2012-01-08

情報悪魔説

人間界では、ノイズが増幅される現象を「増すゴミ」と呼ぶそうな。もっとも、俗世間では濁らずに「マスコミ」とスマートに呼ばれる。その特徴は、言論の自由を大声で叫びながら、他人の意見を迫害する。そして、なによりも正直者である。けしてデマを流すわけではなく、些細な事実を思いっきり盛り上げ、重大な事実をささやかに報じる。よって、彼らの情報操作は超一流だ!おまけに、クラブとやらを形成しながら、強き者に媚を売り、弱き者をくじく。したがって、落ち目の政治屋は徹底的に叩かれる運命にある。ちなみに、アル中ハイマーも夜のクラブ活動に余念が無い。
...アル中ハイマー著「情報屋理論」より抜粋。

俗世間の圧倒的多数は、残念ながらアル中ハイマーのようなあまり思考しない人々であろう。人間は基本的に面倒で厄介な事を嫌う傾向がある。これだけ情報インフラが発達しながら、いまだにテレビの影響力が強いのは、人間の受動的な性質によるところが大きい。ちなみに、放送とは「送りっ放し」と書く。
情報社会では、情報の質の微妙な差が結果に大きく影響を与える。そして、情報手段が巧妙化し、その手段が目的と化す。大護送船団を形成する大新聞たちが最も洗脳性が高いのは、太平洋戦争時代と大して変わらない。いや、大本営の乱立はむしろ質ちが悪いか。民衆が従来のマスメディアに幻滅し、ソーシャルメディアに走るのも無理はない。だが、そこにも多くのノイズが紛れる。混乱をきたす情報は、欺瞞を目的としたものだけでなく、善意からも生じる。勘違いや誤謬からも偽情報が拡散される。実際、大震災時にかなりのスパムやチェーンメールが出回った。ウォルター・リップマンは、著書「世論」の中で「ジャーナリズムの本質は人間の理性に頼るしかない。」と悲観的に締めくくった。ステレオタイプという現象は人間社会の本質なのかもしれない。かつて情報は、君主制をはじめとする政府側の所有物であった。そして今、民主化が進む中で皮肉にも情報屋の所有物と化す。
ただ、そんな悲観的な状況にあっても言えることがある。それは、情報屋に支配された情報社会を市民が奪い返そうとしていることである。実際、北アフリカや中東で起こった民主化運動は、ソーシャルメディアが引き金となった。肥大していくソーシャルメディアが隠蔽情報を露呈させ、情報の民主化を加速させるだろう。そして、情報発信者が庶民化し、地位や名声といったものに意味がなくなるだろう。ソーシャルメディアは、従来の価値観を破壊するかもしれない。その最終的な目標は、旧体制の破壊であろうか?ただし、人類はむかーしから新しいものに過大な期待をかけてきたけど...

1. 情報量と冒険心
情報社会が高度化すれば、それだけ情報量が増え知識も増えるのだから、賢くなってもよさそうなものである。有識者どもは、世界へ飛び出し、多くを見よ!と助言する。確かに、多くを見聞し、多くを経験することは大切である。旅をすることで、新たな境地を開き、新たな価値観を覚醒させることもあろう。だからといって、現代人が古代人よりも精神が成熟していると言えるのか?古代人よりも知性や理性が優れていると言えるのか?古代よりも、移動手段が豊かになり、情報手段も豊富になったにもかかわらずだ。おまけに寿命まで延びている。ソクラテスの「善く生きる」よりも優れた政治哲学を披露した政治家を、いまだ知らない。アメリカのある大学では、押し寄せる留学生たちの盗作論文に悩まされていると聞く。情報が溢れれば、思考する必要がなくなり、猿真似でも通用するとは、これいかに?冒険の経験から新たな境地を見出せなければ、それは単なる経過に過ぎない...などとアル中ハイマーな貧乏人は僻みを言う。
一方で、建築家ガウディはバルセロナというただ一つの地に留まり作品を集中させた。世界をかけめぐることなく世界を一転させたところに凄みがある。中途半端に世界を知るぐらいなら、足元を徹底的に探求した方が得られるものがあると言わんばかりに。近代社会が生産性を高めてきたのは認めよう。おかげで便利な社会になった。だが、創造性や独創性は孤独より生じ、芸術心は孤独を求める。孤独から思考を発展させる過程は、本質的に変わらないはずだ。

