な世界である。

1. 社会科学とカテゴリー分析論
あらゆる研究分野で「科学する」とは、よく耳にする言葉である。複雑な問題と対峙するにあたって、まず、その正体を科学的に解明しようと試みるのも悪くない。そこで、必ずと言っていいほど用いられるのが、区分や分類といった抽象化手法であり、そこに法則性や規則性を見出そうとする。一つの命題に対して論理的な裏付けができれば、そこに安心感が生まれる。人間が客観的論理性や体系化を追求するのは、精神が安住の場を求めているだけのことかもしれん。ただ、そこで得られる快感も主観で解釈するから、人間とは得体の知れない生き物である。
本来、人々が求めるものは、社会問題を解決することである。人間のタイプを、抽象化して区分や分類することは可能であるが、具体的に解決できるところまで学術的に高めることは難しかろう。人間精神を相手取った問題が、そう簡単に片付けられるわけがないのだから。そこで、「カテゴリー分析論で、いったい何が解決できるというのか?」と自問すれば、泥酔した精神は「では、それ以上にいったい何ができるというのか?」と返してくる。「思考の試みによって問題解決ができなければ、それは無駄というものではないのか?」と問えば、「人生とは、死までの暇つぶしである。」と答えやがる。
もし、複雑系と矛盾律が宇宙原理の本質だとすれば、物事の解釈は自己の中にしか見出せないであろう。ただ、科学的思考は、客観的で冷静な判断を試みる上でも有効であり、個人の主観的解釈を手助けしてくれる。頭に知識を詰め込むだけの知識至上主義では、答えを先に求めようとする傾向がある。だが、社会のような複雑系で、形式化した解決策を安易に求めるのは都合が良すぎる。知識を探求しながら、ある解釈に到達する過程にこそ、人生の醍醐味がある。どんな難問でも答えが簡単に見つかるのであれば、人生は虚しいものとなろう。そして、退屈のあまり、くだらない悩みを無理やりでっち上げてノイローゼになるのがオチだ。

2. 人生の多様性
人間の行動は、ある程度の利害関係によって説明できそうだ。だが、あらゆる利害関係は個人の価値観で判断されるから厄介である。また、人間の行動には、どうしても動機付けのできないものがある。人間は、近視眼的な利害関係に基づいて行動しやすい。その反面、歴史的理念や伝統的慣習、あるいは信仰的な倫理観などが、しばしば行動を動機付ける。経済学が扱う利害関係は物質的なものばかりに着目するが、実際には内面的で精神的な価値を求める人も少なくない。奉仕や援助といった行為もあれば、名誉や評判に固執する行為もある。人生の目標が金儲けだけではなく、精神の探求といった哲学的思想を拠り所にする人もいる。浪費に命をかける人もいれば、貯蓄に生き甲斐を感じる人もいる。なにがなんでも長生きしたいと願う人もいれば、短い人生でも有意義に生きたいと考える人もいる。自らの不幸な境遇から人道的に目覚める人もいる。協定や契約に縛られて、義務や使命感を強く持つ人もいる。これらすべて個人の価値観による利害関係と言えなくはない。ある人にとっての合理性は、他の人にとっては非合理性と見なされることがある。価値観は個人の理念で相対的に育まれるのであって、精神の合理性にはカオスの世界がある。となれば、無限の諸条件の中から法則性を見出すことは不可能であり、統計的に捉えるしかないように映る。しかし、多様性を平均することに意味があるのだろうか?あらゆる統計データはちょいと視点を変えただけで、どうにでも解釈できる。自由と平等を足して2で割ったところで、答えは見つからない。となると、統計的分析にも限界を感じ、もはや社会学の科学的分析は不可能のように思える。だからといって、諦めることにはならない。学問として法則性を追求することで、今まで見えなかった因果関連を解明できる可能性はある。そこに意義を求めなければ学問は成り立たない。