2012-09-23

"プロタゴラス ソフィストたち" プラトン 著

当代随一のソフィストと謳われるプロタゴラスにソクラテスが弁論で挑むという、プラトンの対話篇の一つ。この物語がソフィストへの批判書であることは、想像に易い。だが、プロタゴラス自体には一般のソフィストたちよりも圧倒的に高い格付けをし、敬意を払っている。それは、議論の終結を互いの讃辞で締めくくるところに表れる。しかも、再会を約束するという親愛ぶり。名士を持ち上げながら世情を風刺するという、お馴染みの構成か。
いや、一味違う!自己主張にとらわれず、ひたすら論理性を追求した挙句、両者とも自己矛盾に陥る。これが哲学論議の醍醐味というものか。なるほど、精神の学問はメタ学問というわけか。そりゃ、メタメタにもなろうよ。

プロタゴラスは、アプデラの生まれで、言論にかけての第一人者とされる人物。その有名な言葉がこれ。
「人間は万物の尺度である。あるものについてはあるということの、あらぬものについてはあらぬということの」
この言葉の解釈は様々であろうが、とりあえず...
宇宙にどんなに美しい真理が存在しようとも、人間の認識能力を超えた領域でそれを知ることはできない。そぅ、世界は普遍的な真理よりも認識によって構築されている。しかも、質ちが悪いことに、認識能力は個々に多様である。
...とでもしておこうか。
対して、ソクラテスの教義に「人間が悪を為すのは無知にほかならない」というのがある。知の探求によって認識能力を養い、精神が高みに登るという考え方では、両者は似ている。精神が高みに登るとは、徳や善を知るということであり、国家社会の一員として持つべき徳性を会得すること。この思想が、古代ギリシア哲学の根幹にある。
そこで、プラトンは問題を提起する。徳は教えられうるものか?徳が知識であるなら、教えられるはずだと。親が徳の持ち主であれば、子供も必然的に教育によって徳の持ち主になるだろう。だが、現実にそんな事例はごく希だ。その子が犯罪をする事例は簡単に見つかるけど。議題そのものは「メノン」と同じ。だが、興味深いのは両者とも自己批判をしているかのように映る物語性である。しかも、議論の盛り上がりに、大物ソフィストたちがついてこれない滑稽さを見せる。
まず、徳には、正義、節制、勇気、敬虔、知恵という5つの要素があるという前提が構築される。ただ、これらの要素は部分として分離できる性質なのか、総合として分離できない性質なのか、はっきりしない。徳性を成立させるために、プロタゴラスが戒律や分別から迫るのに対して、ソクラテスは技術と知識で凌駕しようとする。そして、両者は、知恵が最も重要であると位置づけ、他のすべての要素に知恵が介在することで合意する。確かに、すべての要素において正しい知識がなければ実践もできないだろう。
しかし、だ!ソクラテスは、徳は教えられないものと主張していたくせに、徳の最も重要な要素は知であるとことを自ら提起しながら、いつのまにか徳は教えられるものということを証明しようと必死になっている。プロタゴラスもまた、徳を教えられるものと主張していたくせに、反論しているうちに徳は知識以外のものであることを証明しようと躍起になっている。ついに、ソクラテスは、もしかしたら徳は教えられるかもしれない?ぐらいの感覚になり、プロタゴラスも、もしかしたら徳は教えられないかもしれない?ぐらいの感覚になる。そぅ、両者は自己矛盾という共通観念において共感するのであった。なんというオチか。哲学とは、精神とは、自己矛盾との、自我との、葛藤というわけか。なるほど、人生とは、自ら墓穴を掘ることであったか。

1. ソフィストたち
プロタゴラスは、国から国へと渡る途中、弁論で魅惑し、知識人を誘い連れまわっている。大勢の聴講者を募って、賢人ぶりを武装しようという魂胆か?現代でも、有識者や有徳者どもが多数派工作で持論を武装しようとする姿をよく見かける。おまけに、討論会では声の大きい者、自信満々に語る者が勝利する。もはや言論力は、論理性の戦いではなく心理戦と化す。なるほど、人間ってやつは多数決に弱いものらしい。寂しがり屋め!これが衆愚政治の正体かは知らん。
さて、偉大なソフィストがアテナイへやって来た大ニュースが伝わると、青年ヒッポクラテスは興奮してソクラテスの所へ駆け込んだ。この青年は、国家の要人になりたいという野心を持ち、プロタゴラスに弟子入りしたいと考えている。
ソクラテスは青年に問う。金銭を払ってまで、精神の教師がいったい何を教えてくれるというのか?画家は絵画の技術を教え、音楽家は音楽の技術を教え、医者は医術を教える。対して、言論に秀でた者は言論術を教える。学識とは、民衆を扇動する技術を会得することなのか?識者の側にいることで、優れた人物になれると信じこませる術を。
「君には、自分がいま、魂をどのような危険にさらそうとしているかがわかっているのかね?」
そういう術を使う人ほど、よくよく気をつけなければならないと指摘する。それによって招く妬み、そして、敵意や陰謀などは、けして小さなものではないことを。ソフィストとは、「魂の糧食となるものを商品として卸売りしたり、小売りしたりする者」と定義している。ただ、魂の糧食が有益なものか?有害なものか?あえて明らかにしない。その煮え切らない様に皮肉が満ちている。やはり、真理はモザイク画と相性がいい。

