2010-05-23

"はじめての構造主義" 橋爪大三郎 著

時々、「構造主義」という言葉にでくわす。社会学や歴史学の書籍ばかりではなく科学書ですら。その都度悩まされ、いつも読み流している。物理学の法則を「質量主義」や「物理主義」などと言っているようなものか?民族社会を分析する時、慣習や系譜などに着目して、抽象化しながら分類したり系統立てたりするのは普通であろう。偉い学者さんたちは、何かと大袈裟な専門用語を用いたがるようだ。研究の格式を高めようとするかのように。あらゆる事象を分析しようする時、構成要素を抽出して構造的に解析しようと試みるものであろう。したがって、ここで語られるものは、ごく普通の自然的な社会学に映る。
日本で「構造主義」が持てはやされたのは、1960年代から70年代にかけてマルクス主義が廃れはじめた頃だという。ヨーロッパでは50年代に流行したそうな。その火付け役になったのが、フランスの人類学者レヴィ=ストロースの著書「悲しき熱帯」だという。ちなみに、昨年、亡くなった(2009年10月31日, 享年100歳)と大々的に報じられて以来、「悲しき熱帯」を購入予定リストに挙げている。大作のために尻込み状態にあるが...

一言で「構造主義」といっても、その思想へのアプローチには様々な考え方があるらしい。それもそのはず、思想の解釈は極めて主観的であり、様々な解釈が入り混じる。後にマルクスが悪者に仕立てられたのも、マルクス主義信奉者たちの解釈がそうさせたと言ってもいい。マルクスは、「私はマルクス主義者ではない」と言ったとか...
思想観念のこうした事情もあって、本書は構造主義の生みの親と呼ばれるレヴィ=ストロースを中心に、その思考プロセスを紹介してくれる。だからといって、構造主義の具体像が見えてくるわけではない。多くの書籍や人物を紹介しながら、いろいろ考えてみてほしいと読者を励ましているかのようである。そもそも思想なんてものは、そんなものなのかもしれない。あらゆる思想を具体化すれば、必ず論理的弱点が顕になる。正確に示そうとすると、抽象的に語らざるを得ない。だから、誤解を招いたり暴走したりする。過激派が解釈すれば暴力的な革命と化し、平和派が解釈すればユートピアへ現実逃避する。共産主義者や社会主義者たちは、下級労働者を代弁するかのように装いながら、プロレタリアートの中でもエリート階級によって扇動する。
対して、構造主義は、その名前からして機械的な冷たい社会を印象付け、反人間主義の評判がつきまとう。従来の思想が主観性が強過ぎるのに対して、客観的な思想という捉え方もできそうだ。人間主義には、人類共同体のようなものを形成し、互いに協力するという思想がある。そこには、異民族や異文化どうしで対等という認識が前提にあるはず。だが、自らの思想を最高だと崇めた時に宗教化が始まり、他の価値観を否定し、極度の有難迷惑主義に陥る。本書は、構造主義こそ、人類学や言語学の方法で、共存の認識を広げようとしたものだという。

ここで注目したいのは、思想の源泉を数学に求めているところである。真理へ近づこうとすれば、人間精神にかかわる部分と宇宙原理的な部分に分かれる。西洋的価値観では、真理に近づくための二つの思考パターンがある。一つは宗教的な神で、啓示は聖書などによって定められる。もう一つは理性で、論理によって組み立てられる。論理的思考では、証明という伝統的手法がある。一つの論理的証明が完成しなければ、次のステップへは進めない。これが、理性構築の基本的思考である。ただ、数学には証明抜きでも真理として崇められるものがある。それが公理である。つまり、公理が体系化の前提となっている。一度証明された数学の法則は永遠であり、数学のみが純粋な普遍性に支配されているように映る。したがって、あらゆる学問において永遠の価値観を求めるために、科学的に数学的に分析しようとするのも道理である。しかし、社会学や経済学で、都合よく数学が乱用されてきたために、論争の武装手段となっているのも否めない。
本書は、構造主義は幾何学と論理学をルーツにしているという。ただ、あらゆる思考の源泉を遡れば、ここに辿り着くような気がする。数学の源泉は幾何学にあり、非ユークリッド空間が登場するまでは、ユークリッドが理性の象徴のようなものであった。それに匹敵するのがアリストテレスの論理学であろうか。宗教的思想と数学的理性が対立しながら、科学を発展させてきた。しかし、真理は一つしかないと仮定したところで、個人が思考すれば各々勝手な真理の像を描く。それは避けられない現実である。そこで、カントの批判哲学は、時間と空間のみをア・プリオリな認識として、理性の源泉を説明した。非ユークリッド空間が登場して数学が混迷の時代を迎えると、公理主義から形式主義へと移行する。その筆頭がヒルベルトであり、この形式主義運動から「構造」の概念が生まれたという。形式主義の重要な概念の一つに射影幾何学がある。その源泉は絵画の遠近法にある。レヴィ=ストロースの根底には遠近法があり、その思考方法には、射影幾何学から形式主義、そして構造主義という系譜が現れるという。レヴィ=ストロースは、その経歴からも哲学的素養と訓練をそなえた人物だったそうな。