少なくとも、物質的な価値評価のみで体系化できたと言い張るよりは、混乱を意識している方が健全であろう。生活様式や価値観が多様であるからこそ、互いの短所を認識することができる。運命のような明るい出会いがある一方で、運命のような事故や災害に見舞われることがある。健康で幸せな生活をしているからといって、いつ病や障害に見舞われるか分からない。結婚したからといって、円満でいられるとは限らない。子供ができたからといって、五体満足とは限らない。ましてや、親の言いなりになるわけがない。子供を欲しがっても恵まれない家庭だってある。どんな生活様式であろうが、人間は様々なリスクを背負いながら生きている。そもそも、人生は寿命のリスクからは逃れられない。自由を求めれば、制約の障壁にもがく。怠惰を求めれば、勤勉にならざるを得ない。欲望と抑制が均衡しなければ、精神は偏重する。すべての人間が一つの生活様式や価値観に向かえば、意識は固定化され偏った社会となろう。人間が多様化しなければ、人間社会は莫大な人口増加にも対応できないだろう。すべての人間が同じ価値観を持つということは、人類が絶対的価値観に到達したことを意味するであろう。しかし、政治屋や報道屋は一つの価値観を前提としながら世論を煽る。まるで、自らの理念や理性が最高であるかのように。「勝ち組」や「負け組」といったものは、まさしく経済人の指標でしかない。そもそも人生に勝ち負けがあるのか?彼らは、路線から外れた人生の多様さを想像できないでいる。彼らの人生設計では、会社や役所に就職して、何歳までに結婚して、子供は何人作って、などという価値観でしか物事が計れない。しかも、これが自立の道だと説く。まるで、宗教家のように。ありもしない人生の軌道に乗ろうと、幻想を追いかけるかのように。無理やり差別化を図り、自らを優位な立場に位置付けることによって、精神の安住を求めるかのように。

3. 自立と自己責任
自己責任と他人責任を区別するには、客観的判断が必要となる。となれば、自己責任の範囲、ひいては自我の縄張りを明確にするために、論理的な説明を模索しているとも言えよう。社会現象という複雑系が科学的に解析できるならば、論理的な政治判断も可能となる。だが、実際には人間の論理は穴だらけで、しかもご都合主義に支配される。マスコミの論調から外れた人々は、まるで社会の害虫のような扱いを受ける。フリーターやニートやパラサイトシングルなどがその典型で、自立できない人々と蔑まれる。だが、そもそも自立した人間なんているのか?彼らの中には自らのリスクを背負って生きている人も多い。定年まで安定した給料を当てにし、退職すると年金をたかり、一生を安穏とした立場で生きることが、はたして自立と言えるのか?低賃金労働者のおかげで正社員の給料が安泰とは、これいかに?大企業に恨みつらみを持ちながら、にこやかに振舞っている下請け業者も少なくない。健康診断にしても組織格差があり、胃や大腸といった内視鏡検査を組織側で負担するところもあれば、形式的に終わるところもある。優遇された人間は、優遇されていることにも気づかないだろう。アル中ハイマーも恵まれた環境に気づかないから、安心して酔っていられるのだ。現役労働者を犠牲にしてまで企業年金制度をいまだに固持している会社は、通常年金を放棄すればいい。いずれ正規雇用と非正規雇用の境界線も曖昧になるだろうが、会社が潰れた時に真っ先にうろたえるのは正規雇用者であろう。現実に、定年を迎えて生き方が分からなくなる人も少なくない。何のために仕事をしてきたのか?どうやって生きていくのか?それは定年のない主婦の方が理解しているように映る。キャリアウーマンでなければ能力がないなんて考えるのもナンセンスであろう。そういえば、政治家の発言に「女は子供を産む機械」というのがあった。男はその機械にさす油でしかないというわけか。議員定数を減らすとなると、最もうろたえる連中が騒ぎ出す。しかも、選挙では土下座までして。これが自立した人間の姿か?少なくとも、世襲議員が「自立しなさい!」と説教できる立場にはない。自立していると思い込むことができれば、気持ちは楽になれるだろうが。
