2012-01-29

"父の国 ドイツ・プロイセン" Wibke Bruhns 著

およそタイトルから、想いもつかない物語に出会うことがある。
著者ヴィプケ・ブルーンスは、イスラエルの通信員となり、祖国に向かって主張しようと学んできた。その彼女が、なにげなくドキュメンタリー番組を見かける。ヒトラー暗殺未遂事件に関与した廉で処刑された父ハンス・ゲオルクの姿が映った裁判フィルム、そぅ、あの忌々しいフライスラー率いる民族法廷のワンシーンだ。この映像から11日後、父は吊るされた。プレッツェンゼーの処刑場で食肉を吊す鉤にかけられて。物心ついた時、父は亡い。家族も口を噤んできた。父にいったい何が起こったのか?どんな人物だったのか?ヴィプケは、大量に保管された父母や祖父母の手紙、日記、写真を読み解きながら、史料や資料を渉猟していく。本書は、プロイセン王国からナチス政権下に渡って、あるドイツ人一家に起こったことを綴った物語である。ハンス・ゲオルクをHGと称しているあたりに、ナチ党の父と距離を置きたい著者の気持ちがうかがえる。それでも、最後には身内としてその立場を受け入れようと努力する。
ところで、伯爵シュタウフェンベルク大佐が実行した事件については、今もなお、その意義について議論が絶えない。1944年の時点でヒトラーの悪魔性を知っていた者は軍部の一部にしかなく、ドイツ国民の大半はまだ気づいていない。やれることがあるとすれば、暗殺ぐらいであろうか。だが、批判も少なくない。あまりにも計画が不備だったこと、放送局や通信網の占拠の遅れ、国防軍に影響力のある将軍の不在、ヒトラーに代わる政治家の不在...といった指摘が聞こえてくる。ヒトラーをより一層狂気に向かわせたという見解もある。実際、処刑されたのは加担者とその関係者だけでなく、理不尽にも、ただ疑われた者や反政府分子などにまで及んだ。加担者たちも実現性に疑問を持っていたかもしれない。ただ言えることは、命を懸けて狂気に立ち向かった人々がいたということである。それが自由意思か運命かは別にして。

ヒトラーと国家主義者を倒し、それとともにドイツとヨーロッパを蛮行の危険から救うため、すべてのことを為そう、それこそが我々の義務であり、名誉となるであろう。
...トレスコウ少将と首謀者たち

なんでもいいから変革してくれ!という国民の態度は、大きな危険性を孕んでいる。第一次大戦の敗北で誇りが傷つけられ、おまけに到底不可能な賠償が課せられドイツ経済は瀕死の状況にあった。国家社会主義の正体がどんなものかも分からないまま、国民にはなんとなく新しいものが到来するように映ったことだろう。それでも、ユダヤの星や強制移送される光景を目撃した者もいたはず。もっと早くから懐疑的な者も少なくない。
1931年、父ハンスと祖父クルトは好奇心でゲッペルスの演説を聞きに行き、「お笑い種の集会、父も同様に拒否」と感想を残す。にもかかわらず、父ハンスは親衛隊に入り、母エルゼはアーリア系の血筋であることを誇らしく署名している。この事実にヴィプケは困惑する。ユダヤ人襲撃事件「水晶の夜」には、さすがに母もドイツ人であることが恥だと嘆いている。戦争に突入すると、新聞にユダヤ人に対する蛮行が掲載されても、日記にはその言及が見つからなくなる。無関心病か?民族裁判の時にゲシュタポが押収して、肝心なところが見当たらないのかもしれない。
なにもナチ党員だからといって、悪魔を容認したとは言いきれない。多くのユダヤ人を救った実業家オスカー・シンドラーもナチ党員だった。ハンスも実業家だったので共通点があるかもしれない。ヴィプケは父に対する激しい批判を現代女性の感覚で綴っていくが、やがて父を弁護する気持ちも合わせ持つようになる。いや、信じたいと言った方がいいだろう。いずれにせよ、激動期に向かって、世代間を越えようとした彼女の冒険には感服する。
ところで、歴史を現代の価値観だけで批判することは危険であろう。単純に過去を否定できるということは、究極の価値観に到達したことを自認したことになりはしないか?過去に狂気を経験したからこそ、今の感覚が持てる。人類の歴史は、人の思い上がった価値観の繰り返しであった。いつも過去は現在に蔑まれ、いずれ現在も未来に蔑まれるだろう。我が国においても、今現在、狂気していないと言い切れるだろうか?首相がころころ変わり、政治が機能しないこの時代を。

