「狂気の歴史」では、非理性から理性の道を解き明かそうとした。「臨床医学の誕生」では、死から生の道を見出そうとする。それは、「解剖 = 臨床医学」という観点からの試みである。フーコーは、臨床医学の鍵となる四つの概念を持ち出す。
「この本の内容は、空間、ランガージュ(ことば)および死に関するものである。さらに、まなざしに関するものである。」
「空間」とは、分類学的な視点からの空間である。かつて疾病は植物学的に分類され、症状を平面的な図表に当てはめていたという。知識は文献などの平面上の記述によって蓄えられるが、人体や病原菌はユークリッド空間に実在する立体像である。さらに精神病を相手取る場合、歪んだ精神曲率を非ユークリッド空間の中に見出す... のかは知らん。
「ランガージュ」とは、記述の在り方である。言語学者ソシュールの提起した用語であるが、フーコーが構造主義者とされる所以がこのあたりにあるのだろう。ソシュールは、言語を記号的に捉え、シニフィアン(表現)とシニフィエ(意味)とが一体化したものとし、けして分離できないとした。ここでは、「意味するもの」と「意味されているもの」との関係が述べられる。やはり人間観察には、両義性を具えるモナトロジー的思考が必要なのだろう。肉体と魂こそが、それである。
「死」とは、屍体解剖の意義である。人体構造を学ぶには屍体解剖が不可欠であるが、宗教的な道徳や愚鈍な偏見がそれを拒んできた。今でも、臓器提供の進まない事情がある。死んだ家族の身体が切り刻まれることに抵抗を感じるのも自然であろう。さらに医学の進歩が死の定義までも変えてしまい、生きることと死なないことが別物とされる。
「まなざし」とは、観察の意義である。医療において診断は最も重要な要素であろう。だが、診断の正確さをあまりにも崇めるために、初期段階では投薬すら控えるべきとされたという。投薬が自然治癒の妨げになるとされ、患者の苦しみが配慮されない。本書は、観察と実験を混同してはならないという。とはいえ、奇病を解明するために、人柱となって身体を提供してきた人たちも多く居たことだろう。
フーコーは、これら四つの観点から、19世紀頃、臨床医学の認識を劇的に高めたとしている。しかしながら、臨床の概念そのものはヒポクラテスの時代からあるのだけど...
「ヒポクラテスは観察にだけ執着し、すべて体系というものを軽視した。医学が完成される道は、彼の足跡をたどるよりほかにない。」
あらゆる学問が、高度化、細分化する中で本来の目的を見失い、権威主義に陥る経験をしてきた。人は皆、権威やら名声やらに弱いもので、そのことが逆に進歩を妨げることもある。知の純粋な領域、いや無意識な領域においてのみ、ア・プリオリを見出すことが可能となる... というのは本当かもしれない。
医学生がまずもって学ぶものは、解剖学と生理学だそうな。解剖学では人体構造を学び、生理学では人体機能を学ぶ。まず、構造面と機能面からの健康状態を知らねば話にならない。こうしたアプローチは自明に思えるが、そうでもないらしい。現代医学のほとんどの基本概念は、19世紀に見出されたという。コッホやパスツールの細菌学、集団を対象とする疫学、消毒や麻酔の技術、レントゲンなどの画像診療、ワクチンをもたらす免疫学、感染症治療に革命を起こした抗生物質、そして、精神分析や向精神薬や遺伝学など...
