アリストテレスが人生の究極の目的を探求したのは、ソクラテスの「善く生きる」という思想から受け継がれるもので、この点においてプラトンとなんら対立するところはない。そして、現在においても、政治哲学の骨格となっている、はず...
尚、「ニコマコス倫理学」は、息子ニコマコスが編纂したとされる書で、厳密にはアリストテレスの著作ではない。
議論では、善とは?幸福とは?徳とは?思量とは?選択とは?そして正義とは?と思考を掘り下げながら、アリストテレスの二つの哲学原理を顕にする。それは「中庸の原理」と「卓越性の追求」である。
中庸とは、両極端を悪とする考えである。精神を探求するにしても、ほどほどでなければ精神病へ追い込むことになる。真理は、ほどほどに見えるぐらいが幸せというものか。人間を極めるとは、人間を失うことなのかもしれん。
一方、卓越性とは、徹底的に思量することである。俗世間では、考え過ぎは良くないと意見する人がいる。だが、考え過ぎるぐらいでなければ卓説性は得られまい。芸術の境地とは、そういうことであろう。そもそも考え過ぎと思う時点で思考の頂点に到達したと自負するようなもの、神にでもなった気でいることになりはしないか?中庸を知るためにも、両極端を知る必要がある。
そうなると、中庸と卓越性とは、なんとも矛盾する思考にも思えるが、まったく違和感はない。深く思考を試みても、結論が見つからなければ、保留しておけばいい。どうせ結論なんてないんだから。そのぐらいの覚悟がなければ、匠の世界は成り立つまい。すなわち、人生とは思考の限界実験である。最も危険なのは、思考停止に陥ること。知ることについては貪欲を求め、知ったことについては調和を求める。なるほど、矛盾とは心地良いものと、そうでないものがあるらしい。心地よい矛盾ほど、より真理に近いということになろうか。自然界に矛盾という原理が存在しなければ、哲学は成り立たないだろうし、精神も成り立たないのだろう。自己が第二の自己を求めて永遠に苛むのは、精神を獲得した知的生命体の宿命であろうか?
さらに、三つ目の思考原理として「持続性」を付け加えておこう。善を持続することは難しい。だが、悪を持続することも難しい。快楽に耽ることが悪とはいえ、永遠に続けば享楽地獄となる。それは、精神的、肉体的疲労からくるものであろうか?怠惰に浸っても、すぐに退屈病に襲われる。苦痛は、避けても、避けても、やはり苦痛ならぬものが苦痛となる。愛にせよ、憎にせよ、休息にせよ、人間にとって執念とは最も縁遠きものかもしれん。人生とは挫折の繰り返しよ。天才の能力とは、持続力であろうか。いや、永遠に愛する自信はあるぜ!ただ、ちょいと対象が変わるだけのことよ。
最上なのは、みずからすべてをさとるひと、また、よき言葉に従うひとも立派なもの。だが、みずからもさとらず、他に聞くもこころにとどめないのは、せんなきやから。
...ヘシオドス著「仕事と日々」より。
「人間は本性上市民社会的(ポリティコン)なものにできている」
アリストテレスは、善の活動の中でも政治におけるものを最高善に位置づけている。そして、政治的な善とは、民衆の幸福を目的とすることで、自足的でなければならないとしている。自足とは、個人にとって充分という意味ではなく、全市民をも考慮した上で充分ということ。では、幸福とは何か?そこに共通解が見つからないことが、いまだに政治をややこしくしている。幸福を欲望の権利と同一視して、多数決で決定するならば、社会的弱者を虐げることになる。少なくとも、快楽や地位や富に存するものではなさそうだ。
「最高善が幸福であることは万人の容認せざるをえないところ。だが、幸福の何たるかについては異論がある。」
アリストテレスは、卓越性を知性的卓越性と倫理的卓越性に区分し、倫理的卓越性の高まりを求める。倫理的卓越性とは、その名を徳と言う。そして、徳とは、中庸であるとしている。
しかし、アリストテレスは奴隷制度を肯定した人物として、よく批判される。「生まれつき奴隷」を唱えやがったと。だが、本書を読む限りその印象はない。奴隷とは人が人を所有することになるが、所有の概念は個人によって生じるのではなく、社会との関係から生じるとしている。社会との関係とは、君主によって決定づけられるものなのか?そのようにも解釈できるが、ちと違う。君主と僭主は同じ単独支配だが、似ても似つかぬものとしている。君主は自己の利益を考慮せず万人の利益を考慮するが、僭主はまったく反対のことをすると。君主には最高善が前提されるわけか。君主が神のような人物であれば、奴隷であっても不都合はないのかもしれない。だが、歴史に登場したあらゆる君主は、残念ながら僭主であった。それとも古代ポリス時代には真の君主がいたというのか?