国民が一斉に狂気した時代を検証することは難しい。我が国にも、平和論を唱えようものなら非国民と罵られる時代があった。
ちょいとドイツの歴史を紐解くと、「全権委任法」を通すかと思えば、「大平和演説」で全世界から喝采を浴び、はたまたジュネーブ軍縮会議と国際連盟からの脱退を表明して民族意識を高揚する。不平等なヴェルサイユ条約やルール地方における嫌がらせなどで、ずたずたにされた民族の誇りを復活させれば、反ユダヤ主義などちっぽけな問題にしか映らない。平和主義者なのか?軍国主義者なのか?などと議論している隙に巧みにヒトラー教へと導かれる。その間、莫大な賠償やハイパーインフレによる大失業で暴動が頻発しているのを、アウトバーン建設など大規模な公共投資によって経済問題をあっさりと解決する。そして、自動車税の撤廃で庶民はそこそこの価格で自動車が買えるようになる。国民の中にある懐疑的な思考を凌駕するほどの経済復興を成し遂げれば、ヒトラーは救世主とされた。
更に、1934年ヒンデンブルク大統領が死去すると、大統領と首相の双方の権限を掌握して総統を名乗る。しかも、再度の国民投票を実施して90%近くの支持を得た。そぅ、国民は合法的に独裁者を歓迎したのだ。現代感覚に照らせば、全権委任法が通過した時点で終わっている。ヒトラーを神として崇めなさい!と法律で定めれば、法治国家を放棄したようなもの。ドイツ国民に軌道修正のチャンスがあったとしても、ヒトラーに対抗できるほどの政治家がいたであろうか?
ただ、ヒトラーが掲げた大ゲルマン思想は真新しいものではなく、既にヴィルヘルム2世によって宣言されていた。反ユダヤ主義にしても古くから根強くある。少なくともマルティン・ルターあたりであろうか。ヴィプケの知るかぎりではリヒャルト・ワーグナー以降だという。このような歴史背景もあって、本書がプロイセン王国時代に遡ってヒトラー政権を考察しようとする試みは興味深い。ヒトラーはヴィルヘルム2世の時代を繰り返しただけという印象か。

1. クラムロート家
父ハンスと娘ヴィプケは、クラムロート家の一族。クラムロート家は神聖ローマ帝国時代から市代表団の一員だったという。1790年、商人ギルドの流れからハルバーシュタットにIGクラムロート商事会社を設立。19世紀、プロイセン王国商業顧問官に任命される。IGクラムロートは、帝国主義とともに繁栄してきた。
祖父クルト・クラムロートは一族で初めて軍務に就いたという。商人出身となると、騎兵中隊の一員ぐらいにしかなれない。クルトは、金の力で馬、式服、士官クラブへの出入り、武闘の修得をし、やがて将校まで昇進する。富裕市民層が貴族の称号を求めてユンカー化していく時代でもあるが、クルトはその典型というわけか。
クラムロート家には正統な血統を守る伝統があるという。ユダヤ人、黒人、アラブ人との結びつきを拒絶し、南ドイツ人でさえ拒否する。クルトは、カール大帝を家系図に取り込むための調査で労力を注ぎ込んだとか。神聖ローマ帝国の亡霊に憑かれているのか?これがプロイセン気質というものか?おまけにヒトラー時代には、クラムロート親睦会の基本法にアーリア民族主義の条項を加えている。これにはヴィプケも呆れる。

