2010-05-16

"そうだ、葉っぱを売ろう!" 横石知二 著

本屋を散歩していると、なんとなく心の和む写真が目に留まった。おばあちゃんのくしゃくしゃな笑顔!副題には「過疎の町、どん底からの再生」とある。
単なる事業の成功物語であれば、それもほど興味を示さなかったであろう。そこには、忘れかけていた大切な何かが暗示されているような気がする。それは、何を拠り所に生きていくかという根源的なものである。

電子メールや携帯電話に追われる煩雑な日々を過ごす中で、手段が目的化することがよくある。便利な社会になるほど、人々は手段や道具といった表面的なものに振り回される。政治のほとんどがその傾向を強め、終始表面的な議論に徹する。社会福祉や社会保障となると支援や補助金の方にばかり目がいく。
しかし、本書は、事業のあり方を通して「真の社会福祉とは何か?」を問題提起しているような気がする。成功のための事業ではなく、弱者である高齢者がいかに生き甲斐の持てる社会にするかという問題である。そこには、徹底した現場の視点がある。毎日、診療所やディサービスを利用するのが当り前となっては、生きる気力も失せるだろう。本書は、これを「気の空洞化」と呼んでいる。やがて、補助金のたかり方ばかり考えていた連中が、医療サービスを利用する暇もなく、商品の研究に余念がない姿へと変貌していく。全国で福祉センターのような箱物が続々と建設される一方で、この町では逆の現象が起きている。本書は、これを「産業福祉」と呼んでいる。人間は自らの居場所を求めて生きている。その場所を提供するのが、真の社会福祉なのかもしれない。

田舎というと、父の実家を思い出す。一人一人はとても優しくて良い人ばかりなのに、村組織となるとあまり良い印象がない。そこには、国家指導のもとで農協様に洗脳された姿がある。よそ者に対して異常な反感を持つわりには、中央から派遣された人にペコペコする。派遣された人は、特に地方に思い入れがあるわけでもないのに。選挙は宗教的な行事となり、支持者が落選すると裏切り者がいると叫ぶ輩までいる。改革的な意見はたちまち村八分にされる。こうした体質は若年層を町から逃避させる。農家の年寄りたちは高度成長時代に都会へ出稼ぎに行った経験のある人ばかりで、子供や兄弟のために生活を犠牲にしてきた。もっとも彼らは犠牲とは思っていないかもしれない。そうした光景を目の当たりにすれば、農業を捨てて経済的に有利で体力的に楽な職業に就く傾向があるのも仕方があるまい。自分の生まれた村を悪く言う人も多く、ますます農業は高齢者の産業となる。そして、主な関心事は補助金となる。国の洗脳政策に嵌ったといえば、それまでだが...
情報が少ない分、頑固にもなりがち。しかし、厳しい自然を相手取って生活をしているので素朴で逞しい。それだけに意識改革さえできれば、有望とも言える。
まさしく、本書の舞台は、このイメージにぴったりと嵌る。

本書は、著者が20年かけて成し遂げた2億6000万円規模のビジネスと、それを支える70歳、80歳のおばあちゃんたちの物語である。著者は農協の指導員として村に派遣される、いわゆるよそ者である。そのよそ者が民衆を意識改革してビジネスを成功へと導くわけだが、ビジネス規模などはどうでもいい。表面的には収入も増えて、めでたしめでたし!一般の企業家であれば、むしろそれが目的となろう。確かに、ビジネスとして成功したから美しい物語として完結できる。だが、労働者が充実できなければ持続しない。たとえ、売上を伸ばしても、経営者が満足するだけでは一時的な成功で終わる。成功の基準は目的によっても違ってくる。信念の持てるようなものがあれば、失敗しても無駄にはならないと信じたいものである。
本書は、なぜか?充実できるならば失敗したってええんでないかい!と楽観的な気分にさせてくれる。失敗ばかりしているアル中ハイマーは、成功への願望はもはや楽しけりゃええんでないかい!と諦めに変わった。だが、努力している高齢者たちの姿を見せ付けられると、自分の生き方が愚かで恥ずかしくも見える。それは、社会に役立つことの喜びをひしひしと語っているからである。なんとなく元気をお裾分けしてもらった気分である。