ただし、本書が扱うのは、このような科学的な進歩ではなく、それを可能にした医学認識の変化である。その変化は、まず臨床における記述に現れたという。
「薄い偽膜は義膜性で、卵白の蛋白をふくんだ薄皮に似ており、はっきりした固有の構造を持っていない。他の偽膜はその表面にしばしば血管の痕跡をとどめており、それらの血管は、いろいろな方向にむかって互いに交叉し、充血している。偽膜はしばしば重なり合った薄片に還元できるが、これら薄片の間には、多少とも変色した血液の凝塊がはさまっていることも稀ではない。」
この記述は、医師A・L・J・ベール著「精神疾患新学説」(1825年)の中の一節だそうな。なかなかの文学的な描写である。だが、科学論文や技術論文では主観的な表現を忌み嫌う。学問では、抽象化、一般化、法則化を探求することに傾注し、直感の入り込む余地を与えようとしない。
しかし、だ。人間を対象とする学問では、抽象化よりも多様化の方が適合しやすい。同じ病でも症状が微妙に違えば、精神病は心理学の領域に極めて近い。実際、「病は気から」とよく言われ、ウィルスや病原菌のような物理現象だけでは説明できないケースが多い。となると、病状を記述する場合、主観的な表現を排除することが、学問として合理性に適っていると言えるだろうか?記述による質的な精密さを求めるのはどんな学問分野でも同じであろうし、研究対象によって主観と客観の按配を変える必要があろう。
一般的に、科学は客観性に満ちていると認知されているが、主観科学というものがある。人間の多様性は本性的であろうし、自然的な要素でもあろうから、その観察においては主体に着目する必要がある。オリバー・サックスの記述などは、まさにそれだ。
ところが、フーコーの記述はそういう類いのものと大分違う。
「すべて可視的なものは陳述可能なものであり、それは完全に陳述可能だからこそ、完全に可視的なのだ。」
あえて主体を排除した立場から、人間観察を試みた結果がこれか?メタ精神によって個体精神を記述すると、こうなるのか?精神の破綻を感じないでもない。まぁ、読者の側が酔っ払った精神破綻者なので、大した問題ではないかぁ...
主体を観察しようとすれば、客体の眼を必要とし、相互に立場を交換しあうことになる。主体分析の矛盾が、ここにある。人間は、永遠に自己を知ろうとし、また永遠に自己を知り得ないということであろうか...
「個性の宿命は、つねに客観性の中で形をとることになるが、この客観性は個性をあらわしながら、これを隠し、これを否定しながらこれを創る。」
1. 解剖学と臨床医学
1764年、J・F・メッケルは、卒中、錯乱、肺結核といった疾患における大脳の変化を研究したという。その方法は、脳の容積あたりの重さを測って比較し、脳の乾燥した部分と充血した部分を調べるというもの。また、カミエとエルマンが金槌を用いた方法は有名だそうな。軽く叩いて、頭蓋骨内が充満しているかどうかを音で調べるというもの。
精神現象の科学的分析は、脳を直接観察することによって、重さや音などの物理量に還元しようという試みから始まった。現在では、脳の表面を電磁的に観察することによって言語障害などを分析したり、体内器官の活動を電磁波でモニタしたりする。間接的な方法ではあるが、解析学の基本に則っている。解剖学は知覚することから始まり、いかに物理現象に還元するかが問われてきた。デカルトの解剖学、マルブランシュの顕微鏡学といった実践が、まさにそれ。ここに、デカルト式実存論の本質が隠されていそうである。つまり、客観的背景において、いかに観念的実体に分解できるかということだ。
そして、精神を記述する上で合理的な言葉を組織する必要に迫られる。叙述の客体は、主体になりうるだろうか?これを問い始めた時、臨床医学なるものが浮かび上がる。記述のないところに現象はない!これを科学の信条とすれば、主体的な記述もまた、客体的な科学的構造を持った叙述を可能にするかもしれない。これが臨床医学の信条ということになろうか。臨床医学とは、科学と文学の融合とすることもできそうである。
フーコーは、屍体へ敬意を表明する。
「文明国民の間に哲学が光をもたらしたとき、人間の屍体に対して、探究的なまなざしを注ぐことがついに許された。これらの屍体は、かつてうじ虫の餌にすぎなかったが、今や最も有益な真理の、ゆたかな源泉となったのである。」
2. ポジティブ思考とネガティブ思考
医学が目の前の病人を問題とする以上、現実を直視する実証的な学問となる。つまり、「ポジティヴィズム(実証主義)」だ。多様性に富んだ症状では、哲学的な抽象論よりも個々を詳細に記述することが求められる。そうした認知は古くからあるものの、具体的に現れたのは屍体が「眺められるもの」の形象となった時だという。
ところで、病に打ち勝つための大切な心持ちに、ポジティブ思考というものがある。精神の状態は、血液の脈拍、すなわち心臓の動きに現れるため、治療において重要な要素となる。そこで、ポジティヴィズムにおけるポジティブ思考とはどんな状態か?などと考えさせられるのだった...
