2010-08-22

"私の建築辞書" 石井和紘 著

実家の本棚になぜか?こんな本があった。しかも、著者のサイン入りで、親父の名前が記される。
20年ぐらい前に贈られたものらしい。おいらの地元北九州市で著者が建築文化賞を受賞した時のものであろうか?ただ、ページが綺麗なままで読んだ気配がない。これは失礼だ!代わって息子が読むことにしよう。

冒頭から、「部分礼讃」と題して、次のように始まる。
「建築という概念が、永い歴史を通じてでき上がって来て、さらに未来へ向けて変遷していくように、部分も実はそれと同じ大きな河の流れとなっている。部分の分類、その大項目から小項目への展開に永い歴史の時間が方法を形成した。それは部分の呼び名を通じて言語の中に組織化された。歴史を通じてつくり上げた名称は、その物語の内容からでき上がっている。だから例えば、名称としての「窓」と、機能的言語としての「開口部」では大きく違うのだ。窓という言葉がどれだけ多くのことを語ってきたろうか、そして窓という言葉にどれだけの思い入れが託されて来たろうか。それがまた逆に窓という名称に底辺を与えてきた。民族を越えて地球規模での底辺である。人間の頭脳の中には、多少の違いはあるが、地域的な言語よりももっと国際的なこのような建築言語が存在している。その建築言語は人間の頭脳の中で、一般言語の場合の辞書に相当するものに基づき、建築としての文章を成立させている。」
アル中ハイマーは、このフレーズにいちころだ!身近に、こんなに心を動かされる作品が埋もれていたとは...今宵は、間違いなく熟成スコッチが合う。

建築物とは、人に居場所を提供する一つの空間といったところであろうか。この幾何学的な構造は、公共の場や個人の住まいといった目的のための物理的機能を与える。建築家は、部分を組み合わせて構成力を発揮し、建築物として完成させる。だが、それだけではなかろう。
建築物は、精神に癒しの空間を与える手段でもあり、いわば精神の居場所を提供する。単純で機能的に見せるかと思えば、凝った装飾には心を動かす何かがある。一見機械的な配列にも、多くの詩的要素が組み込まれる。建築家とは、建築物を通して語る詩人なのか?静止した物体であるにもかかわらず、そこに物語を刻み、あたかも動画のような幻影を見せるところに芸術家の凄みがある。建築家は、建築物だけに留まらず、家具や装飾あるいは庭や門構えといった外郭部にも気を配り、芸術の総体として完成させる。精神の解放が現れるところに、芸術が宿るというわけか。
ガウディは、キリスト教精神の象徴としての建築物を完成させようとした。そして、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となり、建築家のみが総合的芸術作品を完成することができると語った。

本書は、窓や屋根や壁などのプリミティブな建築要素が何を語っているのか?あるいは、建築物の構成、建築そのものが何を語っているのか?といった建築の総体を辞書形式で物語る。そして、周辺環境や自然環境との同化といった観点から、建築の意義のようなものを語ってくれる。
言うまでもないが、建築物は人工物である。それは、人間が存在するための合目的性を持った空間を提供する。一方で、海や山や川といった自然には、合目的な造形を超越したものがある。どんなに人工物で精神を凌駕しようと試みても、偉大な自然に敵うものではない。しかし不思議なことに、ピラミッドのような古代遺跡物には、人工的であるにもかかわらず、自然と同化した超自然美といったものがある。また、信仰など持っていなくても、和める宗教的建造物に出会うことがある。歴史的建造物に、なんとなく精神を安心させるようなものを感じるのはなぜか?人工物もまた、永い年月をかけて自然に帰するということか?ただ、建築物は一度建ったらその場に固定される。時代とともに周囲が変化すれば、もはや周囲と同化することも難しい。
科学の発達が、宗教への依存度を低くし、建築様式を変化させてきた。その過程で見られる生活様式の変化は、一種の合理性に基づいている。マンションのような高層ビルは、人口密度の高い都市部に現れた合理性である。だが、機能的合理性が、精神的合理性と合致するかは別である。精神の宿らない人工物はやがて淘汰されていくのかもしれない。歴史的建造物はそれを教えてくれているのかもしれない。