世間が求める自立とは、核家族化を促進して、人口増加を煽ることなのか?これが、老人の面倒を福祉施設に押し付け、社会保障費を拡大していると解釈することもできよう。年老いて施設に入りたくても貧乏人にはできないわけで、社会保障の構造自体が格差を助長するようにできている。孤独死はますます増えるだろう。それも、理性を構築する上で良い修行の場と解釈することもできそうだ。共同墓地も賑やかでいいかもしれない。一方で、親の年金を当てにしながら大家族化するということは、生活効率が上がりゴミも減って環境的になり、社会保障費の効率を上げて社会貢献していると解釈することもできよう。親も子供から少し頼られるぐらいの方が、自らの存在を実感できて嬉しいかもしれない。自由を謳歌する人もいれば、痴呆症や障害者を抱えて介護を強いられる人など、様々な事情もあろう。実際に、介護で糞まみれに、尿まみれになる話を聞くと何も言えなくなる。ちなみに、幸せそうな家庭ほど、痴呆症になりやすいような気がするのは偶然だろうか?若い頃に苦労し、子供たちが巣立ち、多くの孫に囲まれ、後は楽しい余生を送るだけとなれば、気の緩みのようなものが生じるのだろうか?だとすれば、幸せはちっぽけなぐらいでちょうどいい。
次にフリーターに目を向ければ、社会保障なしの低所得者層の存在が、製造コストの抑制に貢献している。コストにおいて、機械の設備投資と低賃金労働者とで天秤にかけられ、機械コストの方が有利となれば、低賃金労働者はすぐに失業する。企業は、単純労働者に機械に徹することを要求する。機械に徹するということは、力仕事が要求され若年層へ目が向けられる。しかし、いずれ彼らも歳をとる。そうなってから職業訓練をしたところで効果はない。つまり、最初から低賃金労働者としてレールの引かれた構造がある。
銀行系シンクタンクの経済予想ほど恐ろしいものはない。バブル崩壊も予測できない、いや!バブルの仕掛人だ!生活保護者やニートを蔑む前に、経済危機になると真っ先に公的資金をたかる連中の方が、よっぽど自立できていないではないか。

4. 人口論
世界では、キリスト教右派などの人権団体が、宗教上の自由の侵害だとして、産児制限政策への批判を強める。人口問題は、移民問題とも関わり、政治的にタブーとされている国も多い。だが、アフリカをはじめとする発展途上国では、人口抑制政策をとっている現実がある。年金で扶養率を保ちながら、労働人口と非労働人口の比率を維持すると人口は増加する。おまけに、医療の進化が平均寿命を延ばす。日本政府は相変わらず人口増加を煽る政策を取り続ける。そして、少子化問題に育児問題を結びつけて論じられる。まるで、自分の年金を若年層からたかるかのように。だが、育児支援は昔からある問題であって、女性の労働的立場の平等に基づくものである。自論に追い風が吹けば、それに結びつけてごちゃごちゃにしてしまうのは、評論家や学者の得意とするところである。人間が生きるということは消費することを意味する。そして、消費に追従して生産を必要とする。人口増加は、単純に生産量を増やすことになる。人間が多すぎると、空間的にも窮屈を感じる。先進国で、高齢化社会となっていくのは、生物的な防衛本能が働いているのかもしれない。脂ぎった野心家よりも、草食系の方が、地球の未来像に合っているのかもしれない。人口問題は環境問題の根幹と言ってもいいだろう。世界人口が増えつづければ、いずれ子供を複数かかえる家庭は、罪悪感で悩まされる時代が来るかもしれない。少子化問題を唱える人は、まず日本人口や世界人口がどのぐらいが適当なのかを示してもらいたいものだ。

5. ネット社会とウィキペディア崇拝者
