もしものコーナー...
もしも、泥酔したイデオロギー論者がいたら...だめだこりゃ!
カント曰く、「多くの書物は、これほどに明晰にしようとしなかったら、もっとずっと明晰になったろうに」
イデオロギーとは、理論が巧妙に宗教レベルにまで到達した状態を言う。
1. 迷走するイデオロギー論争
イデオロギー論争は、人間社会という複雑系と対峙しながら、破壊のカオスの中でうごめく。しかし、無謀な体系化で満足するよりは、迷走していることを認識できる方が都合がよい。世界を一つのイデオロギーで説明できるとは到底思えないのだから。
資本主義の発達は、人間社会を富ませてきた。富は人間を盲目にするのか?科学界は物理法則に不確定な現象があることを発見した。解析不能とはいっても、確率論という道具を用いて計測しようと努力を続けている。数学界は算術の世界ですら不完全性に見舞われることを認めた。多くの微分方程式が解けないと認めつつも、極限に近づくことを諦めたわけではない。ニュートン力学が通用しなくなったからといって、ニュートンを蔑む量子論学者はいないだろう。ユークリッド空間が通用しなくなったからといって、ユークリッドを蔑むトポロジー学者はいないだろう。
ところが、イデオロギーってやつは、絶対に自らの立場が正しいという態度を崩そうとはしない。経済学では、相変わらず「神の見えざる御手」の信奉者と、ピラミッド造りすら容認する連中との間で、論争を繰り返す。これは、大して政策の違わない政治家同士の罵りあいにも通ずる。相変わらず、イデオロギー信奉者は過去の偉大な政治思想家や経済学者を罵りあう。自由放任思想は、貴族制や伝統主義に対する反発として生まれた。ケインズ思想には、市場経済の暴走がその背景にある。どんな思想にしても、時代背景を反発エネルギーとしなければ登場を見なかったであろう。最大の問題は、思想を崇めすぎるために歴史的背景という原因性を無視することにある。社会を良くするために考案された政治という人類の産物は、しばしば社会に悪しき作用を及ぼす。資金の流れを良くするために立案された経済政策は、リスクの高い場所から刺激が始まり、人間の欲望という領域を潤す。だが、政策の刺激が末端まで到達する前に、景気は下降局面を迎える。これが経済サイクルというものだ。規制と緩和はバランスしなければ受け入れ難い不平等を助長する。GDPのような経済成長の指標は、あくまでも総合指数に過ぎない。平均値のみが判断の基準となれば、社会現象そのものの分析を諦めたことになる。そして、結果的に社会不安を煽り、ますます社会は歪むであろう。人間社会は、いまだに自由と平等の概念が共存できないでいる。イデオロギーが胡散臭いのは、共存できることに気づかないからであろう。もし、人類が自然法則を受け入れるならば、時間はかかるだろうが、いずれ収束するであろう。それは「臨機応変」という新概念へと。
2. 資本主義の悪評
どんな政治体制であれ、その弱点を露呈すれば、旧体制を懐かしむ動きが生じる。せっかく民主化したにもかかわらず、一部の権力層の横暴な振る舞いが横行すれば、かつての独裁政権にすら郷愁を馳せる。ノーベル賞級のスーパースター集団による資本主義の醜態を目の当たりにすれば、東欧諸国で資本主義の悪評が広まるのも仕方がなかろう。社会主義体制にあって、民主化を掲げた改革派の政治家たちが、瞬時に財産を海外に持ち出したという噂は絶えない。これは民主化を偽った陰謀なのか?資本主義体制と社会主義体制の二大勢力がひしめく中、旧ソ連体制が崩壊すると資本主義が勝利したかに見えた。資本主義の恩恵である市場経済が、自由主義との組み合わせで発展してきたのは事実である。しかし、現在では市場経済の破綻が、一部の投機家によって引き起こされる脆さを露呈する。今になって、市場経済の暴走を抑制する手段で、マルクスや社会主義が見直されるとは、なんとも皮肉である。最大の問題は、どんな政治体制であれ、長期化の課程で、一部の既得権益者が蔓延り、彼らに搾取される仕組みを排除することが難しいことにある。搾取という意味では、資本家も共産主義者も似たようなものだ。これは、欲望という人間の持つ本質が絡む現象であり、どんな組織にも見られる。権力層に近い人間ほど、脂ぎった欲望や野望に飢えている。いつの時代でも、労働者階級は苦しめられる運命にあるようだ。自由も平等も人間の持つ本質であって、どちらも疎かにはできない。自由を崇めれば市場経済を暴走させ、平等を崇めれば官僚体質で腐敗する。人類の歴史は、資本主義と社会主義の双方の弱点を見事に再現してきた。
にもかかわらず、いまだに政治家たちはイデオロギー論争を繰り返す。まるで宗教論争のように互いの弱点を罵りあい、これを報道屋が煽るという構図からは逃れられない。欲望も理性的抑制も、人間の持つ本質である。おそらく、欲望という本質を認めながら、現実的に規制するしかないのだろう。いまだに人類はこの程度の価値観にしか到達できないでいる。
3. 民主主義と独裁主義
民主主義は、行動力の鈍い面倒なシステムである。なにしろ、民衆が政治権力を監視しなければならないシステムであるから。監視するからには情報の透明性が前提条件になるはず。となれば、政府や行政が情報を隠蔽すれば、どうにでも操れる仕組みとも言えるわけだ。