2. 人に何が教えられるというのか?
国家社会のための技術とは、国家社会の一員として優れた人物をつくることだという。いつの時代も政治塾は盛況のようだが、何を教えているのだろうか?チルドレン選挙戦略の一環か?人間社会では、何かと専門家に頼ろうとする傾向がある。専門知識に敬意を払うのは自然であろう。ただ、自ら思考することまで放棄してしまうのでは、意味が違う。知識は教えてもらうものという意識が強いのは、暗記教育の弊害であろうか?何々学校や資格教材が繁盛するのも、教官や教材が自動的に与えられる便利さがある。そう言うアル中ハイマーも、かつて英会話学校へ通っていたし、よくセミナーに参加したりする。人間ってやつは面倒臭がり屋なのだろう。
しかし、自分に適した教材を探すのも学ぶ過程の一つであり、独学の面白さには敵わないだろう。学ぼうとする意欲満々の人が学ぶ時間を省略するとは、これいかに?読書家が速読法に惹かれるのにも似たり。愛する人と一緒にいると、時間よ止まれ!などと願うくせに、愛する対象が本となると、わざわざ読書の時間を省こうとする。ちなみに、夜の社交場では速愛法なるものを実践する者がいると聞く。
また、教育そのものを崇めるのも危険であろう。一般的に、犯罪を防止する方法は教育にあると考えがちである。ほとんどの意識向上キャンペーンは、そういう考えからくる。地球温暖化、エイズ予防、酔っ払い運転など。おまけに、有徳者どもは、人々に徳性がなければ社会は成り立たないと主張する。教育によってすべてが解決できるならば、常識者がダイエットや禁煙に失敗することもないはず。教育者が道徳を破壊し、政治家が法律を無力化し、経済学者が経済危機を煽り、友愛者が愛を安っぽくしやがる。人間が持つ人間性ってやつは脆いものよ。あらゆる規範を人間性に頼るのは軽率であろう。善悪の知識を持っていたとしても、必ず悪を避け善を行うかは疑わしい。悪にも惹かれるものがある。暴力映画や戦争映画のあの盛況ぶり、あるいは異性的な魅力がちょいワルを演じたりする。悪にも程度を計りながら節制の原理が働く。
善悪を知っても、その程度が個人に委ねられるとすれば、教育に絶望する。なんとか救済できないものか?そこで、哲学は、都合よく最高善という概念を生み出した。最高善とは、幸福のことである。だが、幸せもまた個人の多様な価値観に委ねられる。人間ってやつは、わがままにできているものらしい。では、教育とはいったい何を教えるものなのか?人にいったい何が教えられるというのか?ひたすら思考を高めよ!と言うことぐらいしかできないのかもしれん。精進しろ!と助言することぐらいしか。

3. 討論会と中庸の原理
「言論の場に立ち向かう者は、対話を行う両者に対して、公平な聞き手でなければならないけれども、平等な聞き手であってはならないのだ」
公平に耳を傾けても人の尺度はそれぞれ。となると、個々の判断でより多くの価値を認めるべきということになろうか。討論は口論とも違う。討論は好意を持つ者同士で行うが、口論は敵対同士で行う。ほとんどの政治討論会が醜態を曝け出すのは、後者だからであろう。目的論と方法論で意見を戦わせれば、議論は迷走するしかあるまい。良策を編み出すという目的よりも、選挙戦の前哨戦が目的となれば、相手の意見を否定することが前提とされる。国会のオヤジどもを真似て、生徒会や児童会でヤジり合ったり、メールをしたりと困ったものよ。もはや政治討論は、R-18指定にするがよかろう。なるほど、討論会が深夜に放送されるのは、青少年への配慮か。
討論中に、優れた見解が聞ければ、幸せになれるに違いない。しかし、意見が合わないことを、心地よいもの、快いもの、そういう境地にするのは難しい。だいたい、どちらかがこれ以上やると揉めるからと、主張を取り下げるか、やめるかであろう。本物語で展開される討論会は、一つの理想像を提示している。目的が共通意識としてはっきりしていれば、こういう議論も成り立つのかもしれない。両者が興奮気味になる場面もあるけど、それはそれで人間味があっていい。
「言論の手綱を解きゆるめて、言論がもっと堂々と優雅な姿をわれわれにあらわすことができるようにしたまえ。またプロタゴラスのほうも、帆綱をすっかり伸ばしきって順風に満帆をゆだね、言論の海原遠くのがれて陸地を見失うことなかれ。ねがわくは両人ともに、中庸の道を進まれんことを。」

0 コメント:

コメントを投稿