親鸞曰く、「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
所詮、人間ってやつは誰もがゲスでね。大金を前にすれば目が眩む。保身のためならなんでもやる。人間ってやつは思ったより善ではない。だが、思ったより悪でもない。自己の存在に罪を認めるような人でなければ、理性なるものは獲得できないのかもしれん。となれば、社会を理性へ導くはずの政治屋どもが、悪徳を尽くすのも道理というものよ。
悪の力は善の力よりも強い。どんなに物が満たされようとも、どんなに知が満たされようとも、自己満足は一瞬のうちに過ぎ去り、精神ってやつはけして満たされることはない。人の世とは、まるで狂気の沙汰よ!精神が空想へ向かえば欲望は無限となり、実体なきものは真に実体なきものへ回帰する。
しかし、精神の天才たちは欲望を匠へと向ける。修羅の妄執がごとく自らを芸術の域へ導く。永遠に到達できないことを覚悟しながら、孤独を怖れる様子もない。これが微分学の美学というものか。人間というものは、理論よりも本能が優先する。本能を潰してまで正論を導くなら悪魔の眼が必要となる。故に、芸術的天才たちは概して狂人となろう。
善人は気楽なものだ。相互関係に安眠しながら、社会制度に安住しながら、平然と死んでいく。人間ってやつは官僚体質に陥りやすい。権威主義に陥りやすい。政治も、役所も、企業も、そして、個人も。常に防衛本能が働き、安住したい、楽をしたい、という衝動が働く。避けられない現実には目を背け、保留の思考が働く。これが悪魔の思考ってやつだ。よって、常に思考の検証が必要となる。それは死ぬ瞬間まで続く。そう運命づけられているだけのことよ。
一旦、悪徳を了解しちまえば、悪魔はいつでもハーデスの門から誘惑してくる。その証拠に、夜の社交場の門をくぐれば、自己陶酔者は小悪魔にイチコロよ。ちなみに、医学には「疾病失認」という用語があるという。自分が病気だと気づいていない状況を指すのだそうな。まさに悪魔は、脳の中に亡霊のごとく隠れ住む。
...アル中ハイマー著「自我失認論」、序説「ハーデスからの使者」より抜粋。
「狂ったこの世で狂うなら気は確かだ。」...シェイクスピア「リア王」より。
「正義」という言葉に照れくささを感じるのは、自我に悪魔が住み着いた証しであろうか。おろらく潜在的には、自分のことは自分が一番よく分かっているのだろう。厄介なのは、自己は都合の悪いことから目を背ける習性があることだ。けして悪性を認めようとしない。それは、自己の存在そのものを否定することになるからである。知り尽くしていれば、欺瞞するポイントもよく心得ている。そして、自己に盲目となる運命からは逃れられない。元FBI捜査官クレオン・スクーセンは、どんな凶悪な犯罪者も自分が悪いとはけして思わないと語った。どんな悪事も何かのせいにすることができる。ある時は生い立ちのせいに、ある時は社会のせいに、何事も正当化しながら自己完結させるのは容易い。自己が自己を冷静に観察できないのであれば精神の合理性を欠く。精神は永遠に自己評価できないだろう。自分が愚かだと薄々気づきながら、それを悟るのは精神にとって最も難しい試練である。そして、自己を欺きながら、傲慢に振舞うことが自己の存在を確認する手段と化す。俗世間の泥酔者に自己犠牲など無縁というわけだ。
人間が悪魔へ邁進するとなれば、腐敗した文明を一旦リセットすることが、氷河期の役目であろうか?神にもチャラにしたいものがあるらしい。そこで実践的方法として、自我は第三者の指摘を必要とする。だが、他人からの指摘にも欺瞞が紛れ込む。結局、何を信じていいのか分からず、精神は意志の強さと頑固さの狭間で揺れ動く。精神に憎悪の性質があるのは、自我投影に対する恐怖心の裏返しであろうか?だとすると、悪魔が真理を悟れば自ら命を絶つしかあるまい。自殺とは悪魔を退治することなのか?天才たちはそれを悟ったというのか?