1. 「構造」とは何か?
構造主義を唱える人ですら、「構造」の意味を理解している人が少ないらしい。それも仕方がないだろう。明確に定義されたものはなく、レヴィ=ストロースも比喩的な表現しかしていないという。「構造」という言葉は、多くの社会思想で登場するようだが、どれも意味合いが違うらしい。ここでは、全体構造のような実体を想像しても、あまり意味がなさそうだ。
そこで、遠近法の登場である。遠近法は、遠くにあるものを小さく、近くにあるものを大きく描くことによって立体感をもたせる絵画的手法。つまり、二次元空間に三次元空間を感じさせるように欺瞞する世界である。奥行きを見せるためには、平行線を交わるように描けば、視覚的に錯覚が得られる。これはユークリッド空間に生きる人間の感覚を欺くもので、すべての平行線が無限遠点で交わることはありえないという認識の前提がある。そもそも宗教画は、神様のような価値あるものを大きく、価値のないものを小さく描くので、遠近法のような概念がなかったそうな。リアリティを求めるには、遠近法は合理的手段である。となれば、自分を描く時に自らの存在位置を意識しないわけにはいかない。人間の認識は、主体を客体として描いたり、客体を主体として描いたりする。視点の位置が変われば、正方形もいろいろな形に変形して見える。音源の位置を仮想的に与える擬似ステレオや擬似サラウンドも似たような感覚がある。まさしく、違って見える図形を一つの変換群として抽象化するのが、位相幾何学や射影幾何学である。この位相変換群が「構造」というものらしい。つまり、異民族や異文化を理解するとは、視点を変えて観察するということである。それは、異民族や異文化を構造的な要素に分解して再構築すると、どの文化も似通った形で再現できるという意味だろうか?そして、分解できる要素は、言語学的あるいは生活様式などに現れるということであろうか?ただ、生活様式や慣習を抽象化して、あるパターンを見出そうとする試みは、何も真新しい手法には感じない。しかし、レヴィ=ストロースの特徴は、「構造」の源泉を民族の神話に求めているという。

2. 構造と神話
神話には、宗教的な性格や思考の流れの法則のようなものが現れやすい。日本人は「水戸黄門」のような正義と悪がはっきり分かれていて、苦労の挙句に最後には正義が勝つというワンパータンを好む傾向がある。英雄伝説やおとぎ話には、民族固有の物語もあれば、似通った物語もある。似通った物語には、人類共通の価値観のようなものがあるのだろう。構造主義には、あらゆる民族が持つ神話をなんらかの置換群として抽象化できるという考え方があるようだ。とはいっても、正方形の要素は四つの辺や角で明確であるが、神話の基本要素となるとイメージが難しい。とりあえず、喜怒哀楽といった感情の要素を思い浮かべてみても、どんな時に喜ぶのかも価値観によって違う。共通意識として、親しい人が死ねば誰しも悲しむだろうぐらいなものであろう。だいたい神話自体が主観性が強く、そこに数学的構造を持ち込むのだから、なんとなく胡散臭い気もする。神話の視点を変えるだけで、同じように見せながら、抽象化するなんてことが可能なのだろうか?主観的思考を、角度を変えながら射影幾何学的に眺めると、客観的思考に見えてくるのだろうか?実は、主観も客観も人間の意識が勝手に区別するだけのことで、そんな区別すら抽象化できるのかもしれない。主観的思考を客観的要素に解体するというのだから、宇宙人的な変人的な発想である。レヴィ=ストロースは変人なのか?天才とは一種の変人なのだろう。

3. 音韻論
20世紀の言語学はソシュールに始まるという。ソシュール以前、言語学は歴史的研究に目を奪われていたが、ソシュールは言葉の意味に歴史はあまり関係がないという見解を持っていたという。
言語学は、音韻論、統語論、意味論の三つに分類されるという。音韻論は、言語がどんな音組織で形成されるかを分析する。統語論は、文法のことで言葉のつながりや配列の規則性を分析する。意味論は、意味として理解できる仕組みを分析する。ソシュールは、言語を記号システムとして捉えることで、音素を発見したという。音素は周波数で決定されるので、物理現象でも説明できそうなものだが、そう単純ではない。同じ発音でも人によって微妙に違う。一人の発音でも年齢を重ねると変化する。なんとなく音声認識とも関係がありそうだが、音韻論は音響学ではない。言語学にとって大切なのは、物理的な音の区別ではなく、人間がどのように区別するかだという。ソシュールは、恣意的な区別があると考えたという。確かに、同じ音でもまったく意味が違う単語がある。「酒」と「鮭」のどちらも美味いが、酔えるか酔えないかの差は大きい。人間の発声器官や口の形態は物理的に似通っていて、発声できる音や聞くことのできる周波数には限界がある。
ヤーコブソンは、二項対立の原理を取り入れたという。音組織は対立システムなのだそうな。ここでは、母音と非母音、子音と非子音、鼻音と非鼻音、密と散、無声と有声...といった対立性が示されるが、ちょっと強引やなぁ。ヤーコブソンによると、幼児が言葉を習得する音の順番も決まっているという。母音ならば、a,i,u、子音ならp,t,kで、これが母音三角形と子音三角形というものらしい。周波数のエネルギー分布で、密と疎、鋭と鈍の二つに軸で表現すると、見事に三角形を示す図を紹介している。この組み合わせは世界中で共通なのだそうな。

