2009-12-27

もしも、アル中ハイマーな文学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな文学者がいたら...だめだこりゃ!

精神を、人間が体系化した言語という手段で完璧に言い表せるということは、人間が精神を凌駕したことを意味する。したがって、精神が、自らのボキャブラリ障壁を越えられなくて苛立つのも仕方があるまい。
ところが、だ!天才たちは、言語という手段で読者の精神を揺さぶりやがる。日常の些細な出来事の描写ですら、芸術性や独創性で仕掛けてくる。彼らには、いったい何が見えているのだろうか?


1. 文学の意義
文章は、ほとんど読み手のためにあると言っていいだろう。書き手も、いずれ読み手となる。このブログは、10年後に読み返すことを念頭に置いている。10年もすれば、人の思想や言論も変わるだろうから、当時を振り返るための記憶メディアとしたい。
ところで、言語には実に曖昧な表記法がある。言語は、伝達手段として使われる一方で、精神を曝け出す手段としても使われる。言語で精神が完璧に表現できるとは到底思えないが、巧みな文章で魅了する作家たちがいる。彼らは、限りなく抽象的な感覚を与えながら、冷静に観察すると単語一つ一つには具体的な言葉が踊ったり、詩的な音律を含んだりと、様々な感情を想起させようと仕掛けてくる。だが、その背後には、必ず論理性が潜んでいる。整然とした論理性があるかと思えば、論理を絶妙に崩すための論理性なるものが存在する。
そこで、「文学作品を作るのに体系化した黄金手法があるのだろうか?」という疑問がわく。形式的に言葉を並べたところで、感動できるフレーズが現れるはずもない。それは、天才たちの精神から自然に生まれる感性としか言いようがない。文学の意義とは、言語と感情の不変的な関係を探求することといったところだろうか。しかし、どんなに巧みな比喩を乱用しようとも、結局作者の意図から離れながら読者の個性によって調律される。よって、読者の微妙な感覚の違いを、わざわざ文学が統一することもなかろう。それは、どんな学問でも同じで、人間精神を統一することに成功した学問は未だ存在しないのだから。意義が明確にできるならば、問題ははるかに簡単である。説明がつかないから芸術の域にあると言えよう。
また、文学は、伝達手段として言語を扱うという意味で、現実的な学問とも言えよう。言語学という学問分野もあるわけだが、言語学という言葉を使うと社会学の領域にあるような印象を与える。文学や言語学は、数学や科学と明らかに違った性格がある。数学の一般的な考察では、公理から出発して定理が演繹される。対して、言語学の考察は、まず現実に使われる言葉から出発して、帰納法的に定理を発見していくことになろう。そして、どんな言語にでも当てはまるような普遍的な言語法則、あるいは文法法則が見出せるのか?これが文学や言語学の抱える基本的な課題であろうか。しかし、文章は人間精神と深く結びつくのであって、そこに答えが見つかるとも思えない。

2. 言語と精神
人間精神の本性が解明できないのに、人間の発明した言語体系で精神を言い尽くせるはずもない。人間は、精神の実存すら明確に説明できないでいる。そこで、哲学では奇妙な現象が現れる。一語多義的とでも言おうか、そこに一貫性があるのかも疑いたくなる。おまけに、作者独自の用語まで登場して、無理やり難解な文章を生み出しているかのようだ。にもかかわらず、なんとなく崇高な気分にさせるのも、そこに真理という味付けがあるからであろうか。作家たちは巧みな技法で芸術性をひけらかす。これは、自らの精神を曝け出した結果であり、文学作品に作者の哲学が宿るのも道理というものである。したがって、哲学は一般的に文学と化すはずだ。
自らの精神を表現するためには、自らの精神をどこか冷めた領域から眺める必要がある。これは、書き手から見た文章の役割でもある。物事を理解しているつもりでも、いざ文章表現しようとすると、意外と理解していないことに気づかされる。したがって、文学者は一般的に多重人格者になるはずだ。
文学の世界では、技法を無視した芸術性を顕にする。だから、意表をついて感動を与えるのだろう。だが、レベルの高すぎる技法は読者を困惑させる。言語は、意志を伝達する道具であり、平気で独自の用語を持ち出されても、共通認識がなければ読者は解釈できない。そこで、芸術家は絶妙なさじ加減で仕掛けてくる。言語体系という制約の中で巧みに鑑賞者の精神を揺さぶりやがる。
ゲーテ曰く、「制約の中にのみ、巨匠の技が露になる。」
文法や技巧を習得したところで、精神を自由に解放できるわけではない。流派があるとすれば、それは芸術家の数だけあると言ってもいい。古い格言に「文は人なり」というのがある。これが真理だとすれば、アル中ハイマーは頭が痛い。酔っ払って誤魔化す文章も人となりというものか。

