2013-09-01

"政治学" アリストテレス 著

アリストテレスの「政治学」はいろんな翻訳版があって目移りするが、絶版中も多い。ちと高いが、西洋古典叢書版(牛田徳子訳)を試す...
プラトンが対話篇にこだわったのは、思考プロセスを重んじたからであろう。科学者の多くにプラトン贔屓が見られるのもうなずける。その分、文学的で冗長的ではあるのだけど。対して、アリストテレスの記述は、演繹的で、学術的にも洗練され、政治学者の多くはこちらの方を好むようである。世評のごとく学問の祖と呼ぶには、こちらの方が相応しいのかもしれん。いずれにせよ好みの問題と解しているが...

「政治学」は、プラトンの「国家」と「法律」を継承する国家論として成立し、プラトンの批判書にもなっている。プラトンがソクラテスを崇める立場ならば、アリストテレスはソロンを崇める立場といったところか。ちなみに、ソロンはアテナイに最初の民主制をもたらした政治家で、アレイオス・パゴスの審議会は寡頭制的に、公職者の選出は貴族制的に、裁判所は民主制的に...といった調和の特徴を持つ仕組みを構築した。この場合の調和とは、分権のイメージであろうか。
さて、プラトンとアリストテレスは両者とも四つの徳「思慮(知恵)、勇気、節制、正義」を基盤とするが、その扱いは若干異なる。プラトンが政治の場で正義を実践するための精神活動として節制を最も重視したのに対して、アリストテレスは四つの徳のバランスが崩れると、国家は逸脱した形態に変貌するとしている。そして、徳には、戦争のためのものと、仕事のためのものと、平和や閑暇のためのものがあるとし、戦争のためには勇気が、仕事のためには思慮が、その双方のためには、節制と正義がそれだという。最善の国にとって、戦争は平和のためにあり、仕事は閑暇のためにあると。これがアリストテレス流の中庸の原理というものか。四つの徳とは、調和によって輝くものであって、単独で崇めると暴走するものなのだろう。思慮の方向を間違うと悪知恵と化し、勇気を心得違いすると粗暴に振る舞い、過度の節制が卑屈にさせ、無責任な正義が集団的暴力を煽る。公共の場で正義の根拠が説明できなければ、無条件に信じる宗教と何が違うというのか...

「人間は自然によって国家的動物である。」
国家とはポリス、すなわち共同体のこと。言い換えれば、「人は一人では生きられない」とすることもできようが、学術的に記述すると重みを感じるものよ。
さて、政治とは、実践の手段であり、中間的な多数者を対象とする。ただし、最底辺の少数派への配慮を前提として。現実には、優れた者を対象とする必要はなく、劣った者を規制することになろうか。となると、本来自由を望む人間にとって、政治の存在感は必要最小限に留めたい。国家とは、自由の制限として成り立つ、という見方もできるかもしれない。そして、自由とは、主権に直結する概念となろう。
アリストテレスは、公共的立場を放棄した者を、けして自由人とは認めない。富裕層が支配することだけを知り、貧困層が服従することだけを知るのでは、共同体として機能しないからだ。他の動物のように単に群れて安住するだけでなく、積極的に生きようとするのが人間の本来の姿であるという。国家の目的とは、ソクラテスから受け継がれる「善く生きる」を実行するための手段というわけか。ただし、一旦徳を欠けば、人間は野蛮な本性を剥き出しにし、動物の中で最も厄介な存在となる。
また、平等の誤謬を指摘しながら、自由人を公共的平等を実践する者と定義している。ここでは、「正しき自由」という概念を用いて論じられるが、同時に「正しき平等」としても差し支えあるまい。人間社会において自由が平等に与えられることは自然であり、自然な自由とは正しい範囲で規定されるべきものとしている。
しかしながら、正しき...ってやつが曲者だ。これを具体的に規定することは至難の業。二千年以上経った今でも自由と平等の共存の仕方が分からず、両派とも民衆の機嫌取りに奔走する始末。善き者や有徳者になるためには、三つの原因「自然、習慣、理知」が必要だという。善く生きるための自然的資質を具え、善く生きるための習慣を身につけ、理知によって生きるということ。なるほど、目立ちたがり屋の政治屋どもとは逆の資質か。
ところで、「最善の生」とは、実践的な生ということになろうか。そして、生き方が正しいかどうかは結果で評価される。それゆえに、何事も結果ありきとなりがちで、結果を出した者の生き方に憧れ、それを真似る。だが、個人に備わる性質は多様性に満ちていて、同じ生き方などできるものではない。結局、自分の生き方は、自分で見つけるしかあるまい。猿真似では、あまりにも受動的すぎる。ならば、現在進行中の生き方、すなわちプロセスを大切にするしかないではないか。いずれにせよ、成功する者はごくわずか。ほとんどの人は失敗の言い訳を探しながら生きている。何かのせいにすれば気が楽になり、真似る人生も悪くない。人のせいにし、社会のせいにし、神のせいにし... それでもなお神は沈黙したまま。しかし、能動的に生きれば自分のせいになる。自爆テロの類いか。そして、自我の奥から自己に囁いてくる。もっといじめて!と...やはりM性でなけれ悟れない境地であろか...