1. 怨恨としてのシステム
「システムは単体的で蠕動的であり、しかも粘液質である。意味は軽く、まといつく花粉である。花粉をまぶしたところで何になろう。システムの否定は自己否定と同義である。...
彼岸とは左へ左へと回り回って、遂に到達した対岸と考えるべきである。絶望の淵をはさんだ向こう側、夕陽をあびる懸崖の上にある。つまり、同時性として彼岸と此岸を同時に歩ける者には此岸しかあり得ないのであって、彼岸と此岸を同時に支配しつつ、一瞬その断崖に身を投げる発条(バネ)を持つ者だけが変質し得るのである。技術とはその奇跡である。その発条(バネ)に鈍色(にび)の怨恨が宿る。怨恨とは恐怖である。...
地べたが此岸だと思える者もまた、実はその意識を後生大事に抱いているに過ぎない。その無傷の発想をこそ恐れなければならない。認識が遂に彼岸か此岸かという分岐にとどまる時、それは内側へ内側へと折れ込むことによって恐怖を避けようとする人間主義となる。なぜ懸崖に立っているのかということよりも、ただただ手のひらと杖の間しか現実ではないのである。それは按配のデザインを生む。按配のデザインにおいて、システムは逆に単純となる。それは人間性、個の重視という名を借りて、逃げ場、見せかけとしての襞(ひだ)をつけたにすぎないし、閉ざされた体験への偏執であり、破り得ぬこだわりの妄想である。それは、組み合わせや寄せ集めによって、ぼかしまとめていく生け花の方法である。」
これは、システムを「按配を越えた怨恨」として語ったくだりである。本書には、こうした解釈の難しい文章が多いのだが、なぜか?癒される。おそらく文学的過ぎて、おいらの認識能力をはるかに超えた領域にあるのだろう。
ところで、「システムへの怨恨」とは何か?芸術的精神には、些細な部分にまでこだわりを見せるような、狂気に満ちた執念がある。精神が断崖まで追い詰められるにもかかわらず、単純化や合理性といった実践的な手段に逃避するしかない。実践への恨み、手段への恨み...結局、人間は妥協の中で生きるしかないということか。

2. 自然主義と芸術家のエゴイズム
芸術の世界では、よく自然主義という言葉が使われる。建築物もまた、自然と同化してこそ、その存在に重厚感を与える。だが、この言葉には、実に微妙な意味合いがある。いくら自然と言ったところで、芸術には人間の恣意的操作が加わるからだ。つまり、見えるものと描くものが違うことになる。芸術家にしか見えない領域もあるに違いない。哲学的に解釈すれば、素直に精神の感じるままに描くことができれば、それもまた自然主義ということになるのだろう。建築物に芸術が現れれば、そこには建築家の精神が宿る。自然との同化とは、精神との同化も含まれ、建築もまた芸術家のエゴからは逃れられない。エゴには、個人の実存を信じたいという願望が込められる。人間精神が自己矛盾に陥る根源は、エゴイズムにあるのかもしれない。
となると、芸術が精神を曝け出す場とすれば、エゴを前面に押し出してこそ、自然主義ということになりはしないか?人間社会ではあらゆる個人の不愉快なエゴが渦巻く一方で、芸術家たちのエゴは鑑賞者に自然観を与えてくれるから不思議である。エゴが自然と同化した時に違和感がなくなるのだろうか?

3. 空間への思い
昔、マンションに住んでいて、天井が低いというだけで発狂しそうになったことがある。今では、殺風景な広いベランダがお気に入りで、正面に見える山を眺めながら飲む酒が、これまたいい。サラリーマン時代には、仕事に集中するために有休をとって温泉旅館に籠ることもあった。おいらは、思考する場を結構気にする方かもしれない。なにしろ気分屋であるからして。
また、住まいへの思いは、なんとなく潜在的に持っているような気がする。自分の生まれた家を、知らない人も少なくないだろう。おいらは、どんな家に生まれたかを知らない。だが、そこで出会った人々や環境などを、なんとなくイメージする。単に写真から疑似的に思い浮かべるだけなのだが、奇妙にリアリティがあるから不思議だ。一般的にマイホームに夢を描く人も多いだろう。それは、拠り所にできる居場所のようなものを求めているのだろうか?あるいは、自己の存在を実感したいという願望であろうか?
芸術的な要素のある空間には、精神を創造性に富ませる効果があるように思える。ポール・ヴァレリーは、地中海周辺に住むことが芸術的精神を導く、といったことを語っていた。バルセロナに集中して作品を残したガウディは、その地が地中海に面していることを強調していた。彼らの精神には、地中海の自然美に憑かれた芸術家の思いを感じる。偉大な数学者や科学者たちが語る自然的な光景にも、住んできた環境への思いが感じられる。いや、天才たちには、平凡な光景も芸術の領域で認識できる才能があるだけのことかもしれない。建築家の精神は、ひとことで言えば、この空間への思いに尽きるのであろう。空間が精神と結びついた時、そこが精神の救済の場となろう。

4. 公的立場と見栄
建造物には、「見る」、「見られる」の関係があり、公共建造物には建築者と鑑賞者の間で一種の信頼関係があるという。建造物には見栄や外聞があり、公的な立場がある。個人の家には、他人の家と比較しながら自分の幸福を確認する役割もあれば、個性の主張の場でもある。六本木ヒルズに事務所を構えたいと願うのも経営者たちのステータスという見栄であろう、などと発言すると、酔っ払いの僻みにしか聞こえない。
歴史的な公的建造物には、その時代の征服者たちの権威、あるいは民衆の精神を征服しようとした見栄がうかがえる。所詮、公的立場とは、見栄に支えられた欲望に過ぎないのかもしれない。そして、芸術的立場とは、ひたすら私的立場を追求することになるのだろう。

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