ステレオタイプという現象は、人間社会の持つ本質であろうか?ウォルター・リップマンは、その著書「世論」の中で、ジャーナリズムの本質は人間の理性に頼るしかないと悲観的に語った。
ネット社会が何も特別に高度な社会というわけではない。人間社会の一形体であって、社会問題の性格は昔と大して変わらない。したがって、特に崇める必要もなければ、特に蔑む必要もなかろう。電子メールでは、真意が伝わらないと言う人もいるが、電話が登場した時代も、顔を合わせないと真意が伝わらないと叫ぶ人々がいた。新技術に馴染めないオヤジが難癖をつけるのも、人間社会の伝統であろうか。ネット社会を「大衆の叡智」と崇める風潮もあるが、それも怪しい。ネットでググれば、なんでも分かるという発想も危険である。安易に情報を信じる人が増えれば、エセ情報も拡散する。便利な世の中というものは、犯罪者にとっても便利ということだ。知識が真理を無視して多数決に支配されると悲劇である。いや!幻想に惑わされるのは喜劇か。現実にウィキペディア崇拝者も少なくない。高度な情報化社会が、生産性を高めるのは事実である。お陰で豊かな社会となった。だが、創造性が高まっているかは疑問である。なんでも質問をネットへ投げれば、誰かが答えてくれる。100点満点とは言えないにしても、80点ぐらいの回答はすぐにでも得られる。便利な世の中は、人間の思考力を奪うのか?古代の哲学的思考や科学的発想は、現代人の創造力をはるかに凌駕しているように思える。ちなみに、クラウドコンピューティングに、これだけ依存していいものか?と不安に思うことがある。確かに便利だが大規模なクラッシュなどのリスクも念頭に置くべきなのだろう、と言いながら酔っ払いは病みつきだ。
また、ネット社会では、情報が溢れているわりに、有用な情報を得るのが難しい。商品のお薦め度数には、売り手の思惑が見え隠れする。最近、本屋でも驚くような光景を目にする。それは、マスコミで露出される経済学者や評論家といった連中の本が溢れかえっていることだ。同じ著者でタイトルの違うものが、思いっきり平積みされている。しかも、写真入り。出版業界も苦しいのだろうが、著名人を前面に出せばいいという安易な商売戦略はいかがなものか?「これでもかぁ!」という陳列に、天の邪鬼は嫌悪感しかわかない。主信号にノイズが乗るのは仕方がない。だが、ノイズしか目立たなければ社会は騒がしくてしょうがない。と言いながら、このブログもノイズ生成器となっているのは面目ない。
すべての情報を相手にできるほど人生は長くない。そこで、いかに情報を捨てるかが鍵となる。雑音を気にしていては、前へ進むのが難しくなる。情報化社会では、情報を収集する能力よりも、捨てる能力の方が強く求められるであろう。何事をなすにしても、頑固さも必要というわけか。世間への反抗心が前へ進む力を与えてくれる。したがって、前へ進む力とは、情報を捨てる能力、あるいは忘れる能力であり、無視する力である。これが、悲観的思考から逃れる手段ともなろう。

6. 官僚化の法則
人間社会は、破壊のカオスの中にある。破壊と創造の繰り返しが宇宙原理だとすれば、精神の進化は自らの破壊から始めなければなるまい。しかし、人間には安定を求める性質がある。どんな組織や機関も、創設当初は美しいものであったに違いない。それらは、目前に迫った社会問題を解決するための現実的な手段として誕生したことだろう。だが、どんなシステムも長期化すると、既得権益が蔓延りながら腐敗していき、やがて社会の害へと変貌する。
近年、かつての終身雇用型体質を悪のように言う風潮がある。だが、一概に生涯に渡って職場が保証される仕組みが、革新的精神を妨げてきたとも言い切れない。少なくとも、この社会が、世界二位の経済大国にまで押し上げた事実は認めなければなるまい。アメリカ型の競争社会が、救いがたい格差社会を招いていることも事実である。年功序列が機能すれば、年下の部下を育てる義務という責任を負うことになる。責任が存在するということは、そこに生き甲斐を見出すことができる。その反面、居場所が保証された職場が、自己啓発や向上心を怠る風潮を生み、無能者を忠実さだけで評価するという慣行が蔓延るのだが。
