2011-03-13

"フランドルの冬" 加賀乙彦 著

「フランドルの冬」は、福西英三氏の著書「洋酒うんちく百科」に、コニャックを飲みながら読む小説として紹介される。感化されやすいアル中ハイマーは、この本のためにポールジローを仕入れるのであった。しかし、この迫力ある作品が絶版であるのは惜しい!ということで、図書館をあさってみた。
奥付には「筑摩書房、1967年8月8日」とある。初版であろうか。殺風景なハードカバーには汚れやシミが目立ち、本文(ほんもん)は絶妙に薄茶色に色褪せている。この年季のはいった風貌に、些細な演出を加えてみる。少し光を絞り込んで...少し孤独感を漂わせながら...目のために悪かろうが知ったこっちゃない。ちょっぴり焦げ臭い古書と熟成ブランデーのコラボレーション...今宵は、中世のフランス貴族にでもなった気分である。

著者の本名は、小木貞孝(こぎさだたか)というらしい。精神科医で、病院や刑務所に勤めたのちにフランスへ留学、そして帰国...とある。この作品は処女作だそうな。文学とは無縁な人間がフランスから帰国して唐突に長篇小説に挑んだという。その心境を「精神病院と刑務所ぐらいしか知らぬ一人の無謀な医者の冒険」と回想している。そして、第二回太宰治賞に本書の第一章の部分を投稿してみたところ、候補作として雑誌「展望」に掲載されたそうな。出版の話が出た時、それが長篇の一部に過ぎないことを告白すると、ならば完成品を出版しようということになったという。

舞台は、北フランスのフランドル地方にある精神病院。そこで働く日本人医師の物語。いきなり精神病棟らしい異様な光景が臨場感を煽る。病院の南の塀の外側には、廃墟となった寂しそうな場所がある。
「噂によれば戦争中、ここでナチ親衛隊が村のユダヤ人を虐殺して以来誰も住まなくなった...うしろは、フランドル地方特有の鬱蒼たる巨木の森がある...」
狂人や自殺者と向かい合う日々、治療と研究のどちらを優先すべきかと葛藤する医師の倫理観、おまけに異邦人としての孤独感、こうした苦悩を癒してくれるのは一杯のコニャック。人生とは、運命付けられた環境の中で無期懲役を勤める囚人のように生きることであろうか...医師が精神の歪みまでを矯正できるなどと考えるのは妄想であろうか...などと、ぼんやりと考えてしまう。
せっかくの親切が相手に嫌がられると、逆ギレすることがある。もうやってあげないと吐き捨てたりと。誰かの役に立ちたいとか、社会の役に立ちたいといった感情は、単なる自我意識の強調であろうか。誰かに頼られると気分のいいものだが、やり過ぎると有難迷惑主義に陥る。ここに思想スパムの原理がある。本当に相手のためにと考えるならば、見返りを期待することはないし、自分の存在を強調することもないだろう。こうした純粋な行為は人間にとって最も難しい領域にあるように映る。
「現代こそは、死の世紀だ。自殺者と狂人が、つまり異常者だけが時代の真実の承認となりうる。それは実に独特で愉快で茶番めいた世紀なのだがね.....」
社会を肯定する側には、教育者や宗教家といった理想論を掲げる有識者と呼ばれる人々がいる。彼らは、社会は画一的な価値観でしか形成できないと信じ、狂人や自殺者を無理やり矯正しようとする。刑務所の看守のようにいつも目を光らせながら、他人よりも有利だと信じる側に置いて、安心したいと願っている。もし、異常者がいなくなったら、真っ先に困るのが自らを正常だと信じる人々であろう。
少なくとも、自殺者を人生の敗北者などと呼ぶ気にはなれない。人生には、精一杯生きるか、精一杯死ぬかの二択しかないのだから。世の中が狂っていれば、精神が狂うのも当然である。

精神科医が精神病になることもあろう。精神科医が分裂病になったりするのは、裁判官が凶悪犯罪を犯すようなものか。ただ、裁判官は自らの犯罪を自覚できるが、分裂病が厄介なのは病識がないことらしい。したがって、強制入院させるしかないという。暴力的に取り抑えて監禁するぐらいのことをしなければならないと。
そうなると、自分自身が精神病ではないと言い切れるのか?自分の手が震えたりするのは精神病かもしれない。いや、アル中という噂もある。
ちなみに、おいらの業界には鬱病になる人が多いようだ。バリバリに仕事ができて真面目な人ほど。神経質そうに見えても仕事がいい加減な人にあまり見られないのは、とこかに精神的にいい加減なところがあるということか?だとすれば、おいらには縁がなさそうだ。
知人の奥さんが鬱病を患うケースもある。お見舞いついでに旦那の土産に酒を持参すると、奥さんがその場で飲み始める始末、「明るい鬱病」と呼ばれ周りを和ませていた。アル中も精神病の一種というわけか。おいらにも縁がありそうだ。

