2010-08-29

"マネジメント 基本と原則" Peter F. Drucker 著

暑い日が続くと、ヤル気が萎えて漠然と本棚を眺める。そして、なんとなく読み返したくなる本に目が留まる。毎年この時期はそんな気分になるようだ...
本書に出会ったのは、10年ほど前であろうか。ドラッカーを凌駕できるほどのマネジメント本を見つけるのは難しい。これは、マネジメント手法について体系的に語ったものでもなければ、何らかの結論を出すものでもない。単に問題を提起したものに過ぎない。しかし、それ以上に何ができようか。人々は安易に結論に飛び突く習性がある。世間はよほど忙しいのであろう。だが、具体的な方法を明記したもので役立つものは、あまりない。
カント曰く、「多くの書物は、これほどに明晰にしようとしなかったら、もっとずっと明晰になったろうに。」

マネジメントという言葉が脚光を浴びだしたのは、20年ぐらい前であろうか。いまや、企業戦略のみならず、軍事戦略、政府機関、行政機関といったあらゆる組織、はたまた自己管理といった広範囲で、最重要とも言うべき位置にある。マネジメントは、人間のかかわる所に必ず存在すると言ってもいいだろう。それは、極めて社会学的な領域にある証である。しかし、社会が複雑系を彷徨するように、人類はいまだ具体的で体系化したマネジメント手法が見つけられないでいる。それでも、基本的な原理や思考の方向性があってもいい。まさしく本書は、その哲学的思考なるものの指針を示してくれる。そして、その基本と原則は、企業、政府機関、NPOなどのおかれた国、文化、状況に応じて適用しなければならないと語る。
「基本と原則に反するものは、例外なく破綻する。」
その根本的な目的は、思考停止に陥らないため、あるいは、革新的な検証を怠らないためといったところであろうか。変化には必ずリスクがともない、人間はそれを恐れる。だが、停滞することもまたリスクをともなう。もはや安住できる場所は墓場にしかない。

「マネジメントの意義とは何か?」仕事をしながら、ずーっと考えさせられてきたような気がする。本書には、「われわれの事業は何か?何であるべきか?」といった言葉があちこちに鏤められる。マネジメントとは、根本目的を自問し続けるということであろうか。そんなことは、マネージャの肩書きがなくても、末端の担当者も考えている。誰でも各々の立場で意思決定を行いながら行動しているのだから。ただ、組織にとって、統一的な意思を定義しておかなければ、総合的に効率的な生産性を求めることはできない。
現代社会が、組織社会であることは間違いない。組織を通じて働き、組織に生計を賄ってもらい、ますます組織への依存度を高めるであろう。その一方で、ベンチャー企業を立ち上げたり、「組織などクソくらえ!」と叫ぶ連中がいる。おいらもその一人だ!そこには、思考の硬直化を恐れた官僚的風潮への反発がある。だが、いくら独立心旺盛でも、どこかに属さなければ生きてはいけない。
では、組織の目的とは何か?それは、人間を建設的な方向へ導くことであろうか。生きる喜びを与えるといったことであろうか。組織が衰退する最初の兆候は、ヤル気のある有能な人材に訴えるものを失うことであろう。マネジメントが機能していない組織はあっても、マネジメントのない組織はありえない。自己実現のため、自己形成のため、ここにマネジメントの正当性なるものがあるような気がする。本書は、マネジメントの権限の基盤となりうるものは、理念的原理であると語る。知識労働者の動機付けは、ボランティアのそれに似ているような気がする。尚、ボランティアとはタダ働きのことではない。