しかし、現在のようにあまりにも経済情勢が不安定となれば、意欲よりも所属することを優先して、結局革新的精神の妨げになる。となれば、終身雇用自体が悪いのではなく、どんな体制も長期化の中で腐敗する原理が働くということになろう。
官僚体質の代表といえば、公的機関である。民間企業が利潤によって運営され、給料も成果の代価として支払われるのに対して、公的機関は予算によって運営され、給料も予算化される。公的機関の最大の問題は、予算消費型の組織ということであろう。予算消費型組織では、効率やコスト管理は美徳にはならない。予算の獲得に躍起になり、社会貢献が目論見に変貌する。少ない予算や、少ない人数で成果をあげれば、次年度の予算が削られるだけだ。予算を生み出すことが成果であり業績であると誤解する。そして、巻き起こる批判を避けるために、民衆を騙し、自らを欺く体質ができる。成果をあげるためには優先順位の高い目標に資源を集中させる必要があるが、そうした試みもなされない。つまり、予算消費型組織では、自らの存在感を示すために無駄な予算を計上することになる。コスト削減に努力した役人ほど、評価されずに葬り去られるわけか。となれば、公的機関の成功は、失敗よりも害が大きいことになる。
人間精神は、いつも安住の地を求めてさまよう。一旦その地を得れば、今度は頑なに守ろうとする。これが「既得権益の法則」である。人間社会は、伝統的慣習に縛られる傾向がある。伝統的慣習や信仰は精神に安定を与えながら、思考を脳死状態へと陥れる。となれば、自らの思考に疑問を持ち続け、常に検証しようとする努力が必要である。平穏な生活を獲得した人々にとって、革新的風潮は鬱陶しいものとなろう。問題は、誰もが平穏な生活をしているわけではないということだ。そこには、必ず既得権益に守られた支配層が存在する。一般市民の犠牲の下で裕福を堅守する連中がいる。社会学者ヴェーバーは、組織が大規模化する中で官僚体質となるのは、それが本質だからだと語った。人間の精神には、面倒なことや波風が立つのを嫌う面と、退屈を嫌う面が共存する。その衝動がどちらに振れるか、社会は気まぐれだ。極端に振り子が振れると、戻るのにも時間がかかる。一旦既得権益を獲得すれば人々は官僚的となり、それが絶えがたい不公平さとなれば革命が起こる。人間が官僚的になりがちなのも、自己防衛本能が働いているからであろう。一方で変化を求めるのも、精神が成長できない不安からの一種の防衛本能と捉えることができるだろう。人間社会は、個人の自己防衛本能に支配されながら、平穏と混乱、平等と自由といった精神の絡み合いの中で多様な状態遷移を経ながら、破壊と創造の間をうごめいている。

7. 環境問題
エコという言葉には、なんとなく癒しの響きがある。地球温暖化で騒がれるが、科学的な根拠が完璧に得られているわけではない。情報の捏造は、反対派の勢いを増すだけだ。ただ、温暖化の根拠がないからといって、人類が地球をレイプしていいということにはならないだろう。したがって、環境意識の高まりが悪いとは思えない。
ところで、エコポイントってなんだ?環境破壊度数か?ブラウン管廃棄物はどこへ行くんだ?本当にリサイクル効率が高いと信じていいのか?まだまだ使える物を...物の有り難味を子供に説教したところで説得力はない。まさか!ゴミを外国へ輸出してるのか?日本を綺麗にして海外を汚染しているんじゃ、大人の行動を子供が尊敬できるわけがない。大人たちは、この制度を子供たちにどう説明するのか?
ちなみに、トイレで流す水量制限がないのは、日本ぐらいなものだそうな。

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