2. 高度な社会と精神の試練
人間社会では、伝統的に社会情勢の変動を察知するために、情報の分析能力が問われてきた。かつて情報を得ることが難しい時代には、情勢の些細な変化を見逃さないために微分的思考が要求された。そして今、瞬時の変化よりも、ノイズに惑わされないために積分的思考が求めれる。
絶え間ない情報の山積が忙殺に追い込み、思考する隙間すら与えず精神を麻痺させる。しかし、自然のリズムは、精神が意図した切れ目切れ目の無音状態を欲する。もし、精神が意図する間もなければ、必然的に絶望という無音状態が訪れる。それはあまりにも静かな状態で、思考すること自体を鬱陶しくさせ、生きる渇望をも失わせる。なぜなら、どん底を知る者のみが生の全貌を知ることができ、死と正面から対峙するようになるからである。芸術的天才たちは、こうした無音状態の反動を利用して、精神を高めるのであろう。そして、思考の深さを測るために、孤独の殻に籠もる。騒がしい社会になるほど孤独愛好家が増えるのも道理というものか。
仲間意識を高めるには、情報の共有ほど効果的なものはない。だが、芸術精神は馴れ合いからは、けして生じない。情報を処理することと、思考することはまったく違うのだ。高度な社会では、生きる者に高度な要求を課す。実体がはっきりと認識できた時代では、感覚的に生きてもなんとかなった。だが、仮想化が進むと、実体がつかめないだけに生き方も難しくなる。そして、しっかり個人を持ち、哲学的思考を持ち、感性を磨きながら直観を信じて生きていくしかあるまい。見識のある専門家の固定化した思考よりも、純粋なガキの直観の方が想像は、はるかに拡がるはずだ。なんにでもなぜ?と喰いつくガキは、最も素朴な哲学者なのだから。

3. 利便性の悪魔と依存症
インターネット接続を権利としている国も珍しくない。基本的人権に崇めている国までもある。確かに、技術は権利を獲得するための手段である。しかし、特定の技術すなわち手段を崇めれば、いずれ誤ったものを尊重するようになろう。なにも、ネット社会が特別に高度な社会というわけではない。社会の一形態であって、社会問題の性格は根本的に変わらない。いくら科学や技術が進歩しようとも、人間精神は置き去りにされたままだ。したがって、特に崇める必要もなければ、特に蔑む必要もない。
新技術に馴染めないオヤジたちが難癖をつけるのも、人間社会の伝統である。一方で、ネット情報を「大衆の叡智」と崇める風潮がある。だが、それも怪しい。真理が多数決に支配されると悲劇だ。いや喜劇か。現実にウィキペディア崇拝者は少なくない。情報の利便性は、エセ情報を拡散させやすく犯罪行為を助長させる。情報の利便性は、思考することよりも検索することに目を奪われ、目的よりも手段を優先させる。ネットに疑問を投げれば、即座に誰かが80点ぐらいの回答をしてくれる。実際、学生が宿題を投げているのを見かける。こうなると、教育の場も宿題の概念を見直す必要があろう。そもそも日本の教育は、思考することよりも生産性を重視してきた。そして、暗記能力が試されてきた。疑問は思考の原点であるはずなのに、わざわざその機会を奪ってどうする。なるほど、思考しない方が幸せというわけか。
社会では、過程をまったく無視して結果だけに目を奪われる風潮がある。ほとんど占い師の思考だ。すぐに結論に飛びつく癖がつくと、ちょっとした想定外にも対処できなくなる。現実に直面する問題には、ほとんどのケースで一般解が存在しない。答えは自分でその場で導くしかない。思考の過程を放棄すれば、情報依存性になるだろう。なるほど、依存できるものがあるだけ幸せというものか。
思考を放棄して情報に振り回されれば、世間は鬱陶しい存在となろう。そして、社会嫌いになり人間嫌いになる。こうして、無理性なアル中ハイマー病患者はアルコール依存症になったとさ。