「マネージャの仕事とは何か?」専門家は、高度な専門用語がお好きだ!だが、マネジメントは人に理解させてはじめて機能する。そうでなければ、単なるコンサルで終わる。ちなみに、コンサルとは混乱する猿のことらしい。
専門知識を統率しながら実践するところに、マネジメントの醍醐味がある。現実ばかりに目を奪われるのではなく、将来像をも視野に入れて、総合的な調和が求められる。
現実には、マネージャは多くの雑用に追われる。管理を必要としない優秀な人材よりも管理を必要とする人材との対話に時間を費やし、統計分析用の情報収集や、顧客の相談、上司への説明などに時間が費やされる。だが、チームを機能させるためには必要である。なにも、目標を設定するだけが、マネージャの仕事ではないのだから。その意味で、マネージャの仕事とは、人間精神という極めて難しい資源を相手取った仕事と言えよう。だが、凝った管理手法を駆使したり、ツールを導入したりと、やたらと形式的な方法に頼るマネージャを見かける。心理科学にでも憑かれたように。
確かに、管理の労力にも効率性があるはず。だが、形式的な管理で人間精神を相手にできるのか?そもそも管理が必要なのか?チームの目標を設定し、哲学的な共通意識を根付かせれば、特に管理など必要ないように思える。メンバーの感情や好き嫌いに気を使うような組織は、それだけでストレスとなる。優れた組織は、目標へ向かうための議論は旺盛でも、人間関係に気を遣うことはあまりない。管理は、仕事の情報管理ぐらいにして、なるべく単純に生きたいものである。

1. 「企業 = 営利組織ではない」
経済人に「企業とは何か?」と問えば、「営利組織である」と答えるであろう。収入が生活の手段であることに疑いはない。だが、利潤動機だけで組織されることに何の意味があるのか?経済学的に言えば、「利潤とは、物を安く買って高く売ること」に過ぎない。目的は自己形成にあるのであって、売上はその手段に過ぎない。
本書は、利潤動機が利益そのものの意義ですら間違って神話化すると指摘している。そして、企業の本質、機能、目的に対する誤解を招き、利益と社会貢献は矛盾するという通念さえ生まれるという。確かに、利潤動機と利益をごっちゃにしているケースをよく見かける。マーケティングは顧客の欲求から始まる。企業は新しい生活様式を提案して新製品を提供する。しかし現実には、無理やり民衆の欲求を煽りながら強迫観念を植え付け、押し売りのような商売戦略が蔓延る。知識は、正しく適応された時に初めて生産性を上げ、悪用された時に最も社会の害となる。
「最近の企業人は、利益について弁解ばかりしている。だが、利潤動機や利潤極大化などのナンセンスを言っているかぎり、利益を正当化することはできない。社会及び経済にとって必要不可欠なものとしての利益については、弁解など無用である。企業人が罪を感じ弁解を感じるべきは、経済活動や社会活動の遂行が困難になることであり、利益を生むことができなくなることである。」

2. 「真摯さ」という資質
「真摯さ」と言うと、なんとなく照れくさくなる。いや、胡散臭い。政治屋が弁明のためによく使う言葉だから。本書は、マネージャの根本的な資質は「真摯さ」にあるという。愛想よく、人を助け、人付き合いをよくする、といったことが、資質として重視する風潮があるが、それだけで充分ではない。現実に、うまくいっている組織でも、手助けもせず、人付き合いの嫌いなボスがいる。とっつき難く、わがままなくせに、誰よりも人材を育成しているオヤジがいる。こういう人は、部下に一流の仕事を要求すると同時に、自らも一流の仕事を課す。仕事に対して、感情論に動かされることがなく、論理的な説明で合理的に評価しようとする。ドライにも見えるが、余計な雑念に振り回されない信念のようなものがある。これが「真摯さ」というわけだ。優しくて人が良く、それでいて保身的な管理者ほど厄介なものはない。仲良しグループを形成することが目的ではないのだから。
本書は、真摯さを絶対視して、初めてまともな組織になると強調する。そして、優秀なメネージャは、無知や無能、態度の悪さや頼りなさには寛大にいられるが、真摯さの欠如は決して赦さないという。
「真摯さ」を定義することは難しいが、失格な態度は定義できるという。
・真摯さよりも、頭の良さを重視すること。
・何が正しいかよりも、誰が正しいかに関心を持つこと。
・自らの仕事に高い基準を設定しないこと。
また、部下に脅威を感じさせる者を昇進させてはならないという。脅威を与える人間は人間として弱いから。確かに、知識もさしてなく仕事ぶりもお粗末で、判断力や行動力が欠けていても、無害なマネージャがいるにはいるが...
本書は、真摯さを欠くと、組織にとって最も重要な資源である人材を破壊し、組織の精神を堕落させるという。