1. 「政治学」と「ニコマコス倫理学」
「政治学」には、ちと気になる点がある。それは「ニコマコス倫理学」とだいぶ印象が違うことである。後者は、息子ニコマコスが編纂したとされるので、弟子たちの解釈も反映されているだろう。本記事は、ニコマコス側にバイアスをかけて解釈している?かもしれない。ここでは、その違いを二点ほど挙げてみよう。
一つは、「生まれつき奴隷」の解釈について...
アリストテレス批判でよく見かけるところである。本書では「自然による奴隷」と記述され、「法による奴隷」と区別される。法による奴隷とは、能動的に生きるのではなく、ひたすら世間体や掟に従って生きるような人間を言うのか?どうやらそのようである。自然的な能力を持たなければ、受動的に生きることになり、何かに隷属することになる。現代風に言えば、組織への依存性を高めるといったことであろうか。経営者の言いなりになって、文句ばかり垂れるのでは、隷属しているのと変わらない。ニコマコス的に解釈すれば、奴隷制や階級制の固定を容認した発言でもなさそうである。
ところが、生まれの卑しさを差別したり、男女関係においては腕力の強い男が自然に支配者になるとしたり、非ギリシア人が奴隷になるのは仕方がないとしたり、ややムカつく記述も目立つ。現代感覚で量れば、奴隷制を肯定したと言われても仕方がないかもしれない。実は本音を漏らしていたりして...
二つは、国制の在り方について...
「ニコマコス倫理学」では、君主制、貴族制、民主制の三つの形態があり、最善なのは君主制で最悪なのは民主制だとしていた。ただし、僭主制は君主制の逸脱した形態としながら。
「政治学」では、正しき国制に、王制、貴族制、国制があるとし、それぞれの逸脱した形態が、僭主制、寡頭制、民主制だとしている。国制を論じるのに、その種類の一つに国制があると混乱しそうだが、多数者支配を意味している。尚、貴族制とは、最優秀者たちによる支配であって、固定された階級による支配という意味ではない。つまり、単独支配、少数支配、多数支配という三つの型から論じられ、民主制は逸脱した側にあって、正しき国制ではないというわけだ。そして、優れた順に、王制、貴族制、国制とし、逸脱した中で最もマシなのが民主制で、最悪なのが僭主制だとしている。
師匠と弟子たちの発言において、こうした印象の違いは、どこからくるのだろうか?弟子が分かりやすく記述した結果であろうか?逆に、弟子の考えから発展させたのだろうか?あるいは翻訳者の違いだろうか?いや、おいらの解釈がいい加減なだけのことかもしれん。まぁ、大きく違うと言えばそうかもしれないし、大して違わないと言えばそうかもしれないが...
少なくとも、どんな正しき国制であっても、自己の利益を優先する者が権力に物を言わせると、似ても似つかぬ姿に変貌する。人間の実践できる政治は、逸脱した形態でしかないということか?アリストテレスはそうは言っていないが、それを暗示していると解するのは行き過ぎであろうか?とりあえず、理想が高ければリスクも大きく、最もリスクが低いのが民主制である、と解釈しておこうか。しかしながら、民衆が一方向に向かった時の力は果てしなく、集団の徳性が見失われた時、最もリスクを高める。アリストテレスは、どうせ人間どもに正しき国制なんて描けないのだから...と、弟子たちに本音を漏らしたのかもしれん。