1. フランス人と日本人
北フランスのサンヴナン精神病院に主人公コバヤシは内勤医として赴任する。グループに属すものの、しばらく融け込めず、親しい友人もなく図書室通いに没頭する。彼は、西洋人がよく言う日本人特有の神秘的な微笑を浮かべる。東洋的な平ぺったい顔が無表情に映るのだろうか?
「この男は外国人なんだ。内勤医が嫌になればさっさと帰国すればいい。いつでも逃亡可能な特権的状態にいる...のっぺりとした皮膚の内側がくせものだ。おれを軽蔑していやがる...」
などと、告げ口される。あからさまな人種差別があるわけではない。だが、教会に行く習慣がなければ、無神論者と蔑まれる。西欧ではキリストの磔刑像(カルヴェール)が珍しくないが、異教徒にとっては気味が悪いだけの幼稚な彫刻でしかない。
外国人という枠組みは、縄張り意識を説明するのに都合がいい。だが、同じ国民だからといって、本当に共通意識で理解し合っていると言えるのか?その答えを見つけるには、自分が他の誰かを理解しているかを問うてみればいい。なるほど、みんな外国人みたいなものか。
フランス人は珍妙な条件法を使って詭弁のようなことを論じるという。対して、日本人は論理的に論じるのが苦手だとよく指摘される。屁理屈と感情論の対決が、いがみ合いを強調する。
特に、フランス人はプライドが高いと言われる。そういえば、「ナポレオン言行録」では、フランス軍の特徴を見事に捉えていた。
「フランスの兵隊は他の国の兵隊よりも統率が難しい。それは機械ではなく分別ある連中だからである。フランスの兵隊が議論好きなのは、頭がいいからである。彼らは作戦計画と機動演習とを議論する。そして、作戦行動を是認し、指揮官を尊敬していれば、どんなことでもできる。だが、その逆の時は失敗する。退却の術はフランス軍には難しい。敗北は隊長の信頼を失い、命令に反抗する。ロシアや、プロイセンや、ドイツの兵隊は、義務観念から持ち場を守るが、フランスの兵隊は名誉観念から持ち場を守る。前者は敗戦に無関心だが、後者は敗戦に屈辱を感じる。国民的栄光と戦友の尊敬よりも、生命を大切にする者はフランス軍の一員になるべきではない。」
南アフリカW杯でフランスチームが崩壊したのも、これが原因か?

2. 医学の倫理
「どこの国でも医学界には二つの流派がある。一つは理論派で実験室での研究や基礎的な問題に取り組む人々である。理論派は、悪くすると医学本来の目標である病気の治療を忘れてしまったり、堕落して本の虫となりさがる。」
学者病というやつか。理論と実践のバランスは、あらゆる学問で議論されるところであろう。
ここでは「治療こそ学問上の損失」という意見まで登場する。稀な症状は研究材料にもってこいというわけだ。このまま治療しても助からない。絶望的で患者の家族も了解している。ならば、余計な治療をして、貴重な精密検査の結果を狂わせることはない。しかも、責任は上が取ると言っている。だが、医者として治療を放棄し、研究を優先するかどうかは道義上の問題である。医学研究とは、この葛藤と対峙することであろうか。
職場には自己の科学精神に忠実な医者がいる。尿と血液と脊髄液の生化学的検査のみを、無慈悲な熱心さで実行する。主人公は、その医者が、患者の皮を剥ぎ、頭蓋骨にノコギリを入れ、熱心に観察する姿を思い浮かべる。だが、そうした冷徹さが同居しなければ、医学の進歩はありえないだろう。客観性とはある種の冷徹さでもある。人間がやることだから、医療ミスがないはずがない。むしろ、医学の進歩のためにはある程度必要であろう。
しかし、すべては政治的に覆い隠され、当人たちにとって不都合は闇に葬られる。それが現実である。最も建設的でないのは医療情報の隠蔽であろうか。報道屋は正義感たっぷりに医療ミスを叩くが、そう単純なものではない。かえって実態を覆い隠そうという思考を助長させ、逆に正義感によって情報公開する者は社会から抹殺される。したがって、政治感覚の旺盛な世界では、あくどい奴ほど出世する。

