2010-08-08

"文章読本" 丸谷才一 著

日本文学には、或る系譜がある。明治の文豪たちから受け継がれる「文章読本」という遺伝子である。それは谷崎潤一郎に始まり、川端康成や三島由紀夫らを経て、丸谷才一が挑んだ。
「文章読本」という言葉には、「文章を書くための入門書」といった意味が隠される。アル中ハイマーは、義務教育の時代に文章のセンスがまったくないことを徹底的に叩き込まれた。そういうわけで、文章を書くことは、ただ精神の解放の手段としか考えていない。うまく書こうなどという願望は、とっくに捨てたはずなのに、この言葉の響きに誘われるのは、どこかに諦めきれない心理が隠されているのだろうか?
この系譜は、だいたい書き手のためにあるのだが、三島版は「いかに読むか」という視点に立っている。それならば馴染めるかもしれないと思い、ずーっと前に読み記事にした。したがって、「いかに書くか」という視点に立った本を読むのは、これが初めてである。丸谷版はこの系譜の中でも正統派と評されるらしい。そして、丸谷氏は谷崎版が格段に力を持った傑作であると評している。惚れっぽい酔っ払いは、次に谷崎版に目を付けるのであった。

長い日本の文学史において、明治から昭和にかけて、これほど同じような本が多く書き下ろされたのも珍しいだろう。なぜ、この時代に集中して入門書とも言えるものが文学界を賑わしたのか?そこには、明治から大正デモクラシーに渡って、富国強兵の下で欧米文化が急速に流れ込んだために、日本語の伝統が急速に失われ、口語体が欧文かぶれになっていった様子がうかがえる。やたらと人称代名詞を使ったり、未来形と過去形をしつこく使ったりすると、古来の日本語の性質からひどく逸脱する。もともと日本語は曖昧な性格があり、法律の条文などに適さない側面がある。単一民族という特徴から暗黙に通じる認識なるものがあるのかもしれない。だから、多様な解釈の入り込む余地を与え、言葉遊びなどで見られる創造に富んだ芸術性が現れるとも言えるのだが。
厳密性という意味では、欧文の方が優れているのだろう。西洋哲学が厳密性と論理で組み立てるのに対して、日本風哲学には、自然的でどこか風狂的なところがある。日本人が、論理的思考が弱いと言われるのも、日本語ベースで思考するからかもしれない。そこで、和文と欧文が融合して、合理的に現代語が形成された結果が、現在の口語体ということになる。いまや伝統的日本語の原型がどこまで残っているのかも、現代人には分からないのだろう。ちなみに、アル中ハイマーには、西洋かぶれの翻訳調なのか、純粋な日本語なのかも区別できない。
森鴎外の随筆集を読んだ時も、前期の作品よりも後期の作品の方が、はるかに読みやすかった。現代調の口語体を提供できたのは、明治の文豪たちの貢献が大きい。50年前の文献を読むだけでも、旧仮名使いや旧漢字で悩まされることがある。これほど、古文と現代語で変化のある国語も珍しいのかもしれない。
ところで、本書の例文には、反軍的なものが目立つ。これは反社会思想の表れであろうか?それとも、口語体の未熟を、文明の成熟度と重ねているのだろうか?本書は、文章批判をしながら、文明批判をしているかのようでもある。