3. 共通認識と会話
人間は、集団社会の中で自分たちだけが認識できるような合言葉で、互いの意識を認め合うところがある。仲間意識の誇張とでも言おうか。流行語は、時代に遅れていないかの自分の存在位置を確認するためのものであろうか。ある集団が、他集団よりも優れているという勝ち誇った意識を持とうとすれば、彼らにしか理解できない専門用語を発明して優越感に浸る。人間が、難しい知識や言葉で武装しようとするのは、単に他人よりも優勢でありたいと願っているだけのことかもしれない。世界中で普遍的な共通認識が持てるような世界共通語なるものがあれば、意思疎通という意味では便利である。だが、意思疎通が曖昧だからこそ、そこに芸術性が生まれ、精神の高まりがあると言えよう。言語は、合理性の中で変化し続けるだろうが、歴史的背景を消し去ることはできない。
会話は、話し手と聞き手の役割分担があって、互いにその役割を交換しあうことによって成立する。これは、言葉の共通認識があるからこそ、成り立つメカニズムである。言葉から共通認識が得られるということは、そこに社会性があることを意味する。もっというなら、社会性には暗黙の認識のようなものがある。他文化を研究するとは、まさしくこの点を解明することであろう。言葉は一種の記号を示すが、それだけの機能に留まらない。人間は、言葉によって自由に恣意する。したがって、言葉のニュアンスが個人によって違ってくるのも自然である。これは、人間が精神を獲得した時点から持つ性質と言えよう。人間社会が進化するということは、社会環境が変化することを意味する。となれば、そこで使われる言葉に微妙な変化が見られるのも自然である。
客観性を持つはずの専門用語でさえ、組織の文化の違いによって、微妙にニュアンスの違いを見せる。例えば、技術分野では、画像処理系と通信制御系という分野の違いでも、用語の使い方が微妙に違い戸惑うことがある。ずっーと一つの組織に依存していると、組織文化に染まっていることすら気づかない。そして、当り前のように文化を押し付けて、言葉が通じないと馬鹿にされることもある。こっちが馬鹿だから仕方がないかぁ。一方で、そのニュアンスの違いを楽しむ人々がいる。そして、会議の前に、言葉のニュアンスを確認するだけでも信頼が築けることがある。近年、登場するネット関係の用語は、専門家でも明確に説明することが難しい。厳密で客観性を帯びるはずの専門用語は、ますます抽象化していくようだ。それも、人間社会の実体がますます仮想化へ向かっていることの証なのかもしれない。いや!そこに実体なんぞ最初から存在しなかったのかもしれない。

4. 国語辞典の役割
国語辞典には、その時代に意味する事柄を記録として留める役割がある。言葉を使う時の指標でもある。だが、言語を、無理やり機械的に体系化すれば、言語の柔軟性は失われるであろう。
アンブローズ・ビアス曰く、「辞典とは、ある一つの言語の自由な成長を妨げ、その言語の弾力のない固定したものにしようと案出された、悪意にみちた文筆関係の仕組み。」
国語学者は言語の変化を乱れとして説教するが、言語学者はその変化をおもしろがっている。国語辞典を完成させた者は権威者と見なされる。まるで一種の司法権があるかのように。しかも、世間はそれが法令であるかのように位置付ける。しかし、言葉は民族の慣習や文化と密接にかかわる。時代が進化すれば、慣習や文化にも変化が現れ、それにともない言葉も変化する。となれば、国語辞典を掟とすることもできないだろう。国語辞典が優れた単語に「廃語」の刻印を押したらそれで最後、もはや一般用語として復活することは難しい。国語辞典を神のように崇めた時、斯くして言語の貧困化は促進され堕落の一途を辿るというわけか。形容詞が最も古びやすいと言われるのも、時代背景によってもニュアンスが変わるからであろう。となれば、形容詞を節約すれば、文章は古びないのかもしれない。そうはいっても、形容詞は文学の華であり、比喩的表現とも親しい関係にある。形容詞は文学的価値を高める効果もあるので、一概には否定できない。「赤い」と形容しただけでも、薔薇色の情熱を描く人もいれば、血なまぐささを思い描く人もいよう。これは、生理的な現象であろうか?アル中ハイマーはブラッディ・マリーが飲みたくなる。ちなみに、鏡の向こうの住人は、赤い顔をしながら何やらつぶやいている。

