2013-09-08

"法の精神(上/中/下)" Charles-Louis de Montesquieu 著

三権分立論で知られるモンテスキュー。その著書「法の精神」は、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に多大な影響を与え、いまや近代政治の骨格となっている。しかし、それだけなら興味を持つことはなかっただろう。なにしろ説教じみた話は嫌いなのだ。
注目したいのは、様々な政体や法律が風土と深く関わることを論じ、社会学や歴史学の領域に踏み込んでいる点である。そこには、慣習法が成文法となりうるための自然条件が語られている。宗教との関係を論じるあたりは、カトリック教に特別な地位を認めず、諸民族の宗教から相対的な地位を与えたとして批判され、1751年禁書目録に加えられた。こうした背景が、酔っ払った反社会分子には一際輝いて映る。これは、法律について語った書ではない。人間にとって法律がいかに自然本性的なものであるかを語った書である。
また、もう一つ興味を惹くのが... モンテスキューの思想をいちはやく批判したのが、ルソーだそうな。ルソーと言えば、教育者としての印象が強く、避けてきた領域であるが、いつの日か、この批判的な立場にも触れてみたい!... という気分にさせてくれる。
「私が共和政体における徳と呼ぶものは、祖国への愛、すなわち平等への愛だということを注意しておかなければならない。それは、決して道徳的な徳でもなければ、キリスト教的な徳でもなく、政治的な徳である。」

モンテスキューが生まれたのは、1689年。太陽王ルイ14世による絶対君主制が旺盛で、フランス革命はなお百年先のこと。一方、イギリスでは名誉革命が権利章典を結実させ、自由主義的な立憲政治の基礎が固まろうとする頃。政教分離の思想が明確に現れ始めたのも、この時代であろうか。
分類するとすれば、フランスはカトリック国、イギリスはプロテスタント国となろう。モンテスキューは、カトリック教には君主政がよく適合し、プロテスタント教には共和政がよく順応するとしている。もしくは、制限政体にはキリスト教がよく適合し、専制政体にはマホメット教がよく適合するとしたり、輪廻の教義については極端な善悪をもたすとして、真の魂の不死とは別物のような言いようで、切腹文化に至ってはどんな些細な罪でも死で片付けてしまい、もはや法すら機能しないとしたり、フランス人らしい苦々しい気高さを感じないではない。人間精神の本性が自由意志にあるとすれば、キリスト教が自由と最も相性がよく、人間社会に最も適合するということらしい。
しかしながら、自由や平等という概念ほど多くの解釈を与え、人々を惑わせてきたものはない。ヨーロッパでは西洋中心主義やキリスト教優越主義の全盛の時代にあって、その脱皮を図った作品に位置づけられるとしても、この程度で禁書にされるとは...よほど病んでいた時代なのだろう。そして、雄弁術に右往左往する21世紀の民主政治の有り様を見て... やはり数百年後に、よほど病んでいた時代と評されるのだろう。
「知識は人々を穏和にする。理性は人間性を高める。他方、人間性を否認させるものは、ただ偏見だけである。」