2. アリストテレスの人生
アリストテレスがマケドニア人であったかは定かではないらしい。生まれは、エーゲ海北西部に面したカルキディケ半島のスタゲイラ。カルキディケ地方のギリシア小都市は、野心的なマケドニアに対抗するためにオリュントスを中心に連盟を結成し、戦争と和睦を繰り返していたという。そして、マケドニア王フィリッポス2世に滅ぼされる。アリストテレスの父ニコマコスはフィリッポス2世の父アミュンタス3世の待医であったと伝えられることからも、一目置かれた家系であったようだ。
一方、プラトンの学園アカデメイアは、外国人に広く門戸を開いていた。その自由闊達な学風に惹かれ、アリストテレスはアテナイへ赴く。彼の才能は師から一目置かれていたようである。だが、突然アテナイを去る。ちょうどプラトンの死去した時期。後継者争いでプラトンの親族派に追い出されたのか?あるいは、マケドニアがギリシア本土に勢力を伸ばしつつあり、親マケドニア派として居づらかったのか?理由は不明だそうな。その後、フィリッポス2世の要請でその息子、後のアレクサンドロス大王の家庭教師となる。ちなみに、ギリシア同盟軍を率いてペルシアへ侵攻しようとした矢先、フィリッポス2世は暗殺された。この事件にアレクサンドロスが関与したという面白おかしく書き立てた物語もあるが、真相は知らん。
それはさておき、本書にはアレクサンドロス大王の記述がまったく見当たらない。君主制を研究するには、おあつらえ向きのはずだが。どんなに偉大な人物であっても、君主の及ぶ政治力の限界を認めていたのだろうか?アリストテレスは、ひと目で見渡せる小規模のポリスを理想国家とし、非ギリシア人を差別して民族優越主義を露わにする。おそらく、マケドニア人もギリシア人に含めているのだろう。誰にでも優れた集団に属したいという願望があるだろうし、誰にでも優位に立ちたいという国粋主義的な性格が潜んでいるだろう。
しかし、教え子によって、想像だにしない世界規模の多民族国家が建設され、植民地支配では現地人を積極的に登用するなどの宥和政策が用いられた。なんとも皮肉である。おまけに、大王が死去すると、アテナイで反マケドニア派が決起し、アリストテレスは不敬罪で弾劾されることに。同僚テオプラストスとともに、母の故郷エウボイアのカルキスへ逃れ、そのまま病死。
プラトンとアレクサンドロス大王という二人の巨匠の庇護の下で、アリストテレスは名声を博したが、後ろ盾を失った途端に追放罪を喰らう。アリストテレスの人生は、師と弟子の確執、あるいは、真の学問が政治に翻弄される様といった、世俗でよく見かける構図を映し出しているかのようである。