5. 音声と雑音
とっさに言葉が思いつかない時に、とりあえず擬声語のようなものを使うことがある。静かな様を「シーンとする」とか、鋭い様を「スパッ!」とか、非常に寒い様を「うぅー寒ぅ!」とか。ちなみに、酔っ払いは、イチコロな様を「メロメロ」と表現する。人間は、言葉を発する時、まず音に頼っていると言えるのかもしれない。いや、象形文字のように形をイメージする場合もある。いずれにせよ、言語は、聴覚や視覚といった人間の知覚能力から発達したと言えそうだ。ただ、音声と意味が関連付けられるのも、慣習や文化などの経験的なものであって、動物の鳴き声を表すにしても、民族によって様々な違いを見せる。
おもしろいことに、人間は音声と雑音を区別する。音楽に癒しを感じたり、雑音に不快を感じたりする。大音量や小音量でイライラするのは、入力装置の限界点近辺の問題で、なんとなく分かるような気がする。だが、音声も雑音も同じ音波である。音波という物理現象に対する精神の動きは、経験則だけでは説明できそうにない。現実に、世界的にヒットする音楽が存在する。音響効果による精神の動きには普遍性のようなものがあるのだろうか?音や雑音の感じ方には、民族性を超越したものがあるような気がする。いずれにせよ、言葉の音素は、人間が発音できる口の形と動き、あるいは人間が聞き取れる音波の範囲で限定される。結局、入出力装置の性能によって決定されるわけだ。
人間が言葉を使う場面では、何かを思い浮かべながら、何か表現できるものを探しながら言葉を選んでいる。言葉が見つからなければ、別の表現方法を模索する。即座に反応できなければ、代名詞を発したり、ついには身振り、手振りといったしぐさが現れる。エスパーならば、テレパシーやテレポートを使えばいい。そのうち認識能力が高まり、脳波が発する電磁波を認識できるようになったら、世界は静かになるであろう。

6. 感情に欠けた言葉は存在しない
森鴎外の好きな随筆に「当流比較言語学」というのがある。それは、民族に欠けている感情は、言葉としても欠けているという話である。ドイツ人は「Sittliche Entrustung」という言葉を使うらしい。直訳すると道徳的(Sittliche)憤怒(Entrustung)となるのだが、嘲笑うという意味で使うという。これを鴎外流では「義憤」という言葉に当てはめている。例えば、ある議員に不祥事沙汰があると、必ず「けしからん」と捲くしたてる連中がいる。この「けしからん」が「義憤」である。日本人はよく義憤で世間を賑わすというわけだ。だが、他人の事を言えるほどの道徳心がおありか?と問えば嘲笑うしかない。鴎外は、こうした意味の言葉をドイツ人は持っているが、日本人には欠けていると指摘している。そして、日本人はそんな感情は当り前に持っており、道徳上の裁判官になる資格を持っていると皮肉る。当時、新聞の社説や雑報に「けしからん」という文字が乱れ飛んだ光景を絶妙に表現しているわけだが、現在も状況は変わらないようだ。
客観的に論理的に説明できる人を見かければ、憧れてしまう。しかも、冷静な面持ちで渋い声で語りかければ、それだけで世論はイチコロだ。ヒトラーのような演説の天才であれば尚更。政治マフォーマンスも政治能力の一つではあるが、大衆も経験を重ねるごとに、その言葉の胡散臭さを感じていくだろう。
似たような話で、映画「誇り高き戦場」のあるシーンを思い出す。アメリカ人捕虜がドイツ人将校に向かって、ドイツ人は相手に苦痛を与えることによって性的快感を味わうと皮肉る。すると、ドイツ人将校は、サディズムの語源はフランス語でありドイツ語にはないと反論する。日本語では加虐性愛と訳すようだが、いまいち表現しきれていないような気がする。ちなみに、おいらはMだ。

7. 文章の感性とプログラムの感性
文章を綴る時には、論理的思考を働かせているだろう。だが、前後関係の論理を完璧に辻褄が合うように記述することは難しい。ここに、コンピュータプログラムを書く感覚にも通ずるものがある。プログラムは表現する対象が狭く限られているが、精神を表すには無限の広がりがある。プログラムは些細な論理ミスがあっても正常に動作しないが、文章は読者に様々な解釈をさせる自由を与える。違いは、こんなところだろうか。誤字脱字や言葉の勘違いの多い酔っ払いは、文章を書くのにコンパイラのような存在があると便利だとよく思う。言語の究極な体系化が可能だとすれば、文学がプログラミングできる日も来るであろう。そうなると、人間の精神もプログラミングできそうだ。実は、プログラムには技術者の哲学が詰まっている。プログラムの効率性や移植性や柔軟性といったすべての要素が調和した時に、信頼性と美が融合し、コード作成者に対して芸術家に対するのと同様の敬意が表される。芸術性と論理性、主観性と客観性は、プログラムの本質である。自らの失敗を振り返り、より効率性を求めた結果、細かいこだわりが現れ、美の探求へと進化する。こうした感覚は、経験則から培われるところが大きく、技術者の生き様を物語っていると言ってもいいだろう。なるほど、文章の感性とプログラムの感性には似たものを感じるわけだ。

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