さて、権力分立の原理は、古代ギリシアの政体に現れ、既にプラトンやアリストテレスによってその構想が述べられている。真の徳の持ち主によって政治がなされるならば、どんな政治体制であろうが問題はあるまい。だが、自分の徳に自信を持った時点で、理性は崩壊へ向かう。プラトンは、真の愛智者を無知を自覚する者とした。政治家の資質でよく槍玉に挙げられるのが、道徳的節度の欠如である。彼らは、こぞって政治には金が必要だと主張する。権力に大金が結びつくと、誰もが盲目になるということを知りながら。これが人間の本性だとすれば、道徳的な人間を前提にした政治は、非現実的ということになりはしないか。毒を以て毒を制す!の原理に縋るしかあるまい。
「極端に幸福な人間も、極端に不幸な人間も、同様に冷酷になりやすい。修道士と征服者とがその証拠である。優しさとあわれみとをもたらすのは、中庸および幸運と悪運との混合のみである。」
過度に拡大された権勢に様々な制限を設けない限り、無政府状態と大して変わらない。自分の事がよく見える天才は、ほんの一握りしか存在しないだろう。政治家が中庸の道を避ければ、政治不要説が拡がる。モンテスキューは、良心や道徳だけで人間社会を構築することに限界を感じたのかもしれない。彼が問題とするのは、義務を強制するのではなく積極的に義務を果たすように仕向けること、人々が自然に律するように動機づけること、そんな手段となりうる法律を探求することにある。
人はみな欲望を持ち、弱さを持つ。だからといって、恐怖心や強迫観念で行動を抑制しようとすれば、すぐに行き詰まる。人間は生まれながらにして、平等に自由が与えられるのかは知らん。それを仮定してみても、自由を野放しにすれば、他人の自由を迫害する。自由は尊大であるがゆえに自惚れやすく、一旦手に負えなくなると、逆に自由を失い、奴隷的な社会となる。人間には、隷属することすら、すぐに馴らされる性質がある。それでもなお礼儀正しくいられるのは、自尊心のおかげであろうか。公共的自由と個人的自由を混同してはなるまい。だからといって、平等を崇めても同じこと。能力差は自然に生じるもので、個人に得手不得手があるから社会が機能する。公共的平等も同じく公共的な徳と結びつくものであって、バラマキ的平等と混同してはなるまい。
ところで、固定観念から完全に解放された者など存在しうるだろうか?真の自由人になれないのは、思惟する生命体の宿命であろうか?ならば、自由人とは、自らの自由を自ら制限できる者としておこうか。そして、法律だけで裁いてはならない罪がある一方で、法律では裁けない悪がある、ということを心に留めておきたい...
「アリストテレスは、ある時にはプラトンに対するその妬みを、またある時にはアレクサンドロスに対するその情熱を満足させようと欲した。プラトンは、アテナイ人の専制に対して憤慨していた。マキャヴェリは、その崇拝の的であるヴァレンチノ公のことで頭が一杯であった。トーマス・モアは、自分で考えていたことよりも、自分が読んだことのあることを多く語っているが、ギリシアの都市の簡明さをもってすべての国を統治しようと望んだ。一群の著述家は、王冠が見えないいたるところに無秩序を見出していたのに、ハリントンには、イギリス共和国しか目に入らなかった。法律は、常に立法者の情熱と先入観に出会っている。法律は、あるときにはそこを通り抜けてその色に染まり、あるときにはそこにとどまってそれと一体化する。」

1. 政体と原理
アリストテレスは、正しき国制を王制、貴族制、国制で分類し、それぞれの逸脱した形態を僭主制、寡頭制、民主制で区別した。モンテスキューは、「共和政体、君主政体、専制政体」の三つに分類する。共和政体は、人民の全体や一部が権力を掌握する形で、民主制も貴族制もここに含まれる。君主政体は、統治者が一人ではあるが、しかし確固たる制定された法律によって統治される形。専制政体は、法律も規則もなく、万事がただ一人の意思と気まぐれによって引きずられる形。そして、君主政体を動かすバネが名誉で、民主政体を動かすバネが平等だという。
また、宗教的観点から「制限政体」「専制政体」でも区別される。
さて、国事というものは、遅すぎても速すぎてもダメで、一定の動きで進むことが望ましいという。だが、民衆の動きは、いつも激しすぎたり、鈍すぎたりする。そこで、精神原理においては、人間本性的である羞恥心と嫉妬心を挙げ、これらに対抗するために自尊心を位置づけて、法律の在り方を論じている。しかしながら、これら三つの情念ほど荒れ狂うものはない。愛の濫用から生じる熱病のごとく。
「人間を治めるのは中庸であって過度ではない、と私はくり返し言いたい。」
民主政体では、いくつかの階級が自然に生じ、完全に平等とならないことが存続と繁栄をもたらすだろう。そこには、人間の多様性がもたらす原理がある。逆に言えば、階級の在り方が弱点となる。人間社会の多様性を認めるならば、他人が政体を押し付けていい、ということにはならないだろう。たとえ民主主義が人間社会にとって最善だとしても、多様な民主政体が生じていいはず。なのに、貧困国に欧米型の民主主義を押し付けるというやり方が相変わらず繰り返される。何もない所に形を見出すには、お手本があると助かる。だが、あまりにも道徳を崇めるがゆえに、風土によって育まれてきた価値観を見落としてしまう。政体を押し付けるということは、宗教を押し付けるのと同じことなのかもしれない。
また、政体の原理が健全であれば、悪しき法律も良き法律の効果を持ち、原理の力がすべてを導くという。政体の原理がひとたび腐敗を始めると、最良の法律もまた最悪の法律になると。確かに好転した共同体では、自然な秩序が生まれる。それは、会社の組織や仕事のチームにも言えることだ。国家が原理を少しも失っていない時には、良くない法律というものはほとんど存在しないという。ちょっとでも酷い法律が編み出されれば、国家が原理を失う兆候ということか。なるほど、法律の及ぼす効果が、国家の健康状態のバロメータにできそうだ。
「法律と習俗の間には、法律がよりいっそう公民の行動を規制するのに対し、習俗はよりいっそう人間の行動を規制するという区別がある。習俗と生活様式の間には、前者がよりいっそう内面的な振舞にかかわり、後者が外面的な振舞にかかわるという区別がある。」

