2012-09-09

"メノン" プラトン 著

メノンは問う、「徳とは、教えることのできるものであるか?それとも、訓練によって身につけられるものであるか?それともまた、訓練しても学んでも得られるものではなく、生まれつきの素質であるか?」
ソクラテスは答える、「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。」

知らなければ、何を探求していいかも分からない。知っていれば、探求する必要もない。要するに、人間は認識能力を超えた領域で思考することはできないというわけか。
しかし、だ!現実に疑問に思っているということは、答えが見つからないにしても、なんらかの認識が働いていることにならないか。この矛盾に、プラトンはどう答えてくれるのか?
もともと人間は、あらゆる知識を持っているという。輪廻を繰り返すうちに、ちょいと重要な事を忘れるだけのことよ、と。それ故に、自問自答を繰り返し、鍛錬によって想起することができるという。知性や徳性とは、想起に他ならないと。魂は不死であり、常に日々学んでいるというわけか。肝心な知識は、DNAにでも記憶されているというのか?
「探求し学ぶということは、魂が生前に得た知識を想起することである。」
これが、プラトン流の想起説というやつか。宗教は、矛盾を毛嫌いし、無理やり辻褄を合わせる。哲学は、矛盾を自然の姿として受け入れ、答えのない世界で心地よく戯れる。ただし、矛盾に対して寛容になることは難しい。

ソクラテスの教義に「徳は知である」というのがある。悪徳を為すのは無知のせいだとする考え。徳が知識であるならば、教えられることができるはず。そして、最高の教育を受けた政治家によって社会を徳へ導くことができるとし、ここに「善く生きる」という政治哲学が結び付く。
しかし、プラトンはそれだけでは説明できないとし、登場人物ソクラテスに代弁させ、巧みに哲学のパラドックスへ誘なう。そぅ、「徳とは、そもそも何であるか?」と根源的な問いに置き換えるのは哲学の常套手段。哲学論議ってやつは、呪文でもかけるように魔法をかけ、行き詰まらせて、途方に暮れさせやがる。
ところで、知らなかったというのは、過失であろうか?アリストテレスもまた無知を罪だとした。熟慮してやった者が、知らなかったと言い訳するはずがないと。
「魂が積極的に心がけたり、受動的に耐えたりするはたらきはすべて、知が導くときは幸福を結果し、無知が導くときは反対の結果になる」
しかし、熟慮したからといって、正しい選択をするとは限らない。どんなに優れた知識を会得しても、やはり判断を誤る。知識とは不思議なもので、深く知るほど分からなくなる。知識は無限なのだ。このあたりは、プラトンもアリストテレスも徳の限界を感じたことだろう。
人は、ちょいワルというものに憧れるところがある。やってはいけないとなると、余計に衝動に駆られ、つい魔が差す。身体に悪いと分かっていても煙草を吸う。身を滅ぼすと分かっていても博奕中毒になる。禁断な恋ほど燃え、灰と化す。善にも程度というものがあろうが、最高善に背いてまで悪を為すことはないのかもしれない。ただし、最高善にも個人差がある。

プラトンは、想起する過程を、メノンに幾何学の問題を解かせることによって実践してみせる。例えば、正方形の面積は、辺を掛け合わせることで求められる。面積を2倍にしたければ、感覚的に辺を2倍にしたくなる。だが、辺を2倍、2倍...していくと、面積は4倍、16倍...と増える。面積を2倍にしたければ、対角線という知識が必要になる。そして、辺を掛けることと対角線という知識だけで、様々な面積の図形を知ることができる。これは、教えられた結果ではなく、メノンが自力で思考した結果である。要所は師の質問によって誘導されるにせよ。ここには、一から多が生成されるという概念がある。実際、幾何学のあらゆる定理は、根源的な公準や公理から組み立てられる。これが、万物の根源であるイデアを想起させるのか?
また、あらゆるものに名前がある以上、それは形を成しているという。そして、形は立体の限界であるとしている。あらゆる物体はプラトン立体に集約できるとでも言いたげな。
なるほど、この物語はプラトン思想の中心テーゼを匂わせているわけか。徳もまた、精神の本質なるイデアのようなものを想起させるのだろうか?徳とは、ある時は教えられるものかもしれない。だが、ある時は教えられないものであろう。そして、学ぶとは、他人から教えられるものではなく、自ら学ぶ能動的な行為ということになる。知らないことが知への渇望となり、これが無知の克服というわけか。徳とは、まさに精神修行の真っ只中にあるのだろう。すなわち、思考の永続的な状態とすることができるかもしれん。
さて、最初の問いに立ち返る。「徳は誰が教えうるであろうか?」ソフィストたちは?政治家たちは?自称教育者とは、あらゆることを学んだと宣言し、教える資格を持つと自認する輩ではないか...徳には、まず人々を正しく支配する能力を有し、そして、勇気、節制、智慧、度量の大きさなどが具わっているのではないか...と議論が盛り上がる。
ちょうどそこに、アニュトスが訪れる。彼の父アンテミオンは、富も才知も兼ね備えた人物で、人を見下すことなく、尊大で嫌味なところもなく、慎み深く礼儀正しいという評判である。そして、息子アニュトスを立派に教育したとなれば、絶好の観察対象となる。ちなみに、アニュトスは、ソクラテスを告発したメレトスの後ろ盾になった人物。その思想は、頑固な保守派で、徹底したソフィスト嫌いとされる。案の定、アニュトスはソフィストたちを蔑む。ソフィストがダメなら、他に誰がいるというのか?そして、徳は教えられるものではないという結論に達する。つまり、アテナイ人には徳が教えられないと。これにアニュトスは怒る。
人間ってやつは、自分の知っていることで、すべてを解決したがるもの。しかも、現実から目を背け、真実を幻想にしてしまう。知っていることは知っている。知らないことは知らない。これが学ぶということであろうか。しかし、これが難しい。そもそも、知っているかどうかが分からない。知った気でいるぐらいが幸せというものか。では、幸せを求める者の精神は、いつか何かに到達することができるだろうか?何かを悟ることができるだろうか?徳が教えられるものでない以上、もはや知識ではない。努力しても、探求しても、徳が具わるかも分からない。それは神のみぞ知る!結局、人間は神の存在に頼らないと、思考を迷走させる運命にあるというのか?永続的な思考というものは知識ではないかもしれないが、知識に劣らず有益であることに変わりはあるまい。

0 コメント:

コメントを投稿