3. プラトンの共有観念に対する批判
歴史を振り返れば、国家主権を唱える場合、まずもって前提されてきたのが領土の所有権である。そして、国家組織の下で、あらゆる所有権が私有財産とともに搾取されてきた。
さて、私有財産権をどこまで認めるか?あるいは、国家の所有物はすべて共有にすべきなのか?プラトンとアリストテレスの両者の主張は、このあたりに大きな違いを見せる。
プラトンが過激なのは、財産だけでなく子供や妻までも国家で共有すべきだとしたことである。これには、いくらプラトン贔屓のおいらでも目を覆った。民衆が私有財産に対して横暴になる様を嘆いてのことかもしれんが。善き国家モデルについては、プラトンは独裁制と民主制の混在型を提案している。最も賢者とされる師ソクラテスが国家の名の下で死刑に処せられるようでは、アテナイ型民主制に限界を感じるのも仕方があるまい。
対して、アリストテレスは国家が一つになることの危険性を指摘している。人間は本質的に多様であり、国家が一方向に進めば、もはや国家ではなくなるという。自由と平等を論じる上で最も気を使うところは、人間の多様性であろう。多様な価値観の否定は、個性を否定することになり、ひいては主権を脅かすことになる。だからといって、教育によって同質な人間を大量生産すれば、様々な弊害をもたらす。子供を国家のものとしてしまえば、ヒトラー・ユーゲントのような印象を与えかねない。人間の共有では、共有される側にも意志があることを忘れてはなるまい。
さらに、財産の共有は、もっと厄介なことになるかもしれない。共産主義的な配給では、一生懸命働く者がバカをみる。生産活動に対する能力と労力が報われないと、ヤル気も失せる。だからといって、すべてを私有財産とするわけにもいかない。アリストテレスは、公共財産と私有財産を区別すべきだとしている。
しかしながら、私有財産の範囲を法で規定することは非常にデリケートな問題で、経済学はこの問題に悩まされてきた。現在では、会社は誰ものか?という議論がお盛ん。クラウド社会ではデータは盗んだ奴のもの?休眠口座は金融屋のもの?
それはさておき、地球は誰のもの?と問えば、みんなのものと答える人が多数派であろう。ところが、ある一定の面積を規定すると、それは土地と呼ばれ、そこに所有権が生じる。道路は公共のものなのに、玄関先に鉢植えを並べて、その一郭に所有権を暗示する。人は皆、所有が絡むと血眼よ。共有の概念は、俺のものは俺のもの!お前のものも俺のもの!となる。たまーに女性は恐ろしいことを口にする。私はあなたのものよ!って。愛を金で買うのは責任逃れのためか?慰謝料もその類いか?ならば、いっそのことプラトン流に誰のものでもないとするしかないのか?
アリストテレスは、ソクラテスに対して誤謬が生じるのは「国家はできるだけ一つであらねばならぬ」という想定が、そもそも間違っていると批判している。師に対してなかなかの挑発的な発言ではあるが、まったくである。

4. 経済学のパラドックスと政治学のパラドックス
人間社会では、マクロ的な現象とミクロ的な現象とがしばしば正反対になる。そのこと自体は、今では常識とされる。経済学では、倹約のパラドックスや貯蓄のパラドックス、あるいは合成の誤謬などと呼ばれるやつだ。実際、個人や企業にとって好ましいことが、社会全体として好ましくない方向に作用することは珍しくない。プラトンとアリストテレスもまた、マクロとミクロの双方から国制を考察している。ただ、プラトンが、個人の様式に一致して国家の様式が決まるとしたのに対して、アリストテレスは、個人の善と公共の善は、種類は同じでも、同時に一致するとは限らないとしている。
さて、個人の悪魔性と集団の悪魔性とでは、どちらが厄介であろうか?どちらも暴走したら手が付けられない。ただ、一人であれば暗殺で事足りるか。いや、権力が暗殺者の手に落ちるだけよ。真の君主制であっても、一人の王が誠実なだけでは足りない。どんな優れた人物にも寿命があり、やがて世襲に染まる。そして、権力の狂気を是正するために、民衆の暴力革命に委ねれば、社会的リスクを高めることになる。そこで、大勢の政治参加があれば、誰かが暴走に気づくだろうし、修正の機会を若干増やすかもしれない。いや、集団化した狂気は少数派を抹殺するだけよ。実際、選挙では、意見が均等に割れると多数決が機能しないどころか、最悪な選択がなされることもある。独裁制と民主制の違いとは、この程度のものであろうか。
どんな国制であれ、その善し悪しは、多数派の慣習に委ねられることになりそうだ。人間は、自己存在をより強調したいという本能を持っている。ほとんどの欲望は自己愛で説明がつくだろう。より多くの財を求め、より多くの権力を求め、自己存在の優越を確認する。となれば、自己存在を否定できるような人物でなければ、真の君主にはなりえないということか?これを、政治学のパラドックスとしておこうか...