2. 民主政治とソロン
民主政治を語る上で、アテナイに最初の民主政治をもたらした人物を無視するわけにはいくまい。ソロンは公民を四階級に分けたという。裁判役や役職を選ぶことのできるのは、生活にゆとりのある上位三階級。共和政体では、投票権を持つ者を区分することと投票の仕方が、基本的な法律になるという。まずもって公民会を構成すべき公民の数を決めることが大切である。そして、抽選による選出は民主政に相応しく、選択による選出は貴族政に相応しいとしている。しかし、抽選だけでは欠陥があり、無能者が選ばれる可能性が高い。そこで、ソロンは、文民的役職や軍職は選択によって任命し、元老院議員と裁判役は抽選で選ぶように定めたという。さらに抽選の欠陥を補うため立候補者の中からしか選ばれないこと、選ばれたとしても裁判役によって審査されること、しかも誰でも不適格者を提訴することができることを定めたという。本格的な民主政体だったようだ。2500年前にリコールの仕組みが配慮されているとは...
また、元老院や貴族団体が徒党を組む危険性を指摘し、投票が公開であることが共和政体の基本法律であるとしている。尚、キケロは、ローマ共和政の末期に投票を秘密にした法律が、没落の原因になったと指摘したそうな。ただ合点がいかないのは、人民の側は徒党を組む危険はないとしていることである。情熱をもって行動するからだそうだが、人間ってやつは何かと派閥やグループで集まり、その中で安住したがるもの。地元出身というだけで投票したり、有力者が推薦するだけで投票したり、挙句に利益供与のたかり屋となった後援会もどきが徒党と化す。こうした現象は、モンテスキューの時代には、まだ見られなかったのだろうか?
それはさておき、ソロンは、裁判機構においても巧みに権力の濫用を分散させているという。従来から寡頭的に存在するアレイオス・パゴス評議会や、貴族的な公職者の選出に対して、民主的な裁判所を設け、民衆に要職者を糾弾する権限を与えているようだ。民主政体では、人民が法律を作ることが基本となる。そのために多くの欠陥法が作られるだろうし、法律は常に実験に晒される。ローマやアテナイの共和政体が賢明だったのは、元老院の決定が一年間だけ法律の効力を持つこと、そして人民の意思によって永続的になったことだという。
歴史的には、有徳な君公が少ないというわけでもないらしい。むしろ人民が有徳であることが難しいという。確かに、隷属的な人間が有徳となることは難しいだろう。民主政体では、人民が元老院や役職者や裁判役から職務を略奪する時に消滅するが、君主政体では、個人が諸団体の特典あるいは諸都市の特権を奪う時に腐敗するという。その違いは、万人による専制政体か、一人による専制政体かぐらいであろうか。フランス革命時に生じた恐怖政治を予言していたわけでもなかろうが。正義が集団性の毒牙にかかると、これほど暴走しやすいものはない。徳が必要なのは、特に民主政体においてなのかもしれん。
「高官たちの偏見は、もとはといえば国民の偏見から始まった。無知蒙昧な時代には、たとえ最大の悪事を犯した場合ですら、人はそれについてなんの疑いももたないものであるが、光明の時代には、最大の善事をなした場合でも、人はなお心おののくものである。」