尚、国政の形態には、君主制、貴族制、立憲民主制または共和制の三つがあるという。最善なのは君主制で最悪なのは民主制だとし、僭主制は君主制の逸脱形態としている。現実に、社会的な力関係が生じるのは避けられない。組織構造には必ず上下関係があるし、取引関係も顧客に従わなければ成り立たない。あるいは、人生経験や能力の違いから人を敬う気持ちが自然に発する。現在ですら、労働者は企業の半奴隷となって働き、下請業者は半強制労働を強いられる。会議の休憩中、大会社の連中が連休に何をするか雑談している時、こちらは工程の遅れを取り戻す思案をしているものよ。どんな人間だって何かに依存しなければ生きてはいけないし、依存するものに対して奴隷となって生きるしかあるまい。もしかして、アリストテレスは差別制度を容認したのではなく、人間の社会的性質を述べただけなのか?結局、本書は最高善の探求を政治家に求めて終わっている。「より善き人間たらしめようと欲すること」、そうした人間が政治をやるべきだと。「ニコマコス倫理学」は、アリストテレス著「政治学」の前段に位置づけられているわけか。この古典にも挑戦してみる必要がありそうだ。プラトン著「国家」と合わせて...はぁ~道は遠い...
1. 幸福とは
幸福が、卓越性や学習や訓練によって生じるとしても、やはり神的なものに属するところがあると認めている。美しく生まれるのも、健康な身体であるのも、何らかの恵があるからであろう。動物に生まれるのも、植物に生まれるのも、人間に生まれるのも、やはり神の仕業であろうか?人間に生まれることが、本当に幸せなのかは知らんが。
さて、幸福とはいかなるものか?ソロンの言葉に「その最後を見とどける」というのがあるそうな。人生を評するには死後でなければ語れない。だが、死者は語れない。人生とは自己評価もできないものなのか?なるほど、人は死に顔を曝しながら、生き残った者に愚痴られる運命にあるのよ。生き残った者が死者にまで価値観を押し付け、幸せそうな顔をして死んでいったなどと後付けで評す。なんと身勝手な、そして不幸のレッテルを貼るがいい。少なくとも、生きている間は生きている者同士で付き合いたい、死んだら死んだ者同士で付き合い、生きている者に眠りを邪魔されたくないものだ。
人生とは、大半が自己満足の世界なのであろう。そして、その瞬間、瞬間で味わい、自己評価するしかあるまい。とても他人が評価できるものとは思えない。幸福とは、生きているその瞬間の精神活動ということができそうか。幸福な人は、卓越的に活動し、外的な環境に恵まれ、しかも、それが生涯に渡って続く、ということはできるかもしれない。そして、相応しい死に方をするというのを付け加えておこうか。
2. 徳とは
徳とは、卓越性だという。そして、知性的卓越性と倫理的卓越性を区分し、前者を経験的で後天的なもの、後者を習慣づけによって生じるとしている。ちなみに、「倫理的」(エーティケー = エートス的)という言葉は、「習慣」(エトス)から転化したものだそうな。倫理とは、習慣すなわち生き方、そして最も重要な徳とは、人の生き方ということになろうか。
「倫理的な卓越性ないしは徳は本性的に与えられているものではない。それは行為を習慣化することによって生れる」
そもそもの政治の起こりとは、「慣習 = 倫理的卓越性 = 徳」という図式から生じたのかもしれない。いくら政治で成文法を整えたとしても、それが慣習とならなければ、法律として機能しない。しかし、政治家は、条文の解釈をめぐって、いつも法律の眼を掻い潜る。これが「政治家の原理」だとすれば、「政治の原理」と似ても似つかぬものということになる。なるほど、政治家は法律の限界実験をしているのか。
この時代、卓越性というものについて最も勉強したのは政治家だという。市民は、その善き人の卓越性に耳を傾け法律に従い、人間たらしめることにあったと。だが、今ではその面影もない。ユーロ危機がギリシャに端を発したのは民主政治が衆愚政治と化した結果であろうか?