また、事業を第三セクターという形態にしていることにも注目したい。第三セクターというと、組織すること自体が目的となって、産業振興という看板倒れになっているケースばかり。そのほとんどが箱物行政の餌食となっている。それもそのはず、政治や行政あるいは企業の思惑を優先して、民衆の目線を無視するからである。日本社会は、政治、官僚、財界の魔のトライアングルに支配される。
ところが、ここでは第三セクターという形態を利用して目的を果たそうとしている。というより、農協という巨大な障壁があって、第三セクターにせざるを得なかったのかもしれない。著者自身が社長となって起業するという手段もあるが、あえてその方法を避けている。地方に密着しながら、農家の人々に直接出資者となってもらい、自立をうながすことを目的としているからである。こうした姿は、当り前と言えば当たり前だが、それが通用しないのが政治の世界である。純粋な目的で運営されるならば、第三セクターという形態も悪くないのかもしれない。

1. 株式会社いろどり
「葉っぱビジネス」とは、日本料理を飾る季節の葉や花、山菜などを栽培して、青果市場に出荷する農業ビジネスのことだそうな。これらの飾りを、一般的に「妻(つま)」とか「妻物(つまもの)」と呼ぶらしい。ただ、こういう商売をなんとなく考える人は多いのではなかろうか。紅葉の美しい季節に温泉旅館へ行くと、料理の中にそこで採ったモミジを添えてくれて、なんとなく癒される。こういうものを都会の割烹や料亭で出せば、商売になるだろうと思うことがある。
ただ、考えるのと実行するのとでは全くレベルが違う。最初の二年ぐらいは散々だったという。通常なら一年ぐらいで諦めそうなものだが、根気よくやったお陰でノウハウが蓄積される。日本料理には伝統的な知識が詰まっていて、単に花を添えて綺麗に飾ればいいというわけではない。客は、日常では味わえない、季節感や雰囲気を求めてやってくる。そして、葉っぱを見ただけで、どんな料理に出されるのか、その光景をイメージできなければならないという。そのセンスが、「彩(いろどり)」商品をレベルアップさせる。ちなみに、著者は連日の料亭通いでパンパンに太り、痛風になった写真が掲載される。これは二十歳の写真とは別人だ!おばあちゃんたちにも現場を知ってもらうために、高級料亭に招待した様子が語られる。しかも、すべて自腹で、結婚してから生活費を家にまったく入れず、親のバックアップで生活していたと告白している。嫁さんも文句を言わずに楽観していたそうな。一般的には親のすねかじりというと悪い印象を与えるので、なかなか公表できるものではないだろう。こうした文面には、目的のために見栄を捨てた著者の人柄を垣間見ることができる。何事も勉強するためには自己投資が必要である。意外と成功者の中には、誰かのすねかじりで下積みをしてきた人が多いのかもしれない。町の復興という目的を優先した結果住人たちを喜ばせたのだから、家族ぐるみで貢献したとも言えよう。
ただ、親のすねかじりが農家の人々にバレたおかげで、会社設立へとつながる。事業が軌道に乗り始めた頃、著者は40歳で自分の生活を見直して、農協に辞表を提出したという。それを知った農家の人々は慌てて役所に席をつくって引き留めると、今度は農協の販売ルートがボロボロになったという。そこで、農家の人々は役所に嘆願し、第三セクターという形態で会社を設立することになる。
事業が加速した要因には、マスコミの宣伝効果が大きかったという。一旦、販売が順調になれば、情報通信システムと融合できる。そこで、おばあちゃんたちにパソコンを普及させる苦労話も紹介される。ちなみに、希望者全部にパソコンを導入したことで話題になった村があったが、そこを視察すると、ほとんど使われていない実態があったという。目的が明確でなければ、どんなに便利な道具もただの箱となり補助金はばらまきで終わる。そこで、パソコンを改良して使いやすくして、POSシステムを導入したという。バーコード管理では、「ばあちゃんをコードで管理してどうするだか?」という冗談も飛び出す。今では、UターンやIターンの移住者が増え、人口減少に歯止めがかかったとさ。

