2009-12-09

もしも、アル中ハイマーな政治学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな政治学者がいたら...だめだこりゃ!

政治とは、規制という道具を巧みに用いて、無理やり政治屋たちの存在感を強調する仕組みである。したがって、政治屋の目立つ世の中は、ろくなもんじゃない!

1. 脂ぎった奴らと草食系
世間は、官僚組織を悪魔のように批難する。その通りであろう。だが、その行政をマネジメントできない政治家たちが同じ発言をするということは、もはや自らの存在意義を否定していることになる。彼らは、政党間の罵りあいが、自らの無能さを暴露しているということに気づかないのだろうか?そのくせ、政党間の選挙協力という約束事に縛られて、肝心な政治判断は先送りされる。彼らが重んじる義理人情とは、民衆への義務を反古にすることであり、脂ぎった奴らの仲間意識である。おまけに、政治家に群がる一部の国民と共謀して、公共施設に自らの名前をつけて自慢する。これを私物化と言わずになんと言う?彼らには、どんなに傲慢なことをしても、必ず付け加える言葉がある。「謙虚に!真摯に受け止める!」論理学の全否定とも言える構文だ。酔っ払いには日本語の論理がよく分からん!おそらく、日本語でプログラミングしたら暴走するだろう。
普段ふんずりかえる連中が、選挙直前になると土下座までする。その醜さは目を覆いたくなる。したがって、政治報道はR-18指定するがよかろう。なるほど、討論番組は、青少年に配慮して深夜に放送されるわけか。
また、脂ぎった欲望に満ちた政治屋や報道屋は、草食系を消費に消極的で、婚活に励まないとして、不景気や少子化問題と結びつけながら、社会の害虫のように捲くし立てる。脂ぎった連中は、自ら持つ欲望や野望以外の価値観を理解できないでいる。しかし、政治屋や報道屋の態度を眺めれば、草食系はそれを反面教師にした価値観とも言えよう。草食系と呼ばれる人種が現れたのは、なにも今に始まったわけではない。いつの時代でも、権力者に呆れた知識層から生じる現象であって、古くからニヒリズムや哲学的思想と結びついてきた。ニーチェ風に言えば、政治屋と報道屋は「余計な人々」というわけだ。

2. 政治力とは情報力に他ならない
日本の政治が三流と言われる要因の一つに外交力を挙げる人も多いだろう。情報力がなければ、外交力も失われるのは当然である。スパイ天国日本、情報漏洩で同盟国にすら信用されない日本、伝統的に情報音痴な日本、こんな国に自立を求めるのは無理な話である。憲法によって軍事的に制約を受けるのであれば、情報力で凌駕したらどうか。なにも強力な武器を保有することだけが防衛力の強化とはならない。どんなに立派な武器を備えても情報力が乏しければ、ものの役には立たないのだから。核を保有したところで実際に使用すれば、国家の権威を失墜させ、その指導者は人類共通の敵となろう。そのリスクを背負うことができるのは、狂乱者ぐらいなものだ。核の本質は抑止力であって、事実上の戦闘には使えない。となれば、経済力を圧迫するだけの存在でしかない。核の最大の脅威は、売買によってテロリズムと結びつくことであろう。
我が国には、専守防衛という概念がある。だが、現実には、本土侵略でもない限り、何をされても攻撃とは見なせないであろう。それは歴史を背負っているからであり、専守防衛は事実上の戦闘放棄となる。となれば、情報力はますます重要な位置付けにあるはず。現実に、我が国は、拉致問題によって、少数の犠牲ならば基本的人権すら放棄することを示した。しかも、民主国家としての誇りも放棄したかにように映る。なぜ?独裁政権との国交正常化を急がなければならないのか?そもそも民主国家が独裁国家を容認できるのか?守るべきは、国家体制ではなく、民主主義ではないのか?独裁政権と仲良くするよりも、相手国の民衆運動と結びつく方が、民主国家としは健全であろう。
冷戦構造が終結して平和の時代が来るかと思えば、前にもまして、ナショナリズム、地域紛争、宗教的狂信、資源帝国主義、核拡散など、危険な時代へと突入する。各国は国家存亡のために、諜報活動をますます強化する。ちなみに、超一流の諜報機関が予測したことは絶対に当たる。そりゃそうだろう。どこかで何年後に、紛争があると予測すれば、そうなるように仕組むだけのこと。明日誰かが死ぬと予測すれば、殺せばええだけのこと。彼らは面子にかけても仕掛けてくる。
諜報活動は、軍事面のみに留まらず外交戦略、経済戦略にも大きな影響を与える。それにしても、不思議なのは、日本には卓越した諜報機関がないにもかかわらず、世界二位までの経済大国になったことである。国家戦略とは別に、民間企業が個々に成長できたのはなぜか?それは民間企業が独自に情報収集してきた結果であろう。かつて、日本の総合商社は諜報機関の役割を果たしてきた。それは、企業としての生存競争の中で危機感を持っていた証である。日本政府は、経済発展は民間企業に任せ、軍事はアメリカに頼り、外交は形だけでやってきた。もし、経済大国の上に一流の諜報機関まで持てば脅威となろう。アメリカにとっては情報依存してくれるのはありがたいはず。都合の良い情報を与えておけば、それだけで日本をコントロールできるのだから。
日本が国連で存在感が薄いとなれば、まるで機嫌を取るかのように金をばらまく。借金大国の上にこれだけの不況!たまには、国連への資金提供を半分に減額するぐらいのことを発言してもいいのではないのか?政治家や官僚は、なにかと世界援助という名目で金をばらまくが、財政赤字とはこれいかに?日本には、友好的な国があっても、おそらく友好的な諜報機関は存在しないだろう。日本政府は各国の諜報機関に対してノーガード戦法で挑んでいる。軍事力となると目先の兵器ばかりに目を奪われるが、それ以上に重要なのが一流の情報力であることは、歴史的にも学んできたはずだが。