人間は、自然界において存在する。にもかかわらず、「自然」に対して「人工」という言葉を編み出したのは、人間が無意識に悪魔を自覚しているからであろうか?人工物が愚行の記念碑に過ぎないことに気づいているからであろうか?自我の征服は、自然の征服と同じぐらい難しい。いずれ自然界が、自我も悟れない悪魔を抹殺するだろう。ちなみに、天文学では、月の軌道は地球から徐々に遠ざかっているという。人類のツキもだんだん遠ざかっているのかもしれん。
1. 悪魔どもの忘年会
忘年会とは、その年の苦労や失態をきれいサッパリ忘れましょうという美しい会である。なのに、忘年会での失態は、いつまでも忘れてくれない。もう十年にもなるというのに。武勇伝は永遠に語り継がれるというのか?せっかく理性ある酔っ払いを演じてきたのに、そりゃ、悪魔にもなろうというものよ!よって、忘年会とは、その瞬間をけして忘れない!遺恨を引きずる醜い会なのであった。
2. 悪魔進化論
生きた化石と呼ばれる生物は、地球の究極の環境変化による大量絶滅の時代を幾度となく生き延びてきた。それは、これ以上進化する必要がないという究極の自己満足を獲得した結果であろうか?人類は、生きた化石の生命領域を侵してまで、進化しようとしている。これは悪魔への進化か?だが、生きた化石と呼ばれる生物たちのようには、大量絶滅の時代を生き残ることはできないだろう。
「商売は儲けすぎてはならない、欲を持ちすぎてはならない」という価値観は、既にシルクロードの東西交易で活躍したソグド人の時代に記録として残されるという。だが、人類は三千年もの古い価値観といまだに対峙している。歳を重ねたからといって、物分かりが良くなり、他人のことを考え、欲望がおさまるとは到底思えない。むしろ、確実にあさましくなっている。人間社会には最も功利的な毒々しい計算がつくされる。他人から許されたいがために、他人を許そうとするなど、子供同士の馴れ合いのような道徳律がまかり通る。はたして人間精神は成長しているのか?草食系人種は絶滅してきたのか?あるいは自殺してきたのか?エントロピー増大の法則とは、悪魔への片道切符を意味しているのか?
巨大な富を獲得した成功者が、突如として巨額の寄付をしたり慈善団体を設立したりする。散々周囲を蹴飛ばしておきながら慈善家を気取る。こうした行為は、過去への償いであろうか?欲望の限りを尽くした時に、理性なるものが見えてくるというのか?となると、大人たちはますますモンスター化するしかあるまい。なるほど、歳を重ねれば、足が臭くなり、口が臭くなり、酒の席で醜態を演じながら、精神が腐っていくのを感じる。
3. 悪魔のセールスマン
社会には、人類愛や博愛を叫ぶヒューマニストたちがいる。人間を自然の姿で愛する者、人間を教説で導かないと気が済まない者。はたまた、同意を得て救済しようとする者、意に反しても救済しようとする者。おまけに、生を愛する者、死を愛する者などなど。ヒューマニストたちは互いにいがみ合う。それは、個人としてであって人間としてではない。彼らは等しく有識者と呼ばれる。ヒューマニストたちが、癒し系の言葉で感傷に浸りながら、人間中心主義を生み出すとは皮肉だ。その典型が友愛型政治屋で、正義のセールスマンを自負する。彼らは隣人愛や友愛を善とし、なにびとも愛せよ!と叫ぶ。なのに、浮気だけが特別に軽蔑されるのはなぜか?そこに性行為を伴うからか?いや、教祖様はなにびとも肉体的に愛するではないか。聖職者とは、生殖者か?性色者か?なるほど、政界を裏で牛耳ったとされるラスプーチンと同じ遺伝子を受け継いでいるようだ。ダンテは「地獄への道は善意で舗装されている」と言ったとか言わなかったとか。悪魔ほど善人づらをしているものだ。
ところで、正義とは何か?悪をやっつける奴が正義だと定義すれば、悪が存在しなければ正義は成り立たない。そして、正義が存在しなければ悪魔も成り立たない。互いに存在を助け合うわけか。したがって、宗教家や有識者どもが、悪魔のセールスマンとなって正義を演じるのも道理というものである。なるほど、神の代理人と称する人間がわんさといるわけだ。
4. 悪魔の自己増殖
人類は、精神を獲得した自己を崇め、それ以外の動物をケモノやケダモノと呼んで蔑む。だが、人間は獣を食して生き長らえている。そぅ、自ら蔑んだ無能な生き物たちによって身体を形成しているのだ。ならば、人間自身を獣の類いと蔑んでも不思議はあるまい。どうして脂ぎった欲望を捨てられようかと。だからといって、いまさら植物だけを食しても無駄だ。どうせ遺伝子からは逃れられない。ちなみに、ヒトラーは菜食主義を宣言した後に大悲劇を実施した。