3. 連邦共和国と地方分権
共和国が小さな国家であるのは、その本性からきているという。大きな共和国では、共同の善が無数の考慮の犠牲にされ、例外に服し、偶然に依存することになると。小さな共和国では、公共の善はよりよく感じられ、よりよく知られ、公民により近くにあると。ここには、地方分権の意義が語られている。公共の善が濫用されやすいのは、大きな共同体ということか。古代ギリシアの栄華は、まさにポリスの連合体から生じた。
共和国は、小さければ外国の力によって滅び、大きければ内部の欠陥によって滅びる。おそらく、民主主義の機能しやすい規模というものがあるのだろう。モンテスキューの時代では、オランダ、ドイツ、スイス同盟が永遠の共和国とみなされていたそうな。すなわち、連邦共和国の形態である。ドイツとは神聖ローマ帝国のことだが、数々の自由都市と君公に服す小国とから成る混成国家。それは、オランダやスイスの連合より不完全だという。君主政体の精神は戦争と強大化で、共和政体の精神は平和と節度で、性格の違う両者が連合すると何かと弊害が起こりやすい。とりわけ、共和政そのものが民衆の共同体のような形態であるから、連合形態と相性がよさそうである。オランダ共和国では、他の州の同意なく勝手に他国と同盟を結ぶことができない。これは必然であり、ドイツにはそれが欠けているという。そもそも、連合する諸国家が同じ大きさだったり、同じような国力だったりすることは難しい。それでも、オランダ共和国では、投票権が各州に一票ずつで平等というところに意義があるとしている。古代ギリシアのポリス連合では、軍事的にはスパルタが、商業的にはアテナイが優位であった。
ところで、共和国が領土を侵さないとなれば、戦争を仕掛けるのは専制国だけということになりそうだが、それは本当だろうか?そして、共和国も君主国も、専制国と戦う羽目になるのか?だとしても、どちらが戦争を仕掛けたかとなると、互いに相手国のせいにする。法治国家であれば、民衆は自国の正義のためにしか戦争を容認しないだろう。少なくとも正義の名目がなければ。それでもなお戦争が起こるのは、民衆が専制国であることを自覚できないからか?なるほど、専制国であっても共和国を称す。

4. 三権分立の原理... 立法権、執行権、司法権
一つ...
「同一の人間あるいは同一の役職者団体において立法権力と執権権力とが結合されるとき、自由は全く存在しない。なぜなら、同一の君主または同一の元老院が暴君的な法律を作り、暴君的にそれを執行する恐れがありうるからである。」

二つ...
「裁判権力が立法権力や執行権力と分離されていなければ、自由はやはり存在しない。もしこの権力が立法権力と結合されれば、公民の生命と自由に関する権力は恣意的となろう。なぜなら、裁判役が立法者となるからである。もしこの権力が執行権力と結合されれば、裁判役は圧制者の力をもちうるであろう。」

三つ...
「もしも同一の人間、または、貴族もしくは人民の有力者の同一の団体が、これら三つの権力、すなわち、法を作る権力、公的な決定を執行する権力、犯罪や個人間の紛争を裁定する権力を行使するならば、すべては失われるであろう。」

5. 風土と法律
「悪しき立法者とは風土の難点を助長する者であり、良き立法者とはそれに対抗する者である」
法律が風俗と合わないために、法律の抜け道の方が慣習化されることが多々ある。現実に、同じ善意の行為であっても、社会によって評価が逆転し、裁かれることすらある。法律の偏重は民衆の心を偏重させるだろう。
さて、冷たい空気は身体の皮膚を収縮させ、より多くの血液を流そうとするため、寒い風土ではより多くの生気を持つ。そのために、北方民族は、勇敢で、勤勉で、自己の優越により多く意識を持つという。一方、暑い風土では臆病で、暑すぎる赤道近辺では怠惰になりがちだという。感受性においては、寒い地方では乏しく、温暖な地方においてより大きくなるという。オペラに対する感受性がイギリスやロシアよりもイタリアによく現われるのは、そのためだとしている。南方ほど道徳から遠ざかり、より激しい犯罪を増加させるんだとか。情熱を助長させて、美徳も悪徳も激情的になるんだとか。ほんまかいな?北方民族に勇気があるとすれば、戦争を好むのも、こちらの方ということか?しかし、古代ギリシアにしても、古代ローマにしても、地中海の温暖な地域に高度な文明を栄えさせ、北方まで勢力を伸ばした。後に北方民族に滅ぼされたとはいえ。
アジアに至っては、ヨーロッパのような安定した温暖地方がないとしている。インド人は、暑すぎるために本性的に勇気がないので、残虐で野蛮な習慣を持つと分析している。近年でも、嫁焼き!という慣習が指摘される。ノーベル賞経済学者アマルティア・センが問題提起した「喪われた女性たち」は国際的に反響を呼んだ。本書は、修道院制度が害悪を作り、暑さが度を越して修道僧で溢れ、瞑想に耽ることが怠惰へと向かわせるという。中国人には、よく整備された厳しい法律が機能する様子を語りながら、その反動かは知らんが、最も狡猾な人民を育てるとも言っている。日本人に至っては、どんな些細な罪も死で片付けられ、法律すら無力だとしている。切腹の慣習を指摘しているのだろうが、当時の西洋の価値観に照らせば、よほど異様な国に映ったと見える。ちょうど江戸時代にキリスト教徒が迫害され、その無節操さの批判も含まれているのだろう。
それはともかく、血液の流れ方は人間の気性に影響を与えるだろうし、気候とも関係するだろう。今でも、ラテン系は陽気で楽観的だとか言ったりする。そして、気候が極端だと怠惰になりやすいというのもあるかもしれない。暑すぎても、寒すぎても、ヤル気が出ん。着眼点は悪くないのだが...