3. 幻想の平和論
世界は平和ではない。世界中を見渡せば、どこかで戦争や紛争が起こり続ける。戦争や紛争のない時代を探せば、原始時代まで遡らないと見当たらない。平和を謳歌しているのは、日本をはじめとする特定の地域のみ。しかも、日本は自力で平和を勝ち取ったわけではない。だから、アメリカの軍事力を後ろ盾に幻想の平和論で盛り上がるのだろう。平和国家であることを自慢しながら、ますます自己イメージを膨らませるかのように。
冷戦構造時代では、まだしも大国の圧力が暗黙の監視役となっていた。現在では、テロがどこで起こっても不思議はない。核は拡散し、偶発的に核戦争を招く可能性がある。状況は、過去にもまして脅威になったと言えよう。たとえ小規模な紛争であっても、大規模な悲劇を招く可能性がある。
また、脅威は戦争だけではない。むしろ経済危機による人為的脅威の方が大きいかもしれない。近代戦では、軍事行動だけとは限らず、心理的に仕掛けてくる。戦闘前から、国民の意志をくじくような、陰険で周到なプロパガンダ攻撃を受けることもある。民族紛争には、世界世論を味方に付けようとする巧みなメディア戦争の色が濃い。紛争がある度に、PR企業が繁盛するわけだ。どこの国にも売国奴がいる。その行為にジャーナリストや識者たち自身が気づかない。彼らは、自由や平和という美しい言葉で心を癒す。しかし、それを実践するには、それなりの覚悟がいることには目を背ける。高度な情報社会では、報道屋の扇動に負けずに、自分で考えることの難しさがある。

4. 世界の警察力
冷戦構造が終結し、アメリカは自らの理念に従い、強大な軍事力を後ろ盾に世界の警察官を自認する。そして、あらゆる紛争に自主的に介入してきた。その理想主義はある意味美しい。だが、警察行動は公平性を欠くと説得力を失う。情報を隠蔽し、警察行動が世論操作されるならば、もはや正義の旗はお飾りでしかない。見事なプロパガンダ技術で司法の判断までも世論に流されれば、それだけで世界を支配できる。人間の持つ美しい理想主義は、いずれ暴走する性格を持っている。アメリカは、国家戦略の中で、あらゆる手段を使って、特定の国に疑いをかけて裁いてきた。そして、同時に汚点も残してきた。国際裁判で有罪を下すからには、論理的な説明をする義務がある。これは、国際法から個人を裁くものまで全て同じである。そうでなければ誰が警察行動を信用できようか。証拠なしで仕掛ける軍事行動は、もはや警察行動ではなく、侵略戦争である。おまけに、充分な検証なしで、一国の軍事行動を無条件に支持することは無責任であり、もはや同罪である。