4. 機能主義人類学
レヴィ=ストロースは、ブラジルで原住民のナンビクワラ族やポロロ族などのインディオを調査した。そして、世界中の民族で、親族の基本構造に着目したという。ちなみに、親族とは、日本の親戚とはまったく違うもので、家族を超えた集団的特徴が生活様式や祭祀などに現れるという。アフリカでは親族の見事な枝分かれ構造が見られ、中国や韓国にも宗族や門中といった親族組織があるという。こうした親族組織は、日本ではあまり見られないそうな。日本人の民族系統でいろいろな説が入り混じるのも、そのせいかもしれない。
習慣や制度や宗教が、社会でどのように役立つか、その関連を「機能」と呼んでいる。つまり、「機能」とは、何かに役立つという意味で、目的と手段のかかわりを分析することである。機能主義人類学とは、人類学の伝統的な伝播主義や歴史主義とは対立する立場にあるようだ。構造主義も、歴史法則に支配された伝統的な思考とは一線を画し、機能に着目するそうな。しかし、機能主義や構造主義の弱点は、機能一点張りなところにあるという。目的と手段の関係は一列に並んでいるとは限らず、回り回って循環したりする。理由もなしになんとなく行動することもあり、すべての生活様式を目的という観点だけで説明できるものではない。レヴィ=ストロースは親族だけを研究しても、解決されないと考えたという。その機能的目的も、所詮ヨーロッパ的価値観でしか測れないからである。ヨーロッパでは、植民地支配能力から普遍的な価値観を持った民族だと自負していた時代である。

5. インセスト・タブー
近親相姦の禁忌という現象はどんな社会にも見られるという。昔から、遺伝子に悪影響を及ぼすという生物学的な知識があるわけではないが、無意識に獲得した普遍的な価値観のようなものがあるのだろうか?おまけに、父方の従兄弟は禁止で、母方の従兄弟なら奨励する部族も多くあるという。オーストラリアの原住民の一部には、婚姻クラスなるものがあって、ややこしい規則に従って結婚相手を決める風習があったとか。同じ近親相姦でも、その範囲は民族によっても様々というややこしい事情があるようだ。そういえば、英語でbrotherと表現しても、兄と弟の区別がなく混乱しそうだ。日本語のイトコにも、従兄弟と従姉妹があり、従兄、従弟、従姉、従妹と書くこともある。近親を呼ぶ時の抽象化は民族風習とも関係するのだろう。

6. 親族の基本構造
レヴィ=ストロースの仮説には、「親族は女性を交換するためにある。」というのがあるという。おっと!フェミニストから刺されそうな発言だ!
人間は生活を豊かにするために、物々交換から貨幣を手段とした取引など様々な交換システムを発展させてきた。そして、交換物品の価値に注目し、がらくた品を交換しても意味がないと考えるようになる。その一方で、お歳暮やお中元など心をこめるという風習が残る。交換する物品が重要なのではなく、交換という行為そのものが重要と考える風習は、様々な部族で見られるようだ。そして、部族の交流では人間自体が交換対象になる。贈り物の媒体も女性である場合が多い。この価値観は、戦国時代に、敵国どうしで血縁関係を結ぶことにも通ずるものがある。女性が他社会との交流の手段だとすれば、そこにインセスト・タブーという価値観が隠されているという仮説も成り立つかもしれない。考えてみれば、妻も姉妹も同じ女性なのに、姉妹は生理的に受け付けないなんて理屈も不思議である。だが、社会的交流の観点からすると、近親で結婚すると効率が悪いことになり、必然的に姉妹との結婚を避けるだろう。嫁に出すだけでは自分の種族が亡ぶので、迎え入れる必要もある。そして、人間社会を維持するために、必然的に種族が循環することになる。なるほど、女性が社会形成の根本を担っているという解釈もできそうだ。
しかし、だ!そもそも異なる部族で交流する必要があるのか?交換や交流には、信頼関係という根本原理が働くはず。そこには、種族の共存という本能が隠されているのだろうか?となると、国際結婚も意義深い。あるいは、単なる好奇心かもしれない。そもそも、必要性や目的といった認識がないのかもしれない。交換の動機には、利害関係といった意識のない純粋な時代があったのかもしれない。純粋な生き物は、ひたすら無意味を実践することに苦痛を感じないだろう。高度な文明社会は、なにかと目的意識に結びつける価値観がある。そして、交換システムの循環思考には、「情けは人の為ならず」という原理が働く。結局、他人に情けをかけておけば、巡り巡って自分に報いが来るというご都合主義に陥るのか?目的意識を持ち出したがために利害関係を認識するとは、なんとも虚しい。

0 コメント:

コメントを投稿