2012-09-16

"パイドロス" プラトン 著

プラトンは、膨大な著作を対話篇という形式で残した。実在する人物を登場させ、その人物を持ち上げながら世情を皮肉る。しかも、師ソクラテスが記述を残さなかったことをいいことに、この賢者に代弁させやがる。なるほど、哲学とは、人物をスパイシーに評し、酒の肴にする技であったか。
本書は、愛の語りを交えながら言論の技術に迫り、哲学の根源的な魅力を語ってくれる。そして、哲学者を愛知者、すなわち「知を愛し求める者」と定義している。今もなお、プラトンの言葉が力を持ち続けるのは、魂が不死であるという証しであろうか?あるいは、記憶媒体の存在が前提されるだけのことであろうか?いずれにせよ、近代社会においてさえ、巧妙な弁論法や修辞法がもてはやされることに変わりはない。

プラトンの基本的な思考は、形相(エイドス)から出発している。アリストテレスにも同じことが言えるが、形相に対する解釈が、ちと違う。プラトンは、あらゆる形相には万物の根源であるイデアなるものが存在すると考え、人間精神が本能的に善を欲するのも、善のイデアがあるからだとする。精神の鍛錬をすれば、その先天的な知識も想起できるというわけだ。対して、アリストテレスは、あらゆる形相を魂と分離できない形而上学的な存在と考え、精神は後天的で経験的なものとする。両者をカント風に言えば、純粋理性と実践理性の対立といったところであろうか。こうして見ると、この世のあらゆる論争は、プラトンとアリストテレスの哲学的論争に帰着するような気がする。宇宙論の歴史とは、プラトン対アリストテレスの代理戦争を繰り返してきただけのことか?もっと言うならば、二人の言行が記録として残されるだけのことであって、彼らもまた誰かの代理戦争をしていたのかもしれん。精神ってやつは、数千年前から、いや数億年前から、ほどんど進化していないのかもしれん。

「人間がものを知る働きは、人呼んで形相(エイドス)というものに即して行われなければならない、すなわち、雑多な感覚から出発して、純粋思考の働きによって総括された単一なるものへと進み行くことによって、行われなければならない」
ここでは、形あるもの、色あるもの、重さあるもの、こうした特徴は「固体にまつわる属性」とし、美しきもの、智なるもの、善なるもの、こうした特徴は「神にまつわる属性」として区別している。前者は視覚や嗅覚などの五感から生じ、人間の認識はまずここから始まる。そして、後者によって認識を補正しながら、精神の高みに登るといったところであろうか。ちなみに、後者を第六感と言うかは知らん。ここで言う神とは、宗教的な存在ではなく、宇宙論的な存在と言うべきであろう。それは、プラトン思想の根底に、天文学と幾何学に基づいた自然法則の崇拝があるからである。
ところで、愛とか恋とかいうやつは、どちらの属性に分類されるのだろうか?本書は、神にまつわる属性としている。しかし、原始的な情念には美に惹かれる心がある。あらゆる知覚の中で、美だけが特権を得ているのはなぜか?自然の美、芸術の美、数学の美などが崇高とされる一方で、美女や小悪魔に憑かれた途端に、美体(びたい)はたちまち媚態(びたい)へと変貌する。認識能力が美という視覚から発する(ハッスル)のであれば、一度は美女と恋に落ちなければなるまい。快楽が想起の前兆ならば、ハッスル系の店も体験せねばなるまい。肉体への愛は、固体への愛に他ならないとしてもだ。そして、固体も崇拝するに価すると悟れるかもしれないではないか。知性や徳性といった得体の知れないものを愛するより、女体という確実な個体を愛したい。そして、愛を金で買う!これが最も有意義な金の使い方というわけさ。
...男性諸君の影の代弁者より。

1. 恋(エロース)について
紀元前5世紀頃、リュシアスという高名な弁術家がいたそうな。パイドロスは、リュシアスに心服する者として登場する。リュシアスは、こう述べたという。
「自分を恋している者よりも恋していない者にこそむしろ身をまかせるべきである」
この論旨をめぐって、ソクラテスとパイドロスの対話が始まる。よく、恋は盲目にさせると言われる。恋する者が意見すれば、どうしても贔屓目で見てしまう。となれば、恋の虜になっていない者の意見に耳を傾ける方が有益だという考えは、もっともらしい。
しかし、ちょっと待て!ソクラテスは、恋とはなんぞや?と問う。恋とは、人を勇気づけるものなのか?臆病にさせるものなのか?とんと分からん。恋こがれる者が、命の危険を顧みず犠牲心を発揮するかと思えば、いざ会話をする段になると、はにかんで見せる。恋には打算がある。けして自分自身をなおざりにすることを許さない。愛する者が幸せになるだけでは満足できず、自分が介在できなければ不幸になることすら望む。恋とは、自己愛を膨らませた状態なのか?実際、恋に落ちた人も、自ら正気ではなく、病気であることを認める。
さて、恋とは、一つの欲望であることは明らかであろう。だが、恋をしていない者であっても、美しいものに対して、やはり欲望を持つ。欲望には自己を支配する二つの力があるという。一つは生まれつき具わる快楽への欲望、二つは最善を目指す後天的な分別の心。自己の中で、常にこの二つが互いに相争い、どちらかが勝利する。理性の声によって善へ導かれるならば、それは節制と呼ばれ、盲目的な快楽へと惹かれれば、それは放縦と呼ばれる。快楽の奴隷となった者が、恋の相手を自分にとって快いものに仕立てあげるのは必定。自己が病んでいれば、自分に逆らわないものが快く、自分より優れたものが厭わしくなる。だから、恋する者は相手を劣った存在に仕立てたいという。より無知に、より臆病に、より無能に、より愚鈍に。恋する者は、相手が精神の欠点を持つことに喜びを感じ、必然的に嫉妬深くならざるをえないということか。確かに、賢い相手は疲れるところがある。ソクラテスがいくら賢者であっても、これだけ議論を持ちかけられれば鬱陶しくもなる。できることなら、物静かな愛人を側に置きたい。それが廃人に導かれると分かっていても。なるほど、小悪魔の正体とは、沈黙に癒されたいという願望であったか。
また、自分の恋人には、父母もなく、身内もなく、友もいないことを望むという。交際の邪魔になるからと。そして、、恋の虜になった者は、不実な、怒りっぽい、嫉妬深い、厭わしい人間に、自ら仕立て上げることになるという。
なるほど、恋とは、人を狂気させるものらしい。だが、狂気が悪いと無条件に言えようか?人間の最も偉大なものは、狂気から生まれてきた。芸術にせよ、科学にせよ、天才には神がかった行動が宿る。正気からは凡庸しか生まれない。
では、恋という狂気は、善か?悪か?自己を動かす者のみが自己を見捨てることがないという。狂気が神から授かったものであれば、それは善であると。魂が不死であるなら、精神の活動を止めることはできず、永遠に高みへ登ろうとするのであろう。固体は精神から離脱し、やがて腐敗し死滅していく。快楽の虜も精神を失い、やがて自滅するだろう。恋とは、すでに奴隷根性の染み付いた状態なのかもしれん。自ら恋の奴隷となり、相手に奴隷を演じさせる。そして、互いに演じることに疲れたら破局を迎える。これが所有の原理というものかは知らん。