5. 「国民」という都合のよい言葉
どこの国でも、政府や高級官僚は嘘をつく。これに彼らは反論するだろう。すべて国益と国民のためだと!彼らが常に口にする「国益」や「国民」とは何を意味するのか?なるほど、彼らもまた国民である。彼らを取り巻く既得権益にぶらさがった連中もまた国民である。「国民」とは、国民を欺瞞するための実に都合のよい言葉である。少なくとも、くだらない陰謀を企てるよりは、国の理性を見せる方が国益というものであろう。
「改革」という言葉にも、なんとなく魅力を感じる。だが、本当に改革する意欲があるかは分からない。いつの時代にも既得権益にしがみつきながら、都合よく制度を決める慣わしがある。制度を変えればなんとなく改革した気分にしてくれるものだ。税金の無駄遣いを撲滅すると叫びながら、相変わらず議員定数が減ることはない。最も簡単な方策ですら手がつけられないでいる。既得権益を固持しながら、名目で欺くことは政治家や官僚の得意技というわけか。改革を実施しようとして急ぎすぎると、逆に中途半端となり、既得権益がゾンビのように復活する隙を与える。官僚体質を改革することは、新規でシステム化するよりも、はるかに困難である。

6. 国債の怪奇
相変わらず、日本政府は巨額な国債を発行し続ける。これだけ乱発すれば、いつかは暴落しそうなものだが。GDP比200%もの累積負債は素人目で見てもヤバいんでないかい?そろそろ新規発行額が一般税収を超えるかも。日本の国債が世界的に評価されないのも当然であろう。政権交代して、国債発行額が増えるとはお笑いだ!そのせいか知らんが?日本の株価の動きが全般的に重い。まさか、国家が市場から制裁を受けるなんてことはないだろうなぁ?今までの国際関係は、国家間の外交によって成り立っていた。特定の国に制裁を与えるにしても、国家レベルや同盟関係で圧力をかける。しかし、これからは国家という枠組みを超えて、巨大マーケティングによる圧力が加わるかもしれない。現実に、国家や国際協調レベルの経済政策が効果を発揮できないでいる。いまや、市場経済は各国政府が協調しても手におえないほど巨大化した。
ところで、国債を発行したからといって誰が購入するのか?不思議でならない。半強制的に民間企業に請け負わせるようなことでもないと説明できない。金融機関に預けた金で、無理やり国債を購入させているようなものか?間接的に民衆の預けたお金で国債を受け負わされているならば、銀行に公的資金が注入されるのも仕方がないのかもしれない。結局、みんなの金は、政府の金というわけか。ある意味、すげーぼったくり国家である。銀行や郵貯や簡保が、巨額の国債を引き受ければ、それだけである程度の金利がもらえる。ちょいと金利を眺めてみると、現在は預金よりも個人向け国債の方が有利である。しかも、名目上は元本保証。あくまでも個人向けなので、銀行が引き受ける金利は上乗せされるのであろう。つまり、銀行は新たな顧客を見つけなくても国債を買っていれば済む、それほどの低金利時代が続いているというわけか?相変わらず政府は、資金運用能力がないにもかかわらず、国債によって巨額な資金を集め続ける。その結果、国の借金を国民に肩代わりさせる構図からは抜け出せないでいる。国債の受け皿を無理やりにでも創出しないと、政府の予算案は簡単に破綻するであろう。なるほど、再び郵貯を「国債消化機関」として復活させたいわけか。そもそも、せっかく民営化した郵政事業の人事に国会議員が口を挟むのも奇妙である。政府と金融機関の癒着は永遠に解消されないわけか。
それにしても、政界には、凡庸な、いや!凡庸未満の酔っ払いには到底理解できない怪奇な現象ばかりで溢れかえっているものだ。国会議事堂が妖怪の館に見える。