3. 中庸とは
倫理的卓越性とは、情念や能力などではなく、中庸を極めた状態だとしている。物事には調和と適合というものがある。中庸とは、それを悟った自然体とでも言おうか。恐怖と平然に関しては勇敢が中庸、快楽と苦痛に関しては節制が中庸だという。財貨の贈与と取得に関しては、寛厚が中庸で、過超と不足は放漫とケチだという。名誉と不名誉に関しては、矜持が中庸で、過超と不足は倨傲と卑屈だという。中庸は穏和であり、その対極は怒りんぼと意気地なしだという。
「両極端は中に対しても、また相互の間においても反対的である」
ただし、中庸を、無感覚と解するのでは違う。プラトンは、まさに悦びを感ずべきことがらに悦びを感じ、苦痛を感ずべきことに苦痛を感じることが必要であると説いた。これが、教育というものであろうか。徳にとって、快楽も苦痛も知る必要があるのだろう。となると、SもMも知らなければ、真の快楽も分からないというのか?この実験は、癖になりそうで怖い!
4. 正義とは
正義とは、どのような中庸の状態であろうか?正義は、適法的で均等的だとしているが、必ずしも善ということにはならない。このあたりに最大多数の幸福と多数決の問題にぶつかるのだろう。実践的には、運不運に左右される事柄に対する是正という意味での善ということのようだ。法は、理性を実践的な方法で導く手段ではあるが、多少の補正をしているに過ぎないのだろう。せいぜい、不均等を是正すること、いや、是正しようと努めているぐらいか。必ずしも、政治的正義とあらゆる善が一致するわけではない。政治では、最善策よりもそこそこ良策の方が機能する。歴史には、法は徳よりも優先された事例がある。諸葛亮の「泣いて馬謖を斬る」とは、まさに軍律の遵守を優先した結果である。人材の少ない蜀の国にあって、あえて愛弟子を処刑した。権力者だからこそ庶民に模範を示し、自己の徳を犠牲にした。それが理不尽であっても。このあたりが法の限界であろうか。
過多をむさぼることが悪徳だとしても、必ずしも不正義にはならない。だが、非難が巻き起これば、邪悪も不正義となりうる。法が裁かなくても、社会の眼が裁くことはよくある。こうした社会機能が法を補っているのだろう。しかし、民衆はよく暴走する。
「ひとびとは、不正をはたらくということは自分の勝手になることだ、だから正しい人間たることも容易なことだと思っている。」
そもそも、徳全般に対する正義なんてものは、存在しないのかもしれない。正義が実践において生じるならば、その限界は法の限界に近いところにありそうだ。
「法律は政治学の作品のごときものである。」
いや国家の作品、いや国民性のバロメータと言った方がいいかもしれない。
また、実践的な正義として、配分的正義と矯正的正義を議論している。配分的正義は、「幾何学的比例」という見慣れない言葉を用いている。三角形の底辺と高さのような、二つの要素の比例関係から全体の比例関係が生じるような関係で、現代風に言えば等比級数的というイメージであろう。現実に、所得税が累進課税であるのは、この原理からきている。対して、矯正的正義は、「算術的比例」に基づくという。矯正的とは、罪人を罰するための量刑などがこれにあたる。ただ、現在の量刑が比例的かどうかは知らん。無期懲役刑をくらっても、十年もすれば仮釈放で出てくるとは、これいかに?あるいは、死刑が随分と軽んじられているのか?アリストテレスの時代は、裁判官の裁量で比例関係を保つことができたのであろうか?