2. 第一次大戦
当時のドイツは、誰もが戦争を望んだという。早期に解決すると楽観的で、改革や利益を得るには戦争が手っ取り早いという風潮がある。ヴェルヘルム2世の掲げる「ドイツ国民のための生活圏」「大ゲルマンの中央ヨーロッパ」という謳い文句は、そっくりヒトラーに受け継がれることになる。
クルトは、甥の戦死を知っても、いささかの驚愕の気配も見せない。家族の命よりも名誉が重んじられた時代である。血気に逸るハンスも入隊。しかし、東部戦線の泥沼化は、前のナポレオンごとく、後のヒトラーのごとく。そして国民総力戦へ。パンは配給制、路面電車や軍事工場は女性の職場となる。英雄ヒンデンブルクまでも占領地域の住民から毟り取れ!と命令する。
皇帝ヴィルヘルム2世のもとには、企業主ヴァルター・ラーテナウ、船主アルベルト・バリン、銀行家マックス・ヴァルトブルクといった「皇帝ユダヤ人」がいたという。ヴィルヘルム2世は、彼らユダヤ人の経済知識を高く評価したが、保守的なキリスト教徒で生涯反ユダヤ主義であり続けた。やがてヴェルヘルム2世の権力は軍部に削られていき、ヒンデンブルクと幕僚長ルーデンドルフによる軍部独裁となる。戒厳令がしかれ、出版の検閲、集会の監視、任意の逮捕、即決裁判が実施され、行政機関にも軍部が介入する。
1917年、ロシア革命でニコライ皇帝が追われるとブレスト・リトフスク和平交渉が始まる。しかし、翌年ロシアの全権トロツキーが和平交渉を打ち切ると、バルト海沿岸のドイツ人を赤軍から解放するという名目で、エストニアとリーフラント(ラトビアあたり)に侵攻する。ハンスはバルト海沿岸の住民たちがドイツ軍に熱狂する様子を興奮気味に記している。だが、クルトは大人だ、彼らはドイツ軍を歓迎しているのではなく、独立を願っていると諌めている。

3. ドイツ革命とヴェルサイユ条約
イギリスの海上封鎖に対して、皇帝が巨大おもちゃを出し惜しみ、遊んでいる艦隊がある。1918年、海軍提督ラインハルト・シェアを中心に決起し、イギリス海軍へ自殺的な特攻を命じる。しかし、ヴィルヘルムスハーフェン港の水兵たちが反発して革命の発端となる。海軍将校たちにとってみれば名誉の死を求めても、水兵たちには関係ない。抵抗運動は、またたくまにベルリンに達し全ドイツに広がる。社会民主党員フィリップ・シャイデマンが国会の窓から独断でドイツ共和国を宣言。マックス・フォン・バーデン公爵が宰相となり、フリードリヒ・エーベルト大統領が就任。ここからワイマール共和国が始まり、休戦協定に調印した。
しかし、クルトとハンスは、この動きに冷ややか。ドイツ全人口に占めるユダヤ人の割合は1.5%に過ぎないが、政府の80%はユダヤ人であり、ユダヤ・フリーメイソンによる世界陰謀説だとしている。ルーデンドルフはというと、スウェーデンへ亡命し、後にヒトラーと組むことになる。しぶとい野郎だ!
終戦後、社会主義を唱える集団が入り乱れて、論争が頂点に達する。右寄りの急進的義勇軍が、左寄りのマルクス主義によるスパルタクス団の蜂起を粉砕。ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは暗殺される。ドイツは内乱状態へ突入。政情は右へ右へ。ヴェルサイユ条約に対して、ドイツ全土で異口同音に憤激の叫び。現実味のない莫大な賠償金、軍備は制限され潜水艦と空軍の保有禁止。おまけに、戦争にあまり関係のない国々までイギリスに同調して、ヴェルサイユ条約に乗り込んできた。ヴェルサイユ条約の発効から二ヶ月後、カップ一揆が発生。政府はゼネストに活路を求める。