2. 弁論術について
弁論術は、紀元前5世紀頃シケリア(シシリー)において、テイシアスたち弁論家によって法廷弁論のテクニックという形で始められたとされるそうな。やがて、ソフィストたちの教育と結びつき、法廷論から政治演説にまで応用されるようになる。言論の自由と法の下での平等を建て前とするアテナイでは、世論を動かす方法論として花形的な存在だったという。そして、弁論術の教師が登場すると、模範例を暗記させる教授法が盛んになる。目的から逸脱した弁論のための弁論、文章のための文章、そういったものに関心を集める。リュシアスは、こうした風潮で活躍した弁術家の一人で、ソフィストとは一線を画す純粋な弁術家に属すそうな。プラトンもこの人物に一目置いていた節がある。本書は、当時の有識者に対する批判書であることは間違いないだろう。
21世紀の今ですら、真理を顧みず、ひたすら多数の賛同を得ることに注力する。そこには、知性が暗記力で決まる社会がある。言論術が身の保全と立身を図る技術となれば、政治屋どもが血眼になる。しかも、自分で定義もできないくせに、幸福やら友愛やらを口にする。なるほど、弁論術とは、おべっか術であったか。
本書は、議論をするには、まず対象の本質を見極める必要があると説く。少なくとも、議論の参加者は前提の認識を合わせる必要があろう。だが、多くの場面で、自分が問題の本質を知らないということに気づかない。それを知っているものと決め込んで考察を始めるから、議論は迷走する。
弁論術は、最終的に真実の追求でなければならないとしている。それは、真実というイデアを想起することであると。思惟することが自己との対話であるとすれば、自問自答によって純粋思惟へと導いてくれるだろう。弁論術とは、問答能力とすることができるかもしれない。その試行では、直観性と言語性を駆使することになろうか。
一方で、言葉の力というものがある。言葉が魂と結びついた時、これほど力を発揮するものはない。言葉は、精神の本性を理解する手段となろう。歴史を振り返れば、聴衆を動かす力も言葉であった。演説の天才と評されるヒトラーは、聴衆が自発的に静まり、何か言葉を発するのを期待するまで、喋るのを待った。弁論術が、劇場化するのはやむを得ないのか?言葉は、小さな事を大きく、大きな事を小さく見せることもできれば、真新しい事を古く、古い事を真新しく見せることもできる。そして、無言ですら何かを物語る。言葉は長すぎても短すぎても説得力を失い、また用いるタイミングも重要だ。聞き手が、耳を傾ける度量を具えない限り、どんなに立派な言葉も陳腐となる。また、真理を語ればいいというものでもない。真実が必ずしも真実らしく見えるとは限らないし、嘘の方が真実らしく見えることもある。法廷では、何が真実かを気にかける者なんか、いやしない。重要なのは、真実ではなく、真実らしく見せること。しかも、完璧に証明する必要はない。証明を仄めかすぐらいで、聴衆は勝手に解釈する。社会風潮に逆らわず、多数派に真実だと思い込ませる。これが、弁論術の実践というやつだ。言論の技術だけを問題にするならば、いかに聴衆を誘導するか、ということに傾注すればいい。そして、弁論術とは、精神に優れた者の技というよりは、心理学に精通した者の技ということになろう。それにしても、本質的な目的を忘れ、手段にばかり眼が奪われると、こうも浅ましくなるものか。
しかしながら、言葉というものは最も神の意にかなうようにできているという。幾何学や天文学に見られる神の言葉に耳を傾け、真実の計算なくしては、建築物も成り立たない。そして、言論の技術とは、神の言葉を想起することだとしている。なるほど、宇宙は数学という言語で語られる。プラトンは、真実を知る者のみが知り得る不滅の言葉なるものが存在することを仄めかしている。
「それを学ぶ人の魂の中に知識とともに書きこまれる言葉、自分をまもるだけの力をもち、他方、語るべき人々には語り、黙すべき人々には口をつぐむすべを知っているような言葉だ。」

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