3. プロフェッショナルの倫理
市場経済の暴走で、多くの場面で企業倫理が問われる。しかし、そのほとんどは倫理以前の問題であろう。責任が与えられるところには、権限が与えられるのと同時に義務が与えられるのは自然である。本書は、古代ギリシャの名医ヒポクラテスの言葉を引用する。それは、「知りながら害をなすな!」である。
プロだからといって、必ず良い結果が保証されるわけではない。せいぜい最善を尽くすことぐらいしかできない。良い結果を約束できるということは、既に経験済みか、仕事の質がそれほど高くないことを意味するだろう。プロたるものは自立性を持つ必要があるという。顧客に支配され、監督され、隷属してはならないという。マネジメントは、自分の知識や判断で意思決定するという意味では、私的な活動である。だが、私的な利害関係で動くものではなく、あくまでも公的な利害関係で動くことになる。これこそが、自立性というものか。言い換えれば、プロたるものは、自立した存在として、政治やイデオロギーに屈しないことと言えよう。業界で不評を買うとの理由から、適切な解決策を講じないマネージャこそ「知りながら害をなす」というわけか。しかし、政治屋や報道屋は、あらゆるタブーから目を背ける。まさしく「知りながら害をなす」の好例である。

4. 意思決定
問題の解決策は、人によって答えが違うのはなぜか?それは、問題認識に違いがあると指摘している。したがって、どのような認識の違いがあるかを明確にすることが、意思決定の第一歩になるという。間違った問題意識に対する答えほど有害なものはない。となれば、意思決定は見解から始めることになる。
本書は、異なる見解や意見を奨励し、同時に見解を出す者に対して、その妥当性を徹底的に考えることを求めなければならないという。そこに意見の対立があって結構!意見の対立を見ないということは、思考が不充分とも言える。そもそも、意思決定が必要なのかも吟味する必要があろう。意思決定で二股をかけるケースすら見かける。だいたい責任逃れの思惑が潜むのだが。
意思決定では、責任の所在を明確にしなければ機能しない。その意味で民主主義的ではないのかもしれない。民主主義をフル稼働させては、敏速な判断力が発揮できない。意思決定にはリスクをともない、それは判断力への挑戦であり、人間の防衛本能への真っ向勝負であろう。

5. 仕事と労働
仕事は生活費を得るための手段であるが、自己形成の延長上に仕事が位置しなければ意欲は持続できない。強制的で権威的なところに、効率的な生産性は期待できない。
労働人口は、肉体労働から知的労働へと移ってきた。人間は思考する生き物だから、自然の流れなのだろう。しかし現実には、機械設備と単純作業者とでコストの天秤にかけられ、臨時労働者に機械になるように強いる。部下を奴隷化するマネージャも少なくない。精神的に支配しようとしても馬鹿げているのだが。本人にその意図がなくても結果的に、企業間あるいは企業内の政治力学によって奴隷化するケースも珍しくない。
本書は、仕事と労働は違うものだと指摘している。仕事は客観的に存在するものであるが、労働は人間の本性であると。
「仕事が生産的に行われても、人が生き生きと働けなければ失敗である。」
近年、かつての終身雇用型体質を悪のように言う風潮がある。だが、一概に生涯に渡って職場が保証される仕組みが、革新精神を妨げるとも言い切れない。少なくとも、この社会体制が、世界二位の経済大国にまで押し上げた事実は認めなければなるまい。アメリカ型の競争社会が、救いがたい格差社会を招いていることも事実である。年功序列が機能すれば、年下の部下を育てる義務という責任を負うことになる。責任が存在するということは、そこに生き甲斐を見出すことができる。
一方で、居場所が保証された職場が自己啓発や向上心を怠る風潮を生み、無能者を忠実さだけで昇進させるという慣行がまかり通る。しかし、競争の原理が働いても、経済情勢が不安定となれば、意欲よりも所属することを優先して、結局は革新的精神の妨げになる。
となれば、終身雇用型自体が悪いのではなく、どんな体制や体質も長期化の過程で腐敗する原理が働くということになろう。いずれにせよ、いかに労働者に自由な精神と革新的な精神を持続できるかが鍵となりそうだ。