4. ナチスの台頭
1923年、フランスとベルギーによるルール地方の占領が本格化する。ドイツが木材と石炭の引渡しを履行しなかったという口実で、10万の兵が進駐。政府がルール地方におけるすべての賠償行為を停止すると宣言すると、途端にルール地方は麻痺する。鉱山労働者はフランスの命令に従わずストライキ。彼らの賃金は国家が保障しなければならない。国立銀行は湯水のように資金を送り続け、国家財政は悪化の一途。インフレはギャロップで駆け込み、とうとう兆の単位へ。なんとステーキが1兆マルク!
そして、エーベルト大統領が死去すると、ヒンデンブルクが返り咲く。ヒンデンブルクとくれば戦争を神格化し、前大戦で敗れたのを彼のせいにする人は一人もいないという。
トーマス・マン曰く、「わが民族が先史の勇者を引っぱりだしてきて元首に選ぼうなんて気を起こさなかったら、私もこの民族は政治に関しては躾がなっていると誇れるのだが」
この頃からヒトラーたちが先導し、愛国的な蜂起を頻発させる。ミュンヘン一揆では、ヒトラーとルーデンドルフの独裁者同士が手を結ぶ。この騒動が鎮圧されると、今度は合法的に政権を奪取することを目指し、ナチ党は選挙で躍進する。ルーデンドルフが選挙イメージに悪いと思ったかどうかは知らんが、ヒトラーとの関係は悪化する。更に、レーム事件が発生。政権を掌握すると、レーム率いる突撃隊のような粗暴な連中が邪魔とばかりに粛清する。レームたちは親衛隊によって抹殺されたわけだが、ハンスも親衛隊から身を引いている。その理由は会社の負担だとしている。
ヒトラーユーゲントで労働義務が制定されると、ハンスの子供たちも入団する。次女ウルズラは、BDM(ドイツ女子青年同盟 = ヒトラーユーゲントの下部組織)」のグループリーダーになり、600人の少女団員を率いる。ニュルンベルク党大会では、「オートバイは見ものだよ、800台のフォーメーション走行。すごい!!!」と興奮する。

5. 第二次大戦
1938年、オーストリア併合は、投票の99%をもってドイツとオーストリア双方の国民が歓喜する。ノルウェーの新聞は、こう書いている。
「これがオーストリア人の凌辱であるなら、オーストリア人はたぶん凌辱されるのが好きなのだ」
ミュンヘン協定後、大半のドイツ人は、ヒトラーがちょいと脅すだけで領土を差し出してくれると思っている。しかし、ハンスとエルゼは、海外紙を読んで戦争になることを予感している。もし、海外紙を読まずに国内だけに目を向けていたら、一緒にはしゃいでいたのだろう。
1939年、ポーランド侵攻。当初、ハンスは、ポーランドのやつら!と呼んでいるが、やがて互いに勇敢に戦ったとして、やつら!とは呼ばなくなる。後方では、親衛隊がユダヤ人やポーランド人の教師、弁護士、牧師、地主などエリート層の抹殺にかかる。別の方角からはソ連が侵入してきてポーランド将校を殺害、あの悪名高いカティンの森の虐殺である。そして、ゲットーが新設される。ハンスは、目を覆いたくなるようなワルシャワの破壊ぶりにショックを受ける。
1940年、ハンスは特別任務を命じられる。穀物商人という文民の身分でコペンハーゲンへ。カナリス提督の国防軍防諜部の作戦で、デンマークとノルウェー占領に向けた諜報活動である。商売上デンマークの社交界に知人が多く、デンマーク語も堪能、妻エルゼがデンマーク人という、うってつけの人物なのだ。占領作戦「ヴェーザー演習」が始まると、デンマークは戦うことなく進駐され、ノルウェーもあっけなく占領される。続いて、中立国オランダ、ベルギー、ルクセンブルクを侵略。小国が中立であろうとする葛藤の隙を狙って、電光石火のごとく侵略。後ろ盾のイギリスには有無も言わせない。
ここで注目したいのは、デンマークの占領政策は他の国と違って緩やかなものだったという。憲法を有効のままとし、国王、政府、議会も継続され、軍政もしかれなかった。軍隊も無傷で武装解除されなかった。これは、一つの実験である。被占領国に自治を許した方が公安の節減にもなる。デンマークの農作物は重要で、ドイツの食糧総需要の10%ないし15%を占めていたという。
1941年、バルバロッサ作戦とともに、ハンスは東部戦線へ。ハンスの又従兄弟ベルンハルト・クラムロートは、次女ウルズラと結婚。この娘婿は、後にハンスとともに処刑場で吊るされることになる。この頃、ヒトラーと意見の合わない将校たちが一斉に罷免され、その将校の多くが暗殺未遂事件に関与している。
1943年、スターリングラードで第6軍が降伏すると、国民はショックを受ける。エルゼも呆然。前線のハンスはベルビチンが必需品だと訴える。泥沼の軍隊は覚醒剤に頼る世界へ。国内でも睡眠薬に頼る人が続出。
「誰も彼も病気です、でも、どうしろと?戦争が病気であり、国が病気なのです。どうして人間が健康でいられるでしょう。」