6. 経済活動と法律
商業は破壊的な偏見を癒し、習俗が穏やかなところではどこでも商業が存在するという。確かに、商業活動は迷信的な慣習を解放してきた。一緒に商売をする二国民は、互いに助け合うのは必定。自然に生じる文化交流が、戦争リスクを軽減している。一方で、プラトンは商業活動が野蛮な習俗となることを嘆いた。商売に憑かれれば、人間行動や道徳観念までも取引の対象にされる。商業活動が横暴になると、それに対抗するかのように厳密な正義観念を生み、利益主義に陥らないようにという風潮が巻き起こる。尚、社会学者マックス・ウェーバーは、著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、禁欲的な信仰心のあるところに資本主義が根付いたとした。なるほど、経済活動に対する規制が、道徳を具体化してきたということは言えるかもしれない。
「商業を花咲かせようと欲するすべての国では、現実的貨幣を用いるように、そして、これを観念的なものとしうるような操作を全く行わないように命ずる法律が、この悪習の根を絶つために極めてよい法律であろう。万物の共通の尺度であるものは、なににもまして、たえざる変化にさらされないようにすべきである。商売というものはそれ自体が極めて不確実であり、事物の本性に基づく不確実さに新たな不確実さを加えるのは大きな悪である。」
ところで、奢侈は資産の不平等に比例するという。富を分配する時、法律が各人に生存上必要なものしか与えないようにしなければならないという。それ以上を与えると、ある者は浪費し、ある者は蓄積し、ますます不平等を助長すると。これは基本的人権に関わる問題であるが、この最低水準を巡っては今なお論争が絶えない。生活保護を同じ受けるにしても、少しでも貯蓄して将来に備えるより、手持ちをすべて使い果たす方が厚遇されるとは、これいかに?予算がつけばすべて使わないと、次期には予算がつかないと恐れる官僚組織のように。
「一国が富めば、すべての人の心に大望を抱かせ、貧困になれば、すべての人の心に絶望を生じさせる。大望は労働によって刺激され、絶望は怠惰によって慰められる。」
誰でも一度は贅沢を夢見るだろう。少ししか儲けまいとあれほど欲していた者でさえ、やはり多く儲けたいと願う。経済が活発化すれば、国内に大企業が出現し、その大きさゆえに公共的な存在となる。君主政体においての公の事柄は、商人にとって胡散臭いものであるが、共和政体においての公の事柄は安全に見えるという。そして、大企業は君主政体には向かず、共和政体に向くとしている。専制国家については語るまでもないが、一つ付け加えるならば、隷属状態にある人々は取得よりも保持に努めるだろう。対して、自由人は保持よりも取得を優先する。自己の自由度を計測するには、何を取得しようとしているか?これを測ればいい。金に焦がれるか...地位に焦がれるか...知識に焦がれるか...教養に焦がれるか...すべてを諦めれば深刻な隷属状態に陥る。
また、商業を運命づけられた地域もあり、オランダがそうであり、マルセイユがそうであるという。そして、海岸の配置に加え、自然の恵みを補うために勤勉でなければならないという。一方で、肥沃な農業地に恵まれた地域では、それを維持しようと努めるために、質素な習俗が身につくという。尚、日本の鎖国政策への批判は手厳しいが、まったくだ。
「誰とも取引しないことに利点を見出すのは、自足しうる人民ではなくて、自分のところにはなにももたない人民である。」
同じ事が工業でも言えるだろう。天然資源に恵まれない地域でも、やはり勤勉でなければならない。大航海時代には、商業貿易が発展し、造船技術を進歩させ、貿易と付加価値の高い工業製品が結びついて国家財政を潤した。工業力が軍事力と結びついて世界制覇の野望を抱かせ、やがて、軍事力よりも経済力による世界制覇の時代へと移行していく。商業が盛んな国では銀行の役割が大きい。銀行は信用によって投資を拡大し、新たな価値基準を作る。流通と価値基準の双方を押さえるだけで、あらゆる商業活動を支配でき、生産者は隷属することになる。大商人は、金に物を言わせて貴族の称号を得て政治にも影響力を持ち、やがて工業者までもが商業者となっていく。本書は、銀行を奢侈のために機能させるのは、誤りであると指摘している。そして、アダム・スミス張りの貨幣を用いる理由と交換の意義が語られる。
「商業は、売買の場合には求めるものが最も多い国民の需要に比例して行われ、交換にあっては求めるものが最も少ない国民の需要の範囲内においてのみ行われる。そうでないと、後者は自分の勘定を清算することができなくなるであろう。」

