2013-06-09

"民主主義がアフリカ経済を殺す" Paul Collier 著

ポール・コリアー氏をもう一冊。「最底辺の10億人」では基本的人権を問うていた。本書では権力の側を問うている。冷戦終結後、国連をはじめとする国際的圧力は、紛争国家に対して民主主義を広めてきた。それが悪いとは思わない。しかし、最底辺の国々では、民主主義の普及ではなく選挙の普及となった。大統領たちは、政治理念を学ばず、ひたすら選挙での勝利法を学ぶ。その結果、恐怖選挙と化し、腐敗政権に正義のお墨付きまでも与えてしまう。通常の民主主義国家では、選挙の敗者は信念があるなら、それを貫くために次回の選挙に備えるだろう。だが、敗者が政治暴力によって迫害されるとなれば、選挙の意義は紛争の火種と化す。そして、正当性を信じる改革派は、選挙で負けることを察知すれば、不正選挙だと叫んでボイコットする。これが民主主義の姿だと言うのなら、民衆は民主主義に幻滅するだろう。そして、独裁制へ回帰する機会を与える。本書は、デモクラシーならぬ「デモクレイジー」と呼んでいる。

古代ギリシアの教訓では、民主主義には啓発された市民が前提され、プラトンは哲人たちの支配による国家を理想に掲げた。スイスのように数百年に渡って自らを磨き続け、村レベルから統治について試行錯誤を重ねるような国であれば、民主主義は有効なシステムとなろう。何事も手段に目を奪われ、意義や哲学観念といったものを無視して運営することは危険である。人間が完璧でない以上、あらゆる分野において完璧なシステムを構築することは不可能であろう。そして、システムの弱点をよく研究した上で、実践することが肝要となるはず。民主主義は、人間社会が試行を重ねた結果、比較的ましな政治システムというだけで、なにも崇めるほどのものではない。先進国と言われる我が国でさえ、「民主主義 = 選挙」という目でしか見られない政治屋どもで溢れている。確かに、選挙は民主主義を実践する上で有効な手段の一つである。選挙運営を観察すれば、その国の民主主義の成熟度を測ることができよう。
民主主義は自由と相性がいいだけに、凶暴化すると弱肉強食となりがち。だから、権力分散が基本概念にある。民主主義にとって、選挙よりも分権によるパワーバランスの方がはるかに本質的であろう。だが、話題性を煽るには選挙の方がはるかに盛り上げやすいし、報道屋どもは存在価値をここに求める。ならば、民主主義を機能させる上で、透明性が重要な鍵となろう。本書は、「チェック・アンド・バランス」を強調する。

「銃が人を殺すのではなく、人が人を殺す。」
内戦の愚かなところは、自ら国家を破壊することにある。最底辺の国々の政治指導者たちは、自国の生産性を破壊し、自国民を虐殺してまで、権力の座を固守する。その非人道性が国際世論に曝されると、国際的な軍事介入によって政治的暴力は抑圧される。しかし、政治理念まで変えることはできない。国際的な支援金は、国家安全保障の名目で軍事費に消える。公共財が不足しているというのに、カラシニコフの経済学は見事なまでに機能する。中古品が政府軍から流出し、安価なカラシニコフが出回るグローバル市場を形成する。闇の市場は、まさに武器のブラックホール。そして、内戦気運がいつも燻り、労働技術の習熟に向かうはずの人材が、カラシニコフの達人となる。軍部も公共財であることに違いはないが、もはや公共悪として君臨する。
また、援助のあり方にも問題があると指摘している。労働者を海外から受け入れるために、自国の若者たちが労働機会を失い、生活は一向に改善されないという。必要な援助は、レンガ職人、配管工、溶接工などの技術指導であって、「国境なきレンガ職人団」であると訴える。
そして何よりも強く訴えているのは、国際的な軍事介入である。それも10年スパンで。軍事介入は主権にかかわるデリケートな問題で、国際世論から非難されやすい。だが、あえてそこに踏み込むのは、国家主権が政治家やエリートたちに私物化されているからである。国の面子よりも政治家の面子が優先されるのは、どこの国でも似たり寄ったり。必要な供給は、ワクチン同様、安全保障とアカウンタビリティであると指摘している。
「ブッシュ大統領は、予防措置がこうした安全保障上の問題に対する正しい対応になりうるという点では正しかったが、先制的な手段として最適なのが軍事侵略だと考えた点で誤っていた。」