なんのために文章を書くのか?それは誰かに読ませるためであろう。その意味で、文章を書くことは公的な行為となる。サイトやブログにも運営者の公的な立場がある。とはいっても、それほど堅苦しく構えては文章も書き辛い。本ブログが対象とする読者は、十年後の自分である。当時の考え方を振り返るために。その意味で、極めて私的な行為だと捉えている。だが、十年後の自分は人格も変わっているだろうし、別人と捉えることもできるわけで、やはり公的な立場で書いているのかもしれん。少々大袈裟で芝居かかったところもあるのだから...
本書は優れた文章を書くための呪文を授けてくれる。「名文を読め!」、「ちょっと気取って書け!」、「馴染みの語彙を選べ!」と...中でも、文章上達の極意は、ただ一つ「名文を読め!」に尽きるという。そして、常に文章は伝統によって学び、個性の才能とは、伝統を学ぶ学び方の才能にほかならないという。どんな名文も、ことごとく過去の言葉づかいの合成であり、最良の様式が名文として収まると。思いもしない事を書けば、たちまち文章に力を失う。だからといって、思ったとおりに書けばいいというわけでもない。本書は文章の型に則ってなければならないと助言してくれるが、文法の勉強をしたことがないアル中ハイマーには辛い。言語と精神を直結させる文章を書くことは難しいが、自由な精神が介在しなければ創造性も見出せないだろう。文章を書くことは、言葉との戯れ、あるいは言葉の遊びとでも言おうか。文章とは、所詮言葉の羅列であるが、それは伝達性と論理性によって支えられる。
「つまり文才とはなんのことはない、言葉、言葉、言葉の取り合わせの才能にほかならないし、言葉の綾とは実は数多くの語の関係の巧妙適切な設定の仕方だといふことになる。」
文章で論理性を記述することは難しい。そこには言葉の綾が絡み、多くの解釈を生む。これこそが文学の醍醐味なのだろう。
「文章の調子にとつては個人個人の生理や体質よりももつとずつと大切なものがある。それは人間の思考といふ普遍的なもので、その普遍的なものに合致するやうに言葉をつらねるからこそ、文章は他人に理解してもらへ、つまり伝達が可能になるのである。」
本書は、言葉は語ることがある時に力強く流れるという。これも精神と文章の自然な関係というわけか。逆に言えば、書くに値するものがなければ、書くな!というわけか。

1. 谷崎版「文章読本」批評
本書は、谷崎版を絶賛しながらも、谷崎氏の論旨にことごとく同意するものではないという。それは、しばしば巨匠に見られる危険な野望や無謀な野心が表れ、浅はかな了見や用語の誤りもあるという。だが、そうした弱点も、うっかりと読み飛ばしてしまうほど巧みに演出されているらしい。これぞ文章の達人!というわけか。ほんの少し見せる弱点がむしろ現代日本語の課題を浮き彫りにし、安全な入門書というよりは危険性を宣言したものだという。
更に、谷崎版は少々異質で、自己批判の性格を帯びているそうな。谷崎氏の最大の過ちは、「文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない、だから、文法に囚はれるな」と強調しながら、文法とは、日本語のことではなく英文法のことを指しているという。これは実にありがたい言葉であるが、極端な欧文脈の文章を書いてはならないと教えているのだそうな。英文直訳風に主語を置くな!英文直訳風に時制を用いるな!などというのは、実は自己批判であり、谷崎氏自身の文体の危機と、現代日本語の危機を重なて論じているということらしい。それでも、丸谷氏は、谷崎氏が欧文脈で書き続けたことを咎めてはいない。むしろ、その矛盾に生きたことこそ、偉大であると評している。日本語体の保守派と革新派の中にあって、谷崎氏はもっとも現実的に生きた小説家の一人だという。現実的な風俗に接してこそ、庶民層を鋭く抉る小説らしい小説が書けるというわけか。

2. 名文とは
本書は、どんなに美辞麗句を並べ立て、歯切れがよくても、伝達の機能を疎かにする文章は駄文以下だという。ここで言う伝達には、精神に訴えるという意味が含まれているようだ。
ところで、名文の定義は難しい。
「有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。たとへどのやうに世評が高く、文学史で褒められてゐようと、教科書に載ってゐようと、君が詰まらぬと思つたものは駄文にすぎない。」
読者が敬服し陶酔できれば、それが名文というわけか。とはいっても、名文を陶酔できるだけの精神に到達していなければ認識することすらできないが...
更に、「文章の呼吸」という捉えどころのない言葉を登場させる。辞書や教科書といった類いは、「文章の呼吸」を教えてくれないという。この言葉を説明するのは難しいが、口調や調子、あるいはメリハリとかいうものでは、いまいち狭すぎる感がある。それらのものの総体に論理とレタリックとを重ねたようなものと形容したところで、まだ物足りないが、「生気を帯びた実体」といった感じで説明される。いずれにせよ、その感覚は体で覚えるしかなさそうだ。名文には、作者の精神の充実を感じさせる。これが文章の本質なのかもしれない。
ただおもしろいことに、「名文を読め!」と言うからには「駄文を読むな!」と言いたくても言わない!と宣言している。駄文を判別する認識能力も、名文を嗅ぎ分ける能力と言っているのだろうか?そもそも読んでみないと、名文か駄文かも判断できないのだが...