2. 田舎町の意識改革
四国で最も小さい町の徳島県上勝町は、人口2000人余り、65歳以上の高齢化率48%という典型的な過疎と高齢化の田舎町だそうな。物語は、農協の営農指導者として派遣された著者が、よそ者扱いされて町民の大反発を買うところから始まる。よそ者が改革案を持ち出せば、決まって「内部事情を何も知らない奴は黙れ!」と一喝される。これは、農家に限らず、言葉の汚さに多少の違いがあるだけで、企業でも見られる光景である。集団意識の強いところやプライドの高いところほどその傾向が強い。著者も町から追い出されそうになったという。改革者のパワーは半端では勤まらない。アル中ハイマーのような根性なしは、あっさりと出て行く方を選択するだろう。
当時の上勝町は男性社会で、役場や農協で朝っぱらから酒をくらい、悪口ばかり口走る評論家になりさがっていたという。新たな作物に取り組んで失敗すると、営農指導員として責任論は免れない。ただ、素直に謝ると農家の人たちは寛容だったという。現場で共に苦労する姿は、歯の浮くような台詞で欺瞞する政治家たちとは根本的に違うことを、彼らも理解しているのだろう。
そんな時、大寒波の襲来で主要産業のミカンが全滅するという歴史的災害に見舞われる。もはや復興に待ったなし!「禍を転じて福と為す」とはこのことか。ただ、大変な危機に見舞われながら、のどかな雰囲気が漂い、純粋で野性的な光景がある。
当初、葉っぱをお金にするなんて発想は大笑いされる。そりゃそうだろう!辺り一面に落ちているのだから。そもそも、日本料理の必須アイテムといっても、「一見さんお断り」の高級料理店の感覚が一般庶民に分かるはずもない。葉っぱビジネスは、力仕事ではないので影で支えるおばあちゃんや女性たちを主役にできる持って来いの商売。しかも、秋が深まると大きな柿の木の葉が大量に落ちてきて、掃除するのが大変だったものが、金になる木へと変貌するのだ。
そう言えば、昔、祖母に、戦時中、田舎は貧乏だから山菜料理しか食べられなかったと聞かされた。そりゃ贅沢やて!と突っ込んだものだ。都会と田舎の価値観の違いってこんなものである。
成功の鍵は情熱や信念であろうが、成功の保証はない。人間は将来に対して臆病になりがちだ。人間の意識は、どん底まで落ちぶれないと、外部へ耳を傾けないのかもしれない。となれば、日本の政治はもっと追い込まれないと改革などできないだろう。少なくとも、今の政治家には全員退場してもらわなければなるまい。

3. 農協の役割
通常の農作物は、需要より多く採れると、出荷しても単価が下がり、それなりに売れるだろう。だが、「彩」商品は、需要を超えるとゴミになるだけ。使われる場を用意しないと成り立たない商売であり、生産管理と需要管理がシビアな世界のようだ。
本書は、「営農指導はいらない!」と訴える。営農指導をして、どんなに立派な作物をつくったところで、売れなきゃ話にならんと。
そして、「共済はしない!」と訴える。本来農協は、農家どうしで共済するための機関である。しかし、共済や保険よりも、まず売ることが先決であり、それが農協のためにもなるという。
こういう発言は農協の組合長からも叱られたという。なるほど、農協が政治家への影響力を増せば、なぜか農業が衰退するという構図も、分かるような気がする。

4. ごみゼロ宣言
「彩」商品は、紅葉がきれいに色づくす山奥でなければできない。水も空気も綺麗な田舎だから、調達できる品種がある。しかも無料で。
本書は、「田舎は超条件有利地域」だという。上勝町では、全戸で普及した生ゴミ処理器で自家処理させるという。上勝産ブランドの価値を高めるためには、ごみを出さない、処分場もない美しい環境が大切だから。
しかし、「ごみゼロ宣言」は、生活の安定が前提であると指摘している。福祉だ!環境保護だ!などと綺麗事を並べたところで、現実に生活の保証がなければ何もできない。廃れた町では、環境保護もできないと語られる。

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