1. アフリカの地域特性
最底辺の国々における戦争は、歴史で経験してきた戦争とは少々様子が違う。二つの大戦をはじめとする過去の戦争は、ほとんどが領土意識から生じた侵略戦争であった。そして、領土としての価値と軍事リスクが天秤にかけられる。国家の威信などという動機で、無闇に領土を拡げる場合もあるが、いずれにせよ国益が前提とされてきた。
対して、今日頻繁に起こっているのは内戦である。内戦も古くからある現象だが、それが民族間戦争となり、国家間戦争へと発展してきた。21世紀となった今では、侵略型の戦争は稀である。休火山のように鳴りを潜めているだけのことかもしれないが。
ヨーロッパでは、大帝国による統一と、その滅亡による分裂というパターンを繰り返してきた。ローマ帝国、ハプスブルク家、ナポレオン戦争、そして、二つの世界大戦を経て、今の国境線に落ち着く。
ところが、最底辺の国々では、国境があまり動いたことがないという。周辺国からの挑戦や、併合などの恐怖にあまり遭遇してこなかったとか。ほんまかいな?アフリカ大陸では、そうした経験をする前に、あっさりと植民地化されたということか?あるいは、民族の多様性が、外敵よりも民族間闘争を優先させてきたということか?だとしても、歴史を遡れば、ローマ帝国に対抗できるほどの古代エジプトという勢力があったし、エチオピア帝国も生じた。民族の多様性にしても、どこの地域にも見られる現象で、それほど特別な状況ではないように思える。植民地だった地域が、突然解放されて独立したという意味では、アジア諸国にも似たような経緯がある。世界のどの地域を眺めても、似たような国が集まりやすいというのは言えるかもしれない。最貧国がアフリカに集中したのは、宇宙のクラスタ化のような現象であろうか?そして、負の相乗効果が生じた結果であろうか?

2. 民族の多様性とアイデンティティの共有
国民の意識を一つにする要因に外敵の存在がある。侵略の恐怖に曝されれば、世論は国防論で盛り上がる。ナショナリズムの高揚のために、古くから愛国心教育が実施されてきた。多民族国家で分裂の危機となれば、仮想敵国をでっちあげる政策がよく用いられる。だが、アイデンティティというものは、集団的な自衛だけで形成されるほど単純なものではあるまい。そこには、長い年月によって育まれた価値観の共有がある。本書は、国民的アイデンティティは政治的に構築されるとしている。確かに、そういうところもある。だが、民族的アイデンティティは文化や言語、あるいは風土によって構築される。方言で地元意識を感じたり、同じ語を喋るコミュニティが文化的な誇りとなったりする。チームワークがよく機能した集団では、同じポーズや合言葉のようなものが自然に生まれる。こうした帰属意識のようなものは、政治体制を議論する前に考慮すべき問題のように思える。
しかし、最底辺の国々では、民族的多様性がアイデンティティの共有を妨げているという。それでも本書は、民族の多様性に一筋の希望を見出してくれる。公共性においては、多様性が悪影響を及ぼすが、民間活動においては、多様性が利点になるという。確かに、多様性の高いチームは、一緒に仕事をするのが難しい面があるが、その分潜在能力は高い。個性の強い集団ほど、チームとしてうまく機能すれば生産性は著しく高い。実際、アメリカの生産力は民族の多様性によって支えられ、組織の柔軟性は思考の多様性を原動力としている。しかも、それが教育システムと結びついて、イノベーションの可能性を高める。概して、官僚は同じような学歴や経歴を持つ同類項となりがちだが、民間は多様性を取り入れる傾向がある。
とはいえ、最底辺の国々では、多様性を活かせるほどのスキルがない。よって、指導力のある人材を必要とするという。まずは、民主主義を受け入れる土壌作りから始めることであろうか。