3. 文章の論理性
文章を説得力のあるものにする要因として論理性がある。名文とは、論理性を前提にしながら、精神を覆いかぶせるような存在といったところだろうか。文章を書く時、論理的思考を働かせる。だが、書き出されたものが、必ずしも論理的とは言えない。わざと論理を壊すような、論理を絶妙に壊すための論理があるとでも言おうか。文学作品には、複雑なものを整然とした論理で語って頭に入りやすいものもあれば、単純なものに無駄を混入させてわざと理解し辛くするものもある。ストレートな表現で情熱的に語ったり、奥歯に物がはさまったように回りくどかったり、はたまた、ニヤけるようなユーモアで悪戯のような趣があったりと、芸術家たちは様々な趣向(酒肴)で仕掛けてくる。名文には、形式的な姿を見せてくれない。結局、論理と精神の按配は、芸術家のセンスに委ねられる。
ちなみに、著者の代表作「笹まくら」を読んだ時は、その文章構成に驚嘆した。それは、戦時中と戦後を何度も自在に往来する時系列の流れである。軍隊からの逃亡生活と、居場所のない戦後社会を対比しながら、本名と偽名が往来する。それも、なんの前触れもなく、突然瞬間移動しやがる。まさしく酔っ払いが気持ち良く時空を散歩するかのごとく。ここにも一種の論理性があるから、突然の時系列の変化にも違和感を感じることがないのだろう。

4. 言葉の伝統
文学作品は、文章を後世に残すことを視野に入れるという。となれば、新語を使うにも注意がいる。文学では、古くから伝わって、現在でも使われる語彙を選ぶのが有効であるという。ただ、どの時代にも流行語がある。言葉は社会環境に密着するので、時代の変化によって言葉の意味が微妙に変化していくのも自然であろう。人間が精神を獲得した時点で、言葉に対する恣意性を妨げることもできまい。歴史は劣悪な言葉を淘汰されるだろうが、残ったものがすべて上等とも言えない。たとえ優れた言葉であっても、ドサクサに紛れて葬られることもあろう。おまけに、カタカナで表される日本語英語のようなものが続々と誕生する。古い言葉だけでは、すぐに表現の限界に達する。新語と伝統語の混在、この按配にも作家の力量が現れる。
言語の伝統を引き継ぐ役割を担うものといえば、国語辞典がある。言語の世界は、辞典編纂者である国語学者の主観に委ねられるとも言える。だが、辞典が、柔軟性を硬直させ言葉の成長を妨げることもあろう。辞典で覚えただけの言葉では、生きた文章は書けまい。いつの時代でも、言葉の乱れを社会の乱れと重ねながら嘆く評論家がいる。
「言葉はもともと歴史的な存在であり、過去によつて刻印を打たれることではじめて機能が成立するものなのだから、然るべく言葉を選ぶには、その語の由来来歴から現代との関係に至るまでの総体をしつかりと感じ取ってゐなければならない」
本書は、言葉は意味を暗記するという知識の問題ではなく、伝統の感覚を身につけることが最高の教養だと説く。そして、伝統の感覚が欠落した名文家などあり得ないという。言葉から感じ取る幅が広ければ語義に詳しく、感じ取る度合が深ければ語感が鋭いというわけか。

5. イメージと論理
日本語には、漢字、平仮名、片仮名の様式があり、現代ではローマ字まで混ざる。おまけに、疑問符や感嘆符、顔文字までも。これほど、うまい具合に融合した文字文化を持つ国も珍しいだろう。
いつも悩ましいのが、漢字で表現するか、平仮名で表現するか、はたまた片仮名で表現するかである。漢字は要点を短く表現でき、仮名は読むリズムを与えるところがある。漢字には、知識に溢れ圧迫感を与えるようなものがあり、平仮名の丸っこい感じが、なんとなく安心感を与える。明治の文豪には、平仮名だけで表現して、わざわざ読み辛くするものも見かける。本書は、こうした平仮名の手法に、すらすら読めないところから「盲人の訥々たる語り口をぢかに聞くような気がする」と表現している。なんとなくこのフレーズには座布団一枚差し上げたい。
また、句読点の入れる箇所にも、しばしば悩まされる。それも、確立された様式がないからであろう。わざわざ読点を用いないような作品もあるから驚きだ。これは嫌がらせか?
本書は、文章には、論理も大切だが、いかに光景をイメージできるかが重要だという。現在では、webサイトを眺めているとレタリング効果が大きいことが分かる。タイトルを工夫するだけでも惹き付けるものがある。書き出しで、前景と後景のイメージを存分に表現できれば、それだけで世界に引き込むことができる。バーで飲む酒と、自宅で飲む酒の違いで、空間イメージがより一層五感を刺激するような...文章にそうした舞台設定のような効果がほしいが、こうしたセンスの持ち主は、羨ましいとしか言いようがない。
レタリング効果にしても、肝心なのはそこに潜む論理であろう。比喩的な表現を使ってイメージ効果を上げることができても、あるいは、情景の描写で色彩感覚や音調を用いても、優れた論理が根底になければ色褪せる。だからといって、論理だけの文章では味気がない。イメージは、論理との兼ね合いが絶妙な時に効果を発揮するのだろう。
本書は、近代文学ではイメージを軽視する傾向があると指摘している。政治演説にしても、社説にしても、色彩と綾に乏しく、人の心を酔わせることが滅多にないのは、イメージを軽視していることにあると。この時代に論理的な文章が急激に増加したのも、西洋文化の影響だろうか?イメージは、論理的とは言いにくいが、非論理的とも言えまい。具体性と漠然性の按配という意味では、イメージにも美的論理のようなものがありそうだ。