動物や植物は自然との関係から数が抑制されるが、人間のみが数に制限を与えない。日夜、不老長寿を願い、永遠の生命までも欲する。健康ブームはいつの時代も大盛況だ。おまけに、少子化問題を大声で叫び、些細な人口減少を民族滅亡かのようにはしゃぐ。わざわざ少子化担当大臣という女性用ポストを設けることに、なぜフェミニストたちは目くじらを立てないのか?世帯を持つことを奨励し、いや、持たないと自立できない者と蔑み強迫観念を押し付ける。子供を産んだ女性は、勝ち誇ったように独身女性を見下す。大人たちは若年層のひきこもりや働く意欲を見せないことを嘆くが、現実に若年層の求人率が低いままというのをどう説明するのか?おまけに、定年延長で職場を圧迫すれば、自発的失業者をますます必要とする。
一方で、情報化が進み、債券や物価などあらゆる価値が柔軟に変動する時代に、労働賃金だけが今なお硬直化したままだ。現実に、社会保障を自ら放棄する非正規労働者の存在が経済に柔軟性をもたせている。なのに硬直化した正規労働者の方が大きな顔をするとはどういうわけか?人口増殖が産業を枯渇させ、社会を困窮に追い込んでいる。人類はいまだ、人口を抑制する術を戦争か疫病ぐらいしか知らない。住みにくい社会ともなれば、草食系と呼ばれる人種が現れる。これは古くからある社会現象で、いつの時代にも、社会の様を嘆き、政治の様を嘆き、学問に救済を求めてきた人々がいた。少なくとも、バブルの脂ぎった時代に出世した連中よりも、就職難で苦しむ若者たちの方が、物事を深く考えているだろう。
はたして、人口を増加させようとすることが理性的な思考なのか?はたまた、人口を抑制しようとすることが理性的な思考なのか?俗世間の泥酔者にはさっぱり分からん。ただ、理性があるとされ、有識者と呼ばれるほとんどの輩が少子化問題を口にする。長寿大国日本!それは最も欲望を享受している国ということではないのか?伝統的に「今の若い奴は...」と説教されてきた。今では「今の年寄りは...」とつぶやかれる(tweetされる)。
5. 悪魔の政治
国家の在り様には、根源的に二つの思考がある。一つは、人間は生まれながらにして善人であるとする考え、二つは、人間は生まれながらにして悪人であるとする考え。前者は、人々に自由裁量を求めた挙句、無法な振る舞いが横行する。後者は、規制で縛りつけた挙句、堅苦しい世の中となる。どちらも、思考が悪知恵へと進化し、重苦しい世の中になるのは同じか。精神を獲得した知的生命体は、生まれた時から思惟するように宿命づけられる。そして、より生活を楽にしようとし、より幸せになろうとし、多くの道具を編み出しながら生産性を高めてきた。生産を余儀なくされてきたのは、消費の裏返しであり、欲望の顕れである。歴史を振り返れば、多くの種族が困窮と飢餓によって死滅し、同時に強力で貪欲な種族が弱肉強食という競争原理を生き残ってきた。そして今、ほんの一握りの強力で貪欲な経済人たちが富裕層を形成している。なぁーに、支配層が君主から経済人に移っただけのことよ。
人類の経済政策は、いまだ消費拡大と人口増加を煽ることしか知らない。しばしば偉大な才能が過ちに利用され、その能力の程度に人類の負の遺産を生みだしてきた。そこには、君主の暴走や官僚的腐敗など、必ず政治との結びつきがある。いまや、政治が必然的存在なのかも疑わしい。社会人類学者レヴィ=ストロースは、原始文化の研究において「首長の政治力は、共同体の必要から生まれたものではないように思われる」と語った。ニーチェ風に言えば、余計な人々というわけだ。政治屋は政界だけに存在するのではない。集団社会の存在するあらゆるところに寄生する。比較的ましな世の中にしたければ、才能豊かな人々の創造力に委ねて、凡人が邪魔をしないことだ。だが、凡人ほど知識で武装して、存在感を強調する。乏しい能力ほど他人に認めさせようという欲望が働く。これが政治屋気質というもので、ここに人間社会の矛盾の根源がある。
政治の歴史を眺めれば、純粋な観念の持ち主が決定的な役割を演ずることは稀である。18, 19世紀には独裁制の醜態を曝け出し、20, 21世紀には民主制の醜態を曝け出す。どんな政治体制もいずれ腐り果てるであろう。では、人類が次に改良した政治体制を獲得するのは何百年先であろうか?既に、人類滅亡へのカウントダウンが始まっているのかもしれない。いずれにせよ、自然法則に逆らう現象は葬られるであろう。政治には絶えず毒を以て毒を制すの原理が働く。
2 コメント:
はじめまして
興味深い記事でした。
はじめまして。コメントありがとうございます。
酔っ払った勢いで書いているようなブログですので、お恥ずかしい限りです。
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