民主主義とは、民衆から選ばれた凡庸な人間によって、政治運営される仕組みである。独裁主義とは、自ら天才と信じる凡庸な人間、あるいは、宗教的に崇められた凡庸な人間によって、わがままに政治運営される仕組みである。どちらを選ぶかは好みの分かれるところであろう。少なくとも、悪しき方向に急激に振れないという意味では、民主主義の方がましである。しかし、政権交代がない、あるいは政権交代したところで癒着体質から脱することができないとなれば、独裁官僚制をますます強固にし、もはや民主主義が機能しているとは言えまい。いや、優柔不断な政治家よりも、優秀な官僚に任せる方がましなのかもしれない。政権が交代すれば、エリート官僚も総入れ替えするぐらでなければ、癒着を断ち切ることはできないだろう。エリート官僚たちは自らの存在感を強調するために、政権交代に影響しない中立の立場というもっともらしい弁明をする。言い換えれば、選挙で選ばれた議員に影響されることなく、民意を無視すると宣言しているようなものである。国会議員が民衆の代表であるならば、彼らは反目しあっている場合ではなかろう。
4. 共産主義の解釈
酔っ払いが解釈する共産主義とは、すべて平等で、すべての国民を幸せにしてくれる思想といったところだろうか。ひらたく言えば、「みんなの社会」にするということである。そのためには、あらゆる私有財産を没収する。私的所有の概念をすべて排除する。つまり、欲望という人間の持つ本質までも否定する。下手すると、個性をも否定しかねない。この仕掛けの矛盾は、欲望を捨てきれない脂ぎった人間によって運営されることである。そして、あらゆる裏工作がなされ、長期化するほど腐敗し、硬直した巨大官僚組織となりやすい。あなたのものは、みんなのもの!みんなのものは、権力者のもの!すべての借金は揉み消され、泥棒の概念すらなくなる。したがって、巨大官僚体制の下で堂々と、しかも合法的に搾取されるわけだ。あれ?ごく身近な国に似ていると思うのは気のせいか?強靭な理性の持ち主と自負する人々が権力の中枢に居座るからこそ、平気で搾取が実施される。しかも、彼らはすべて民衆のためだと、本気で信じている。猛烈な平和主義者が理想を崇めて戦争を招きいれるように、現実を直視しなければ悲劇となる。おそらく神様が運営すれば、素晴らしく機能する体制であろう。まだしも、人間の持つ本質を認めた資本主義の方が現実的と言えそうだ。酔っ払いの共産主義の解釈とは、所詮この程度のものである。
マルクス主義には、テキストの解釈権を党が独占したという経緯がある。これを、マルクス自身が意図したかどうかは知らん!どこぞの教会のように、恣意的に解釈されることを拒むような思想が、まともとは思えない。社会学者ヴェーバーの著書によると、マルクス主義を批判した文面が見受けられる。だが、大塚久雄氏は、マルクスとヴェーバーの類似点に着目して、むしろ批判の対象をドイツ社会民主党であると解釈していた。我が国で言えば、旧社会党系や共産党系といったところだろうか。こういう諸派も極少数派で存在する分には、資本主義を見直す意味でも、それなりに役立つのかもしれない。だが、旧社会党系には、かつての主流派にぶら下がり、一党の独走を許し、ことごとく連立政権を邪魔してきた経緯がある。今も変わらんかぁ。
よくマルクス・レーニン主義と呼ばれるが、マルクスとレーニンが同じことを主張していたのかも疑わしい。ロシア革命をマルクスの「資本論」の立場で見るのは頑固な態度のように映る。少なくとも、マルクスをボリシェヴィキと一緒に葬り去るべきではなかろう。それにしても、ロシアの代々の政治家たちの歴史評価はよく変わるものだ。ニコライ2世は、後に聖ニコライとなった。かつて父であり教師であったスターリンは、血なまぐさい怪物となった。聖者レーニンも、血なまぐさい噂は絶えない。ノーベル平和賞を受賞したからといって、後に歴史評価がどう変わるか分からない。
マルクスが、マルクス主義者によって悪者に仕立てられたのは、皮肉としか言いようがない。優れた思想にありがちな展開だ。創始者がどんなに天才であっても、その思想は凡人によって継承される運命にある。おそらく、あのナザレの大工のせがれは、噂されるほどの偉大な人物だったに違いない。お釈迦様が気の毒なのは、仏像として拝まれることである。あの偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。
世界恐慌の時代にも、共産主義がもてはやされた。というより、他人の家は良く見えるものだ。どんな社会でも巨大化すれば疎外を感じるであろう。疎外は、むしろ人口論とのかかわりが深い。哲学で疎外というと、やりきれない!自我の喪失!といった印象を与える。それが、資本主義から人間性が失われると解釈され、人間性を取り戻す意味での社会主義が生起し、その発展型が共産主義から全体主義となり、ついには完全に人間性を失うというわけか。
2009-12-13
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