6. 形式化への批判
文章を追うと、どうしてもシーケンシャルに読みがちになる。そこで、緒論、本論、結論といった順番で記述することになる。学校教育では、起承転結なんて作法を習う。だが、本書は、形式的作法に疑問を投げかける。いや、むしろ好まないと言っている。確かに、文章の順を追って、それで理解できれば楽である。だが、芸術作品は、立体的に読まないと、解釈の難しいものが多い。というより、文章という手段で精神宇宙のようなものを表現するのが文学作品の意図するところであって、立体的な感覚を必要としない芸術なんてあり得ないのかもしれない。その立体感にも、様々な様式が見られる。前章の言い回しがそのまま結論でオチとして繋がったり、序章や本論などがバラバラに配置されていても絶妙にバランスされた立体的な体系を成していたり、いきなり結論を持ちかけたり、突然議論がさまよったりと。議論文であっても叙述的な書き出しに美を感じることもある。
となれば、分かりやすく書くことが一概にいいとも言えまい。わざと読み辛くしたり、難しく書くことによって、読者の思考を呼び込むこともできる。哲学的な書の多くは、こうした手法を多く用いているような気がする。結論をちりばめることによって、わざと意図をぼかしたり、奥深い解釈を誘うように、わざと矛盾するように構成したりと。そして、読者に立体的な感覚がなければ、作品を理解することも難しいということになる。こうした技法は、作家の絶妙なバランス感覚によって実現できるものであり、素人には手も足も出ない領域にある。
本書は、立体的な仕掛けだけではなく、「螺旋階段のような曲がりくねった調子」だと言っている。もちろん、起承転結で形式ばっていても、見事な芸術性を見せてくれる例もある。形式に無理やりはめ込んでしまえば、それなりの文章にはなるだろう。どんな仕事でも、形式化する思惑の一つに、能力差を目立たなくし最低限の品質を保つというのがある。だが、芸術性という意味では、むしろ形式化は妨げとなりそうだ。

7. ニーチェと外国語
「ニーチェは、文筆家は外国語を学んではいけない、母国語の感覚が鈍くなるからと教へたといふ。例によって厭になるくらゐ鋭い意見だ -- 別に従ふ必要はないし、従はないほうがいいけれども。」
ニーチェの念頭にあったのは多分フランス語で、ギリシャ語やラテン語は外国語に入っていないだろうという。そして、日本人には、ギリシャ・ラテン語が漢文に当たるぐらいに考えればいいという。
そういえば、比較言語学では、ヨーロッパの古典語は、ギリシャ語とラテン語、英語とドイツ語、ロシア語とアイルランド語といった具合に、先祖の分類がなされると聞いたことがある。英語とドイツ語には似たような語彙を見つけることができるし、ギリシャ語やラテン語に由来する語彙も多い。それに、フランス語やスペイン語やイタリア語やルーマニア語あたりも、ラテン語系じゃなかったっけか?ニーチェには、フランス文化が異質という感覚でもあるのか?いや!おフランスへの嫌味か?いずれにせよ、天才たちの抽象感覚を、凡庸な、いや凡庸未満の酔っ払いに分かるはずもない。

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