4. IT系コンサルたちの脅迫観念
高度な情報社会では、情報の優位性を失わせ均衡しそうなものだが、実際には情報格差を助長する。かつて情報は一方的に流されたが、今では情報選択も容易になり、意欲的な個人が知恵として蓄えていく。情報が氾濫すれば、有益な情報を得ることも難しくなり、情報に対する嗅覚という新たな能力が要求される。そして、情報能力は認識格差となる。逆に言えば、認識の立ち遅れを指摘さえすれば、扇動もしやすいわけだ。
利便性の背後には、セキュリティ対策に無防備な人々を蔑む風潮が現れ、自己責任という社会意識が強迫観念にまで高められる。そして、セキュリティ業界が不況になれば、自らウィルスもどきもをばら撒けば存在感を強調することもできる。通信業界の横暴も目立つ。通信サービスは、課金される方向に誘導され、面倒くさがり屋の年寄りが餌食となる。通信契約込みで、iPadなどの端末を無料で配るという誘惑は、しっかりと高額な通信費が請求される仕組みになっている。外部通信を遮断してWiFi端末化しておけば、元はとれそうだけど...ゴホゴホ!いずれにせよ、知らないユーザがボラれる構図は変わらない。
ITコンサルたちは、フォローされなければ意味がないとか、上位にランクされなければ存在すらしないなどと脅しやがる。コンサルを「混乱させる猿」と誰が言ったかは知らん。いや、「混乱する猿」だっけ?
しかし、日記という文化はネットのない古き時代からあった。誰に見せるわけでもなく、誰に読まれるわけでもなく、ひたすら自己満足に浸る世界だ。自己啓発のために書く人もいるだろう。注目数にこだわる、つながりにこだわる、精度にこだわる、完成度にこだわる、はたまた愚痴のはけ口にする、これすべて自己満足の世界である。そぅ、人間は自己満足の世界を生きることぐらいしかできないのだ。匠たちは、自己満足のレベルを最高度に求めるように自らに課すことのできる、純粋な知性の追求者と言うことができようか。
仮想化社会は、友人の概念までも変えつつある。いまや顔を知らない仲間が大量に創出される。フォロー数で友人の数を競い、フォローがなければ孤独に苛む。しかし、人生において、たった一人の親友を得ることが、どれほど難しいことか。少数の強い結びつきは、多数の弱い結びつきで補われる。なるほど、エネルギー保存則としては等価というわけか。都合が悪くなれば、さっさと縁(線)を切ればいい。もともと無線か。人間嫌いには、実に都合のいい社会である。

5. ヤラセの専売特許は誰のもの?
原発事故後、某電力会社の原発世論を誘導するヤラセ問題が明るみになると、大手マスコミはこぞって大批判を展開した。確かに、けしからん!だが、ヤラセという手法は、昔から積み重ねてきたマスコミや企業広告の得意技である。ネットの売れ筋やオススメといった統計情報も怪しいもんだ。なるほど、報道屋は自分の専売特許を侵害されたことに憤慨しているのか。
大手マスコミは、自分に向けられる批判を最小限にしか報じない。いや、もみ消す。あるいは、現在進行中の民衆にとって不都合な情報を知りながら、ずっと後になってから知らなかった振りをして大批判キャンペーンを展開する。なにも真相が週刊誌やネットなど他のメディアにリークすることは驚くに値しない。それが彼らなりの正義なのだから。そもそも、民主主義の根幹的手段となっている選挙がヤラセではないか。テレビが政治屋たちの選挙運動に協力しているではないか。

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