7. 地方分権の議論
どんな組織においても、混沌として運営効率が悪くなれば、強烈なリーダーシップを持った指導者の登場が求められる。だが、活力に溢れた指導者に管理されると息苦しいものだ。大組織で民主主義を機能させても、変化は少しずつしか訪れない。しかし、経済破綻に民衆は我慢できない。となれば、改革を急激に望めば、その究極に独裁者の影が映る。そこで、適切な規模で機能する政治が求められる。それが地方分権というものだろう。そこには、地方のことは地方の方が熟知しているという行政の効率化がある。国政が必要ないというわけではない。地方行政と国家行政がバランスされた時に、行政が活気付く。地方分権の議論とは、政治や行政、あるいは経済効率を上げるための、組織規模を論じることであろう。企業で言えば、分社化やグループ化によって経営効率を上げるという意味に似ている。一票の格差是正にも効果があるかもしれない。その延長上に道州制の議論も登場するが、いまいちしっくりとしない。
一つの参考となる政治モデルに、古代ギリシャの都市国家群があるように思う。それは、全ギリシャという共通価値観を前提としながら、いざペルシャのような巨大な外敵が迫れば都市国家群で対処するといった共和的体制である。ただ、論理的思考や哲学的思考が根付かなければ、体制化するのも難しかろう。
日本人には、なにかと中央にお伺いを立てる体質がある。日本は島国なので、目に見えて守られる境界線がないと落ち着かない国民性があるのかもしれない。それは企業体にも見られる。課長や部長クラスが、一つのプロジェクトをクビをかけて潰すような、自分のキャリアを縮めるような、組織の枠組みからはみ出した行動は滅多に見られない。活力のある企業では、そのぐらいの覚悟を持った管理者ほど信頼される。だが、官僚体質に染まった組織では、見事に責任を押し付けられ、注文どおりにクビになる。おそらく、その管理者はクビになって幸せであろう。
権限が委譲されても、肝心なところで中央にぶら下がろうとするのであれば、いつまでたっても分権は実現できない。地方分権を叫ぶならば、独立宣言するぐらいの覚悟が必要であろう。いずれにせよ、霞ヶ関を向いたままでは、実践的な行政ができるわけがない。

8. 「労働組合」という不思議な組織
健康保険、年金、雇用保険、退職金を会社が負担するのだから、雇い主から見れば、優秀なフリーターほど大切にしたいはず。だが、建前ではそうはいかない。正社員を解雇すれば労働組合が黙っていない。それにしても、労働組合とは不思議な存在である。ある会社では、残業を拒否した社員がクビになると、「不当解雇だ!」と叫びながらビラを配って回る連中がいた。だが、遅刻や無断欠勤も多く、そろそろクビになるんじゃない!という噂もあった。そういえば、別のある会社の冗談のような話で、みんなで大笑いした覚えがある。昔々、コンピュータを正常終了させずに、直接電源スィッチを切る女の子がいたそうな。何度注意しても一行に言うことをきかないので、課長さんがコンピュータ使用禁止令を出したそうな。その女の子は労働組合に訴えた。すると、組合の連中が大挙して「男女差別だ!」と叫びながら乗り込んできたという。課長さんは、(小指をたてて)これで会社を辞めました、とさ!
こんな連中と交渉しなきゃならんのかと思うと、出世だけはしたくないと語り合ったものだが、無駄な心配だった。たかだか数百円の組合費だが、こんなことに使われるくらいなら、払いたくないと洩らす人も多い。
平等を訴えるすべての政治家がこの類に属す。労使間のパワーバランスが偏っていた時代には、労働組合の存在意義は大きい。しかし、いまや選挙の道具と化す。「平等」という言葉ですら選挙の道具にされる。労働組合が労使関係の均衡を保つことを主旨とするならば、非正規労働者にこそ必要であろう。労働組合は、相変わらず高度成長期の幻想に憑かれながら、臨時労働者や下請け業者を犠牲にしてまで賃上げ要求をする。一流と呼ばれる企業が、高額な企業年金に固執しながら現役労働者を犠牲にする。おまけに、経営不振ともなると公的資金をたかる。金持ちが国への依存度が高いとは、これが「勝ち組」の正体か?組織への依存度を増せば、隷属的にならざるを得ない。

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