3. 医学史
医学界は、ヒポクラテス以来、数多くの医療ミスを積み重ねてきたことだろう。古代ギリシャや古代ローマの時代では、狂人は悪魔とされた。外科手術は、理髪店で行われたり、悪魔祓いの僧侶によって処理された。錬金術と並んでデモノロジー(鬼神論)が登場し、人々は神を愛すると同じくらい悪魔を恐れる。
当初、悪魔でさえ寛大に扱われ、呪文がかけられ、修道院は庇護を与えたという。しかし、中世に宗教裁判の制度ができたあたりから大量処刑が始まる。特にルネサンスや科学振興の時代に、盛んに処刑された。15世紀、2人のドミニコ派の僧侶、シュプレンガーとクレーマーの「魔女の槌」という法皇公認の書物こそ、中世の鬼神論とルネサンスの科学精神の見事な化合物だという。この書物が宗教裁判の教典になると、人間がどんなに狂おうとも、それは自由意志で悪魔に服従すると解釈される。だから、狂人は自己責任から逃れられない。狂人は、霊魂が堕落した淫らな意志が肉体に宿るとして、霊魂を解放するには肉体を焼かなければならないと考えられた。宗教裁判で火刑に処すことが、、狂人を悪魔から救う慈悲深い判決で、最も人道的な処置というわけだ。この残酷な思想は、三百年に渡って続く。
人道主義も時代によって、随分と解釈が違うものだ。となると、現代の人道主義は本当に人道的なのだろうか?数百年もすれば、中世の思想と同列に扱われるかもしれない。人類は、永遠に盲目の価値観でしか生きられないというわけか。

4. 旅の恥はかき捨て!
いずれ帰国すると分かっていれば、大胆に楽しむことができる。
「今交際している人々はすべてフランス人として記憶の片隅に押し込められるだろう。旅行者の特権で楽しむべきである。何事も旅行者の貪欲な目で見、研究し、祖国の人々への語り草にすべきである。」
と、恋愛に対して冷静に語りながら、一方で恋に落ちたやるせない気持ちと葛藤する。そのままフランスに残って、その女性と暮らすこともできただろうに。その衝動を抑えた理由は何か?外国人という意識がどこかにあり、いずれ文化の壁に遭遇すると思ったのか?いや、妊娠させた現実や罪悪感からの逃避か?

5. 狂人と自殺者
入院して30年にもなる患者の描写が印象的だ。
「蝋人形のような硬い表情...愛も憎しみも苦しみも知らない...老婆となった今も、均一で単調で空虚な永遠があるばかり...感情鈍磨し、すべてに無関心...しかし、与えられた仕事はする。
彼女の病歴は、30年間まったく同じ記述である。担当医は、書くことに飽いてしまうほどに。同じ生活の、空虚の繰り返し、一生、死ぬまで...彼女は存在している。しかし、死んでいる、そして幸福なのだ。」
これには、生き甲斐とは何か?を考えさせられる。いつも刺激を受けながら充実感に浸ることで安住する人々がいる。その一方で、平凡な日々を繰り返しながら平穏に生きることで安住する人々がいる。生き甲斐を見つけたと信じながら自己陶酔することも、一種の麻薬のようなものであろうか。ならば、麻薬で完全に感覚を麻痺させ廃人になりきることも、幸せなのかもしれない。自己陶酔に陥って勘違いをしている人ほど幸せということか。アル中ハイマー病患者のように。
自己を冷静に見つめ、客観的に観察することができれば、空虚を感じざるをえない。そこに不幸が始まる。
「現代のように人間が、実にうんざりするほどの物体や生物や他人の組み立てた牢獄にがんじがらめになって平均化されている時代には、狂人と自殺者こそは、英雄です。彼らは牢獄を拡大したり破壊したりできる。」
そもそも、複雑な精神をまともに相手にしながら、幸せになろうなどと考えることに無理があるのかもしれない。人間は、精神を獲得した時点から精神病から免れることができないのかもしれない。精神を科学的に解明しようとすれば、つまりは精神の客観性を追求すれば、そこに単純化の方法を模索することになろう。天才たちに自殺する例が多いのは、死ぬことが最も単純だと悟ったからであろうか?凡庸な規定に満足できず、そこから脱しようとした時に狂気が顕わになる。哲学者が規定するア・プリオリな認識からさえも逃れ、真の自由を行使しようとすれば、狂気に憑かれるしかあるまい。これも一種の憧れであろうか?

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