ネガティブ思考に陥った場合、その原因が解明できれば、ネガティブな状態から脱することができるだろう。ネガティブ思考を知らずして、ポジティブ思考もありえない。もしありうるとすれば、単なる陽気な鈍感であろうか。原因を解明せずして、ポジティブ思考を押し付ければ、却って病を悪化させる。これが有難迷惑の根源であろうか。ポジティブ思考とは、単に楽観的に考えるのではなく、現実を直視することから得られる冷静な目を養うこと、とでもしておこうか。そして、ネガティブ思考とは、現実を見ようとせずに、激しい思い込みに耽ること、ということになる。
... などど、ふと勝手な解釈を試みるのであった...
ポジティブ思考ほど、病に対抗するのに都合のよい精神状態はないだろう。だが、真理は、ネガティブな方向にも存在する。科学的分析と臨床的観察の調和こそが、病に対抗する術ということになろうか。偉大な哲学者たちが、中庸の原理を尊重する理由がここにある。それは、日常と歴史の結びつきでもある。宗教的道徳観念が屍体観察を遠ざけてきた。しかし、暗い部分を見ることによって、明るい部分を見ることができる。屍体解剖と臨床医学の融合とは、そういうことであろうか。それぞれに役割を与えるとしたら、死の原因を屍体解剖に求め、生の原因を臨床医学に求めるといったところであろうか...
3. クリニック
初期の臨床では、あらゆる疾病を一つの平面上に収めた図表があり、医師はその図表と睨めっこしながら患者に接したという。診察とは、図表上の座標を決定づけることで、疾病を記号として眺めることであったと。現代風に言えば、聴診器をあてたり、直接手で振れたりせず、ひたすらコンピュータと睨めっこするといったところであろうか。フーコーは、こうした段階の臨床を診療とは考えず、病床で師と弟子が観察しながら教育の形をとるものだとしている。これに患者の立場を加えれば、真のクリニックが見えてきそうだ。医者と患者は対等な協力関係にあり、医者が患者を治してあげるという類いのものでもあるまい。
さて、クリニックの意識は、フランス革命の混乱期とともに生じたという。至るところでテルミドールの反動による山賊行為が起こると、多くの医師が軍隊に招集される。病院には負傷兵で溢れ、多くの病人が放り出されると、混乱に乗じてイカサマ師が繁盛し、医療品質を崩壊させる始末。
しかし、振り子の針が振れ過ぎると、医療の在り方が見直されることに。執政政府は、臨床講義を医療制度再編成の主要テーマとして取り上げたという。人間味や同情心といったものは、非人間的環境から学ぶものらしい。施設院や救貧院や刑務所のない社会を夢想したところで、やはり貧困は拡がる。幸福過ぎる社会では、むしろ非人間性を助長するのかもしれない。苦悩のないところに、偉大な哲学は生じないだろう。健康な馬鹿ほどタチの悪いものはないのかもしれない。おまけに、酔っ払いとなれば、目も当てられない。おっと、いつの間にか自分を語っている。
理性が非理性から導かれ、生の意義が死体から見つかるとすれば、真理ってやつは怠惰や享楽から見出すことができるかもしれん。クリニックとは、夜の社交場のようなものであろうか。なるほど、心のアフターケアとは、アフターファイブのことであったか...
2013-09-29
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