3. イボワールの奇跡とは何だったのか?
独立から1980年まで大成功を収めた国が、突如破綻国家となった事例を紹介してくれる。それは、開発災害の餌食となった典型で、暴力選挙、クーデター、内戦と本書が扱うテーマをすべて網羅している。
コートジボワールの首都アビジャンは、「アフリカのパリ」と呼ばれた。過去の成功は、独裁的なウフェ = ボワニ大統領の構想に基づいている。故郷の村ヤムスクロに遷都し、サンピエトロ大聖堂をモデルにした巨大なバシリカ式聖堂を建設し、ローマ教皇を招いた。しかし、建築費に援助金が流用されたために、援助国は不快感と嘲笑の入り混じった気持ちで眺めていたという。一方、隣国のガーナは社会主義モデルを採用し、失敗国となっていた。
さて、コートジボワールの成長戦略の核は、移民政策だったという。移民を歓迎し、未利用地にココア農園を開拓させる。内陸国で天然資源の少ない隣国ブルキナファソから移民が押し寄せる。なんと、80年代まで労働力の40%が移民で占めたという。国民への埋め合わせとして、移民が生産するココアに重税を課す。移民が一大勢力となる高いリスクの下で、一党独裁制のもとで運営されていた。そこに経済ショックが訪れると、戦略は頓挫。平均所得は3分の1まで目減りし、貧困が拡大。
こうした状況に拍車をかけたのが政策だという。ココアに対する課税は、価格安定策を装っていたという。実際には価格保証だが、国際水準よりも低い水準まで下がると、課税どころか助成の対象となる。おまけに、移民優遇とならないように、均衡を保つために国民の雇用を占める行政部門、官僚組織を拡大したという。移民に働かせて国民が甘い汁を吸うというリスクの高い戦略は、経済ショックのために移民をも保護せねばならない。民間経済を活性化させるどころか、官僚を強化したために、更に経済を悪化させてしまう。ウフェ = ボワニ大統領は、30年以上も権力の座に居座り、老人となっていた。そして、1993年死去。政府が求心力までも失うと、移民政策が政治問題として表面化し、ガバナンスが急激に劣化。暴力選挙や軍事クーデターが起こるが、フランス軍は介入を避けたために内戦が勃発したという。
その後、政変を繰り返し、ローラン・バグボが不正選挙と私兵による蜂起で大統領になる。すると、バグボから排除された政治家たちがクーデターを起こす。アビジャンは、アフリカで群を抜いて多くのフランス人居住者が集中していたという。それを人質としフランス軍に防衛を要請。しかも、フランス軍がバグボ政権を防衛する最中、バグボは若者の集会でフランス人を殺せと扇動する異常な事態。独裁体制にありがちな、タカリの構図である。そこに、コートジボワール沖の海底油田の開発など、天然資源の利権までも絡む。
国家の様変わりとは恐ろしいものである。一瞬のうちに大企業が消え、産業ごと頓死しても不思議ではない時代、国家とはいえ、ちょっとしたきっかけで破綻する可能性があることを認識しておくべきだろう。我が国にも、奇跡と呼ばれる戦後の高度経済成長があったが、それが何だったのか?とならないよう願いたい。

4. 腐敗した政治家の定義
腐敗した政治家を定義する簡単な方法を教えてくれる。それは、自由に着服できる分を最大化する税率を選ぶ能力があること。課税が低すぎても、横領できる分がなくなるので困る。課税が高すぎても、横領に対する目が厳しくなるので都合が悪い。そこで、腐敗者から見て理想的な税率なるものがあり、それも極めて低いという。支援金にしても、あまり大きいと監視が厳しくなる。常に最適値を導き、タカリの按配を絶妙に設定できるセンスの持ち主。金融法則の預入利息と貸出利息の按配のような設定か。なるほど、腐敗者は経済学の達人というわけか。

0 コメント:

コメントを投稿