6. 1944年7月20日の暗殺未遂事件
10日前、ハンスは、シュティーフ少将、フェルギーベル通信兵大将、シュタウフェンベルク大佐、そして娘婿ベルンハルトと会合をもったそうな。これをゲシュタポは見逃さない。娘婿が加担者というだけで充分な証拠だ。フライスラーは、北欧神話の戦士ベルゼルケルのような振る舞いで、大声でわめき、罵る。人民裁判では、どんなに反論しようとも、敗北主義者!裏切り者!と呼ばれるようにできている。この不快極まる見せ物は、ティーラック法務相ですら威厳が損なわれたと嘆くほど。
二人が拷問を受けたのかは分からない。ベルンハルトはあっさりと罪を認たので、受けていないようだ。ハンスは、受けていないことを祈るばかり。だが、最高裁検事長エルンスト・ラウツの起訴状が断片的に得られたところでは、ハンスには非常に手こずったとある。先鋭化する拷問がどんなものかは知らんが、トレスコウ少将の副官シュラブレンドルフがそれを描写している。睡眠略奪、疲労運動、鞭打ち...そんなものを自分の父親に重ねたくはないだろう。判決文は涙なしには読めないと。1944年8月15日、二人は絞首刑を宣告される。ベルンハルトは爆弾調達の廉で、ハンスは密告しなかった罪で。
ヒトラーの命令は「屠られた家畜のように吊るせ!」...そのように事は運ばれた。受刑者は、死を確実にするために20分間吊るしておくことが決まりだそうな。しかも、ゆっくり締めることになっているという。その光景は、細い輪をかけ、腰まで服を脱がせ、持ち上げて鉤に吊るしたとある。死と格闘している間、ズボンをつかんで下に引っ張るのだそうな。まだ死に至っていないうちに、薄ての黒いカーテンが引かれ、次の死刑が執行される。ヒトラーが見た写真には、絞首刑になった人たちは裸にされていたという。即座に銃殺された実行犯たちの方が、まだしも幸せだったというわけか。
被害は家族にも及ぶ。著者の兄ヨッヘンは、国防軍から追放され「懲罰部隊666」に放り込まれた。ハンスの弟で教育省上級参事官クルト・ジュニアは、悪名高い「ディルレヴァンガー部隊」へ転属、民間人への虐殺、略奪、婦女暴行などの蛮行に走り、国防軍はおろか武装親衛隊の間でも嫌われた部隊である。財産は家財道具、書籍、絵画、そして子供のおもちゃまでゲシュタポに押収される。
娘は父に問う。「どうしても理解できないのは、どうすればあなたみたいな人がナチスの手に落ちることができたの?」
確かに、時代が違う。だから、思い上がって過去を蔑んでいるのかもしれないけど...

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