6. 社会的責任と権限
スローガンに「社会的責任」や「社会的貢献」などを謳っている企業は実に多い。にもかかわらず、無責任で貪欲な企業は多く、不況ともなれば手段を選ばずひたすら組織の存続だけを目論む。そして、人材の回転が激しい社風ができあがる。綺麗事だけで生き残れるものではないが、永続できるものでもない。
本書は、組織が社会に与える影響は、間違いなくマネジメントに責任があると指摘している。世間で騒がれる社会的責任というものは、世論の関心事と深くかかわる。では、世論の関心事でなければ、社会的責任は発生しないのか?企業に課せられる社会的責任には限界がある。企業に過剰な責任を負わせれば、産業を維持することも難しい。どこかで無責任的なところがなければ、人間は生きてはいけないだろう。責任を負う者が権限を要求するのは当然である。責任と権限が共存しなければ、意思決定はできないのだから。社会的責任を負うということは、社会的権限を要求することを意味する。しかし、権限が要求されるところに、必ず責任があるかは疑わしい。人間社会には、越権と無責任が共存する。本書は、企業が責任を要求された時は、必ず「権限を持っているか、持つべきか」を自問せよ!という。
「最大の無責任とは、能力を超えた課題に取り組み、あるいは社会的責任の名のもとに他から権限を奪うことによって、自らの特有の機能を遂行するための能力を損なうことである。」
権限を持つべきではないところに、あえて責任を持つということは、権力欲のなにものでもない。能力がないのに、安易に仕事を受けることも無責任であろう。だからといって、挑戦を避けていては革新的な精神は育たない。企業でも個人でも、能力の限界を見極めることは難しい。やってみなければ、自覚している以上の能力を引き出すこともできない。社会的責任と自己能力の限界の按配を見極めるところに、マネジメント能力があると言えよう。そして、能力と価値観の限界が、社会的責任の範囲を限定することになる。

7. トップマネジメントと組織構造
「完璧な組織構造などありえない。せいぜいできることは、問題を起さない組織をつくることである。」
組織の原則は、指揮系統を短くすることであるという。深い階層は、組織内の相互理解と協調性を困難にする。複雑な組織構造は、総合的な視野を奪い、視野の狭い管理職を大量生産することになる。組織構造は、あくまでも目標達成のための手段であるが、それ自体が目的化することはよくある。わざわざポストを設けるために、組織構造を細分化したりと。純粋に課題や成果に取り組む時間を奪い、組織そのものが問題となってそれに振り回されると悲劇だ。いや、喜劇だ。
本書は、組織構造の重要な位置付けにトップマネジメントをあげている。マネジメントには様々なレベルがあるが、トップマネジメントが通常のマネジメントよりもはるかに難しいことは、より長期的でより総合的な視野が求めれらるからである。責任の重さも半端ではない。となれば、組織の発展というよりは、組織の維持に重きが置かれるだろう。
ここで注目したいのは、トップマネジメントは大企業よりも小企業の方が重要であると論じていることである。企業戦略が優れていないと簡単に倒産に追い込まれるからである。トップマネジメントが独裁になってはならない。したがって、グループで構成されることになる。また、階級や権力から独立したものでなければならず、取締役会から独立した存在とすべきだという。取締役会には、成果をあげられないトップマネジメントのメンバーを退任させる権限がある。したがって、その関係には一定の緊張感が生じる。しかし、だいたい取締役会に問題が報告されるのは最後の最後で、どんな組織でも機能しないものだそうな。実際には、取締役会よりも株主の方が機能する場合が多いらしい。