5. 愛(フィリア)とは
愛は、卓越性と切り離せないという。一般的に、愛は善とされる。おそらく愛も徳から生じるのであろう。互いに親愛であれば、正義など無用であろうか。ただ、愛と憎は背中合わせにあり、これほど両極端を行き来する情念も珍しい。愛することは難しい。いや、そんなことはない。夜の社交場では速愛法なるものを実践している、者がいると聞く。教祖様にいたっては誰とでも愛し合い、合体してまで身も心も蝕む。愛の価値を下げやがるのは友愛型人間ってやつか。
さて、愛にも三種類あるという。善きもの、快適なもの、有用なもの、に対する愛。しかしながら、善のための愛が最高だという。愛は、最も永続するものに価値があるのだろう。家族愛や郷土愛のような無条件に生じる愛もある。では、恋愛は永続するだろうか?そりゃ、するさ。ただ相手が変わるだけのことよ。愛のためなら(小)悪魔も必要さ。現実に、愛の関係には優劣がある。金銭的に服従したり、生活的に依存したりと。あなたなしでは生きられない!なんて、うまい事を言う。優劣関係にすれば、だいたい逆転するけど。力関係による愛、政治力による愛、慣習による愛、いずれも生活目的を結びつけるだけで、幻想ではないのか?人間は人間を利用しながら生きている。これも愛か?では、卓越性に即した愛とは?卓越した愛は永続的だという。永続する愛といえば自己愛が基本であろう。自分を愛せずして、どうして人を愛せる。だが、アリストテレスは、愛の最高位は国家共同体に対する愛だという。親友や家族よりも優先されるとも解釈できる。ちと危険か。
「ひとは自愛的でなくてはならない。だが世人の多くがそうであるごとき意味においては自愛的たるべきでない。」
んー...難しい言い回しだ。人類の歴史では、政治を優先するあまりに愛国心を煽った例が実に多い。戦争の原因のほとんどは愛国心から生じてきた。アリストテレスは、紛争もまた「一方的優位性の上に立つ愛」だとしている。憎しみも愛の裏返しとなれば、博愛主義者も喜ぶだろう。
好意もまた、愛の類いのように思われる。相手が気づかない場合もある。だが、好意は愛ではないという。好意には切実さが欠けていて、欲求が含まれていないからだそうな。愛は行動を伴い、好意は眺めるだけというわけか。憧れも好意に含まれるのであろう。見守るだけの方がはるかに災いを避けられそうだけど。
「愛においては、愛されるよりも愛することが本質的である。」
愛は、報われないと苦痛になる。愛が深まると、相手の価値観を否定することになるとは。真の愛とは、見返りを求めいないということか。すこし愛して、ながーく愛して!というのが、真理かもしれん。これも中庸の原理であろうか。孫に囲まれ、愛する者に見守られて死にたいというのが普通の感覚であろうが、所詮、自己愛の強調でしかない。孤独死を受け入れ、共同墓地に入るのを覚悟する、そんな覚悟を自然に受け入れられる人こそ、強靭な理性の持ち主なのかもしれん。死して屍拾う者なし!
2012-09-02
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「国政の形態には、君主制、貴族制、立憲民主制または共和制の三つがあるという。最善なのは君主制で最悪なのは民主制だとし、僭主制は君主制の逸脱形態としている。」
...と書いた。
ところが、アリストテレスの「政治学」を読むと、ニュアンスの違いを感じる。
そちらでは、正しき国制に、「王制、貴族制、国制」があるとし、それぞれの逸脱した形態が、「僭主制、寡頭制、民主制」だとしている。
つまり、単独支配、少数支配、多数支配という三つの型から論じられ、優れた順に、王制、貴族制、国制とし、逸脱した中で最もマシな形態が民主制で、最悪なのが僭主制というわけだ。
こうしたニュアンスの違いは、どこからくるのだろうか?弟子が分かりやすく記述した結果であろうか?逆に、弟子の考えから発展させたのだろうか?あるいは翻訳の違いだろうか?いや、酔っ払いの解釈がいい加減なだけのことかもしれん。大きく違うと言えばそうかもしれないし、大して違わないと言えばそうかもしれないが...
いずれ、「政治学」の方も記事にしてみたい。
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