5. ポリス型地方分権
国家とは、人口構成、経済状況、宗教観、歴史など、様々要素が絡んで形成されるものだから、同じ民主制であっても形式が違うのは自然であろう。国制とは、真似してうまくいくものではあるまい。実際、ある地域でうまくいった政策だからといって、別の地域に導入してもうまくいかない。アリストテレスは、市民に共通観念を呼び覚ます素因として、国家のアイデンティティを重視している。政治において最も重要なのは、正義の実践であり、刑罰や税の徴収が正当化されるのは、正義観念においてのみである。共同体として結びつく力は、政治理念、経済活動、共同生活など、手段によっても変わってくるだろう。たった二人の夫婦ですら共通意識は簡単に崩壊する。たとえ神の前で誓ったとしても。関係が近いほど、結びつく力は鬱陶しいものになるらしい。ちなみに、古代ギリシアにはこんな格言があるそうな。
「愛することのすぎたる者は、また憎むことのすぎたる者なり」
それはさておき、国家にも経済と同様、目的に合った機能しやすい規模というものがあるのだろう。国内であっても地域によって多様性があるならば、それなりに政策を変えていく必要がある。地方自治体や地方分権の意義とは、そういうことであろう。中央集権の機能しやすい規模もあれば、経済活動の機能しやすい規模もあるだろうし、大きな国家ほど必然的に地方自治との組み合わせを模索することになろう。
その意味で、プラトンやアリストテレスが語る古代ギリシアのポリス型連合は、地方分権モデルとして参考にできそうである。アテナイとスパルタというだけで制度がまるっきり違うが、いざ国防となると、ペルシアの侵攻に対して全ギリシアが連合して立ち向かった。それは、けして隷属しない!けして主権を放棄しない!というポリスの合言葉においてのみ生じる力で、政治家どもの面子などとはまったく異次元のものである。ただ、スパルタのエフォロイ制については、並の人に重要な裁判を採決する至高の権威を与えていることを批判している。これには、現在の裁判員制度への批判に通ずるものがある。市民にどこまで権利を与えるかは、民主制が抱える永遠のテーマであろう。

6. 自給自足と人口論
本書は、機能しやすい共同体の規模を、自給自足の観点からも考察している。アリストテレスの人口論とでもしておこうか。生産性は人口が多いほど優位だが、同時に生産性がおぼつかなければ、飢餓が生じる。国防のための適当な領土というものがあり、市民を養い、国防軍を維持するだけの経済力が必要だとしている。
「人が多すぎる国がよい法治国になるのは難しい -- おそらく不可能かもしれない。とにかくみるところ、よく治められているという評判の国で人口に制限を設けていない国はない。」
当時の主産業は農業であるが、議論の対象はそれだけに留まらず、貨幣による交換術にまで及ぶ。それほど農業人口にこだわることもないといったニュアンスか。確かに、技術革新が進めば、付加価値の高い工業へと労働人口が移ってきた。現在、アメリカの農民はたった300万人ほどで、2億人分以上の食糧を賄っている。まさかアリストテレスの時代に、ここまでの比率を想像していたとは思えないが。
また、マネーサプライもどきの経済原理が論じられる。貨幣は物との交換から生じたにもかかわらず、本来の目的から逸脱し、貨幣そのものの交換に用いられ利子が生じたという。そして、利子は貨幣から生まれた貨幣であるため、利子は貨幣そのものを増殖させるという。ついでに、貨幣があらゆる価値の交換に関与するために、そこにサヤ取りの原理が生じるといったことも匂わせる。本書は、利子による財の獲得は自然に反するとし、自足のためには財の獲得が自然に適っていなければならないとしている。どんな富にも限界があるはずだが、人々は貨幣となると無限に増やそうとする。ちなみに、ソロンの言葉に、こういうものがあるそうな。
「人間には富のいかなる際限もはっきりと見定められない。」

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