8. イノベーション
どんな組織でも、イノベーションが重要であることが叫ばれる。だが、そのほとんどは、公的機関で見られるように、イノベーションではなく改善に過ぎないと指摘している。イノベーションのための組織づくりも、管理的な機能ばかりが重視される。イノベーションでは、市場に焦点を合わせるべきで、自己満足の技術開発に陥ってはならないという。イノベーションの機会を狙っても、現実には失敗するケースが多く、失敗のリスクを常に念頭に置くことが肝要である。現実に、市場調査という名目で作成された統計情報は政治的な思惑に偏った資料になりがちである。社会現象に対して、人間が完全に客観性を見出すことはできないのだから。
また、イノベーションを熟知した者は、社会変動や人口構造の変化に敏感で、市場の洞察力が優れているという。その戦略では、すべての既存のものは腐敗化すると仮定するという。そして、目標は高く設定する。一つの成功が多くの失敗を埋め合わせるほどに。ただし、夢を追いかけすぎないように!その按配が難しい。イノベーションでは、手を引く勇気も必要である。潮時を見極める眼力もマネジメント能力である。
「変化への抵抗の底にあるのは無知である。未知への不安である。しかし、変化は機会と見なすべきものである。変化を機会として捉えたとき、初めて不安は消える。...変化ではなく沈滞に対して抵抗する組織をつくることこそ、マネジメントにとって最大の課題である。」

9. 公的機関と予算型組織
今日の公的機関は、巨額な補助金を受けながらも膨大な赤字に喘ぎ、サービスも劣化する。多くの国で官僚主義への不満が高まっているが、公的機関を廃止することはできない。民衆は医療の拡充を望み、社会福祉の向上を求め、いずれも不要論とはならない。公的機関の議論で、あげられる一般的な要因は、企業のようにマネジメントしていない、人材がいない、あるいは目的や成果が具体的でない、といったものであろうか。確かに、公的機関には企業のような競争の原理が働かない。企業との一番の違いはコスト意識にあるだろう。
本書は、予算という仕組みが、成果や業績の意味を変えていると指摘している。公的機関では、予算の獲得に躍起になり、社会貢献が目論見に変貌し、なすべきことをしていない組織になると。予算型組織では、効率やコスト管理は美徳にはならない。少ない予算や、少ない人員で成果をあげれば、次年度の予算が削られるだけだ。予算を生み出すことが成果であり業績であると誤解する。企業のように将来に備えて留保するなどという発想がない。そして、巻き起こる批判を避けるために、民衆を騙し、自らを欺く体質ができる。成果をあげるためには優先順位の高い目標に資源を集中させる必要があるが、そうした試みもなされない。ついには、コスト削減に努力した役人ほど評価されずに葬り去られる。予算型組織では、自らの存在感を認めさせるために、無駄な予算を計上することになる。となれば、公的機関の成功は、失敗よりも害が大きいことになる。公的機関は独占的形態となる傾向がある。独占形態からは、効率も成果も期待できない。効率と成果を求めるならば、ある程度の競争が必要である。
では、公的機関に競争はありうるだろうか?一つの手段は、地方分権による行政の競争であろうか?隣の町でこんなサービスが受けられるとなれば、我が町にも!と民衆は騒ぐかもしれない。少なくとも、行政サービスの情報開示は必要であろう。
本書は、公的機関に必要なことは、企業の真似ではないと指摘している。もちろん成果を評価することを怠ってはならないだろうが、根本的に企業体とは性質が違う。となれば、どこに意義を求めるのか?病院は病院らしく、行政は行政らしく、政府は政府らしく、特有の使命を定義することといったところか。まさしく、一人一人が自己理性を発揮させるような、人間にとって最も運用の難しい組織となるだろう。

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