7. 復讐と死刑制度
復讐心は、人間本性的な情念の一つで、最も理性を失う動機となろう。倍返しにしたいというのが人情であり、実際、残虐な皇帝たちはそうしてきた。
そこで、復讐行為に制限を与える法律を見かける。ローマの十二表法には復讐が規定された。怪我を負わせた者に対して、同じ程度の復讐が許されると。ハンムラビ法典には「目には目を歯には歯を」のような記述がある。江戸時代に仇討ちが合法化されたように、西洋にも決闘の法慣例があった。いずれも同等の報復まででチャラにし、報復が無限に及ぶのを禁じようとするものである。やがて、復讐と死刑制度は深く結びつき、合法的殺人と化す。被害者は、裁判官を復讐の代理人として見るだろう。
さて、ここで注目したいのは、二つの異なる法律をいかに比較するか、という問題を論じていることである。フランスでは偽証者に対する刑罰は死刑になるが、イギリスではそうではないという。だが、この点だけ比較して是非を問うても仕方がないと指摘している。関連する法についても議論すべきだと。
フランスでは犯罪人に対して拷問が行われるが、イギリスではそうではないという。さらに、フランスでは被告側から証人を出すことがないが、イギリスでは双方の立場からの証言を許すという。ここには違いがあるものの、双方において一貫性が見られる。
イギリスの場合は、犯罪人に対する拷問を認めないので、被告人から自白を引き出す望みは薄い。だから、双方から第三者の証言を必要とするため、死刑の恐怖によって証人を気おくれさせることはないという。フランスの場合は、法律によって証人を怯えさせることを原理とするため、検察側の証人しか聴聞しない。
確かに、どちらもそれなりに道理があるように思えるが、まったく性格の違う法律として規定されている。要するに、法律の是非を比較する場合、一つ一つの刑を比較しても意味がないということである。
しかし現在、死刑制度の是非だけが取り沙汰される。人道的か?だけを問えば、人が人の命を奪うことに抵抗のない者なんてごく少数派であろう。死刑制度の反対論者はひたすらこの点だけを主張する。だが、我が国における無期懲役刑は事実上、十数年で仮釈放が認められ、被害者の遺族の心中を察すると何とも言いがたい。はたして量刑は、死刑との境界で線形性が保たれているだろうか?近年、二十年を超える事例もあり、徐々に延びる傾向にあるようだ。死刑制度が廃止されれば、無期懲役刑の意味が相対的に重くなるのかもしれないが。いずれにせよ、法律とは理念とも言うべき総合的な観点から構築されるものであって、人道的な感情だけで一つの制度を規定できるものではないだろう。そして、一貫性のない法律が一つ紛れ込んだ時、すべての法体系に歪が生じる。
「不必要な法律が必要な法律を弱めるごとく、くぐり抜けるのが容易な法律も、立法を弱める。」

0 コメント:

コメントを投稿